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細見恭司㈱第一建設ホテルアカデミー学長さんのプロフィールページhttps://profile.ameba.jp/meJR東日本水戸支社は2月8日、国内初の本格的なワイナリーである牛久シャトー(茨城県牛久市)でワインを味わうイベント列車を運行する。再現した明治時代の甘味葡萄酒も楽しめる。「旅するときわ路ワイン号」はイベント専用列車「E501SAKIGAKE」5両編成。水戸駅を午前10時34分に出発し、牛久駅に午後0時15分に着く。20歳以上限定で料金は1人7200円。60人を募集する。
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳■太刀山の生活ぶり太刀山の横綱免許状太刀山の性質は温厚篤実(おんこうとくじつ)で、親に孝行な事は言うまでもなく、友誼(ゆうぎ:友情)もまた頗(すこぶ)る厚く、門弟に対してはこれを我が子のように慈しみ、多くの力士の通用性(つうゆうせい:同類のものに共通して備わっている性質)とも言うべき豪放粗大(ごうほうそだい:大胆で細かいことにこだわらない性質が過剰であるさま)の風もなく、渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀
村で明治時代の時に駅として(電車ではない)あった場所。交通の要所で賑わっていたようです。それが100〜200年位?か分かりませんが、廃れてしまう。今や江戸時代と時とほぼ変わらずの人口数。大都市と言えど何があるかなんて分からない。わずか数年で人がいなくなってしまう事もある。あのローマ帝国もたった5〜10年で崩壊したのだと。これから5年で世の中凄く変わると思う。連れて意識も。
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳■家族と家庭太刀山の妻子(右端が妻とら子、左端は次女峰子)太刀山は明治37年2月8日、愛知県人で元代議士となった事のある今は故人の大導忠七氏の媒酌により、同県海東郡蟹江町佐藤嘉蔵の長女とら子と結婚した。渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)は28歳で幕内筆頭にあった時、とら子は明治13年7月10日の生まれで25歳の時である。爾来(じらい:以来)琴瑟(きんしつ:夫婦が仲よく睦まじいこと)相和(あいわ)し家庭は極
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳10(終).引退の真相(「渠と鉄砲の因縁」を改題)横綱土俵入り(太刀持ち黒瀬川、露払い敷嶋)太刀山と鉄砲とはいかなる因縁があったか、渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)が生まれたのは恰(あたか)も西南戦争の砲撃轟轟(ごうごう)たる時で、徴兵検査には砲兵に合格したが抽選で免れ、また西郷候、板垣伯は国防方針に関して議一致し軍備拡張地租増徴を断行して、軍備の充実を謀り、これがため日露戦役に於て我が国は世界無比の大勝を
とりわけ青春期の頃、策士に憧れて来ました。が、その策士達も、策の中に入ってますんで、なりたくなかった、策に嵌って抜けでれないキャラに僕がなってます。まあ、Civilizationってgameもあります(現在の国名や、都市名そのまま出てきたりしてます。ただ、GEORGIA国は、確認できてません、全シリーズやってないので)し、現代戦gameになってますし、億万長者gameも。うちの父親、明治時代発行の英和辞典所有してましたが、どこで買ったとか聞けずじまいです。こころのこりって、曲によると、馬鹿
こんばんは、今日も来てくれてありがとうございます。今日は、ケーキの日です。1879年(明治12年)の今日に、上野の風月堂が日本で初めて、ケーキの宣伝広告を出したことが由来となり今日がケーキの日になりました。この時のケーキの宣伝広告と言っても当時はまだ、私たちの知るケーキはありませんでした。風月堂が売り出したケーキとは西洋菓子の事で明治10年に明治政府の行った第1回内国勧業博覧会で風月堂が受賞して販売したものはビスケットでした。今日の記念日は、明治時
あけましておめでとうございます。令和7(2025)年、巳(み)年巳といえば「ヘビ」「ヘビ」は生命力を象徴する存在本年も様々な生命力溢れる<もの><こと>をクローズアップしていく所存です。さてウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。1945年
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳9.無敵の力量太刀山得意の鉄砲にて敵を撃退する構え太刀山が入幕後関脇に昇進した前後は、往々立合いの拙(つたな)いところがあった。また相手の計略に乗せられて不覚の敗けを取ったこともあった。渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)の角力は敵に敗けるのではなく、自分が無理をして自分の手と自分の力とで負けることが多かった。ところが板垣伯は角力四十八手の使い分けに精通し、また立合いの呼吸を熟知せられておったので、伯は太刀
