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博物館・美術館好き整理収納アドバイザー・ショウボです。平日に休みをとり、東京国立博物館(略してトーハク)で中尊寺金色堂展と本阿弥光悦の大宇宙展を見てまいりました。さらに猫カフェにも・・・(遊び過ぎだろうという声が聞こえてきます)こんなレポートに興味を持つ人はいるんかいな?と思いつつ短くまとめます。中尊寺金色堂展トーハク本館で開催中(2024年1月23日〜4月14日)。ど迫力の大画面8K映像、模型、仏像のどれをとっても期待通りきらびやかで金色の世界でした。金色
石州侘びの文より「器物を愛し風情を好むは形を楽しむ数寄者也。心を楽しむ数寄者こそ誠の数寄者とは言うべけれ。たとへ千貫万貫の道具たりとも、炭斗瓢一つ程の数寄の本意は叶ふまじ」筆者「世をあげて道具を競い、見せ物化している現代世相の中で稽古を積むにつれ、侘数寄から遠のいて、道具が欲しくなると言う心情は、また止むを得ないものがあるのかもしれない。」「侘茶の不変の理念が潜んでいるこの自然な日常性の中へ、もう一度回帰することが今こそ茶道にとって最も必要なのではなかろうか」補足)この頃の茶道雑誌を読
p404(終章の付して)「箒庵に対して批判を向けたいと思います。箒庵は富者は富者、貧者は貧者、それぞれ身の程にあった茶の湯を楽しめと言うのですが、利休を回顧するまでも無く、貧者(侘数寄者)を救済する事を主目的として、利休は画期的な創意を思い付きました。その動機付けが創作茶室、創作茶道具の提案に結び付きました。しかし、箒庵は富者と貧者の茶の湯者がいる現実を知りながら20世紀ならではの創作茶道具を提案すると言う方向を探りませんでした。ここが残念でなりません。」中略「箒庵に限らず、鈍翁しか
日本教会史ジョアンロドリゲス著(徳川家忠の頃の著書)より茶会(この場合は当然“茶事”)に呼ばれた時の様子が書かれてるの概要を紹介します。第三十四章要約「数寄の家における茶への招待とその儀礼は特殊である」「10月(無論旧暦)ごろ、山中において保存し茶の効力をまし、その壺を開くこれを口切りと言う」「茶の家は狭くて、多くても四人までを招待する」「客人に短くて鄭重な手紙を送りその中で茶を一服差し上げたい、ご来臨の栄を賜るならば、我が身にとって大きな名誉であると述べ日
利休の茶会で氏郷が千鳥の香炉を見せて欲しいと所望した時、利休不機嫌になり、客の前に転がした。同席した細川幽斎機転で、利休の機嫌は直ったが今日の茶会が趣深く終わったのに何故必要の無い香炉の拝見を望んだのか?何事によらず興の過ぎるのは良くない。コレはアルアルですね!大寄せ茶会でも特に正客を差し置いて話し出し、自分の勝手な連想だけで他の人には全く関連がない様な話をし出す人がいます。そう言う人は大体において、道具重視の数寄者に多いです(苦笑)(利休の項でも同様に記載)
『宝塚と「経世済民の男『小林一三』」』シンクロしている。今月のはじめから始まったテレビ番組NHK放送90年ドラマ経世済民の男「小林一三」の後編の録画を見ていると、不動産屋の男の子から…ameblo.jp逸翁美術館、学芸員の方の話。テーマ「小林一三と阪急百貨店」数年前のNHKのドラマ、「経世済民の男〜小林一三」を見たのが役立った。このセミナーのあった、マグノリアホール…冷房が効き過ぎて、展覧会のほうは、すっ飛ばすことにした。😆…阪急電車に乗ると…↓…パチパチ
オークラ受注会の帰りはお友達と念願の三溪園へ。生糸貿易により財を成した実業家、原三溪が1906年公開。前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する作品が園内で生まれたとか。国宝〈孔雀明王像〉をはじめコレクターとして、数寄者として名をはせ、園内でも収集品とご本人の作品を観ることができます。53000平米とまさかの広大な敷地に時間がなく駆け足で見ましたが桜の時期にゆっくり来たいなあ。次回は桜満開の@ホテル椿山荘スイートルーム。4月3日(
