ブログ記事46件
今年ももうすぐ終わってしまいますね…。ホントに1年が経つのは早い…。ブログもあまり更新できませんでしたが、直近の記事を見ると三笠宮妃百合子殿下の薨去の記事が印象的です。明治宮殿正殿何かで明治宮殿をご存知の方が、的なことを目にして、本当に激動の時代を乗り越えて生きてこられたんだなぁと感慨深いものがありました。明治宮殿豊明殿白黒写真でしか知らない明治宮殿の実際をご存知の方が今年までご存命だったなんてスゴイことです。前に『幻の室内装飾ー明治宮殿の再現を試みる』展を訪れた際のニュース記
なんとなく自分のブログを見たら、明治神宮のハッシュタグランキングで3位をいただいてる記事が‼︎そういえば、この間の『受け継がれし明治のドレス』展の図録が放ったらかしだから本箱に仕舞おうと思って仕舞う前にパラパラと読み返してみました。明治神宮発行の昭憲皇太后の展覧会の図録は回を重ねるごとに薄くなっていってるのが気になります。どうしても内容が重なってしまいますから…。10年後はどんな内容になるんでしょうか…。サイズは毎回同じなんですね、一応…。
大礼服のことで、福岡市博物館の『黒田侯爵家の名品』という展覧会のポスターを見て思ったんですけど…。最後の侯爵の黒田長禮さんって1903年と1904年に御裳捧持者を務めていたんですね!黒田長禮侯爵1903(明治36)年御裳捧持者集合写真上の写真の3列目の右端の人がそうですね。1904(明治37)年御裳捧持者集合写真上の写真だと2列目の右端の人ですね。当たり前ですけど集合写真に写ってる中学生の頃の姿と比べると、かなり印象が違うな〜と。相馬孟胤の渡欧に際し東京駅にて大正13(
三の丸尚蔵館が今月3日、リニューアルオープンしたというニュースを見ました。三の丸尚蔵館の新館(左)と旧館=皇居・東御苑旧館は取り壊しということで残念な気もしますが…。三の丸尚蔵館新館の収蔵庫内部=皇居・東御苑(宮内庁提供)収蔵品の保護・管理のためにはもっと大きなスペースが必要だったでしょうから良いことなんでしょうけど…。でもこれからは有料になってしまうんですね〜。無料で中身のある展示が見られるのが醍醐味だったのですが仕方ないですね。過去に自分が行った展覧会ってどんなだったかなと図録
京都のルーブル美術館展に行きたいなと思って本箱の中を探していて、ふと御裳捧持者の衣装のことを思い出して…。白い梵天って水干の菊綴の変形だったんですね〜。でも言われてみれば、そんな気がするな〜と…。“往昔の内豎の服に西洋風を折衷して新たに定められたもの”ということらしいですから、然もありなんと…。そういうことを意識して見ると、可愛らしさが増して見えます?少なくとも自分はヨーロッパのそれより、日本の御裳捧持者の御役服のデザインの方が好きです😀マント・ド・クールもスゴく素敵だと思います😍
先日、NHKで『雨の神宮外苑学徒出陣・56年目の真実』を放送していたので、途中からですけど、ついつい観てしまって。せっかくだからDVDを観てみようとゴソゴソしていたら、こんなものが目について👇『侯爵家のアルバム-孝允から幸一にいたる木戸家写真資料-』という国立歴史民俗博物館の展覧会の図録です。木戸孝正さんは馴染み薄いですけど、木戸孝允さんと木戸幸一さんは日本史でお馴染みの方たちですよね。4歳3ヶ月の木戸幸一と3歳3ヶ月の木戸小六明治26(1893)年11月6日鈴木一真撮影少年時代
今日は『皇室の名品近代美術の粋』展の図録を読み返してみました。なんか、つくづく『幻の室内装飾ー明治宮殿の再現を試みる』展と内容が被ってるな〜と思いました。明治宮殿千種の間明治宮殿〔千種の間〕に飾られた橋本関雪《進馬図》昭和15年12月撮影〔千種の間〕といえば、昭和の大礼を記念して岩崎家から献上された《進馬図》が飾られた写真が載っています。これは貴重ですね。橋本関雪《進馬図》昭和8(1933)年それから〔西溜の間〕に飾られた《智仁勇》の写真も。明治宮殿〔西溜の間〕に掛けられ
今日は全国的に大雨で心配ですね…。高知県に線状降水帯発生のニュースも出てましたし、何事もなく過ぎ去ってくれるといいですけど😖話はコロッと変わりますけど、最近、『幻の室内装飾-明治宮殿の再現を試みる』の記事へのアクセス数が多いのでちょっと読み返してみたんですけど、なかなか恥ずかしい記事ですね。適当すぎて😅『皇室の名品』展の記事の“宮殿装飾”の項の部分と『幻の室内装飾ー明治宮殿の再現を試みる』の展示品がダブってることに気づいたり。そんなワケで、もうちょっと違うことを記事にしてみようかと。と