あなたは、自分の幸せを犠牲にして家族に尽くすことを選んだ人の物語を知っていますか?明治時代、俳人・正岡子規の妹として生まれた正岡律。今、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKで再放送されているのでご存じの方も多いかもしれませんね。彼女の人生は、兄への深い愛情と献身、そして叶わぬ恋の記憶に彩られていました。今回のブログでは、彼女の生涯に迫りつつ、この物語をより深く感じていただけるYouTubeショート動画もご紹介します。正岡律の生涯:兄を支えた献身正岡律は、子規が病床に伏した7年間、献身
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳8.常勝将軍第9回優勝額肖像(大正5年5月場所:横綱)・栃木山に負けた場所(左手指を怪我している)太刀山は23歳の中年を以て斯界(しかい:この社会:角界)に入りながらも、古今稀なる偉大の力士となって、国技館上9枚の優勝額を掲げらるるに至ったのは、真に驚嘆に値する。余は渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)が額面のなお一二回多く掲げらるべき機会のあったのに拘わらず、余りに太刀山の額面のみ多きを嫉(ねた)んでの所為
城内で最高の17mと言う高さの「高石垣」が圧巻です🤗その石垣の上には「隠門東続櫓」が建っています頭上の石垣を眺めながら石畳の坂道を歩くのですが、つい振り返って石垣を眺めてしまいます😅😅😅再び歩き始めると左側に待合番所跡が現れます😊その番所跡の手前には揚木戸門があり築城時は本丸大手の入口を固めていました番所の先には大手門と言う二の丸・三の丸に通じる門がありましたが揚木戸門と共に明治時代に取り壊しとなっています😭大手門跡からは真っ直ぐな坂道があり右の石垣の上には太鼓櫓、左
「御歴代天皇の詔勅謹解」を開くと、明治天皇は沢山の詔勅を出されていました。本日が仕事始めの方も多いかと思いますが、旧暦・新暦での違いはありますが、一月四日には二つ出されています。政治始の勅語明治二年一月四日、新年最初の政治を執り行うにあたり(政治始という)文武諸官に対して明治天皇が訓戒を下し賜れた勅語です。私は毎日謹んで、先皇の御事業を保ちえないことがあってはいけないとおそれてゐる。先に不忠の者が大命に逆らひ、民が大いに苦しんだ。幸ひに文武諸官の尽力により速やかに乱を平定
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳7.土俵上の成績常陸山引退相撲の土俵入りで太刀持ちを務める(大正3年)以下に渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)の土俵上における成績を年代的に表示しよう。(1)明治32年2月、年齢23歳にして力士となり、同年5月、翌33年1月の二場所は負傷と病気のため休場し、33年5月、24歳にして幕下に付出され同場所に全勝してレコードを破る。幕下付出(明治33年5月)の頃(2)34年1月、初めて番付に入り、十枚目下幕下
酒税の徴収にあたって明治政府は考えました。酒税を確実に効果的に回収するためには、自家製造という抜け穴があっては充分ではない、酒の自家製造を禁止すればより効率的に酒税を回収することができる、と考えたのです。それで、明治政府は徐々に自家製造の禁止にむけた施策を打ち、それを実現していきます。そのような政府の施策に対して、日本各地で抵抗運動が起きました。「自分が食するものを自分で製造することのどこが悪いんだ」というごく当たり前の理由からです。しかし一方では、明治政府の酒税政策を積極的に支持する人々
(ネタバレ注意)2024年11月に出版された、京極夏彦さんの『書楼弔堂』霜夜を読み終わりました。シリーズ4冊目の本です。最終巻なのかな?明治40年の東京が舞台の小説です。京極夏彦さんの本なので、もちろん分厚い(笑)でも、二段組の本ではないのでまだ読みやすいかな。本という本が集まっていそうな雰囲気の書舗「弔堂」では、主人の手によって静かに本たちが弔われ、本当に必要としている人々の元に手渡される機会を待っている。惜しげもなく
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳6.常陸山との顔合わせ常陸山の対抗勢力たる越中出身四大力士<越中横綱伝より>かくて太刀山が三役に入って以来、正横綱常陸山とはじめて顔の合ったのは明治38年の5月場所で、太刀山は関脇であった。両者の勝負は引き分けに終わったが、翌39年1月場所においては、太刀山が敗けを取った。しかしその場所において太刀山はわずかに駒ヶ嶽、常陸山に敗れたのみで、他は皆勝ち星を占め、常陸山は9日間全勝を制した。同年5月場所は
大森駅(京浜東北線)の東口ロータリーに、鉄道院時代(1908〜1920年)に建造された跨線橋の鉄柱が保存されています。(今まで何度も通っていながら、存在に気づきませんでした)大森駅の橋上駅舎化は1984年で、それ以前は年代物の跨線橋が東西の改札口とホームを繋いでいたのを覚えています。製造元は高田商會柳島製作所、「柳島」の地名は戦前に消滅したものの、都バスの停留所名などに残されています。熊山駅(山陽本線)には鉄道院時代の跨線橋が現役で、近代化産業遺産に認定されています。(2023.3.31