すきしゃには、二通りの書き方があります。数寄者と数奇者です。これはどっちがどうという違いはなく、同じ意味で使われます。元々は、「すきもの」と読まれていましたが、「すきもの」は好色家の意味として定着し、「すきしゃ」と読まれるようになっていったと思われます。この数寄者というのは「風流人。特に茶の湯を解す人」とされますが、これは茶の湯の中で数寄者が目立つ存在であったことから茶の湯界隈の代名詞となったものと考えられます。数寄者の定義については、当ブログで何度も取り上げておりますので、今
名古屋の木曜会は昭和23年から続く、流派を超えてお茶を愉しむ月釜です。元々は浄念寺七日会、その後六日会へと改称し熱田神宮茶室などで開催されていましたが、平成27年度からは「木曜会」と改称し、毎月第一木曜日(第二木曜の月もあります)名古屋市北区上飯田の志ら玉を会場にどなたさまでも予約なしでご参加可能(初釜は要予約)月釜と言っても大変レベルの高いお道具で気軽に一服いただけます。11月の担当は臥雲庵長谷川如隠師匠今週、今週ですよ2回目の懸釜で、亭主点前の師匠、さすがに後半は足
先日名残の茶事に参席させて戴きました表千家さんのお茶事でしたので多少違うところがあり色々質問させて戴き面白かったですまた近代数寄者をテーマにされたお茶事で沢山の方々の器を使ってくださりお勉強にもなりましたコロナ対策で広間のお茶事でしたが小間もあるようなのでコロナが収まったらそちらでのお茶事に伺いいたいですね
茶道教室、裕徳庵です先日、茶道具商「垣茂」さんによる茶道具の勉強会に行ってきました一つの会記を見ながらどのようなテーマでどのような道具組をしたのか解説してくださいました歴史や文化や高僧や数寄者やらいろいろ出てきて「皆様、ご存じだと思いますが・・・」と言われても私は知りませんが何か?ほんとに知らないことばかりで、諸先輩方に聞いたら「それ、ネットで調べるとでてくるよ」と言われる始末ネットがある時代で良かったです
おばん今週末は参考文献で読書の嵐こんなにたくさん借りてきたよ↓↓↓と言ってもこれ全部まじめに読むわけじゃないのだ。課題からレポートのテーマを決めて、そのテーマによってこの中から抜粋したものを読むのだ。(一応全部ペラペラはするけどね)見ての通り、お茶関係ですな。茶道とか茶器の良さとかよく分からんけど、、、お抹茶は好きなり久しぶりに京都行きたいなぁ大学の体験入学以来、一回も行けてない。毎年必ず一回は遊びに行ってたのになふぅなんだか最近、疲れやすいというか。ストレス耐性
2年ぶりの我が家の初釜、どうやら無事に終わりました。密を避けるという事で、一度にやらずに、回数を多くし、小人数の席で。宴席もなしで、点心はお持ち帰りも出来る様にと、すっかり様変わり。それでも、やれただけ、いい方なのでしょうか。濃茶席は、下のような床飾り。今年は、柳も手に入らず、椿も咲かず、青竹花入に松と梅を挿して松竹梅のつもり、根じめは赤と黄色の千両です。去年は、初釜中止で、誰一人客もない中、柳の輪飾をしたままだったと、去年のブログを見て思い出しているところです。今年の軸は、野崎幻
おふく@神宮道皆様こんにちは本日もお読みいただきありがとうございます。他の記事を優先して投稿しているうちに会期が終了してしまった💦京都国立博物館での「畠山記念館の名品」展1ヶ月以上前になりますが、鑑賞して参りました。畠山記念館は東京の白金台にあります。荏原製作所創業者である畠山一清(即翁)(1881−1974)が、仕事の傍ら長年茶の湯と能楽をたしなみ、50年かけて蒐集した美術品を所蔵・展示しています。(現在は改築のため閉館中)畠山記念館には何度か足を運んだこ
こんにちは。週末は金沢旅行中で。魯山人が、北陸一の茶会の逸材、国賓、数寄者と称した方が創業した一客一亭の料亭、「山の尾」でランチいただきました。盃に入れられたお料理(胡桃豆腐、鴨の治部煮、秋刀魚の有馬煮、フグの煮凝り、フグの唐揚げ、蟹と金時草の酢の物、栗とかぼちゃ、、、)美しくて、香箱蟹のランチ、鰻のランチ、両方ともとんでもなく美味でした〜❤️❤️❤️ごはん三膳食べてしまった〜!😆螺鈿の椅子やテーブル、屏風の、調度品も素敵でした〜❣️
