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秦の始皇帝の咸陽宮の近くの遺跡から、銅剣の他に、まだ飲めそうなお酒が入っていた青銅の壺が見つかった。そのお酒は透明な液体で、見た感じでは日本酒のルーツの一つかも知れない。赤印:西咸新区空港新城岩村、赤丸:現在の咸陽市と西安市赤丸:現在の咸陽市と西安市参考①中国で2000年余り前の古酒見つかるAFPBB(2018年4月13日7:04発信地:中国、参考)西咸新区空港新城岩村にある秦人の墓で発掘された約300ミリの酒(2018年3月16日撮影)。(c)新華社西咸新区空港新
徳島文理大学教授の八幡和郎氏は、今の朝鮮・韓国の歴史は嘘で塗り固められている!と指摘している。まさにその通りである。しかしながら、彼は古代の朝鮮半島の百済、高句麗、新羅、途中で亡びて新羅に吸収された任那などの国々が、朝鮮・韓国の祖先なのか否か、高句麗は中国の属国か否か、そして任那は古代日本の領土か否かについて確固とした定見を持っていない。当時の朝鮮半島は日本語が喋られる日本人と同族の国々の領土であり、現在の朝鮮・韓国人とは一切関係無いことを理解して欲しいものである。参考①韓国の歴史改竄
旧約聖書『創世記』11章05-07節に(参考)よると、主は降って来て、人の子らが建てた、(バベルの)塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」すなわち、人々はノアの子孫で、箱舟の到着したアララト山の麓のバベルで初めは同じ言語を喋っていたが、主の怒りをかってバラバラの言語に分か
アフリカを最初に出た現生人類とは、Y染色体ハプログループC、ついでDを持つ人々であった。実は、彼らこそ日本人のルーツであった。彼らは一目散に太陽の上がる方向に向かい、無理して海を渡って日本列島に上陸した。さらに、海を渡って太平洋の島々やアメリカ大陸にまで到達した。それは、新たに生まれる現生人類に押し出されるように、食料を求めて移動したと考えていた。でも、それだけでは無さそうだ。そうであるなら、西方のヨーロッパ大陸に向かって、イギリス本島に真っ先に行っても良さそうである。実際、ヨーロッパには既に
出雲方言に東北方言と音韻の類似する面があることは、ブーズー弁が共通していることなどで、すでに良く知られた事実である。また、ある書籍によると、「関東在住の出雲出身者及び出雲在住の出雲人のDNA解析の結果、出雲人のDNAと東北人のDNAとが非常に近い位置にあるという驚くべき結果」が得られているとか!そして、出雲方言は縄文語を正当に受け継いでいる本流の言語であろうと主張している。実は、出雲を含む山陰地方は、弥生時代後期、縄文人と同族の殷人の末裔の国の斉や秦からの渡来人の上陸地であった。彼らは出雲地方
韓国・朝鮮人やアイヌ民族の母親の親元のルーツが古代の靺鞨人であった。この靺鞨人は、後に女真族、満洲族となり、ついに清帝国を樹立した。しかし、この結果、漢民族化されて満洲語話者は消滅しかけている。朝鮮語やアイヌ語の研究には満洲語の保存と研究が大切である。注1現在の中国語の標準語である普通話は、かつての北京官話から作られており、満州語の影響を受けている。その意味では、更に韓国・朝鮮語やアイヌ語にも関係があることになる。注2韓国・朝鮮は自らを小中華、中国を大中華と見做し、日本を見下している
北海道に住むアイヌ民族は本州以南の和人(大和民族)と同族なのか否か?彼らの直接の祖先は縄文人であろうとと考えられており、Y染色体ハプログループDは87%程度と和人より濃厚である。男系男子のルーツは和人と同族で縄文人につながると断言出来る。それにも関わらず、言語は互いに孤立した言語とされ、つながりがない。津軽海峡が自然環境の境界(ブラキストン線)となり、食料の違いが交流を阻んで言語・文化の断絶を生んだのであろう。ところで、日本語・朝鮮語・アイヌ語は相互に孤立しているとされているが、朝鮮語がアイ
戦前の鹿児島県出身の外務大臣の東郷茂徳は、太平洋戦争の開戦時と終戦時に外相を務めたとして、A級戦犯にされて巣鴨プリズンで獄死した。彼の先祖は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した薩摩の島津公が連れ帰った高麗茶碗の陶工であった。歴史をよく知らない我々は、朝鮮半島に住んだ人達は一絡げに朝鮮人と呼んで偏見の目で見てしまう。当時の朝鮮半島には、李氏朝鮮と呼ばれ現代韓国・朝鮮人の先祖が支配していたが、差別された賎民も多く居住していた。高麗茶碗の陶工達は、この差別された賎民としての白丁であった。実は、彼らはの
