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みなさんおはようございます。蓮夏一照です。さて今回の和讃、読んでてどうでした?・煩悩だらけ・ケンカばっかり・疑ってばっかり・命短い・正しいもん背にして、変なもん信じる・念仏の人が一番叩かれる……これ、鎌倉時代の話やのに、今日のニュースみたいやなと思いません?◆煩悩、もはや山脈無明煩悩しげくして塵数のごとく遍満す愛憎違順することは高峯岳山にことならず無明煩悩しげくして塵数のごとく遍満す煩悩が「塵の数」て。もう掃除する気も起きへん量。さらに、愛憎違順
念仏って、実はこういう意味だった【誤解された歎異抄】9章https://youtu.be/sLLnVT7a9VQどうもこんにちは、筬島(おさじま・オサジー)です。日本人なら誰でも念仏・南無阿弥陀仏という言葉は知っていてもその正しい意味を知っている方はめったにありません。それは知られない方が悪いのではなく正しく教える人がほとんどないことが問題です。そこで今回は、【99%の人が知らない】念仏と親鸞の真実《0から一気に分かる動画》と題して、次の流れで動画を作成しました
午前中にご家族お二人参列の三部経での年回のお参り。午後は寝室にずーっと・・・午後の早い時間から雨が降り出し、ウオーキングにも出れず。夜は報恩講助音の練習。今日は大逮夜(正信偈真四句目下、念仏和讃五淘、和讃五十六億七千万次第六首、五遍返、回向我說彼尊功徳事)、練習はあと二日。一人でも多くの方に寺に来ていただくことを願い1996年から始めた助音も、もはや世話方さん(責任役員・総代・世話役)と二十八日講のメンバーだけに。
◆「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心の発るときすなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり(歎異抄第1章)弥陀の誓願不思議を不思議と知らされたのが悟忍往生をば遂ぐるなりと信じたのが信忍「念仏申さん」と思いたつ心は救われた喜びから仏恩報謝の他力の念仏称えようと思いたつ心であるから喜忍阿弥陀仏の本願には「至心」「信楽」「欲生」の三つの心が誓われ釈迦の観経には「至誠心」「深心」「回向発願心」の三心(さんじん)が説か
12月16日はグレゴリオ暦で年始から350日目(閏年では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。====12月16日の記念日===【電話創業の日】1890(明治23)年のこの日、東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始した。加入電話は東京155台・横浜44台で、女子7人・夜間専門の男子2人の交換手が対応した。電信電話記念日10月23日(σ;¬_¬)σ電話?移動電話犬ですか?受話器取れます・・・?ヾ(--;)【念仏の口止め】正月の神様(年神様)は念仏が嫌いであると
京都検定2級1級では、礼·民俗行事·無形文化財が重要な出題分野です。今回は、京都新聞の記事から、京都市東山区・六波羅蜜寺で行われる**「空也踊躍(ゆやく)念仏」**を取り上げ、検定対策として整理します。引用|京都新聞(2025年12月13日)京都市で平安時代に起源持つ「踊躍念仏」始まる弾圧の名残伝える伝統行事京都市東山区の六波羅蜜寺で13日、師走恒例の「空也踊躍念仏」が始まった。歩きながら上半身を揺らす独特の作法で僧侶が念仏を唱え、無病息災を祈った。国の重要無形民俗文化財。平
おはようございます。毎月15日は阿弥陀さまの縁日とされていて、本日12月15日は、今年最後の阿弥陀如来の縁日となります。清瀧寺は御本尊が秘仏の阿弥陀如来で、12月31日の大晦日から令和8年1月3日の三が日に年末年始の御開帳があります。平安時代・大同2年(西暦807年)の創建から現在まで1218年の間に3度ほど大きな火災に遭っていますが、常に本尊だけは無事だったと伝えられていて『火除けの阿弥陀』として家内安全のご利益が強いと言われています。阿弥陀如来は梵語でアミターユス(無量の寿命)ア