今日、自分のブログを見ていて気づいたんですけど…。明治神宮の公式ハッシュタグランキングで1位になってるじゃないで姿⁉︎男子大礼服は4位だし…。宮中新年儀式と御裳捧持者②は46位だし。なので、『歴史を拓いた明治のドレス』と『明治宮殿のさんざめき』と『宮中新年儀式と御裳捧持者』を読み返してみました?“みやびなる明治宮殿”の巻頭写真特集が良いですね。皇后美子着用の大礼服御裳捧持者明治宮殿正殿御学問所外観皇后宮御座所写真を見るだけでテンション上がりますヽ(*^ω^*)ノあと筆者
明日と明後日、京都の大聖寺で修復中の大礼服が公開されるそうですね。公開期間2日間しかないのが悲しい😭『憲法発布』1904(明治37)年土屋光逸画大日本帝国憲法の発布の日に合わせて公開っていうのが良いですね。修復プロジェクトをまとめる中世日本研究所(京都市)によると袖の形状などから、1890年ごろまでのドレスと考えられるそうです。明治時代、宮中近代化のために招かれたドイツの外交官、オットマール・フォン・モールの回想録では、発布式の日の行事に臨んだ皇太后について「白地に金色の洋服」と記
“麗しき御裳捧持者”の振り返り投稿があがってたので…。みんなの回答を見る記事を書いてから1年も経つのか〜と驚きました。『宮中新年儀式と御裳捧持者』の巻末に英国議会開会式では現在も御裳捧持が行われていると書かれてますけど…。素直に素晴らしいことだなぁと思います。キチンとした形で行われたのは今のところ2019年が最後ですけど…。今年はエリザベス女王が足に歩行困難が見受けられるということでチャールズ皇太子が代理で出席されてましたが、ページボーイの出番はなかった…。ガーター勲章授与式の後の
先々週に振り返り投稿の記事があがっていて、そういえば昭憲皇太后の大礼服の修復はどうなってるのかなと思い出しまして…。そんな時に本屋さんで☝️の本が目についたので買って読みました。東京新聞で連載していた“よみがえる明治のドレス”を書籍化したものです。修復前の昭憲皇太后の大礼服(大聖寺門跡蔵)修復前は経糸の劣化によって緯糸が浮いてしまっていた。修復は緯糸を駒縫いで留め付ける作業が行われた。修復中の大礼服の劣化の詳細の写真も載せてくれてます。刺繍の金属モール糸が外れ、泥紙が露わになった修復
みんなの回答を見る『明治宮殿の写真』の記事って、今までで一番たくさん“いいね”をいただいた記事なんですよね。それが驚きです😲東車寄内部正殿しかし、元々は仮宮殿として建てられて、その後、江戸城本丸跡に石造りの西洋風宮殿を建てる予定だったということにも驚かされます。豊明殿まぁ、シャンデリアや家具は使い回す予定だったのかもしれませんが、それでも仮宮殿と考えるとスゴく豪華だな〜と。千種の間白黒写真で見ても超豪華だと思うのに、実際見たらどんなにスゴかったのかと思わずにいられません。鳳
みんなの回答を見るそういえば『御裳捧持者の写真』の記事も1年経つんですね〜。何日か前に今年のガーター勲章叙任式のニュースを見て、ページボーイがいることに感動しました。イギリスは第二次世界大戦の戦勝国だから、戦前からの伝統を忠実に守っていられるんですね〜。大礼服の香淳皇后日本も第二次世界大戦で負けなかったらマント・ド・クールや男子大礼服は廃止されなかったのかな…とか、つい考えてしまうんですよね。大礼服の昭和天皇と通常礼服の香淳皇后ローブ・モンタントは今も健在ですが…。2019年の
おこんばんちゃ。本日は、数ある漫画の中でも一際オススメの私のイチオシ漫画その名もパレス・メイヂを御紹介致します。作名はパレス・メイヂ明治時代から第二次世界大戦末期まで存在しておりました明治宮殿がモデルとなりまして空襲により焼失しております。明治天皇陛下、昭和天皇陛下がご政務に励んでおられた明治宮殿は外観等は京を模した和で調え、要所には洋を取り入れた和洋折衷の宮殿でありました。令和元年10月18日発売の天皇陛下御即位記念切手は、失われた明治宮殿の正殿の天井の絵柄と、正面玉座上部の緞帳