コロナが小康状態の今久しぶりに関東の友人と会うことになりました彼女の生まれ故郷小田原で待ち合わせです箱根の山が見えてきました!小田原駅西口で待ち合わせ駅前には北条早雲さまの銅像があります小田原といえば小田原城かまぼこ北条早雲くらいしか知識がありません今日は彼女がどんな小田原を見せてくれるのかすごく楽しみです(全部おまかせです)時間になって車の窓を叩いた彼女は元気そうで着物姿!早速助手席に乗り込んでもらいました「本日のコースでござ
以前こんなブログを書いてお茶室に行きたいと思いながら、もう秋になりました。そんななか、小田原図書館でこんな自費出版本を見かけました。「野崎幻庵と小田原」菜穂女が仕えていた近代小田原三茶人の一人、野崎幻庵。これはその幻庵自筆の書や自作の茶道具がおさめられた図録です。近隣の人を招いて毎日のように茶会を催したという幻庵さん。この本によると小田原の女性たちは、連日の茶会に赴くことを「野崎まいり」と称し、そんな女性たちの集まり「幻庵会」も生まれたとか。野崎まいりのみやげは幻庵自作の茶器だった
11月21日(日)まで福岡市美術館で開かれている没後50年電力王・松永安左エ門の茶を見てきました。実は没後30年に特別展が開かれたそうでその時は「松永耳庵コレクション展」だったので、ひたすらモノがドーン!という王道のコレクション展示だったそうです。そこで今回は、耳庵さんの福岡時代の功績やら、茶会エピソードを交えて色んな視点から紹介するというコンセプト先月関連の講演会もあったので聞いてみると耳庵さんはお茶会開催回数がダントツ多く戦後も100回以上?!開いたそうです。
前回の続きですが、野崎幻庵は、何故こんなにまで川部宗無宗匠の茶を貶したのでしょう。いくら当日頭痛がひどかったといっても、八つ当たりで書いたとしても酷すぎます。新聞に載せる記事は、宗無本人も読むのは分かりきっているので、これは確信犯と言えます。川部宗無は、この一年後に死にますが、さぞ憤慨したのではないでしょうか。そもそも何故、宗匠の茶は興趣のある筈もないと、参加前に判断するのか?どうも幻庵は他の宗匠の茶事にも参加した様子はない、あるとすれば、ごく初心の頃でしょうが、可能性は低いと思います。幻
前回の続きですが、野崎幻庵の川部宗無宗匠の茶会への評価は、どんどん冷たくなります。床飾りが江月和尚の「咲擲」ニ大字、新席開きらしく下に白木の台に熨斗を飾り、古銅の霊芝を押さえにし、達磨堂今戸焼の風炉を荒目板に載せ、釜は道仁作面取肩衝ということだけ書き、すぐ、「一同着座するや、庵主新席披露の挨拶の後、懐石を饗せしが、その献立左の如し」と、あっさりと書き、懐石の内容を書いた後、通常、美味かったとか、この品が珍しかったとか、少しは触れるのjですが、それもなく、すぐ「食事終って炭点前あり、使用の器
前回の続きですが、野崎幻庵は「茶会漫録」を明治38年に自分の主宰する中外日報紙上に連載を始めます。それから7年後の明治45年より、順々にまとめて単行本として発行し出します。その本の序文で、批評をするというのではない、ただ見聞したことを備忘録的に記すだけだ、と書いていますが、実際には、結構、批評(褒めるにせよ貶すにせよ)的な文を残しています。貶すときは、割とはっきり書いてしまうところが、ユーモアを交える高橋箒庵の記事と違うところです。少し例を挙げれば、越沢宗見(金沢の旧家出身の茶人で、東京の
前にも書きましたが、野崎幻庵の「茶会漫録」は、高橋箒庵の「東都茶会記」などと並んで、近代茶の湯の重要資料ですが、私は箒庵のものは殆ど読んだものの、「茶会漫録」は、第一巻だけしか読んでいませんでした。家にそれしかなく、他は入手が困難だったからです。国立国会図書館がデジタル化してくれたお蔭で、この夏、6〜12巻までは、読むことが出来ました。2〜5巻は準備中とのことで、いずれ読めればと願っています。さて、第一巻を読んだ時は、それほど感じませんでしたが、今度読んでみて、高橋箒庵の物とは、大分テース
徒然なるままに、日頃、それほどは見ないネットオークションを眺めていたら、珍しいものが目に止まりました。一方堂焼の茶碗です。一方堂焼は、ご承知のように、京都の豪商、角倉家のお庭焼です。角倉家の先祖、角倉了以は、貿易などの豪商であるとともに水運事業の名人で、大堰川、高瀬川を自力で開削し、徳川幕府の命で大井川、天龍川、庄内川などの開削整備をしました。高瀬川の管理権は、明治維新まで角倉家の独占で、莫大な富と権威を誇ったものだそうです。その角倉の幕末の当主角倉玄寧が、天保年間(1830〜44)に、嵯
