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新しい道徳(二)現今の日本民族は、どんなことが、よいことであり、どんなことが悪いことであるかということや、また、どうすることが正しい生活かというような、すなわち、日常生活の基準をうしなっている。いな、日常生活の基準がないのである。国に忠義、親に孝行という儒教の道徳は、とうてい通用しないことは、だれ人もこれを知っている。いな、この儒教の道徳では、どうしても納得しえない現状である。しからば、民主主義ではどうかというに、その民主主義の道徳は、残念ながら、共産主義の道徳にたえず圧迫
新しい道徳(一)利善美の価値論については、当学会員は、十分にこれを知っていることと思うが、とくに、新しい会員は、その価値内容が分立しているかのごとく思考する。これはあやまりである。美の価値が、利の価値、善の価値と無関係に存立するものではない。いま、美の価値を考えるに、①美であって利であり、善である場合と、②美であり利であり、悪である場合と、③美であり害であり、悪である場合とがある。すなわち、名画家が、じつに見事な風景画をかいたとする。そのときは、その画家は美を創造し、し
国土の相を見る立正安国論(御書全集三一ページ)にいわく、『若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし忩(いそい)で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以(いわゆる)他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊(おんぞく)国内を侵掠(しんりゃく)する此の災未だ露(あらわ)れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以(いわ
仏土われらがごとき凡愚の身も、あいがたき妙法極致の仏法にあい、末法の三宝の御名を聞いて、未曾有の御本尊を受持した功徳で、仏の境地をえらるるとうけたまわる。じつにこのうえなき歓喜である。御義口伝(御書全集七五二ぺージ)のおおせにいわく。『如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり』と。この御
三宝自我偈にいわく、『憂怖諸苦悩。如是悉充満、是諸罪衆生。以悪業因縁。過阿僧祇劫。不聞三宝名』と。憂い、すなわち、心配ごとや怖れ、すなわち、おそろしいことなどのたくさんの苦しみが充満した世のなかに、人々は生活して、苦しみ、なやんでいる。このような人々は、過去世の悪業の因縁で、かぞえることのできないほどの長い阿僧祇劫という年月の間、『三宝』の御名を聞かないので、幸福な生活になれぬのだという意味である。三宝の御名を聞くことのできる者は、この長い間の苦悩の生活も一時に断壊し
折伏われわれ日蓮正宗の信者は、一度、御本尊を受持して南無妙法蓮華経と読誦したてまつるときは、覚知すると、しないとにかかわらず、凡夫の生活そのまま仏の本眷属として、即身成仏の境涯がえられるのである。されば、われわれは、仏の本眷属として功徳、利益をうけ、幸福生活へと向上するとともに、仏の使いとして世に処しなくてはならない。すなわち、日常の凡夫の生活に、功徳、利益を甚深にこうむるのは、本眷属の当然の資格であり、仏の使いたる者の果報のいたすところである。ゆえに、信仰のおかげにより、生活が
罰論罰ということばは仏教用語である。このことばを現代語でいうならば、『反対価値』というべきで、われわれの生活に不幸を感ずる現象のことである。この現象が、われわれの生活にあらわれたとき、罰にあたった、罰をうけたと称するのである。すなわち、反対価値とは美の反対たる醜、また利益の反対たる損、また社会に損害を与える現象たる悪をいうのである。この悪、損、醜なる反対の価値が生活の内容となるときを罰の生活と称するのである。さて、信仰生活にしろ、不信仰生活にしろ、人が生活する以上
如来秘密神通之力『如』とは『ごとく』と読み、また『そのまま』『ありのまま』と読む。戸田城聖なるものは、五歳のときが絶対の実在たるもので、その他のときはそうでないとはいえない。十歳のときが、ほんとうの戸田であるとも、きょう、いまの私が真の実在ともいえない。きのうの私が真であり、あすのものは仮りとはいえない。生をうけて終わるまで、戸田如きものの連続である。いな、見方によると、『戸田そのまま』『そのまま』の存在であり、『ありのままの戸田』としての連続である。戸田は『如
