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2026年7月24日祇園祭後祭へ『2026祇園祭後祭⑦又旅社と八坂神社⛩️(祇園感神院)に御魂を還す儀式』2026年7月24日祇園祭後祭の還幸祭で中御座の神輿が神泉苑へ来てお経のお祓い(?)をされてから神輿が又旅社⛩️へ向かうのを追っていく。『2026祇園…ameblo.jp前回のブログに書きました駒形稚児の生き神様について祇園祭に関係する綾戸國中神社⛩️知らなかったので、調べてみました。下↓の地図の中央⭕️は神泉苑や又旅社⛩️があるとこ
ご訪問ありがとうございますこの時代、新羅がますます力をつけて、朝鮮半島はいわゆる三国鼎立の時代になります。また大陸には隋が出現し、南北朝時代のパワーバランスは大きく変化していきます。では日本はというと、崇峻天皇の時から「任那復興」のための派兵が行われるようになり、それは崇峻天皇弑逆を経て推古朝になっても続いていきます。今回はその任那に、実在が確認できる初の「皇族将軍」来目クメノ皇子の出征に絡めて、その背景を検証していきたいと思いますが、この辺りは最近、新しい学説が出てきていて、論文の引用
新羅王の出土品として著名な金冠が実際に王冠だったことを示す証拠が、韓国で唱えられている。ドラマで王が金冠として頭に被っていても、学界ではデスマスクか副葬品というのが定説だ。啓明大学のシム・ヒョンチョル教授は慶州の瑞鳳塚墓室で1926年に見つかった金冠などからつくられてきたデスマスク説に反論。新羅の他の墓から見つかる金冠の配置をみると、デスマスクだったら耳飾りが金冠の内部に置かれるだろうが、実際には金銅製を含むと20以上ある金冠の墓室で耳飾りは冠帯輪の下部に置かれていたと主張。埋葬後に土砂が
※この「サイズ」で書かれている文章はこれまでのまとめです。下にスクロール頂くと文字サイズ変わります。■これまでも本ブログで深く掘り下げてきましたが、記紀(古事記・日本書紀)に描かれる「国譲り」の物語は、決して遠い神話の世界に完結する架空の出来事ではありません。それは、日本の国家体制を決定づけた「白村江(はくすきのえ)の戦い」と「壬申(じんしん)の乱」という、地続きの動乱期に実際に起こったリアルな歴史的真実を「隠蔽」し、同時に「反映」したものなのです。実は、新羅・高句麗・百済、そして日本(ヤ
前回は、天ノ日矛が倭国(但馬)に定住した理由について、但馬国が先祖「脱解(トヘ)」の故国(故郷)だったからではないか?天ノ日矛の先祖「脱解」は「倭人」であり、天ノ日矛もその血を引いているのではないか?という説明でした。今回は、新羅国が建国されるまでの経緯と「脱解」に関する生野先生の考察です。<新羅建国の時期>第4代新羅王の脱解は、卑弥呼の頃の王で、その子孫が天ノ日矛ではないか?※生野先生はまだ憶測の域だがと前置きして、4世紀初頭に神武が全国平定したことで、2世紀末の「倭国大乱」
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。たまたまYOUTUBEの歴史系動画を見ていて、刀伊の入寇(1019年)は満洲東部にあった渤海国が契丹族の遼に滅ぼされ統制がきかなくなった現地の女真民族が、シナ本土との交易路を遼に断たれたために破れかぶれになって起こしたものだとありました。海東の盛国と称えられ日本とも通交のあった渤海国が滅亡したのは
JamesSetouchi2026.5.27古事記12第14代仲哀天皇(その2)神功皇后・『古事記』では仲哀天皇の章は短く、その中に神功皇后に関する記述がかなり多くを占めている。・『日本書紀』では仲哀天皇とは別に、神功皇后だけで章立てがあり、長く詳細な記述がある。・研究者によれば、仲哀天皇も神功皇后も、後世の創作だそうだ。つまり実在しない。しかし、神功皇后は、戦前は小学校教科書などでも教えられた。その年代から上の国民皆が知っている存在だ。全国各地に神功皇后ゆかりと伝承され