後三国時代(後高句麗、後百済、新羅)が終わって、高麗が建国された。この高麗は高句麗の遺臣が建国した国であった。が、しかし、大部分はかつての新羅人であり、後期になる程、新羅語になっていった。高麗は一時、元帝国に占領されたが再び独立した。この後に革命が起きて、李氏朝鮮となった。この革命で支配層の白丁は最下層の賎民に落とされてしまい、かつての賎民が支配層となった。このかつての賎民とは、渤海国あたりに居住した靺鞨人の末裔で、朝鮮半島にも想像以上に流入していたようだ。彼らの言語が現在の朝鮮語であり、文
記紀では、応神天皇の時代に百済の王仁が論語と千字文を日本にもたらしたとされており、本格的な漢字文化の伝来とされている。この時、文字を持たなかった日本文化に漢字・漢文が流入し、漢字に音読みと訓読みを与え、漢文訓読法と言う文法が発明されたと定説になっている。しかし、実は漢字・漢文・漢文訓読法は殷王朝時代に既に作られた。そして、日本や漢字文化圏にもたらされたはずである。例えば、日本語と同じ文法構造を持つと思われる朝鮮語では、高麗時代までは漢文訓読法があったようで、三国史記や三国遺事などが漢文で書かれ
『古事記』は日本の古語を書き記すために崩れた漢文体(変格漢文、日本語語順)を用い、国内向けの文章で書かれています。これに対し、『日本書紀』は中国の唐を意識してか、本格的な歴史書を作ろうという意図か、一応は正格漢文で書かれている。しかし、残念なことに、厳密には日本書紀でさえ変格漢文で書かれた部分が半分近くあり、また、和習(日本語的な癖)のある著者が全体をまとめている。また、歌謡や訓注を書くときは万葉仮名(古事記は呉音、日本書紀は漢音)を使っていた。すなわち、古事記と日本書紀はともに国内向け、
京都産業大学名誉教授森博達先生によると、日本書紀の著者が少なくとも四人と全体の加筆者が一人いるそうだ。唐代の中国大陸出身で漢音の正格漢文を扱える中国人が二人、和音(呉音)で和習(日本的癖や誤用)がある変格漢文を書く朝鮮半島からの移民が一人、そして和習の少ないまあまあの漢文を扱う一人と加筆に和習をもった一人が地元の日本人であるらしい。実は、皆んな日本語を読み書き話すという意味でのネーティブの日本人であり、現在の漢民族や朝鮮民族の祖先では無かった。ここで言う中国人とは唐の支配者層の鮮卑族で、漢
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が選定した浄土教の先輩高僧の七人を七高僧と呼んでいる。この七高僧のお一人に善導大師がおられ、中国の唐の時代の長安で浄土教を大成された。元々、中国・日本などで普及した大乗仏教そのものが元来の仏教(小乗仏教)にキリスト教などの宗教を取り入れたもので、浄土教の本尊の阿弥陀如来は聖母マリアがモデルとの説がある。この上に更に、親鸞聖人の浄土真宗につながる教えが善導大師の浄土教であった。善導大師が研究に励まれた唐の長安には、ちょうど景教(ネストリウス派キリスト教)が流行っており、
中国を経由して日本に入って来た仏教は大乗仏教であるが、お釈迦様の教えのとおりに悟りの境地に至る本来の仏教、すなわち小乗仏教とは異なり、キリスト教など他宗教の教えまで包含したものになっていると言う。例えば、大乗仏教で登場する大日如来とか阿弥陀如来とかはキリスト教の神様のような役割を持っている。遣唐使として入唐した空海は現地で大乗仏教の一つ真言密教を学んだが、当時、唐で流行っていた景教(ネストリウス派キリスト教)の教えをも同時に学んで帰国して、高野山の真言宗を開いたようだ。また、浄土教の本尊の
いろはにほへと、、、の「いろは歌」の作者がよく分かっていない。空海の作ともされているが、定説(wiki)では、それよりも後の10世紀末から11世紀中葉までの間とされている。しかし、現存最古の資料の『金光明最勝王経音義』では万葉仮名で書かれており、もっと古い万葉時代(8世紀頃)に書かれたと主張する者もいる。ただし、これについても上代日本語特殊仮名遣いになっていない点で疑問符がつく。平仮名や片仮名は定説では遣唐使終了後の国風文化の中で出来たとされ、平仮名は遣唐使であった空海の作、片仮名は同じく