牧口先生薬王菩薩本事品に、薬王菩薩が仏および法華経に、身を焼いて供養したてまつったのをほめていわく、『是の如き等の種々の諸物を以って供養すとも、及ぶこと能わざる所なり。仮使国城妻子をもって布施すとも、亦及ばざる所なり。善男子、是れを第一の施と名づく。諸の施の中に於いて最尊最上なり』と。牧口先生は人格高潔、物事にたいしていやしくも軽々しく事を行なわず、一文半銭も貪ることなく、清貧に甘んじて、いっさいの衆生のために仁慈をたれられたお方である。こと不義と名のつくものには仮借なくこれを
最高の経とはなんぞや経とは、仏典の経文のことを経と世人は思っている。しかるに仏教上の経とはしからず。雀がチュウチユウと鳴き、猫がニャゴニャゴと鳴く。犬はワンワンとほえ、おかみさん方は井戸端会議、人のうわさをする。これが経である。すなわち、宇宙の森羅万象の語言・動作、ことごとく経である。賢哲の言動も経であれば、一凡愚のさけびも経である。この経は、そのもの自体の真理と価値を表明する。ゆえに非情より有情の経は高く、有情のうちでも、猫・犬より凡夫の経が高いのである。また、人のなか
一仏乗経にいわく、『舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし』と、また『舎利弗、十方世界の中には尚お二乗なし、何に況や三あらんや』と。仏のご出現は、一大事の因縁のためのご出現であります。すなわち、仏知見の開示悟入にあらせられる。菩薩を育成し、二乗を教化するためではないと、方便品において、強く強くおおせられたのであります。日蓮大聖人のご出現も、末法時の現代において、仏知見の開示悟入のためであって、けっして、菩
小さな発見仏法で、劫ということがある。これは時間をあらわしたものである。人類の平均年齢は最長八万年生きられる時代がありとし、また、平均年齢が、十歳の時代がありとする。その十歳のときから、百年ごとに一歳ずつ平均年齢が増していって、八万年の平均年齢にくる。それを増劫の一小劫といい、また、人類の平均年齢八万年のときから、百年ごとに一歳ずつ人類の生命が減っていって、平均年齢が十歳にいたるまでを一減劫という。この劫が二十小劫で一中劫という。二十中劫で一大劫という。宇宙の生命は、これによ
如来の事を行ぜよ妙法蓮華経法師品第十にいわく、『当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり』と。これは、法将に滅せんとする末法事の信者をさして、申されたことばであります。ことに、われわれ学会員が、大聖人より賜わりたるおことばで、仏から証明されました文証と確信いたします。そのゆえんは、われわれは『地涌の菩薩』であります。いかんとなれば、私どもは『南無妙法蓮華経』と唱えております。大聖人出世の本懐たる御本尊を信じ、ちょうだいしておりますゆえに、『名字
折伏の功徳妙法蓮華経随喜功徳品にいわく、『又阿逸多、若し人、是の経の為の故に、僧坊に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須臾も聴受せん。是の功徳に縁って、身を転じて生まれん所には、好き上妙の象馬、車乗、珍宝の輦輿(れんよ)を得、及び天宮に乗ぜん。若し復人あって講法の処に於いて坐せん。更に人の来ることあらんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん、阿逸多、若し復人あって余人に語って言わく、経有
価値論抄価値とは人間は、無関係の存在には、少しの注意も払わない。あることすら、意識しないことが多い。しかるに、吾人の生命に、なんらかの影響を与える存在にたいしては、判然と意識し、その関係性を感得する。人間の生命を危うくする存在には、なおさら、その注意を怠らない。野獣と家畜との差異は、人生に有する関係性の有無と相違にほかならない。すなわち、はじめ、人生にたいして無関係として放置されたものが、一朝なにかの動機によって、そのなつきやすい柔順性が見出され、それが、知らず知らずの間に利用
付録についてここに、付録として収録した戸田城聖先生の論文は、昭和十六年および昭和二十一年ごろの「価値創造」に掲載されたものである。「価値創造」は、聖教新聞、大白蓮華が発行される以前の唯一の創価学会機関紙であった。戦前は初代会長牧口常三郎先生、昭和十六年七月二十日、タブロイド版四ページ活版印刷で創刊されたが、当局の理不尽な弾圧をこうむり、第九号をもって廃刊となった。正法弘通のため大法難をうけられた第二代会長戸田城聖先生は、昭和二十年七月三日出獄されるや、ただちに創価学会の再