Ⅰ.白村江の戦いと倭国への影響【白村江の戦いの概要】天智紀二年(663)三月条に、「前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅。」とあるように、前・中・後の三船団に分けて2万7千人を新羅に派遣している。この時派遣されたうちのすべてかあるいは一部が八月の白村江戦に赴いていると考えられる。八月二十七日に「倭軍の先人の船団と唐の船団が戦い倭軍敗退。」翌二十八日は、「倭軍と百済軍が先陣を争って船団
OPENING!生きるってことは~一夜限りのワンナイトショー~♪矢のように走る~時のはざまで踊ることさ~♬今夜おまえはヒロイン~もう泣かないで~♫おばんかだです古代日本と日本イスラエル同祖論研究+∞へようこそ(^▽^)/はじまりはじまり~スサノオは何者なのか?もしかすると、スサノオは朝鮮半島の新羅で生まれた日本人ではないかと思い、新羅国について調べてみました。新羅王倭人説「朝鮮半島の新羅を日本人が建国した」という説は、日本のネット掲示板や一部の古代史ファンの間で時折話題に上
JamesSetouchi2026.5.26(火)古事記11第14代仲哀天皇神功皇后の夫。急死する。引用・参照した本を記号で示す。(読書会には『古事記』本文を持参。岩波文庫でもよいが注釈が多い方がよい。)I:岩波文庫『古事記』倉野憲司・校注。1963年。2007年改版。S:新潮古典集成『古事記』西宮一民・校注、1979年A:西郷信綱『古事記の世界』岩波新書、青版E23、1967年B:岩波文庫『日本書紀(二)』坂本太郎ほか校注、1994年(岩波古典体系新装版1993年
『街道をゆく』の「モンゴル紀行」を読みたくて、司馬遼太郎全集第47巻を借りた。「モンゴル紀行」の前に、「韓のくに紀行」が収められていたので、まずこれから読んだ。司馬が戦時中、関東軍へ送られるとき、そして終戦の直前に朝鮮経由で本国に帰るときに、貨車の窓から眺めみただけの韓国。司馬のこの国への関心は、ウラル・アルタイ語族を話していた民族の末裔である韓国と日本(倭)の歴史的に深い関係に根ざしている。1971年、司馬は釜山へ飛び、かつての加羅、新羅、百済を旅して、遠い昔の倭の痕跡に思いを巡らせる
※この「サイズ」で書かれている文章はこれまでのまとめです。下にスクロール頂くと文字サイズ変わります。■文明の運び手:エジプトから日本へ至る聖なる血脈東アジアの歴史の表舞台から消し去られた「真実の系譜」が、今、時を超えて蘇ります。饒速日命(ニギハヤヒノミコト)から天智天皇へと至る「日本旧王朝」の系譜。そして、かつて朝鮮半島で燦然たる栄華を誇った「百済王族」。一見すると、海を隔てた異なる歴史を歩んだように見える両者ですが、その根底には分かちがたい強固な「同祖(ひとつの血脈)」の事実が存在し
シンラ草彅やすとものうさぎとかめで紹介した館山市の宿。☆THESHINRA小高い丘にあるロケーション。13歳未満の宿泊は出来ない。客室はプレステージ棟とSHINRA別邸ハイダーウェイがありルームタイプはセミダブルで全室オーシャンビューで温泉露天風呂付。ハイダーウェイにはプライベートサウナも付いている。全客室冷蔵庫内フリードリンク。お風呂は大浴場があり天気の良い日は富士山を眺めることができる。温泉大浴場の湯上がり処には
ご訪問ありがとうございます今回ぐらいからいわゆる「崇仏・廃仏戦争」の「丁未テイビの乱」に向けて、いろんなエピソードが語られるようになってきます。つまり倭国でもようやく「記録」というものが生まれたのではないかと思われます。…ということは「記録」を始めたのは蘇我氏が「丁未の乱」の正当性を主張するために書き始めたのでは?と思われます。蘇我氏の傘下には渡来系氏族がいたので、他の国のことも耳にし、また渡来系氏族を史フヒトとして抱えるのも容易であったからです。それでは敏達朝の動きを順次見ていきま
ご訪問ありがとうございます敏達天皇の即位後はなんとなく平和に過ぎていきます(^^)それでいろんな記事があるので章立てが多いのですが各章短いのでよろしくです(^-^;目次財政政策と外交訳語田幸玉宮廣姫の薨御と新しい皇后外交関係池辺皇子目次を開く財政政策と外交2月1日(壬辰ミズノエタツノヒ)に、馬子宿禰大臣ウマコノスクネノオオオミは京師ミヤコへと帰り、(白猪)屯倉ミヤケのことを復命した。白猪屯倉は前年10月に馬子が遣わされて、増益のことを図っていたのですが、ようやく帰って
