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日本人の直接の先祖の現生人類がアフリカから最初に脱出した時期は約8万5000年前に遡るとされていたが、さらに早く約12万年前にまで遡るようだ。アフリカから脱出したこの足跡の主たちは、ついに探し求めていた楽園、すなわち東の果ての日本列島にたどり着くことができたのであった(参考)。『日本人には日本列島が最も住みやすい所である』日本は海と言う万里の長城があって、外敵の他に病気も入りにくかった!みんな、外に出るどころか日本列島内に住もうとする理由がよく分かる。トランプ大統領がメキシコと…ameblo
「モモという植物自体が中国大陸原産であり、モモを食べて不老不死を得た西王母や桃源郷伝説など、モモ信仰が中国大陸由来であることは間違いない。中国大陸でモモ(核果類)が栽培された歴史は6000年以上ともいわれ、やがて日本にも伝えられたのだろう。もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、今回の纒向遺跡で大量のモモの種が出土したこととつなぎ合わせ、また年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い」とか!実は、日本人はかつては中国大陸と日本列島を含む東アジアに広く分布してい
現在、対馬海峡の水深約130mであるが、後期旧石器時代の最終氷期最寒冷期には120〜130mくらい海水面が低下したと考えられている。ちなみに津軽海峡は水深140mもあり、最寒冷期でも水路が残った。すなわち、日本列島の九州島と本州島が最寒冷期に大陸と繋がって、徒歩で移動出来るか否かの瀬戸際にあった。参考①-1では、対馬海峡は海水面が後退して幅10~15km、深さ10mの水路状に残り、出土する石器は地域として一体となった文化圏をなしていなかったと指摘されている。また、参考④では、後期旧石器時代の
日本は海と言う万里の長城があって、外敵の他に病気も入りにくかった!みんな、外に出るどころか日本列島内に住もうとする理由がよく分かる。トランプ大統領がメキシコとの国境の壁を厳重にしようとの努力にご苦労さまと言いたくなる。参考①沖縄県はしか終息宣言へ県内感染者99人ホウドウキョク(2018.6.13、参考)2018年3月から、沖縄県ではしかが流行していたが、5月以降、新たな感染者が確認されていないことから、11日にも終息宣言が出される見通し。沖縄県では2018年3月、台湾からの
東洋医学は中国伝統医学、漢方医学とも言われているが、中国最古の医学書は黄帝内径、薬学書は神農本草経と言われている。これらの書は、今から2200年以上前の戦国時代(紀元前403~前221年)に書かれたと言われ、秦の始皇帝が中国大陸を統一する前にあたる。これらの書の書名に黄帝と神農の名前が付いているが、中国大陸の神話にある三皇五帝のうちの二人であある。古史古伝の一つの宮下文書の中の徐福が書いたとされる支那震旦国皇代暦記においては、原初神の伏羲は縄文時代の日本列島の富士高天原からやって来たとされ、
三皇五帝(さんこうごてい)という言葉があるが、これは中華文明最古の神話・伝説の時代における8人の帝王のことである。諸説あるが、伏羲が最初の帝、天皇(てんこう)とされ、その後に黄帝や堯帝が続く。最初の伏羲は考古学的には解明されていない伝説上の始祖神であるが、縄文時代の日本列島から中国大陸に移住した日本人の祖先の縄文人(Y-DNAハプログループD)であると古史古伝の一つ宮下文書の中の徐福が著した支那震旦国皇代暦記に書かれている。これに対し、最近、黄帝に関連すると見られている約4000年前の陝西省
国武貞克さんによると、佐久市香坂にある後期旧石器時代の香坂山遺跡で、ユーラシア大陸から日本列島に人類の祖先が渡ってきた年代を示すと考えられる多数の大型の「石刃」が見つかった。この石刃の持ち主の人類はアフリカからユーラシア大陸を横断して日本列島に定住した日本人(縄文人、山の民、Y-DNAハプログループD)のルーツであると推定される。これまでの研究や国武さんの調査で、「石刃が、イスラエルでは約5万年前、中央アジアのタジキスタンでは4万7千年前、中国では4万4千年前、韓国では4万2千年前のものが出