なる様にしかならない思い煩うな何かな〜とモヤモヤの時もバシッメッセージは、直通✆ジャッジするなかれ関係ない関係ない(念仏w)https://www.instagram.com/p/DRUJ3PHkc6F/?igsh=MXdzMGlocXNxMXNrMQ==ひで〜人生を豊かにする名言集〜onInstagram:"@hide_book_◀他の投稿はこちらご覧いただきありがとうございます✨ブッダの人生をよくする考え方、仏教の教え〜再放送動画がいいと思ったら「いいね
みなさんこんばんは。蓮夏一照です。今日は源信大師の後半戦。言うたらですね、「人生の乗り換え案内、間違えたらどうなるか」そんな話でございます。◆「専修は千に一つも失なし」専修のひとをほむるには千無一失とおしえたり雑修のひとをきらうには万不一生とのべたまういきなり強烈です。専修のひとをほむるには千無一失千回やって、失敗ゼロ。これ、念仏が万能やからやない。余計なことを足さへんからです。スマホの操作でもありますやろ。「このボタンだけ押して」と言われてるのに、設定
みなさんおはようございます。蓮夏一照です。今日はですね、善導大師で背中を押され、源信大師で行き先を教えてもらうそんな回でございます。ええ、例えるなら――善導さんは「今すぐ乗りなはれ!」言う駅員さん、源信さんは「この電車、行き先ここですよ」と路線図を指さす人です。◆善導さんの一言は、重たい弘誓のちからをかぶらずはいずれのときにか娑婆をいでん仏恩ふかくおもいつつつねに弥陀を念ずべし弘誓のちからをかぶらずはいずれのときにか娑婆をいでんこれ、ほんま身もフタもない。「阿
名義呼ぶ柱が立てば連帯力~メーカー・行政・横連携・ブランド化~(昨日のブログより)名義呼ぶ。これは、組合が組合たる所以、組合メリットの頭文字を並べたものです。メーカーとの連携。行政との連携。横の連携。ブランド化構築。無理矢理ですが(笑)。ところで、「名義呼ぶ」これにも意味があります。というより、こじつけました(笑)。名を上げ、義を立て、呼び合う。名を上げるとは、まさにブランド化構築、義を立てるとは、大義を立てる、つまりは、理
みなさんこんばんは。蓮夏一照です。今日のテーマはちょっと刺激強め。でも避けて通れん、大事どころ。さっそく本文からいきます。◆「一念無疑」って、そんなレアキャラなん?真宗念仏ききえつつ一念無疑なるをこそ希有最勝人とほめ正念をうとはさだめたれ一念無疑なるをこそ希有最勝人とほめ希有最勝人……簡単に言うと「めったにおらん人」です。スマホのガチャで言うたら、0.003%のSSR級。でもな、「疑いが完全にゼロになった人」という意味やない。ほんまはこういうことなんです。“疑
念仏によって救われたいと思うのは無理もないけれども、それは個人の望みである。悪く言えば個人の欲望である。念仏は個人の行ではないのである。「念仏は大行である」と言われるのはその意味である。仏教は個人の救いではない。個人が一応否定されて、個人の欲望とか、望みとかを否定されてはじめて、みんなが一緒に救われる世界に入れるか、入れないかという大行の世界なのである。個人は救われなくて個人の救いに諦めたところに、一切衆生が救われる道において初めて自分も救
おじいちゃんなんで昨夜の地震の時刻には寝ていましたがスマホの緊急地震速報でおこされただんだんと揺れが大きくなり30数年前の北海道南西沖地震を思い出した。あの時は家がミシミシ言って崩れ落ちるてもう死ぬと思ったもんね昨日はベッドの中で「地震おさまれ~」「これ以上揺れるな」と念仏を唱えておりましたここは震度3だったので、物が落ちることもなく被害はなかったのが幸いですこの冬に停電なんておこったら暖房が使えなくて大変なことになるところだった・・・
