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2025年12月11日(木)に昼食のために京都の鞍馬口まで出かけました。今回は、その昼食の前に立ち寄った上御霊神社(御霊神社)で撮影した画像です。阪急電鉄大阪梅田駅から京都線特急で烏丸駅に向かいました。PRiVACEの座席指定席券です。この日に乗車したPRiVACEです。京都市営地下鉄の四条駅から烏丸線で鞍馬口駅へ。鞍馬口駅の注意書きです。「鞍馬口」は『京の七口』の一つですが、鞍馬方面への最寄り駅ではありません。「京の七口(きょうのななくち)」とは、かつて京都の都と周
あれってそれってどんな戦いだったの〜明応の政変ー※日本史内容含み戦国時代の本当の始まりとなった戦いだったような、、一般的には応仁の乱、と云われていますが…--クーデターรัฐประหาร/ráttʰàpràhǎan/rátpràhǎan政変※Weblio先生作歴史的な出来事เหตุการณ์ทาง
12月に入り、さすがに寒くなってきましたね...ブログ掲載がすっかり遅くなりましたが、11月15日(土)、16日(日)の2日間、「西陣織会館」では『西陣織博2025ori-expo』が開催されましたので、そのご報告をー。その前に、『西陣の日』について少しご説明をさせて下さい。時はさかのぼること室町時代、1467年から11年にも及んだ「応仁の乱」でしたが、その終結の日を記念して「11月11日」を『西陣の日』と制定したのだそうです。「応仁の乱」は西軍と東軍に分か
浄土宗総本山・知恩院のすぐそばに、同じく浄土宗の金剛寺があります。こんなに近く浄土宗のお寺が並んでいたのかと、ちょっと驚き奈良時代に創建、由緒あるお寺ですが応仁の乱で荒廃してしまったそうです。それを粟田の地に再建。現在の場所に移ってきたのは、1602年(慶長七年)岌然(きゅうねん)上人が青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の許可を得て再興したそうです。青蓮院門跡は天台宗ですよね。ここら辺宗派の変遷は、また深く歴史があるのだろうなぁ。知恩院のすぐそばにあるのもなんとなく得心。地域住
室町〜戦後期の間、仏教界・神道界・儒学界いずれからも正々堂々と論理によってイエズス会を打ち破る人物は現れなかった。しかしながら信長・秀吉・家康は日本民族存亡の時代にあらわれたすぐれた政治的指導者であった。その中の家康とその参謀らはイエズス会の背後に悪魔教があるという事までは見抜けなかったのだが、イエズス会が妖教・邪教・魔教であることは理解していた。
11月の読書メーター読んだ本の数:3読んだページ数:1194ナイス数:29ゲッタウェイ(角川文庫赤ト10-1)の感想☆☆☆☆★中学生ぐらいの頃に読んでいたのだけれどもそれがジム・トンプスンのものだということも知らず本の内容も全く覚えていなかった改めて読むとこの本のぶっ飛び具合はトンプスンの本のなかでもかなりハイレベルそしてこの着地点のすごさは群を抜いていると思う読了日:11月26日著者:ジム・トンプスンプレミアリーグ全史3(1091)(平凡社新書1091)の感
日本民族はイエズス会の謀略部隊が魔の手を伸ばし始めて、最初の三十年もの間日本の存亡に関わる深刻な侵略戦争を仕掛けられているという意識すら持っていなかった。イエズス会の真の目的を知らず純朴な日本人は信者となり大名は利益によって買収され、あれよあれよと九州はあっという間に日本全国にイエズス会は根を張ったのであった。
ひさぱんが京都の福知山に帰る機会があって、そのお土産に、京都駅で、ブラックサンダーを買ってきてくれました。宇治抹茶を使い、「おたべ」と提携しているようです。字が小さくて見えにくいでしょうが、右の方に、「応仁の乱以来の衝撃!」というコピーあります。「先の戦争」と京都のひとが言うとき、それは「応仁の乱」を指す、という逸話がありますが、ブラックサンダーまでそこにいくとは。
「戦国時代」は『応仁の乱』以降の一時代(下克上の時代)は日本民族の歴史の中で日本民族の恥部と弱点を目一杯曝け出してしまった時代だった。足利尊氏の建てた幕府は国家の理念というものを有していなかった。足利幕府にあるものは剥き出しの「弱肉強食」の論理があるのみ外交政策もその論理から発せられていた。強国である明に対しては貿易通商の利益の為には臣下の礼をためら取ることに躊躇いすらなかった程である。
2024年12月4日(水)、客人との同行で奈良に行くことになりました。ここしばらく遠方への出張や旅行が続き、じっとしていられない病患者の私にとっては、こういう依頼は大歓迎であります。さて、外国人の客が関東からの日帰りであること、目的地が奈良であること、の二点から考えると商用終了後は新幹線に乗せるまでということなので、奈良泊はなくて直感は大阪泊かなと考えました。はたして時刻表検索アプリで調べると関東から奈良への移動は京都経由近鉄での移動が最も効率的だとわかりました。関東在住の大阪人には