みんなの回答を見るそういえば『明治時代の100年?』の振り返り投稿の提案があったので…。『明治時代の生活とか』の記事を上げた後に『1億人の昭和史明治上・中・下』を読み返してみたら“明治時代の最上流階級”として紹介されてたので、なんとなく記事にしてみました?明治維新から新政府中枢となった薩摩藩主島津家は斉彬から忠義に引き継がれ、公爵に叙せられた。忠義には13人の子女があり、8人の姫は山階宮妃(3女)、久邇宮妃(7女)をはじめ、徳川家など皇族・華族に嫁した。長女・清子(22歳)越前福
みんなの回答を見るホントは昨日、記事を上げようと思っていたのに今日になってしまいました。そういえば『明治時代の生活は』って記事も1年前になるんですね〜。それから“明治”って2番目に長く使われた元号だったんですね!それもなんだか感慨深い…。明治という時代を改めて考えてみました。明治時代は現代の礎が築かれた時代です。初めて電灯が点いたのも鉄道が敷かれたのも明治時代。1日が24時間、1年が365日になったのも明治時代。子どもが小学校に通うようになり、大人が新聞を読むようになったのも明
みんなの回答を見る今日、何となくブログのトップページを見たら過去の記事の振り返り投稿の提案が上がっていたので…。『華麗なる明治』の図録のコラムを読んで、明治30年の御裳捧持者って誰が務めたのかな〜と何となく気になってたので『宮中新年儀式と御裳捧持者』を見返してみました。1897年、って、西暦で聞くとスゴい昔だな〜と思ってしまいますね…。明治30年御裳捧持者三条公輝氏若き日の三条公輝公爵が確かに可愛らしい。明治・大正・昭和と受け継がれてきた制度ですから親子で奉仕された方も大勢いら
今日で『華麗なる明治ー宮廷文化のエッセンスー』展が閉幕したんですね!令和への御代がわりに関する展覧会も、これで一旦、一区切りなんでしょうかね…。この展覧会では御裳捧持者のことにチラッと触れていてくれたのが良かったですね〜。明治宮殿の存続と命運を共にした制度なのに、これまでは、あまり触れられることがなかったですから…。『宮内省内豎、舎人、馭者、配膳人、玄関番、仕人等ノ服制ヲ定ム』明治21.10.01.内閣行政文書、国立公文書館それと今回の展覧会に合わせて『いざ、明治宮殿へ』と題し
○坊城俊良著宮中五十年明徳出版昭和35年刊○坊城俊良1893-1966幼少にして侍従職出仕以来、宮内官として皇室に奉仕した。旧伯爵。○明治天皇1852-1912○貞明皇后1884-1951(大正天皇皇后)●日露戦争の前後●日露戦後、英国からコンノート殿下が来朝され、明治天皇にガーター勲章を贈進される式があった。これには英国のしきたりで、定められた儀式があり、色々心配した人たちもあったようだが、コンノート殿下は、日本側以上に緊張しておられたようだ。○コンノート殿下。ビク
そういえば、『華麗なる明治ー宮廷文化のエッセンスー』展の図録を通販で買って読んでたんですけど、やっと読み終えました。第1章では明治天皇の愛用品が色々と載ってますけど…。御軍衣明治天皇着用明治13〜明治19年(1880年〜1886年)軍衣は明治19年に改正される以前のものですね。こんな古いものがキチンと保存されていることに驚きます😲安芸宮島図金カフスボタン明治天皇遺品明治33年(1900年)金のカフスボタンや剃刀なんかも。これらの品々は貴重なものだな〜と思いますね、ハイ。剃
最近の記事のアクセス数を見ると、御裳捧持者についての記事が多かったので、何でかな〜と思ってたんですけど、茨城県立歴史館の『華麗なる明治-宮廷文化のエッセンス-』展が始まったからなんですね?会場には明治45年の御裳捧持者の集合写真も掲出されてるようで…。エントランスにはこんな撮影スポットも用意されてるんですね!なるほど〜と思いまして。“御裳捧持者”とは何ぞや?と思いますよね。それで御裳捧持者に関する記事のアクセスが多かったのかなと。女子宮廷服が沢山あるということですから、個人的にはスゴく興
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。元日といえば、今日は“新年祝賀の儀”があったんですね〜。去年と同様、ティアラ無しというのが寂しいですが、コロナ禍の国民へのお心遣いということですから有り難いことです。天皇・皇后両陛下のご長女の敬宮様が公務デビューを果たされたのも喜ばしいことです。あのお小さかった宮様が…と保護者的な感慨に耽ってしまいます。そして前にも何度か記事にした御裳捧持者のことも思い出してしまいます。昭和戦前期まではマント・ド・クールが新年式で着る
