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2011年07月02日作成ここしばらく昭和30年代ブームというのが続いている。西岸良平の三丁目の夕日シリーズ(映画版は写真下)は各メディアで大ヒットし、大型書店には30年代コーナーがあり、全国各地に30年代を再現したテーマパークモドキができているが、どうもこのブームを支えているのは昔を懐かしむ世代というより若い世代のようだ。私のような30年代初頭の生まれのリアルタイムでこの時代を経験した世代にとっては日本が次第に豊かになっていくのを、洗濯機(ローラー絞り機付き)や
昭和30年代生まれですから、停電や雨漏りは当たり前でした。部屋の中に洗面器が置いてあって、ポタポタと雨音がしていました。今はほとんど停電しません。時々あってもすぐに回復します。ありがたい世の中だと感じます。最近の感覚だと、雨漏りすると家が腐る。材木が腐ると思ってしまう人が多いのですが、昔の家を考えるなら雨漏りしても案外大丈夫?かもと思ってしまいます。実際にはどうなのか?建築士の立場からいうと、木が腐る=腐朽禁が活発に活動するためには常時湿潤状態が必要ですから、時々雨漏りする程
新年より昭和30年代の海女ポスターを復刻したポストカード6種類の販売を始めました。英訳で海女文化のユネスコ無形文化財登録を応援するメッセージを添えて。海外の人は女性が多く、日本人では若い男性にも人気です!
この時代は懐かしい。今の若い人達にはわからないと思いますが、何がなつかしかったのか、何が良かったのか、風情とか情緒、独特の空気の匂い、澄んだ空に白い雲、穏やかな気候で心地よい風も吹いてる。凧揚げにはちょうどいい。子供たちも元気で遊びまわっている。それらの情緒感がいい。まだ、家の周囲には畑もあり、遠くには山がそびえ、森や田んぼもあった。車は走ってなく、道路は土や砂利道だつた。当然、交通信号機などはない。そんななにもない時代だつたが、それが良かった。みんな、母親の手作りのものを着ていた。
今日の『四季通信』は、『あれも描きたいこれも描きたい』~「懐かしい昭和の風景その2」の巻~です。※今年は、昭和で数えると昭和100年ということらしいですね。昭和は64年で終わってますから、終わってから36年経つのですね。その間に時代は「平成」になり、そして、今は「令和」。ぼくは昭和28年生まれですから、昭和真っただ中、生きてきたわけです。昭和はやはり激動の時代だと思いますね。まあ、その話はまたおいおい書いていきます。※今日の動
近所の骨董市。たまに凄いモノに出会いますねえ。さすがに私も見た事がありませんでした。炭火アイロンであります。その名の通り中に炭火を入れてその熱で衣服にアイロンを掛ける様に使います。派手にそそり立っている煙突はまさに炭火アイロンそのもの。民族博物館モノでありますねえ。私の記憶に残る昭和40年代には既に姿を消していました。
先日までオンエアされてたテレビドラマ昭和30年代のある一面を濃厚に描いた僕にとって印象に残るドラマだった。僕は都内の山の手か下町か区別がつかない昔花街であった場所で生まれ育った。裏の家は踊りの稽古のお師匠さん家で子供達がお稽古に毎日来ていたし近所のどぶは黒板塀の下を流れ子供達は笹舟の流しっこなどしてあるいは西部劇ごっこで騒いだり夜ご飯を食べ終えると季節の良いころは家々に商店街をそぞろ歩きをするご近所がとても近い世界で生きていた。テレビドラマの世界もそれに近くな
【日々好日】「おタメごかし」とは「おタメごかし」という言葉がある…「人の為を思って行動しても、自分の為に行動している」という意味。一般的に、悪い意味で使われているようだが…はて?…「おタメごかし」「愛」私は「おタメごかし」は普通の事だと思うようになってきた。皆「おタメごかし」で良い。それを超えた所に「愛」という言葉が生まれた…と思っている。それだけに「愛」の感情は貴重で難しい。愛は「神」に通じるというのも分かる…ような気がする。詐欺師のおタメごかし「おタメ」が少しでも他人へ