親鸞さんの教えで、心が散り乱れていてもやる善を散善といい、散善すらできない時は、念仏を唱えるだけでよい、という教えがある。これを唯唯淡々とやれるようになれば、定善という、心も整っていて善行もできるという心身一如の状態に、ふと気づくとなっている、という。この考え方を数年前に知り、毎日掃除をする事で散善の実践をしていったが、改めて又その事を思い出し、あの頃よりは、だいぶ心は成長しているのは間違いない。焦らないでよい。改めてもう一段階上の散善に今から取り組もう。
その内容は何であるかと言えば煩悩の凡夫だと。ここの「思うがごとく衆生を利益すべきなり」というけれども何もそれを保証することはできない。だから何らかの意味でこの世でこの願いが課されるということが感ぜられるはずなのである。どういう形で感ぜられるか、この道が分かるかというとそれを念仏と言っている。この道で大慈大悲心をもって衆生を利益することが出来ないのである。われわれ自身が煩悩一杯の自分なのだ。不徹底な慈悲しか出来ない。どうして徹
みなさんおはようございます、蓮夏一照です。今回は浄土真宗の“超重要人物”、善導大師の和讃から一席。親鸞聖人が「阿弥陀さまの教えを最も正しく受け取った人」とベタ褒めしたのが、この善導さん。もう“浄土界のガチ解説者”です。◆【第一幕】“大心海”から出てきた善導さん大心海より化してこそ善導和尚とおわしけれ末代濁世のためにとて十方諸仏に証をこう和讃の一首目。「大心海より化してこそ善導和尚とおわしけれ」つまり善導さんは、“阿弥陀さんの大きな心の海から、現世にぽちゃんと現れた存
石破と2人で押し入れの中で念仏唱えながら熟議してろよ(笑)海洋堂(KAIYODO)リボルテックアメイジング・ヤマグチグレートマジンガーAmazon(アマゾン)海洋堂(KAIYODO)リボルテックアメイジング・ヤマグチシンビオート・スパイダーマン全高約160mmノンスケールPVC・ABS・POM製塗装済み可動フィギュアNR105Amazon(アマゾン)リボルテックブルーアーカイブ-BlueArchive-サキAmazon(アマゾ
有縁のみなさまへ枇杷島同朋の会第176回法話会のご案内~真宗仏事の回復とは~残暑厳しい毎日、農繁期を迎えました。新米が出回り秋の味覚も口にするようになりました。秋になれば当たり前に秋の味覚を楽しむ…その当たり前ということがどんなに有り難いことか。不自由を経験しないと日常の有り難さに気付けない私たちであります。今回の先生は旧三条教区において駐在教導を務め、教区の教化の現場で活躍され現在も各地で法話講師として活躍中の北島栄誠(きたじまえいじょう)先生です。北島先生は東北
15年ほどのまえ、ある瞑想会でこのお寺に三度、四度来たことがありました。この茅葺きの屋根にいたく感動したもんです。めちゃくちゃでもないが長歩きして通ってました。地下鉄今出川から歩き通したり、JR京都からも歩き通したり。でもあまり土地勘を形成できないところでした。その後ほろほろ歩きを重ねてすこし勘が磨かれてきた感じです。哲学の道ここからまだ山側に三本ほども上がっていく門くぐります
皆さん、インドの大乗仏教と聞くと、なんかこう——大河ドラマの向こう側で、偉い僧侶たちが眉間に皺寄せて難しい巻物読んでる……そんな光景が浮かびません?ところがどっこい。今回の主役・龍樹菩薩(ナーガールジュナ)、この人は違う。インド発の“伝説級マジシャン兼論破王”くらいのスケールなんです。●龍樹は「西をほめて念仏すすめた人」本師龍樹菩薩は智度十住毘婆娑等つくりておおく西をほめすすめて念仏せしめたり親鸞聖人はこう歌います。「西をほめ、念仏すすめたり」インドで“西をほ
法然上人の御生涯⑨です。上人のご生涯を追ってまいりました。今月が最後となり、上人のご往生のお話でございます。本文:法然上人は病気で食欲がなかったが、建暦二年(一二一二)正月二日より、それがさらに進んできた。大体、この三、四年以来、耳目が衰えて、物を見られ、音を聞かれることがともに明瞭でなかった。ところが今、重篤の時が近づき、かえって聴覚と視覚が昔と変わらないほど鋭くなった。それを見る人は心から喜び不思議に思った。二日以後は、上人はまったく余言を交えず、ひとえに往生に関することばかりをお
