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秦、新羅、百済、高句麗は原日本語を喋った同族である(参考)。春秋戦国時代の秦、羌族、斉なども同族である(参考)。漢民族は3000年前に中原に侵入してきた(参考)もので、それまでの東アジアは秦の始皇帝の祖先のものだった。国名の秦の字そのものは漢の時代の史記に秦と書かれたためで、以降、秦と呼ばれたのである。秦人たちは秦を原日本語(訓読み)で「支那」とか「震旦」と読み書きしたのであろう。紀元2世紀前後にインドで中国を指して「チーナ・スターナ"Chinastaana"」と呼んでいたが、これが秦の国名
縄文時代の日ノ本(ヒノモト)の首都圏である東日本と弥生時代以来の日本(大和、ヤマト)の首都圏である西日本を結ぶ聖なるラインの真上に、浜松市の賀茂神社があり、江戸時代のこの地に生まれた賀茂真淵がいる。彼は古事記、日本書紀、万葉集をベースに日本を研究する国学に取り組み、日本語についても研究した。そして本居宣長へも影響した。賀茂真淵記念館と賀茂神社賀茂神社、静岡県浜松市中区東伊場1丁目17-1伊雑宮、三嶋大社、江島神社を結ぶ線上参考①日本語の基礎を作った男「賀茂真淵」2012.9.1(
中国大陸本土の漢民族の中で最も由緒あると言われている人々に客家人がいる。彼らのルーツは中原にあり、彼らの喋る客家語は漢字の漢音に近い発音であり、漢民族の先祖に当たると見られている。すなわち、中国の歴史区分で春秋戦国時代の戦乱で勝利して漢帝国を樹立したのが当時の漢民族である客家人であった。そして、この争いに敗れて日本列島に渡来したのが秦氏(秦人の末裔、縄文人と同族)であったことになる。春秋戦国時代の戦乱は寒冷化などの気候変動により減る食料を求めての殺し合いであった(参考)。最近の朝鮮半島やバル
日本の縄文人と渡来人の違いは方言のアクセントの違いにしか過ぎなかった!(Wikiより)参考縄文人の痕跡を現代人に探るゲノム科学で迫る先史時代日経サイエンス(2023年12月24日、参考)かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。ゲノム上に散らばる"縄文人由来変異"の保有率を手がかりに、
弥生時代から玄海灘と響灘で、大きく文化が異なっていたようだ!墓制が特に顕著で石棺墓を採用していた。宗像地方以東、響灘沿岸地域をまとめて響灘文化圏と呼ぶ必要が有りそう!北東隅に頭骨・土井ヶ浜タイプとある地域が響灘文化圏、青区域の西北九州タイプが在来の縄文人の居住域土井ヶ浜遺跡群響灘文化圏(参考)石棺墓制を採用する響灘文化圏は縄文人との生活文化の連続性が無く、玄海灘文化圏の弥生人の甕棺墓制とは異なっていた。さらに、海の交流ネットワークを通じて西北九州文化圏に石棺墓制を伝えた。この後、古墳時代
中国を経由して日本に入って来た仏教は大乗仏教であるが、お釈迦様の教えのとおりに悟りの境地に至る本来の仏教、すなわち小乗仏教とは異なり、キリスト教など他宗教の教えまで包含したものになっていると言う。例えば、大乗仏教で登場する大日如来とか阿弥陀如来とかはキリスト教の神様のような役割を持っている。遣唐使として入唐した空海は現地で大乗仏教の一つ真言密教を学んだが、当時、唐で流行っていた景教(ネストリウス派キリスト教)の教えをも同時に学んで帰国して、高野山の真言宗を開いたようだ。また、浄土教の本尊の
日本語は他によく似た近縁の言語が無く、どの語族にも属していない孤立した言語であると言われている。wikiに日本語の起源について多くの説が紹介されているが、どの説もうまく説明していなく、互いの説を否定・矛盾し合って定説が無い。このような日本語について、旧石器時代以来の古い言語であると考える研究がある!また、日本語は2200年前に大挙してやって来た渡来人から始まっており、以前の言語は置き換えられたと考える研究もある。以上の2説は互いに矛盾している。しかし、共に正しい科学的な研究である。すなわち、互