2024年不要な相続土地の売却に成功・国庫帰属制度は使えない制度所有者不明土地は行政にとって面倒だったから成立したにすぎない山林や農地で適用されるケースはほぼないオレ達にはネットの遊休地マッチングサイトが一番・戦後特に昭和30年代これまで大地主が所有してきた山林や国有林を切り売りした林野政策の責任が問われるべきこと売買に走った世代とその次の世代が熱狂したまででおれたち世代には明らかに負の遺産世代を超えて固定資産税や精神的
骨董市を覗きに行くとどうしても何か引っかかって持ち帰る事が多いです。まあせいぜい2〜3千円程度のものばかりです。今回引っかかったのはコレ。セルロイドで出来たケースです。昭和30年代あたりの日本製です。金属のヒンジで開閉します。元々何だったにのかというと旅行用の歯ブラシケースみたいです。水抜きの穴が開いてますねえ。ちょっと良い風合いなので買って帰りました。古道具を現役で使うのがモットーですので早速ペンケースとしてカバンの中に収まっています。
昭和30年代、チキンラーメンが一袋30円だった時代値上がりしたと言っても一袋35円だった頃のお話しですね。その頃ならチキンラーメンを2袋を購入してもお釣りがあって余ったお釣りでバラ売りの玉子を2玉買えた時代なら2人前で100円メシも可能でしたね。😋年号が平成に変わる前の昭和だった頃は物価が徐々に上げっていても今のようにはそんなに高くはなかったように思いますね。🤔😅🥰古き昭和の思い出話でした。😅では(o・・o)/ワンコインで満足できる食
お遍路さんで思い出したあの当時昭和30年代お遍路さんだけでなくお坊さんが托鉢に1軒1軒家をまわって来ていた家に近づいてくるとチリンチリンと鈴の音がするのでお坊さんが来た!とわかるまた来たよ〜と思うくらいよく来ていた記憶がある家の前に立って家人が出てきて鉢にお布施を入れるまで鈴を鳴らしながらお経を唱えた気のせいか出ていくのが遅いとだんだん鈴の音が大きくなっていった様な〜だから鈴の音が聞こえてきたら小銭を持って玄関で待っていたお互い合掌をして鉢に小銭
「昭和ぐらふぃてぃ」に掲載されていたクイズなんですが答えが載っていなかったので、考えてみました。看板の文字は鮮明に映っているのですが、そこまでの手掛かりにはなりません。(ネット検索してもまず無理)「右の高架は山手線だろうか?」とありますが絶対にちがうし!国鉄の高架橋はこんな低くて華奢なものではなかったはずです。地下鉄銀座線が地下に潜る手前??の可能性も考えたのですが東口のほうは銀行や保険会社、建築事務所など周囲はお堅いオフィスばかりでした。昭和の渋谷
母の1周忌を終え、遺品(生地や服)の整理を始めます。昭和30年代、母は、ほっぺたに汗をにじませて足踏みミシンで服を作っていましたが、私はその汗が時には涙だったことも知っています。苦しい時代に愚痴も言わずに、私を育ててくれた母に改めて感謝です。たくさんの生地が収められた茶箱です。内側にはトタン板が貼られ、この茶箱を見るだけで自分の幼少期を思い出します。最近はこんな茶箱を見かけないですね。母が愛用していた足踏みミシンは、今は私の実験用の机として使っています。昭和時代のサイズ
堀ひろ子探検隊です。日本の女性ライダーの系譜を調べています。戦前は西野綾子さんが有名ですが、その他は今のところ見つけられません。戦後になると、昭和30年代中ごろに田中照代さんが知られます。東京オトキチクラブ所属で、各種レースにも出場しています。同じクラブにでしょうか、数名の女性ライダーが所属していたようで雑誌などにも取り上げられます。存命であれば80歳を超えていることでしょう。情報をお持ちの方は宜しくお願いします。https://www.faceb