お十夜会法要報恩感謝・先祖供養令和7年度性翁寺お十夜会(おじゅうやえ)の法要は去る11月9日(日)、無事奉修いたしました。これひとえに、御参列の皆様をはじめ檀信徒のお力添えの賜物と感謝申し上げます。なお、当日御欠席にて布施志納の各家には住職が奉読回向を申し上げました。同じく御欠席各家がご依頼の卒塔婆は本堂にて回向の後、貴家に代わりただちに墓所に建立致しましたのでご安心下さい。師走の候、御自愛にてお健やかに年末年始をお迎え下さい。合掌令和7年12月木余り性翁寺
皆さん、大勢至(だいせいし)菩薩って聞くと、「観音さんの横にいる、あの“気のええ兄ちゃん”みたいな人?」……くらいのイメージちゃいます?いやいや、この方、実は“念仏の電波塔”なんです。というのが、今回の和讃。●五十二菩薩の“総立ち”勢至念仏円通して五十二菩薩もろともに座より立たしめて仏足頂礼せしめつつ大勢至さんが念仏の極意を見せたら、五十二段階の修行を重ねた菩薩たちが総立ち。「満員の寄席の客が一斉に総立ちで“師匠!”言うて頭下げるレベル」念仏の威力、ハンパない。●“
●大魔王まで味方に?南無阿弥陀仏をとなうれば他化天の大魔王釈迦仏のみまえにて守らんと誓いけり「大魔王…?ドラクエのラスボスちゃいます?」仏教の“大魔王”とは、修行の邪魔をする存在の象徴。それが釈迦如来の前で、「念仏者には手ぇ出しません、守ります」と誓ってるわけです。もはや念仏者は――敵側にまでファンクラブがいる状態。●天神・地祇も全員“善鬼神化”天神地祇はことごとく善鬼神となづけたりこれらの善神みなともに念仏のひとを守るなり天照大御神から八百万の神々まで、“オール善
●「この世の利益、きわもなし」って……どんだけ?南無阿弥陀仏をとなうればこの世の利益きわもなし流転輪回のつみきえて定業中夭のぞこりぬまずこれ。つっこませてください。「きわもなし、てアンタ……限界なし言うてますけどほんまかいな」でも和讃は本気です。念仏すると、●先祖代々の罪(流転輪回)が軽くなる●短命になる定業が消えるつまり、寿命を縮める因縁が“上書きされる”これはもう、運命のバグ修正パッチみたいなもんです。●梵天・帝釈が「よろしくお願いします」?南無阿弥陀仏をとなうれ
「アドラー心理学」とも多くの共通点が…【2500年前の仏教】が"現代社会"でも通用する当然の理由「アドラー心理学」とも多くの共通点が…【2500年前の仏教】が"現代社会"でも通用する当然の理由みなさんは仏教にどんな印象をお持ちでしょうか?「南無阿弥陀仏という念仏を唱えて、お釈迦様という神様を信じる宗教ですよね?」このように考えておられる方も、いらっしゃるでしょう。でも、じつはまったく違い…toyokeizai.net
■(1)“見守り力”が規格外すぎる仏十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる阿弥陀さんの異名のひとつが摂取不捨(せっしゅふしゃ)。「どんなアホでも、いっぺん抱えたら絶対に離さへんオカン」しかも“十方微塵世界”ですからね。十方(上下左右前後+四隅)全部の、粉みたいに細かい世界の粉みたいに細かい衆生まで、ぜーーーんぶ見てはる。「見てるいうても限界あるやろ」と思うやん?阿弥陀さんの場合、その“見守り”が無限メモリのクラウド監視システム並み。
■善知識との出会いは“奇跡の三連単”善知識にあうこともおしうることもまたかたしよくきくこともかたければ信ずることもなおかたしこれ、めちゃくちゃリアルな“救いの難易度表”です。(1)善知識に会うのが難しい(2)その人が教えてくれても、聞くのが難しい(3)聞けても、わかるのが難しい(4)わかっても、信じるのはもっと難しい「まず人気の師匠に会うのが難しい、会っても喋ってくれるとは限らん、喋っても理解できるかわからん、理解しても“腹で納得”はまた別や」ここに親鸞聖人の体