中国大陸の殷王朝の遺跡より古い、今から4千年前の陝西省の石峁(シーマオ)遺跡から、ヒスイ(翡翠)、生贄の証拠、口琴などが出土する。ヒスイは陝西省の石峁遺跡あたりには産出せず、当時、付近で産出が確実なのは縄文時代の日本列島であった。生贄や人身御供の風習は殷王朝に引き継がれ、日本においても古墳に人形埴輪を並べたり、人柱の風習として残っていた。口琴については、現在の使用者にチャン族とアイヌ民族がいるが、彼らの先祖は縄文人など日本人の多数が有しているが漢民族は全く持たない男性遺伝子Y-DNADを
九州の装飾古墳の源流は中国大陸の壁画古墳であった。中国大陸の壁画古墳で特に青竜、白虎、朱雀、玄武の四神、または原初神の伏義と女媧、天井の宿星図などが描かれているものには、秦人(もしくは秦の始皇帝)の所縁の人物が葬られているようだ。高句麗壁画古墳が従来から日本の壁画古墳のルーツとされ、また前方後円墳の原型と思しきものもあったが、これも秦に由来するもののようだ。特に、高句麗壁画古墳での墓誌つきの墳墓の安岳3号墳に描かれた角抵(すもう)や、同じく徳興里古墳に描かれた流鏑馬(やぶさめ)は現在でも日本
藤井游惟氏によると、森博達氏が指摘した『日本書紀』α群を書いたとされる渡来人の薩弘恪らは660年百済滅亡の際に百済から日本にやってきた。藤井游惟氏は、『日本書紀』α群にある歌を現代中国人の山東方言話者に発音させたものを以下のユーチューブに録画している:https://www.youtube.com/watch?v=GrW9HbymQmo&feature=plcpそして、発音が現代日本語によく似ていると主張している。実は、土井ヶ浜弥生人は春秋戦国時代末期(約2200年前)に中国大陸の山東半
ある方からの当ブログへのコメントがあり、『この度は大変興味深く読ませて頂き、誠に有難うございました。日本語の起源に関し、共通の問題意識を感じます。実は地中海のクレタ島で青銅器時代に繁栄したミノア人の残した線文字Aが、日本語として解読可能である旨証明すべく、研究を続けています。https://yomou.syosetu.com/search.php?search_type=novel&word=%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A&button=ついてはお時間ある時に御笑読
山口県と中国山東省は1982年に友好協定を結んで交流してきた。これを記念して山東地域ゆかりの陶磁器100点を紹介する展覧会を2018.6.5から7.16まで山口県立萩美術館・浦上記念館で始まった。山東半島あたりの新石器時代の大口文化や龍山文化の後、この辺りに斉の国が出来たが最終的には秦に滅ぼされた。この斉の国の住民が海を渡って山口県下関市豊北町の土井ヶ浜に辿り着いて土井ヶ浜弥生人になった事を土井ヶ浜人類学ミュージアムが証明している。また、大口文化より前の紅山文化などからは日本の縄文式土器が出土
島根県の出雲地方の神原神社古墳から、昭和47年(1972)に発掘調査が行われ、被葬者を納めた棺の中から、景初三年(西暦239年)という魏(ぎ)の年号が入った三角縁神獣鏡の紀年銘文鏡が出土した。魏の景初三年とは、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝に使者を派遣し、皇帝から銅鏡100枚を下賜された年であった。この魏の皇帝が下賜した紀年銘文鏡は舶載鏡として、鏡の銅の合金成分から明確に判別できる。この様な卑弥呼の鏡が出雲地方から出土し、しかも神社の御神体の古墳に埋葬されていたことが、注目に値する。ところ
纏向遺跡から出土した桃の種の年代測定は国内の2研究機関が実施。名古屋大の測定で135~230年ごろのものとされ、別の機関もほぼ同年代と測定した。すなわち、纏向遺跡は卑弥呼が生存して政治を司っていた時代のものであることは確実になった。しかし、桃の種が出土する遺跡は纏向遺跡のみでは無く、縄文時代あたりから、あちこちで出土するようで、纏向遺跡を卑弥呼の都とする根拠には不十分であった。ただし、纏向遺跡の近くの古墳から出土する三角縁神獣鏡に刻まれた年と卑弥呼が魏に使いに行った年が一致すること、舶載鏡と