『宮中新年儀式と御裳捧持者』に載ってる大正五年御裳捧持者の渡邉昭さんの体験談のインタビューを読んで…。男子大礼服は細かい規定があるんですよね。せっかくだからちょっと書いてみようかと。∬有爵者大礼服∬有爵者大礼服は華族が着用する大礼服であり、爵服とも称する。有爵者大礼服の上衣は竪襟の燕尾服型で、房のある肩章を付ける。竪襟と袖口、帽子の右側面の一部は爵位によって色が異なり、公爵は紫、侯爵は緋、伯爵は桃色、子爵は浅黄、男爵は萌黄とし、この部分に飾章の五七桐文と桐唐草文を表す。有爵者(公爵
『明治・大正・昭和戦前期の宮廷服』の図録の主要参考文献に『宮中新年儀式と御裳捧持者』があるので、つい両方を読み返してしまいます。それで思い出したのが実際に御裳捧持者をされた方の話。一応、記事にしてみました😅わが国でも御裳捧持は大切な役目とされ、その人選は慎重に行われた。『昭憲皇太后史』には「第一に風采端麗の者を選ぶ、次に本人の学業成績を閲し、平素の行状、両親の身分、並びに職業、家庭の有様等を調査して」とある。昭和19年の御裳捧持者、神山昭彦氏の辞令「容姿端麗だったかどうかはわかりません
みんなの回答を見る『明治・大正・昭和戦前期の宮廷服』の記事を割とご覧いただいてるんだな〜と思って読み返してみると、なかなか興味深い内容だなと思ってリブログしてみました?図録の表紙にも使われている昭憲皇太后のマント・ド・クールが素晴らしいですね。バックスタイルも手抜かり無しって感じで。あと、スカート部分を後ろに大きく裾をとっているのが特徴的です。トレーン無しでも迫力がありますが、トレーンを付けると、これまたスゴい存在感で圧倒されますね。そして菊花の刺繍がホントに素晴らしくて見惚れてしまい
“おんもほうじしゃ”は皇后陛下や親王妃殿下の御裾持ちをした華族の子弟です。長さ3.9メートル、幅2.4メートルの引き裾は、きっと重かったでしょうねぇ。明治宮殿正殿そうは言っても、絢爛豪華な明治宮殿の正殿での儀式の様子を想像すると、とっても雅やかだったんだろうな〜と思います。戦闘第三〇四飛行隊長・日高盛康少佐。昭和20年8月15日、空戦の指揮をとった【「玉音放送」直前まで戦い続け、死んでいった“若き零戦パイロット”たち】というネットニュースで日高盛康さんのお写真を見て、ふと思い出して
『明治宮殿の世界』の記事へのアクセスが多くて驚いたんで、ちょっと。“明治宮殿の再現を試みる”という展覧会の図録を見ていて思い出したんですけど、明治宮殿の写真で見慣れないものがあって…。〔千種の間〕家具の配置が全然違う『千種の間』の写真。この写真では部屋の中央に円形に配置された6台のソファーと飾り台に囲まれて、噴水器とその水盤のようなものが置かれています。図録の表紙にもなっている写真とは家具も配置も全然違います。花瓶や花盛器は何処にも見当たりません。〔東溜の間〕『東溜の間』の写真では
今日で6月も終わりですね〜。6月30日といえば、水無月ですね。無病息災を願って、コロナにも打ち勝つようにとの願いを込めて、いただきたいと思います。水無月は旧暦7月1日に宮中で氷を食べる慣習に倣って、氷室から切り取った氷の形を模したお菓子を食べるようになったということで思い出したのですが、最近、なんだか『御裳捧持者の集合写真』の記事へのアクセス数が多いですね〜。そして“御裳捧持者”でネット検索すると、結構、色々とヒットするものですね。明治43年(1910年)御裳捧持者小笠原豊氏明治
『宮中新年儀式と御裳捧持者』の記事のアクセス数がスゴくて、皆さん、興味を持ってくださったんだな〜と嬉しくなりました☺️明治30年代中頃の銀座の街並みやっぱり明治時代は昔だな〜と当時の写真なんかを見ると思いますけど、生活も楽ではなさそだし😓当時の外国人の感想もそんな感じだし…。でも現代よりも人情や温かさ、夢や希望はあったのも事実でしょうから、そういう意味では良い時代だったのかもしれませんね。1901(明治34)年の「報知新聞」より無線電話で海外の友人と話ができるいながらにして遠距