あけましておめでとうございまーす今年もよろしくお願いしまーす☆*゚゜゚*☆*゚゜゚*☆*゚゜゚*☆*゚゜゚*☆*゚゜゚*☆ちょっと良いもの、手に入れましたよ。うふふ。『湖月抄』です!活字の印刷ですよ。布貼りの厚紙で包むようにして収納できるようになってます。上下にそれぞれ4冊ずつ入ってますよ。概ね状態はとても良好ですが、少し傷んでいるところもあり。ここ、補修しようかな?どうしよ。ここまで古いものだと、傷みに手を入れて良いのかどうか迷いますね。ここも、手芸ボンドで
日本の酒造技術がユネスコの無形文化遺産に登録されたことによって、私の日本の酒への関心が再び高まってきました。日本の酒行政は、(いまでは日本だけの問題ではないかもしれませんが)人間としての生き方に反した側面があるように思われます。そのひとつが酒税に関する法律です。日本はとくに厳しいように思うのですが、自家製造が全面的に禁止されているのです。自分が飲む酒を自分で製造してはいけないというわけです。自分が食するものを自分で作るというのは、古来行われてきた人間としてのごく当たり前の営みのはずですが、
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳5.幕下時代幕下付出(明治35年5月場所)の頃(左は三段目筆頭駒ヶ嶽)友綱は木村庄之助とともに心血を傾けて得ようとした太刀山が、首尾よく伯と候との力によって門弟とすることができたので、一度失った明玉が再び我が手に入ったように、その喜びは察するに余りあるものがあった、けれども既に23歳となった中年力士であるから、あくまで稽古を励まし、五六年を出でずして天下無敵の大力士として出現せしめようとの意気組(いきぐみ:意気込みに同じ)で
初荷(1月2日年中行事)「初荷」(はつに)とは、商家の仕事始めに荷物が出荷されることを意味する。問屋や商店が、商い初めの商品を美しく飾って売り先へ送り出した。江戸時代から始まり、車にはのぼり旗を立て、かつては馬を使用していたため、馬を美しい鞍や綱で飾り立てて荷を運んだ。明治時代の初荷の様子元々は、「初売り」と同じく1月2日に行われていたが、現在では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に初出荷が行われることが多い。昔は「初荷」と書かれたのぼりや旗をつけたトラックが走っていたが、高
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳4.友綱部屋に入門第1回優勝額肖像(明治43年5月場所:大関)自由党が山縣内閣と提携して、軍備拡張案を決定し、これが財源として数年来の難問題であった地租増徴諸案を通過し、党勢拡張のため、多少政府より便宜を与えられた事があったとするも、もし政府から報酬を得たとすれば、伯が西郷内相の権勢を利用して老本彌次郎を越中の一農家から引き出して天下の大力士たらしめた事の如きは、即ちその著名なるものであ
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳3.上京入門当時の老本彌次郎青年候、伯の談判はかくして成立した。そこで西郷候は直ちに秘書官に命じ、時の富山県知事阿部浩氏に向い親展の長電を発した。阿部氏は何事にも親切に世話好きの人、特に大政党の首領たる板垣伯の懇嘱により、西郷内相が責任をもって引き受けられたとのことであったから、今は慥(たし)か丸亀市の市長をしている藤好警部長に託し、郡長、警察署長等へも内嘱して、まず父治助を説得し、漸く承諾せしめたが
令和6(2024)年、辰年辰といえば「龍」「龍」驤にはじまり、飛「龍」、蒼「龍」、「龍」鳳など、帝国海軍の航空母艦には「龍」の字が付されたフネが少なくありません。飛行物体を取り扱う艦種でありながら、自身も千年万年の齢(よわい)を重ねて欲しいという、艦政本部の思惑が見え隠れします。ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳2.友綱の燗眼(らんがん)、板垣伯の斡旋太刀山角界入りの立役者板垣退助と西郷従道明治維新の元勲(げんくん:歴史上の王政復古・朝権回復に対して大きな功績があった者をさす用語)にして、立憲政体の樹立、四民平等の大義、自由民権の主唱者たる伯爵板垣退助翁は、また角力道の大恩人である。相撲は実に我が武士道的国技として精神的にも、はたまた体育的にも国民必須の力技である。然ればにや(さればにや:だからであろうか)老伯は平生角界の盛
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳1.その生い立ち太刀山のせり上がり明治大正の両時代に跨がり、天下無敵の常勝将軍と内外から欽仰(きんぎょう:尊敬し慕うこと)せられた第21代の横綱太刀山峰右衛門は、明治10年8月15日、越中国婦負郡西呉羽村字吉作(よしつくり)に生まれた。本名は老本彌次郎といい、父は治助と称え(となえ:名称し)、夫婦の間に2男1女があった。彌次郎はその末子で、父は40歳、母は37歳