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【恋川春町(こいかわはるまち)】/岡山天音延享元年~寛政元年(1744-1789)狂歌師名を酒上不埒(さけのうえのふらち)。自分の酒癖🍶の悪さを自嘲してこの名前を付けたんでござんしょか...シャレ(お江戸風に云うと「地口」)で🤔🙄😊江戸時代中期の戯作者で、主に「恋川春町」という戯作者名の黄表紙作者として高名☝️主な著書📖に『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)👆写真は国立国会図書館蔵『金々先生榮花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)他にも...『化物大江山』(
皆様は2025年の大河ドラマ『べらぼう』を観ていらっしゃるでしょうか?わたくしは毎週観ております。吉原遊廓の華やかな様子とともに、初回では亡くなった遊女たちの埋葬シーンもあったりして、色々と考えさせられるドラマとなっていますよね。昨日ですが、そんな遊女たちの供養を行ってきた、三ノ輪のお寺さんへお参りさせていただきました。『栄法山清光院浄閑寺』(別称:投込寺)浄土宗寺院ご本尊阿弥陀如来創建明暦元年(1655)開山晴誉山門の木造部分は荒川区の最古の木造建造物に指定され
べらぼう~#1語り手の九郎助稲荷🦊さんの登場!徳川幕府300年間に約100回もの大火に見舞われたという江戸。三年に1度は焦土と化した江戸。その中でも江戸三大大火🔥の二つ目、目黒行人坂の火事(明和九年1772)から物語が始まった。行人坂大圓寺から出火し、麻布、日本橋、神田、本郷、浅草に延焼。まさかの九郎助稲荷背負って逃げる蔦重それにしても第1回で喧々諤々の論争が起こった衝撃シーン☝️蔦重に📖の楽しさを教えた元花魁で、体を壊して切見世が並ぶ河岸見世の下級遊女まで落ちた朝
大河ドラマで「べらぼう」が始まりましたが初回より衝撃的なシーンがありました。遊郭で病死した遊女が投げ込み寺で墓堀人に衣服を剥ぎ取られて埋められるシーンです。本来でしたらボロボロの裸体のはずですが健康的なきれいな裸体で、あとでネットニュースで話題になりましたがセクシー女優を起用したそうです。江戸時代に福岡藩にも柳町遊郭がありました。【柳町遊郭】江戸後期の筑前名所図会より。江戸期に福岡藩公認で石堂川沿いに柳町遊郭が立ち並んでいました。筑前名所図絵より柳町は博多の北の端にあり、むかし
謹賀新年あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事皆様のご多幸をお祈りいたします。前回の続きです。甲州街道を四ツ谷駅から西へ向かいます。江戸城を東端に戴く本郷台地の尾根部分に街道が走る形になっています。(上の地形図の赤い線)これ(↑)は四谷大木戸の石碑。ここには「番所」と呼ばれる関所が設けられていたそうです。大木戸から西側が所謂‟内藤新宿”。同時に西から流れてきた玉川上水もここで地中の木樋や石樋を使って江戸市中へ配水していたそう
三ノ輪の寿永寺から浄閑寺へ移動します浄閑寺の三門浄閑寺の縁起案内板小夜衣供養地藏尊元々は境内にありましたが、今は三門横に有ります境内案内図本堂浄土宗寺院の浄閑寺は、栄法山清光院浄閑寺と号します創建は、明暦元年(1655年)開山は天蓮社晴誉順波和尚安政の大地震で、吉原の遊女達の遺体が沢山投げ込まれたことから、投げ込み寺と呼ばれる様になりました作家の永井荷風は、遊女の暗く悲しい生涯に想いをはせ、しばしば浄閑寺を訪れていたそうです御本尊の阿弥陀如来恵心僧都作で、昭和59年
赤門勝専寺の次は直ぐそばの金蔵寺へ〜金蔵寺の山門縁起案内板六地蔵供養塔右の無縁塔は天保8年(1837年)大飢饉で亡くなった人々の供養塔で、天保10年に建立左は千住遊女供養塔で、金蔵寺は飯盛女の投込寺でした千住の宿場町には36もの遊郭があったそうです本堂真言宗豊山派寺院の金蔵寺は氷川山地蔵院金蔵寺と号します建武2年(1335年)創建と伝えられます以前の御本尊は地蔵菩薩でしたが、現在の御本尊は閻魔大王です御本尊閻魔大王江戸閻魔44の38番以前は閻魔大王の御朱印を拝