「外見」を超えた文明の遺伝子〜ヒクソスと漢民族を繋ぐOS〜これまで私は、ユダヤ、キリスト教、漢民族、そして新羅といった勢力が「ヒクソス」の末裔であるという仮説を綴ってきました。しかし、こう主張したところで、多くの第三者は「ヒクソスと東洋人の外見に繋がりを感じない」と違和感を抱くのが一般的でしょう。確かに、身体的特徴やDNAの直接的な繋がりは見えにくいかもしれません。しかし、その「統治手法」に目を向ければ、両者には驚くほどの共通点が存在します。ヒクソスと漢民族を結ぶ「失われた鎖(ロス
フォッ!フォッ!フォッ!・・・卯月廿日。。。新年度始まりもう~廿日かぁ・・・早過ぎますぞぉーってなわけでのランチわ久しぶりにココに来ましたぁー『松阪牛串焼き新羅名古屋店』名古屋市中村区名駅南1-8-16名古屋市中村区名駅南1-8-16鳥羽、津市大門、名駅と3店舗展開している、松阪牛内臓一頭買いのお店『大衆ホルモン焼肉創名古屋店』へうん?2Fの看板わ『創』なんですが、玄関扉わ『新羅』?先月末より、店舗名及び業態変更したとのこと。ランチも・松阪牛肉うど
記紀に封印された「根源的神」の解体日本の正史『古事記』『日本書紀』は、現体制(天武・持統・藤原ライン)の正当性を証明するために編纂されました。その過程で、旧王朝の偉大すぎる主(あるじ)は、その力を削ぐために「異国の王子(天之日矛)」と「土着の導き神(猿田彦)」という二つの断片に解体・隠蔽されたのです。この二柱の真の姿こそ、エジプトから東の果てへ文明を運んだ「植物神オシリス」の血を引く、旧王朝の王「カヤの皇子」でした。太陽と植物の民のネットワークエジプトから日本へ続く「オシリス信仰」旧王
今年(2026年)の4月5日から2泊3日で、また、島根県に行きましたわたし、島根県が大好きなんです山陰道が、ほぼ開通してきたので、移動時間が短縮されてきて有難いです。この日の一社目は、島根県大田市仁摩町の神楽岡八幡宮(かぐらおかはちまんぐう)でした石見国(いわみのくに)の式内社である国分寺霹靂神社(こくぶじびゃくらくじんじゃ)の論社が、境内に合祀されている神社です二社目は、とてもマニアックな神社で、大田市仁摩町大国の龍巌神社(りゅうがんじんじゃ)でしたそして、
ご訪問ありがとうございます前回ぐらいから「百済本記」に依らない、国内の記事らしきもの(おそらくは各氏族の言い伝え)が増えてきています。何かしら、成文化されたものが残っていくのか…それとも半世紀後の「国記」「天皇記」で、採択されていくのか…(50年前なら言い伝えもけっこう正確でしょうし)記事の内容も細かくなっているように思います。ただ「欽明天皇紀」の前半部が、ほぼほぼ聖明王の関連で、欽明天皇の影はめちゃくちゃ薄いwということを考えると、この頃はまだ国内の政治の記録も外交の記録も残ってお
「もうレビューは全部終わりました」と宣言しながら…何を今さらカレーにマサラ…S&Bロイヤルマサラ13g×5個Amazon(アマゾン)S&Bエスビー食品スパイスプレミアムマサラカレー中辛38gAmazon(アマゾン)最終話の新作劇「双塔伝説」と「阿斯達アサダル阿斯女アサニョの伝説」については結構調べていたんですが、舞台の描写を全くしなかったので、費やした時間が「もったいないなぁ…」と考えて、この番外で書き残そうと思った次第です。
福岡県糸島市櫻井神社二見ヶ浦夫婦岩で行われる、大注連縄掛祭に参加する予定です。案内状には夫婦岩《宇良宮》と書いてあります。これは、、、岡山県の桃太郎に出てくる鬼《温羅》にも繋がると思い、糸島と伊勢と岡山を調べてみました。福岡県糸島市と三重県伊勢市は(志摩)という地名と(豊玉姫)の伝承が共通しているだけでなく(許黄玉)も関係しています。筑豊と書いて《ちくほう》と読みます。《豊玉》とよたまは、《ほうぎょく》と読めるのです。豊玉姫は許黄玉である可能性が高いと考えます。福岡県糸島市志摩桜井
https://youtu.be/QUx4gtpCiEs?si=zVf7RLDsYx1b9y48-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.become,peopleofgodweareherefortheloveoftruthwintermayconquerusbutwestandstilluntilthespringco