以前、邪馬台国に関する本をちらちらと読んでいたとき、《テュルク》という言葉が出てきた。「テュルク民族」と言ってもよかったように思うけれど、たしか、元々は中央アジアの東寄り地域(だったと思う)が本拠地の遊牧民族で、勢いがあったときには東は朝鮮半島あたりまでうかがい、西は……どうだったけ?という曖昧なイメージしか今は残っていないけれど、優れた製鉄技術を持った民族ということだった(と思う…)。(^^;)そして、たしか、その本には、そのテュルクの一部の人々が日本海を渡り越の国あたりにやって
日本語の起源を求めて遡ると、日本列島の縄文人と大陸の殷人が同じ原日本語を喋っていた。この殷人の末裔が秦帝国の人々(秦氏)や斉国の人々であった。中国大陸の春秋戦国時代の戦乱で最初期に敗れて日本列島に渡来して来たのが、揚子江中下流域で水稲稲作をしていた弥生人で九州を中心とした銅剣文化圏の人々と近畿を中心とした銅鐸文化圏の人々であった(参考)。そして、ほとんど最後まで勝ち残った斉は秦に敗れ、最後まで残って帝国を作った秦の人々も漢帝国に滅ぼされ、やはり日本列島に渡来して来た。弥生時代後期に山陰側に渡
梅雨(バイウ、つゆ)の季節となると、何故、梅の雨と呼ぶのか疑問になる。中国でも日本でも漢字で梅雨と書く。実は、梅の原産地から植生地域、米の生産地域、梅雨の降雨地域が一致し、また、照葉樹林帯に一致しているのであった。そして、梅雨の季節に水田で田植えをする渡来系弥生人の故郷(揚子江中下流域)とも一致していた。この弥生人が水稲の他に芋、茶、蚕、雑穀、味噌、納豆、、、などを持ち込んだが、同時に梅も持ち込んだと考えられる。この梅を収穫する時期に降る雨が梅雨であり、田植えをする時期でもあったのである。
日本の神社の源流は古代の殷王朝にあるようだ。鳥居の起源と目される門が殷墟にあった。参考①鳥居の原型は、殷王朝の時代の王宮の魔除の門だという説がある殷墟と鳥居の起源+世界遺産DVD(参考)中国・河南省安陽(あんよう、Anyang)市には、甲骨文の記載や文物考古などに基づいて復元された殷代の門がある。殷の時代には、「帝」という神を祀り、帝が四方へ命令を伝える際に、風の神(方伯)がその命令を運んだという。ちなみに、殷では自分たちの王朝を殷(Yin)ではなく商(Shang)と呼んでいたらしい
私が高校生であった頃までの高校の日本史では、「朝鮮半島南部は6世紀中頃まで、朝鮮半島に任那(みまな)日本府が置かれた。」とされていたが、現在は日本史教科書から消えている。しかし、『朝鮮半島南部で、中広形銅矛などの倭系遺物と呼ばれる考古資料が出土した。慶尚南道金海市の首露王陵付近には、大成洞や良洞里古墳群がある。発掘調査によって、これまで日本人の特殊な呪術的文物と考えられてきた巴型銅器や鏡が出土した。大和朝廷が朝鮮半島南部の任那に日本府という役所を置き、支配していたとする学説が有力である。』実
日本の神道は日本古来からのオリジナルな宗教とされている。しかし、実は神道も日本語もかつては東アジア全域に分布していたようだ。特に、社殿を作る現在の神社のルーツは元々は7世紀の飛鳥時代頃から大陸から渡来して来たと考えた方が自然である。また、日本の神社の形式がユダヤ教の神殿などによく似ているとか、日本文化とユダヤ文化に共通性があるとの指摘があり、日ユ同祖論が主張されている。実は渡来人のルーツの殷人の時代から既にユダヤ人と文化交流があったのであり、この頃から神道が形作られていたと考えられる。雑談
白村江の戦い(663年)の後、唐側の使者として665年に来日した百済人、祢軍(でいぐん)の墓誌が中国で見つかり、その中に「日本」という文字があり、「最古の国号」ではないかと注目されている。「中国の古都・西安で見つかった墓誌に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼ
日本列島が縄文時代であった頃、縄文人は東アジアに広く活躍していた。例えば3600年前からの殷は漢字の元となる甲骨文字を発明したが、殷人は縄文人と同族で原日本語を喋り、同じ趣味、例えば漆や宝貝の文化を発達させていた。だから、縄文時代の中国大陸と日本列島の間には交流があり、漆や宝貝の他にも、大陸の物が日本列島から出土してもおかしくない。中華4000年の歴史と言っても縄文人と同族の人々によるものであり、現在の漢民族の祖先については高々3000年程度の歴史しか無かった。参考①-1縄文の耳飾り