昭和30年代の新築地の地図です。昔、桜城小学校から大通りに流れていた北上川を、現在の流れに変える為、新しく造成した場所なので、新築地と言うらしいです。地図で「丸富タイル」と書かれている建物は今も健在です。上杉さんの家の横には防空壕のあとがありました。戦時中、うちの母は敵戦闘機に機銃掃射を受けて、その防空壕に逃げ入ったそうです。
ちゅうさんの最期の作品16昭和30年〜34年頃なのかなぁ、、、ちゅうさんが、高校を中退してから働いていた、街の映画館、、、歴史を調べてみたら、1920年大正9年に開館され、閉館は1970年昭和45年となっていた。50年…半世紀もの間、小さな街の映画館として、人々に楽しみと癒しを与え、最期は惜しまれつつ閉館となったのだろうか、、、見覚えあるアルバムには、そこで撮影されたと思われる、たくさんの写真があった!父が映画館で看板を書いていた話は有名で、、、父を知る誰もが知っているこ
ちゅうさんの最期の作品14昭和30年前後になるのだろうか、、、高校の先生と喧嘩して、中退したと聞いていた話が、実は本当の理由があったなんて、、、ちゅうさんの母親、クマさんが学費を工面するのに苦労していたのを知っていた、、、ちゅうさんは、母親を助けるために先生と喧嘩したことにして、自分が悪者になったようだ、、、本当の理由、、、母親を助けたかったんだと思うクマさんには本当の理由を言わなかったんだろうな、、、たぶん、、、誰にも言わなかったんだよね!ちゅうさん!やるじゃん!
ちゅうさんの最期の作品12ふと思った、、、見覚えあるアルバムの写真を、撮ってくれた人がいるということを、、、その人こそが、アーティスト!名カメラマンだ!ちゅうさんが写っている写真は、自撮りなんてできないわけで必ず、シャッターを切った人物がいるのだ!ちゅうさんの親友だろうか、、、職場の先輩だろうか、、、ちゅうさんを雇ってくれた社長さんだろうか、、、ちゅうさんの兄かもしれないな、、、それにしても、カッコ良すぎる写真の撮り方は、プロカメラマンのよう!モノクロの写真だから、
ちゅうさんの最期の作品11父の遺品を整理していたときテレビの下に、新聞や雑誌のなかに紛れて置いてあった、古ぼけたアルバムを見つけた!見覚えあるアルバム!まさか、、、こんな所に無造作に置いてあるなんて、、、偶然わたしが見つけなかったら、捨てられていたかもしれない。なぜこんな所にあったんだろう、、、家も古くなり、雨漏れもしていたらしいので雨に濡れないようにここに置いたのだろうか、、、開いてみると、ボロボロになってはいたがちゅうさんが大切にしていた、青春時代の想い出の写真たち
4年生の音楽、と書いてあるが。。。そうだったっけ?私の父は、家族を夜汽車で帰省させるのが好きだった。私くらいの婆さんになると「家族を自分のテリトリ-から放って、悪事を考えたか?」って、思っちゃいますよね。時代が時代だったから。。。と言ってあげれば、父に甘すぎるでしょ。私の様に父親を尊敬出来ない子供って、哀れですね。その夜汽車で午後10時ごろですかね?岡山で必ず乗り換えがあった。去年田舎へ帰った時の帰りの夜汽車は意外と閑散としていたが、母が
Youtubeで動画をなんとなく見ていて、昭和な動画にたどり着いた。子供の頃に読んだ戦中の横浜の下町を舞台にした作品を思い出した。タイトルも主人公の名前も忘れたけど、主人公の小5の男の子が語り手で、その中で繰り広げられる物語を通して子供の目線で見た社会情勢が描かれていたから、当時の遊びとか、駄菓子とか紙芝居屋さんも物語の大きな要素で、細かく描かれていて、子供心に駄菓子が美味しそうだな、と思いながら読んだ記憶があった。時代としてはこの映像の方が新しいのだろうが、作品の