唐の高宗は、文武王の弟の金仁問を新羅王に冊封した。金仁問は、651年に、真徳女王の命令で、初めて、唐に渡ってから、延べ、7度、22年間宿衛していた。金仁問は、高宗の百済遠征軍の副将として、蘇定方率いる、唐軍を先導し、661年からの高句麗遠征時には、高宗の命令を本国に伝えて、新羅軍を統率し、平壌への軍糧の補給に尽力したのである。金仁問は、再度入唐すると、666年の高宗の泰山での封禅の祭祀に供奉し、右驍衛大将軍を授けられた。668年に高宗が、李勣に高句麗討伐を再度命じると、新羅軍を
ご訪問ありがとうございます今回の箇所はいろんな出来事が集まっています。朝廷の記録というよりは、各氏族の伝承をもとにしている感じがするところです。目次馬飼首歌依の罪新羅の移住者紀男麻呂宿禰の出兵河辺臣瓊缶甘美媛の受難調吉士伊企儺大葉子の歌目次を開く馬飼首歌依の罪是の月(6月)にある人が馬飼首ウマカイノオビト歌依ウタヨリのことを誹謗中傷して「歌依の妻の逢臣オウノオミ讃岐サヌキの鞍クラの韉シタグラ(鞍の下の敷物)に違和感を感じ、よくよく見ると石姫皇后の御鞍でした。」と言っ
唐の李勣は、淵男生を先頭にして、高句麗に侵攻した。淵蓋蘇文の弟の淵浄土は、新羅に投降した。668年には。新羅が、唐軍に合流して、平壌の長安城を包囲した。1カ月間の包囲の後、同年9月21日、遂に、高句麗の宝蔵王は、降伏した。紀元前37年に、朱蒙の建国以来、705年間続いた、高句麗は、遂に滅亡したのである。文武王は、百済征討及び、高句麗征討戦に戦功の著しかった、伯父金庾信を遇するため、それまでの最高官位である、大角干の上に太大角干の位を設けて、任命した。また、全ての貴族に官位一
武烈王は、官位の低い、貴族を能力本位で、要職に任命して、旧来の中央貴族による、上大等制度と新興の執事部による、政治制度との競合を図り、王権の強化に努めた。後に、658年には、文忠を伊飡(2等官)に引き立てると、中侍には、王子の金文王を任命した。そして、660年、金剛が、死去すると、金庾信を上大等に任命したのである。655年、高句麗・百済の連合軍が、新羅に攻め入り、北部辺境の33城を奪われたため、武烈王は、唐に使者を送って、救援を求めた。唐の高宗は、新羅の求めに応じ、蘇定方達の武
ご訪問ありがとうございます。今回はついに任那滅亡です。目次新羅使の厚遇新羅使の冷遇任那滅亡欽明天皇の詔勅任那滅亡とは?目次を開く新羅使の厚遇21年(560)秋9月、新羅は彌至己知ミチコチ奈末ナマを派遣して貢物を献上した。饗=宴会をして、賜った物がいつもより過度であった。彌至己知は名前、奈末は新羅の官位17階のうちの第11階です。あまり高官ではありませんが、日本側はえらく歓待しました。百済が大変なことになったので、とりあえず朝貢してきたのなら安心だ~と思ったのか…どうな
金法敏は、紀元626年、金春秋及び、文明夫人の長男に生まれた。前述の通り、金法敏の母の文明夫人は、紀元532年に新羅に滅ぼされて、併合された、伽耶王家の血を引く、金庾信の妹である。金法敏の生まれたのは、新羅の第26大王、真平王の時代で、金春秋は、未だ、王位に就いておらず、金法敏は、王族の一人に過ぎなかった。新羅には、厳格な骨品制度が、存在し、王位に就けるのは、両親が、共に、新羅王家の血を引く、「聖骨」のみであった。金春秋の父は、第25代王の真智王の王子の金龍春で、母は、真平王の娘の
「父の武烈王の死後、その意志を継ぎ、唐と連合し、百済と高句麗を滅ぼすと、その後、唐の勢力を排除して、朝鮮半島の統一を実現した、新羅の王」人徳:93/統率力:95/決断力:94/政治力:100/行政力:95/軍事能力:90/武勇:83/知略:95/学識:88/天運:100=合計:933点紀元676年以前、現在の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国が、鼎立状態にあった。三国の内、現在の満州を含む、高句麗が、百済と新羅を圧倒していたが、紀元660年