かなり前からヘブライ語やヘブライ文字に対し、日本語のヤマト言葉(外来語由来の音読みでは無い訓読み)や片仮名に類似したものがあることは指摘されて、多くの証拠が出されている。これに対し、大陸からの渡来人がユダヤ教徒であったとの日ユ同祖論が提案されている。その他、アジア全域の国々の言語の一部に日本語との関連性が指摘され、日本語は色んな地域からの渡来人の言葉が入り混じった混淆言語であろうとの説が従来からあった。さらに、古代インドのサンスクリット語にも日本語のヤマト言葉とよく似た意味と発音の言葉がある
中国の四川省の少数民族にチャン族やイ族などがいる。彼らは日本人男性と同じY染色体ハプログループDを持ち、日本人とよく似た容姿であり、共に日本語に近い言葉を喋っている(参考)。そして、彼らのルーツの羌族は東アジア最古の民族とされ、中国史に名前を残しているが、彼らの末裔の一つにタングートがあり、西夏を建国した。この西夏の文字と言語は相当研究されているようだ。ロシア科学アカデミーに所蔵されている西夏語仏典の日本語訳の一例を見ると、日本語でも自然に翻訳・理解できた。西夏語はチベット・ビルマ語派とされ
北魏の存在した時期は西暦の386年から534年で、日本では古墳時代から飛鳥時代に重なり、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式であり、北魏の国家体制は日本古代の朝廷の模範とされ、「北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる」とのことである。実は北魏は鮮卑族の国であり、柔然、契丹とも同族の間柄であり、縄文人と同族の殷人の末裔であり、原日本語を喋っていた(参考)。また、三国時代の魏(邪馬台国の女王卑弥呼が朝貢した国、参考)、後の隋・唐の支配者
古代の契丹人の歴史と文化を探る研究が進められているが、困難に直面しているようだ。ある誠実な研究者は、『契丹人の歴史と文化を探るのに、現時点で依拠しうるのは、10世紀中葉から12世紀前半という歴史的時期に契丹大字と契丹小字で書写された各種の遺物である。これらの遺物は数量・内容ともに非常に豊富であり、漢文史料の限界を超えて、契丹文明の全貌およびその内部に具有された多彩で活力のある隣接文明の要素を明らかにしつつある』、『現在までに発見されている契丹文墓誌の一部には漢文墓誌が併存している。ただし、漢文
中国の三国時代の後、晋(西晋)を経て、その後に東晋と五胡十六国の時代となる。この内、鮮卑の前燕、後燕、南燕、南涼、西秦、氐の成漢、前秦、後涼、そして羌の後秦は縄文人と同族の殷人の末裔で原日本語を喋っていたようだ。参考①五胡十六国時代の国々の言語について(wikiより)西晋時代の北方遊牧民族の領域五胡十六国時代は、304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏
日本書記の第14代「仲哀天皇」の第8年に弓月国の巧満王が日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。中華人民共和国の新疆ウイグル自治区のイリ・カザフの地域に秦氏の王、弓月の君にゆかりの弓月城が現在もある。さ
下関市の北浦海岸沿いに住む生粋の山口人ですが、「ご飯を盛り付けること」を「ご飯を入れる」と言って、「よそう」とも「つぐ」とも言いませんでした。ただし、酒は「つぐ」と言います。「よそう」は聞いたこともありません。山口県では「よそう」や「つぐ」と言う人が居るとすると、「入れる」を含めて三種類の言葉が混在しているようです。下関は北前船の中継地であり、全国流通網の結節点であった為、日本中の方言が混在したのかも知れない。また、山口県の北浦海岸は古代の渡来人の上陸地であり、渡来人の言葉が混在した可能性も
万葉集や古今集に収録された東歌(あずまうた、東人の歌、あずまびとのうた)を都人(みやこびと)の歌と比較すると、方言や俗語はあっても、大きな違いは無いようだ。万葉集や古今集の研究者は、当時の日本語とは異なる外国語の混入を指摘していない。記紀万葉は百済人が書いたと主張する説があるが、百済語と東言葉との相違を指摘出来たのであろうか?日本語の起源に関して複数の外来言語が混淆したと主張する説が有るが、そうであれば、東歌との比較から外来言語を取り出せる可能性があるが、古代の漢民族や朝鮮民族の言葉からの借用