Facebook内にあるCubのグループ。そこで、グループのステッカーを作っていただいております。それが、こちら!『超傾奇者』傾奇者とは、数寄者がより趣向に傾いた方を指す言葉と理解しています。※数寄者とは、茶道が有名ですが、元は何らかの芸事に打ち込む方のこと。スーパー傾奇者とは、スーパーカブに傾倒している我々には正にピッタリ!デザインとともに、非常に気に入っております☺️
最近、ビンスキという言葉がある事を知った。貧乏数寄者の略だという。貧乏だけど数寄者という事らしい。貧乏で数寄者とは、私の事のようだが、私に言わせれば、少し違う。私も貧乏なのは変わりがないのだが、私の方が、もう少し志が高い。実は、私は貧乏臭い物や泥臭い物が大嫌い。民藝も嫌いだ。本当は、皆、上手な物を手に入れたいのに、理想を捨て、自分を誤魔化しているのだと思う。私など、当然、名品など買える訳がない。しかし、自分の目で見れば、あのヤフオクですら宝の山に見えて来る。ヤフオクに出品され
古陶磁鑑定美術館は、「日本の歴史や文化と共に生きる」をテーマに、古備前焼や日本の古陶磁の研究、調査、鑑定、評価、蒐集、保管、継承をサポートしている美術館です。日本の文化は、【独特の美】を追求してきたと言っても過言ではありません。それらは、「侘び」、「寂び」、「雅」といった言葉で表されています。また、それらの美を好む人たちを、「風流人」や「数寄者」といっていました。この「日本独自の美意識」こそ、これからの日本において大事になる価値観だと、私たちは考えているのです。暮らしの中に「侘び」
数寄者とは、一体何者のことでしょうか?数寄者とは、「ウィキペディア」では、『数寄者は芸道に執心な人物の俗称。「数奇者」と書く場合もある。現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に名物級の茶道具を所有する人物として用いられる。(引用)』と説明されています。こう聞くとやや堅苦しい感じがしてしまいますが、要するに、「数寄=好き」ということで、イメージ的には、骨董品蒐集家やコレクター、茶道具取集に力を注いでいる茶人等が分かりやすいでしょう。彼らは、使いもしない、下手をすれば壊れていて二度と使
渋沢栄一が、徳川慶喜らを招いた茶会は、たしか、飛鳥山の旧宅跡の掲示板にも書かれていて、割に有名な出来事ですが、実は、もう一つ、渋沢がここで行った茶会が記録にあります。明治32年11月12日正午に催した茶会で、招待された安田松翁が記録を残しています。客は松翁の他に、軍医総監男爵石黒忠悳、三井物産専務理事朝吹英二、日本郵船副社長加藤正義、順天堂病院の創始者で軍医でもある佐藤進です。石黒は况翁の名で知られる遠州流の茶人で、松翁と共に、和敬会の創立メンバーで世話役でした。朝吹は柴庵と号し、鈍翁の盟
今、東京北区王子の飛鳥山公園の一部になっている旧渋沢栄一邸宅跡、平成9年でしたか、渋沢史料館が建てられ、その管轄になっていると思いましたが、東京在住の方は、訪問された人も多いでしょう。第二次大戦の空襲で、渋沢の晩年に建った晩香廬と青淵文庫という、現在、重要文化財になっている建物以外、全て焼けてしまったのですが、その中に「無心庵」という茶室がありました。この飛鳥山の地は、明治12年に渋沢が別荘を建て、曖依村荘(あいいそんそう)と名付け、明治34年からは本宅として使用し、昭和6年に歿するまで住
NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」もいよいよ来週終りですが、前半がわりとゆっくり目の運びだったのに、後半は何か急ぎ足だったように思えます。本能寺の変の新解釈はともあれ、平蜘蛛の釜の扱いなどは新解釈でした。光秀と茶の湯に関しては、雑誌「淡交」(裏千家機関誌)が昨年二月号で特集していましたが、茶の湯史上、一番早く言及したのは、桑田忠親先生でしょう。それによれば、ドラマでは今井宗久が、光秀の茶の湯の相手をしていますが、実際は光秀の茶の湯の上で師匠であり、最も親しかったのは、堺の津田宗及(当ブログ昨