2023年11月13日この日は、新宿の浄土宗寺院と、御府内八十八ヶ所霊場の札打ちの為に何ヶ所か詣でました先ずは新宿の成覚寺へ〜成覚寺の山門六地蔵六地蔵の案内板右歴代住職の供養塔左子供合埋碑子供合埋碑共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑で、万延元年(1860年)造立内藤新宿の旅籠屋によって飯盛女たちの共同墓地が建てられました木々🌳が生い茂っていて良く見えませんが、三界萬霊塔でしょうか…本堂浄土宗寺院の成覚寺は、十却山無量寿院成覚寺と号します文禄3年(1594年)
今回は、東京都荒川区にある心霊スポット【浄閑寺】へ行ってきました。浄閑寺は東京都荒川区南千住にある浄土宗の寺院です。投げ込み寺としても有名な場所で、心霊スポットとしても有名です。吉原遊廓の近くにあり遊女の投げ込み寺として知られていて、昔は欅の木の周りのどこかに大きい穴を掘ってそこに投げ込んでいたらしいです。夜間は門が締まり中には入れなくなっています!!下調べなく行ったら門が締まっていては入れませんでした。日を改めて昼間に行ってみたいと思います!!日中に行ってきました。浄閑
根津で実家のお墓参り。続いて父ともよく来た根津神社。ちょうどつつじ祭りの真っ最中つつじ祭りの入場料は300円。色とりどりのつづじたち小さい花も可愛いよね眩いっオレンジ色も素敵だわここ2年程はコロナ禍であまり東京に来てなかったこともあるのだけど、お墓参りに来るたび、谷中の町が大きく変わる。少し前までは古民家改築店が普通だったのだが、近年は新築の店舗も増えてきた。10数年前までは根津に行列のできるお店ができるとは思わなかったもんなぁ。
前回のブログの続きです。浄閑寺(三ノ輪の投げ込み寺)を後にし向かったのは、吉原神社...こちらは、見返り柳です。新吉原遊郭で、一夜を過ごしたお客さんが、出勤先に向かう時後ろ髪を引かれながらこの柳のあたりで遊郭を振り返ったそうです。そこから、そう、名付けられました...遊びの女...頭では分かっているハズです...後ろ髪なんて、引かれるのですかね?毎年、この柳を見る度、疑問に思います...・・・。そして、見返り柳から吉原大門(現在、
先日のお話…今年の春も、新吉原でお参りさせていただきました。ありがとうございます💚まず、浄閑寺で、手を合わせました。十冊の遊女の名が入った過去張…拝見させていただけるのでしょうか…後程、方法を調べます…今回の参拝で、やっと、同文章の意が分かりました。山谷…サンヤ…あーあー、なるほど...これ以上、記載するのはやめておきます...丁寧に祈らせていただきました。心ある参拝者様が、満足におしゃれもできなかった彼女達に向けて髪飾りをお供
東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」にやってきた駅を出て明治通りぞいに10数メートル山手線駅名で目白・目黒は有名ですが江戸五色不動尊にはその他、目黄・目赤・目青があります目黄不動尊のひとつ「永久寺」五色とは密教の陰陽五行説由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表すそうです最初に四神相応の四不動が先行し、後年に目黄が追加されたとして語られることもあるそうですそのため、江戸川区平井にある「最勝寺」を目黄不動することもあるそうです
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸幕府の支配力をより強め、徳川永久政権をつくろうとした。そのためには、道を整備する必要がある。なぜ、整備された道が必要なのかな?整備された道がなければ、反乱を抑えるための軍隊の移動に不便です。物の行き来を盛んにした方が経済が発達します。幕府がある江戸にはたくさんの人が住んでいたため、江戸に物資を運ぶ必要がありますしね。そのとおり。そこで江戸幕府は五街道(東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)、甲州街道(こうしゅうかいどう)、奥州街道(
2019年8月訪問浄閑寺荷風忌永井荷風の忌日。4月30日。没後に建立された文学碑のある、東京都荒川区の浄閑寺で法要が行われている。jyokanji.com
先程、現地でメモしていた下書きを誤ってアップしてしまいました(^o^;)すみません…ここは、浄閑寺...通称、投げ込み寺...新吉原で亡くなった遊女の遺体を投げ込んだ寺...死因の主な原因は梅毒(性病の一つ)であったと云われています...彼女達の遺体が、実家に引き渡されるコトは殆どなかった。ヒト目のつかない真夜中、まるでゴミを扱うかの様に、浄閑寺に遺棄したそうです...だから、こんな風に、廓の主人が弔ってくださるなんて、あり得なかった..