分子人類学者の篠田謙一は、縄文人は日本列島内に閉じ込められていた訳でなく、朝鮮半島南部にも居たことを明らかにしている。実は3600年前頃からの中国大陸の殷は縄文人の同族が樹立した国であった。例えば、タカラ貝や漆器の文化を共有していたし、天皇の亀卜祭祀の源流でもあった(参考)。そして、時代が降って春秋戦国時代末期の秦、楚、宋、斉などが殷人の末裔の国であったが、朝鮮半島の三国時代では、例えば高句麗・百済は殷人の末裔の国であった(参考)。雑談1遣隋使・遣唐使が往復していた頃、遷都を繰り返して都
春秋戦国時代の斉の首都、臨淄に思想家が集まり、各家の思想を互いに切磋琢磨して確立して行った。特に著名なのが、儒教の孔子の他、孟子、老子、、、などである。彼らの多くは斉の出身であった。また、孔子は隣国の魯の出身であったが、斉の民と同じく、漢字を発明した殷人の末裔であった。実は殷人は縄文人と同族であり原日本語を喋っていたのであった。すなわち、中華文明と言われる文明のほとんどは原日本語を喋っていた人々によって創られたことになる。しかし、漢民族が樹立した漢帝国では、原日本語を喋っていた殷人の末裔の
(世界史の窓より、参考)古代の中央アジア、タリム盆地より西に大月氏という国があった。この国の人々が、どうも縄文人と同族で原日本語を喋っていたようだ。その理由として、大月氏を月氏の大部分とすると、一部分の小月氏が羌族と同族のようで混住・同化していること、この羌族が当時の秦の人々と同族で、そして秦や後の魏の人々は縄文人と同族の殷人の末裔でもあった。(注:ここでの同族とはY染色体ハプログループDを共有して、言語・気性・価値観・習俗・文化がそんなに違わないことである)また、邪馬台国の女王卑弥呼が
魏志東夷伝に日本「倭」が含まれているのは、ひとまとまりに東夷諸国であり、皆んな古代の日本語を喋っていたからである。もちろん、日本列島に元々住んでいた縄文人も同族で、どうにか言葉が通じていたのであった。国の違いは文化や方言の些細な差異に過ぎなかったのである。さらに、鮮卑や契丹など古代の東アジア北部の遊牧民も古代の日本語を喋り、現代の西アジアのトルコ語などにも影響が残っていると考えられる。例外は北東アジアの隅の粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨、、と続く民族で、特異な言語、すなわち古代の朝鮮語を喋っていた。
白村江の戦いの後、百済・高句麗が滅亡し、統一新羅が出来た頃、北方に渤海国が建国された。この渤海国は高句麗の遺臣の支配者と現地の靺鞨の民から成り立っていた。靺鞨は現代韓国・朝鮮人のルーツの一つであり靺鞨語(古代の朝鮮語)を喋っていたと考えられる。これに対し、日本国と渤海国の支配者達は共に縄文人の末裔であり、当時の原日本語を喋っていたと考えられる。しかし、被支配者である靺鞨人が主流であり、当初の公用語は靺鞨語、後に漢語(唐時代の漢民族の言葉では無い)になったとされている。支配者は高句麗の遺臣で
悪魔の門はロシアウラジオストクの上方にあるアムール川流域の沿海地方で確認されている洞窟である。この洞窟は新石器時代の遺跡であり、7体の人骨が洞窟の中で発見され、その内の2体が紀元前5726年-紀元前5622年という結果が得られた。1体の成人男性のY染色体ハプログループについては、北東アジアが起源と思われるハプログループC2-M217に属し、更に、現在のカザフ、モンゴル、シベリア先住民、北アメリカ先住民に多いC2b-F6273/Y6704/Y6708という一派に属しているという結果が得られた。す
日本語の起源は古代朝鮮語であるとか、特に百済語であるとの説があり、多くの証拠を提示されている。少なくない研究者は『「百済王朝の亡命者は王朝語」を大和朝廷にもたらし、それらの言葉は「大和王朝の宮廷語」になり、「万葉歌」は主としてそれらの言葉で書かれたのである。「万葉歌」に使われている言葉のほとんどは、「現在の大和言葉」に含まれているので、大和言葉は「百済から持ち込まれた王朝語」を水源としていることになる』と、考えている。万葉集の歌は高等学校などて教えられるが、現代日本語を喋る我々でも、どうにか