父親の人生を振り返ることなど今までなかったし興味もなかった。でも、最近になって高度成長期を支えて来た1人で、たった1人で福岡から大阪に出てきた状況ってどんな感じ?こうなったら徹底的に聞いてみよう!と、まずは福岡から来阪に至った経緯や奉公先での働き方などについてまとめていきます。マルオは福岡県で生まれ中学を卒業後、小倉に丁稚奉公に出ました。丁稚奉公先では印刷関係の仕事に就き、3年で○○円と、別途貯金をしてくれるというものでした。1日働いて180円の時代で、1か月
今日からは日本の歌謡曲シリーズです。まずは昭和30年代の歌謡曲で、当時好きだったもの、あとから好きになったもの、これを5曲選ぼうと思います。どんな曲があったかな?とネットを見てみました。けっこう好き(当時または後から)な曲がありますね。ちょっと書き並べてみると・・・黄色いサクランボ、雨に咲く花、お座敷小唄、ベッドで煙草を吸わないで、湖愁、再会、東京ドドンパ娘、さよならはダンスの後に、振り向かないで、グッドナイト、情熱の花、小さな花など・・・原則として、海外の曲のカバーは除外し
これを投稿するにあたり内容がちょっとまずいんじゃないかと思ってはみたもののあのTVドラマ「不適切にも程がある」を勝手に味方につけてあげちゃいます😝《これは昭和30年代の日本の農村で起こったことであり、現代絶対やってはいけないことです》《当時だってそんなことをする子どもがいるなんて誰も思ってはいませんでした》昨日北海道在住の同級生を囲んでのプチ同級会がありました私も諸々あるスケジュールの合間を縫って顔だけは見なきゃと1時間ちょっと顔を出した55年ぶりに見る彼は面影はしっかりあったけれど
山崎豊子の小説「女系家族」。昭和30年代にかろうじて残っていた船場の老舗商家の相続争いを描いた小説。山崎豊子の船場モノはどれも秀作。この作品も人間の欲深さへの切り込みが深い。一見、えげつない人ばかりなのだけど、読んでいるうちに、欲深いことが、いかにも人間の本性だと納得させられる。昭和30年代の船場。代々女系の老舗木綿問屋。その当主が亡くなることから始まる遺産騒動。相続人になった三姉妹の壮絶な争い。昭和30年代でそれぞれ1億円以上の相続なのに1円でも、損するのは嫌だと、競い合う。当時
アンニョンハセヨ?今回は「お早よう」観ました。1959年日本映画小津安二郎監督出演佐田啓二、久我美子、笠智衆、三宅邦子ほか昭和30年代の東京の新興住宅地そこに住む人々の交流と対立小津安二郎監督の映画は、まともに観るのは、初めてです。一本くらいは観といた方がいいかなと思って、今回視聴しました奥様方はみな癖のある人々。町会費を確かに渡した、いや受け取ってないとか、あそこの家は電気洗濯機を買ったから月賦で金に困っているとか、噂に振り回されっぱ
“昔の味”といえば、真っ先に思い浮かぶのが給食です。1954年に学校給食法が制定され、全国の小学校で給食が実施されるようになりました。飢えと貧しさのあった時代で、味に文句はいえませんが、食べ残しは“悪”という風潮は嫌だったですね。教師は教育の一環としてとらえているので、全部食べるように指導するわけね。中には嫌いな食べ物があって、嫌々食べている教師もいましたよ。それにしても、私にとって給食は、はっきり言って不味かったです。脱脂粉乳なんて最悪ですよ。脱脂粉乳というのは、牛乳からクリームを分離した残
1909(明治42)年まで、官製の暦には新暦と共に旧暦が載せてありました。昭和30年代まで、農村部では旧暦を使っているところが残っていましたよ。
【24年1月28日探索・9月16日公開】現在地はこの辺茨城県笠間市稲田国道50号線だ。右側の特徴的なライオンのような石像がある場所の左側・・・ちょうど国道50号線119㎞のキロポストの所なんだが、この左側、ソーラーパネルの間に・・・昭和22年の今昔マップを示してみた。この中心点付近が今いる場所になるんだが、ここには昭和30年代まで石材用の手押軌道があった。で、今もまだ一部に痕跡が残っている。この築堤がその痕跡になる。人車軌道とされているが、これ