語尾に「ちゃ」を付けるのは北九州地方(特に小倉)の方言だけでは無い。少なくとも大分県から山口県も同様な方言であり、動詞の何々するの後に「ちゃ」とか「けー」を付ける。日本海から関門海峡、瀬戸内海の海は妨げになっていなかった。むしろ、海運によって密接に結び付けられていた。さらに、日本海側を北上して新潟県辺りでも喋られていた。これに対し、戸畑区と小倉北区の間の小さな川である境川で筑前国と豊前国が隔てられて方言が異なっており、戸畑区から西は博多弁に近く、語尾に「ちゃ」の代わりに「たい」とか「ばい」を
お釈迦様は現世での煩悩を如何に解決するかを悩み抜かれて修行したが、彼の直接の教えは東南アジアを中心とする小乗仏教と、座禅を行う、例えば曺洞宗などの禅宗に伝わっている。武士達、特に東国の武士達がお釈迦様と気性と価値観を共有して、自分達の現世での煩悩を御する為に、禅などの仏教の修行を行なっている。このお釈迦様の仏教を信仰して悟りの境地に至ろうとする行為自体が、武士達の武士道であると説明出来るかも知れない!現在でも、茶道の家元を始めとする茶家の方達は禅宗の僧を師として修行されているほど、禅宗が茶道
武士を武士たらしめている原理とは何か?と疑問を持った時、それは武士道であると回答が返って来る。漠然と武士道と言われてもよく分からない。新渡戸稲造が外国人に武士の行動原理を説明する時に上手く説明する為に導入したもので、江戸時代までの本当の武士に武士道があったのかどうか疑問を持っていた。武士達、特に東国の武士達がお釈迦様と同族で気性と価値観を共有して、自分達の現世での煩悩を御する為に、禅などの仏教の修行を行なっている。このお釈迦様の仏教を信仰して悟りの境地に至ろうとする行為自体が、武士達の武士
お釈迦様の一族の釈迦族はY染色体ハプログループO2(旧分類)で、揚子江中下流域の水稲稲作民や日本列島に渡来した弥生人と同族であった。この弥生人の末裔は九州を中心に日本列島に広く生活したが、東国の武士も彼らの末裔であった。ところで、お釈迦様は現世での煩悩を如何に解決するかを悩み抜かれて修行したが、彼の直接の教えは東南アジアを中心とする小乗仏教と、座禅を行う、例えば曺洞宗などの禅宗に伝わっている。すなわち、お釈迦様と東国の武士はお互いの縁を知らないはずであるが同じ気質と価値観を共有していたようで
照葉樹林帯はヒマラヤ山脈に遮られた気流が南から北東に伸びる温暖・多雨な豊穣な地域であり、この地域に定住した民は水稲の稲作の恵みにより、西はインドのタミル地方から東は日本列島、朝鮮半島に進出している。ところで、お釈迦様の一族、釈迦(シャカ)族はアーリア人と言うより、水稲の稲作を生業とするモンゴロイドであろうとする説が有力であり、照葉樹林帯の近辺に定住した民であった。すなわち、彼らが日本の水稲稲作農業の基礎を築いた揚子江中下流域から来た弥生人と同族であり、日本の弥生時代の銅剣・銅鐸文化圏の人々で
現代日本仏教の浄土真宗の漢訳教典の仏説阿弥陀経は鳩摩羅什がサンスクリット語から漢語に翻訳したものである。この鳩摩羅什の父親はインド人であるが、母親が古代中国の亀茲国の国王の妹であった。亀茲国は羌族と同族の大月氏の末裔が作った国であった。そして、五胡十六国の争乱期の5世紀初めの長安で仏教教典を翻訳したが、羌族の建てた後秦の王の姚興が鳩摩羅什の高名を知っていたので、401年に鳩摩羅什を長安に国師の礼をもって迎えたのであった。すなわち、鳩摩羅什の母方が縄文人と同族の羌族であったことになる。ひょっと
月氏は紀元前3世紀以前にタリム盆地から黄河上流付近にいた遊牧民族で、現在のウズベキスタン共和国からアフガニスタン北部にかけての地域に移って、大月氏国を建国した。そして、アムダリヤ川の南にある「大夏」という国を臣従させ、大夏に「翕侯」と呼ばれる諸侯を置いて統治した。紀元後1世紀の前半頃になると貴霜翕侯が他の翕侯を滅ぼして「貴霜王」と称し、さらにはヒンドゥークシュ山脈以南に進出してインドの北部を征服した。これがインド史にいう「クシャン朝」であった。その頃の中国では貴霜王のことも大月氏と呼んでいた。
日本の酒の起源を遡れば、弥生時代からの米などを原料とした酒や、さらに縄文時代の木の実や果実からの酒があったようだ。また、酒の神様に注目しても国津神から天津神(渡来系の神様)までおられる。ただ、現在の清酒につながる酒造の神様として、渡来人の秦氏に酒造りの技能者が多く見られたことから室町時代末期頃から「酒造第一祖神」として崇拝されるようになった松尾大社の神様が注目される。さらに、中国大陸での秦の始皇帝と秦氏にゆかりの地の遺跡から出土した清酒のような透き通った酒との関係が注目される。参考①酒