(世界史の窓より、参考)古代の中央アジア、タリム盆地より西に大月氏という国があった。この国の人々が、どうも縄文人と同族で原日本語を喋っていたようだ。その理由として、大月氏を月氏の大部分とすると、一部分の小月氏が羌族と同族のようで混住・同化していること、この羌族が当時の秦の人々と同族で、そして秦や後の魏の人々は縄文人と同族の殷人の末裔でもあった。(注:ここでの同族とはY染色体ハプログループDを共有して、言語・気性・価値観・習俗・文化がそんなに違わないことである)また、邪馬台国の女王卑弥呼が
九州に渡来して縄文人と同居し弥生時代を開始し、紀元前400年ころから吉野ヶ里に入植した人々はミャオ族の祖先でした!彼らは日本に稲作をもたらしました!彼らは魚、獣何でも蛋白源にしてお米を食べる。自給自足の稲作弥生人でした。和服の原点、呉服は彼らの衣装でした!彼らは、山陰地方に渡来するヤマト政権につながる斉系弥生人の祖先チャン族(Y-DNA遺伝子D2系)と生存をかけて争った歴史を持つ、Y-DNA遺伝子O2bを持った民と確信している(参考)。また、呉越同舟で知られたライバルの越人(O2a)は現在の
ヤフー知恵袋に『遣唐使などがありましたが、唐(トウ)という字を「から」と読みますよね。どういう経緯で、こういう読みになったのか疑問です。』と言う質問があった。例えば、・唐芋(からいも、薩摩芋(さつまいも)、またはトウイモとも呼ばれ、熱帯アメリカの原産で日本には17世紀に伝わった)・唐揚げ(からあげ、江戸時代初期に中国から伝わった普茶料理にあった)・唐衣(からごろも・からぎぬ、万葉集にも出てくる唐の衣装や平安時代の十二単の上衣)・唐傘(からかさ、洋傘に対する和傘の総称。唐より舶来したもの
従来の縄文人はゴツゴツした顔で毛深く、弥生人はノッペリした顔とされている。これに対しDNA情報を元に縄文人女性を復元すると、何と現代の女性と変わらなかった。復元された縄文人女性の顔は落ち窪んだ目と隆起した眉骨を持っていた。この特徴は昭和30年代まで居たとされる山の民のサンカ、秦の始皇帝の兵馬俑から出土した人形、渡来人の上陸地と考えられる中国地方の典型の現代人(例えば木戸孝允などの山口県人)にも見いだすことが出来る。すなわち、縄文人から秦氏なと大陸からの渡来人、山の民のサンカ、そして現代人につな
渡来系氏族、秦氏は朝鮮半島の任那から渡来してきたことは、史実として認められているところであるが、ルーツは中国、朝鮮の何処かであろと通説では考えられていた。しかし、男性のY染色体のD2系統に着目すると日本人は元々、アジアを飛び越えて地中海、中東の人々に近い。縄文時代以前からユーラシア大陸の北のモンゴル経由、南回りで日本に渡来し、またはD系統以外の民族に駆逐され、中国大陸や朝鮮半島の他の民族と混血・定住することはほとんど無かった。弥生時代、O2b系統のY染色体を持った渡来系弥生人が西日本を中心に定
北魏の存在した時期は西暦の386年から534年で、日本では古墳時代から飛鳥時代に重なり、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式であり、北魏の国家体制は日本古代の朝廷の模範とされ、「北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる」とのことである。実は北魏は鮮卑族の国であり、柔然、契丹とも同族の間柄であり、縄文人と同族の殷人の末裔であり、原日本語を喋っていた(参考)。また、三国時代の魏(邪馬台国の女王卑弥呼が朝貢した国、参考)、後の隋・唐の支配者