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令和6年2月4日(日)有岡城跡にあるアイホール(伊丹市立演劇ホール)にて、天理大学教授の天野忠幸さんに「伊丹城?有岡城?あなたはどう呼ぶ?」をテーマにおはなしいただきました。参加者は87名。はじめに山梨県甲州市から駆けつけてくださった荒木村重子孫の荒木Mさんより、江戸時代初期に甲州市にあった徳美藩の藩主伊丹氏は伊丹城主伊丹氏の子孫だった、甲州市と伊丹市には深い縁がある、との挨拶をいただきました。その後天野先生が登壇され、天野セミナーが始まりました。最近、村重が注目され
去る11月25日(土)、午前は当研究会の例会、午後には「荒木村重交流会」(定員30名・当日先着順、無料)が、伊丹市の有岡城跡向かいのアイホール(伊丹市立演劇ホール)の2階(カルチャールーム)で開催されました。例会の方では、当研究会の今後の行事予定の連絡などがありました。「荒木村重交流会」については、(有岡城跡のお膝元の)有岡小学校区まちづくり協議会主催で、募集人数が少人数ということもあり、当研究会のブログでは広報されませんでした。交流会は、当研究会会員の内の、(私を含めた)村重の子孫4名に
8月13日伊丹市アイホールで開催された「こども能発表会」は満席、盛況のうちに閉幕。こども達の頑張りに感動しました。そのあとはプロの能楽師による能の上演、新作「村重能」が発表されるなど熱い舞台となりました。始まりの挨拶で紹介しました、村重の一子孫の移動について、配布資料をアップしましたので、ご覧ください。また、ご質問や情報提供がありましたらご遠慮なくご連絡ください。有岡城の戦いは、荒木摂津守村重が織田信長に謀反し、1578年(天正6)7月から1579年(天正7)10月まで籠城して戦い、その
信長公記によると、―荒木摂津守五六人召列、伊丹を忍出、尼崎へ移候…(『信長公記』より)(村重は5~6人の従者のみ引き連れ、密かに伊丹(有岡城)を抜け出して尼崎城へ移動した)とあるのは周知のことですが、これに対して歴史学者の天野忠幸氏は「村重は、実は数百の勢を率いて有岡城包囲網を突破し、尼崎城へ移動」と発表しています。荒木村重の戦いと尼崎城天野忠幸http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/publishing/bulletin/cont