遊女を投げ込んだというお寺があります。吉原を歩いているうちに、すっかり遊女の気分になってしまった私(笑)自分が重なるわけだから、他人事ではありません。遊女の行く末を最後まで見届けなければ。。というわけで最終目的地は浄閑寺でした。もちろん歩きで行くわけですから、途中でもいろいろあった。町内会でしょうかね。清掃作業のグループを見かけました。大人数がいっせいにお掃除している姿は奇妙というか、通るのが申しわけないような迫力があって、小さくなってコソ
1月29日南千住から気まぐれに歩いていたら三ノ輪の街に着いた。久し振りにこの辺りを駆け足で回ってみることとする。「浄閑寺」吉原の遊女の投げ込み寺で知られる。この山門は江戸時代に建立されたもので、当初は赤く塗られていたそうである。「新吉原総霊塔」この中に無数の遊女たちの骨壺が納められている。通気口からそれを覗くことができるが、写真を撮るのは控えておく。安政の大地震で亡くなった沢山の新吉原の遊女の亡骸が、この寺に投げ込まれる様に葬られた。それから吉原遊郭が
最初に訪れたのは、投げ込み寺(浄閑寺)です。身寄りのない遊女さんの遺体をこの地に、放り込みそして、無縁仏として、葬りました。夜更けに、まるでゴミを扱うかの様に成された、と言われています。*お得意様にバレない為情を持って、新吉原に通っていた旦那もいました。「身請け」いう言葉が、それを物語っていますね。お気に入り(遊女?花魁?)さんが、亡くなったと、分かったらその楼に通わなくなるでしょう。経営の面から、そのようにした様です。今日は、もう既にお客様と...。新
前回の続き。神社関係さいごです。吉原神社さま。手水舎。お参りして。こちらにも。お穴様。扁額。ちょっとコワいww裏手。社務所と鳥居。狛犬さま。逢初桜。外から。実は間抜けなコトに、御朱印帳の頁が無くなり、御朱印は頂きませんでした。また、伺わなくては!!この日は女性2人の対応で、すごくカンジ良かったです。昔、ここに夕方連れて来られて、「ここは遊女の投げ込み寺だよ」とかって脅かされて以来、ビビッて来れなくて。今は整備されてキレイだし
吉原の遊女がその外側へ出られるのは「鷲神社の酉の市の日と死んだ時だけ」だといわれていました。その廓外に、遊廓と関係が深いスポットが幾つかあるので巡ってみました。〇吉原神社吉原の南西、水道尻のすぐ外側にありますが、もとは吉原大門のそばにあった玄徳稲荷社や廓内の四隅に祀られていた稲荷社を合祀したもの。場所柄なのか、狛犬をよく見ると男性器が付いているのが何とも歓楽街らしいです(^^;境内にある逢初桜(あいぞめざくら)もとの玄徳稲荷社の境内に江戸時代からあったという、遊客の出会いを叶
松島神社を後にして次に向かったのは、強運で有名な人形町の小網神社…小網神社の御朱印帳が欲しいかな?と思って来たんだけどね~💕本当に狭い神社で猫の額程しかないんだけど、お詣りする人が後を絶たない…手水舎拝殿この日も御朱印の列出来てたし、狭いから写メに必ず誰かが映る…(丿 ̄ο ̄)丿縁起ははしょります~💦どっしりと威厳ある社殿…彫刻も立派です社殿は明治神宮を造営した宮大工一門の様ですなるほど~オーラが有る筈だ!(σ≧▽≦)σ狛犬日本橋七福神の福禄寿弁財天様もいらっしゃいます
近世・近代ナカのご法度時代によって相違はあるだろうが吉原(なか)の御法度といえば、一、足抜け一、阿片喫引一、楼内での密通一、起請文の乱発一、心中他に「枕荒らし」という客の財布を盗むのがありますがこれは現代でもありますね。御法度の中で一番重いのは「足抜け」だったでしょうね。楼主からすれば投資したのに逃げられてはたまらない。足抜けは失敗すれば折檻されやがて死んでしまうことが多かったようです。簀巻きとか素裸で荒菰に包まれ三ノ輪の浄閑寺に投げ込まれたといいます。取り上げたいの
萩原秋巌先生の墓新比翼塚一番右端が豕塚(いのこづか)ひまわり地蔵新吉原総霊塔荷風花畳型筆塚浄閑寺山号…栄法山宗旨…浄土宗本尊…阿弥陀如来創建年…1655年開山…源空正式名…栄法山清光院浄閑寺別称…投げ込み寺小夜衣供養地蔵尊を、写したつもりで写せませんでした~(T-T)こちらのお地蔵さまは、「悪い部分を撫でると良くなる」という言い伝えがあるそうですまた写真写しに行きます✨PS…今日~こちらで御朱印は何種類ありますか?と質問したら「書こうと思えば南無阿
こんにちは☀️少しばかり暑さ和らぐ日が続き、過ごしやすく助かってます^^いかがおすごしですか?先日の日本風俗女子サポート協会の吉原ツアーにてソープランド街から少し離れた、遊女が葬られた「浄閑寺」、通称「投げ込み寺」に立ち寄りました実はね・・・ここ去年に吉原ソープランド街を探索したいと思い三ノ輪駅からソープランド街を目指したのだけど・・・街の方には迷っていけず、最終的になぜかここのお寺にたどり着いたことがあります。不思議・・・そのときはここが浄閑寺だとは知らなくて、でもその時もなん
そういえば、『鬼平犯科帳』「土蜘蛛の金五郎」のどんぶり屋がどうしてあの場所なのか、考証が足りない気がしてきました(どうでもいいことなんですが)。地図中に印を付けた浄閑寺は今もあります。吉原の遊女亡くなると、遺体が投げ込まれたということで、投げ込み寺とも呼ばれました。何とも悲しい話です。それと、もう一つ印を付けた橋が三ノ輪橋で、今の常磐線のガード辺りです。絵図にも見える浄閑寺門前の道。浄閑寺では藤がきれいでした「三ノ輪橋」のあった辺りこの南側に明治通りが横切る交差点があります。[