ほんきで坂本まち歩き!2025~坂本の地名から見る応仁の乱~応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで続いた、室町幕府の8代将軍足利義政の継嗣争いに端を発した応仁の乱によって京都の主戦場から寺社や公家・僧侶が疎開を余儀なくされた。例えば、大津市内では、浄土宗知恩院が伊香立下在地の新知恩院に、天台宗真正極楽寺(真如堂)が穴太の宝光寺へと逃れてきた。公家の山科言国(やましなときくに)は、坂本に別荘をもち、滞在して戦乱の影響もなく穏やかに暮らしていた。こうした応仁の乱期に京都から坂本に
“早起きは三文の徳”信者のtenom2なんで、めっちゃ早く出発して現地で時間潰ししたいんですが、そうは問屋がおろさない…🙅のんびりと9時出発予定とのことで、恐らく渋滞でしょうね…🫨京都の続きで、ハイアットプレイス京都をC.O.したあと、勿論こちらへ歩きました。今回はちゃんと時間も確認してきたので人がいたw前回、1時間勘違いしてホテルをC.O.してしまい、暑い中時間潰すのも億劫でスルーしたお店🥲この建物、築130年だそーですよ😳そして、それより凄いのが創業560年の歴史🥹オープンして
皆さんこんにちは!!今日はお休みです。朝から掃除、買い物。。。昼から久しぶりに勉強📖あんまり進まないが💦💦ゆっくり出来るっていいね。今夜はすき焼きしようと思います。🐃🐃京都人が愛してやまないカルネを。。。。これはシンプルなのに何でこんなに美味しいのか。1番人気のパンだよ。今日は世間はポッキーの日らしいが。。。実は西陣の日なのです🤫🤫これは。。応仁の乱が終結して戦火を逃れた織物職人たちが京都に戻り西軍の本陣があった一帯に住みついて西陣織と呼ばれるようにな
大日本帝国時代に、中国へ、進出した日本軍の関東軍は、三百万円預けられたが、使用不可とされ、資本金として運用、せこく、元本保証当然の融資状態。兌換券「軍票」迄発行し、開発銀行満鉄企業から資金で、本国との半独立財政を運用した。旅順で満州進出以前から関東軍は資金融資し運用。31年頃、満州国で日本円中国(銀)紙幣とは別に軍票を運用。表向きだけ満州国保証。満州国の運用ではなく関東軍運用。敗戦に伴い、最終は中国含む、GHQが管理する。現中国軍の外郭団体、産業体の装備調達での不透明感から、関わらな
秋晴れの清々しい日です。宝鏡寺の秋の特別公開に来てみました。ここは小川御所跡で石碑が新しく建っていました。小川御所は足利将軍家ゆかりの場所です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%AE%BF建物の中は撮影禁止でしたが、お庭はOKでした。この梅の名前は曙。光格天皇が名前をつけたそうです。門跡寺院に行くと光格天皇のお名前をよく耳にします。これは和宮ゆかりの鶴亀の庭人形塚です。武者小路実篤の書が刻まれています。写真は撮れ
1465年創業の老舗繁盛そば屋2026年1月11日に長期休業に入るらしい残念だ宝来そば、にしんそばや天せいろそばが美味しい😋本家尾張屋、2026年1月11日に蕎麦飲食店を休業560年の歴史創業560年、応仁の乱の前年に創業したとされる「本家尾張屋」(京都市中京区)が2026年1月11日、蕎麦飲食店を長期休業とし、菓子製造販売も終了することを明らかにしました。ただし、濃縮出汁・蕎麦乾麺・にしんの販売に絞った事業継続の可能性…smbiz.asahi.com本家尾張屋本店(烏丸御
『この国のかたちー五』ー司馬遼太郎●室町の世ー④✪室町体制は、応仁の乱で衰弱する。この乱は応仁元年(1467年)にはじまり10年つづいた。もともと将軍家や有力守護の相続問題のもつれが争いをうみ、地方におよんだ。京都における最初の市街戦では、一方が約16万、一方が9万人という人数を集めた。このとき、「足軽」という異風の者たちが登場する。かれらは正規の武士たちの前列にあって、いわば戦争を請け負う者たちだった。国人・地侍でさえなく、農村のあぶれ者というべき存在で、甲冑すら身に着けていな
平安京の中心施設、平安宮の北東隅に置かれていた宮中を警備する役人の詰め所「大宿直(おおとのい)」の想定地=京都市上京区=から、宮内が衰退後の室町時代に営まれたとみられる人家跡などが出土しました。貴族の日記などから、大宿直跡が衰退後、織物の一大生産地として知られるようになる「西陣」を形成する職人が住んでいたことが知られており、調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所(市埋文研)は、これを裏付ける初めての史料とみています。土地開発に伴い令和6年7月から9月にかけて約280平方メ
月末の金曜日は仕事をお休みして、4連休で京都に帰省。8月に母が救急車で入院したというので行って以来2か月半ぶりの実家へ。お天気がイマイチでしたが、新幹線から富士山が見えましたお目当ては応仁の乱より前の1465年創業本家尾張屋。本家尾張屋寛正六年(西暦1465年-応仁の乱の前年)創業、京都御所の南に本店を構える菓子と蕎麦屋の本家尾張屋のオンラインショップ。お土産に喜ばれる蕎麦菓子や、乾麺、お出汁のセット等を通信販売しています。ぜひご自宅で尾張屋の味をご賞味ください。honke-owariya
■応仁の乱まず、報告したいのは、「応仁の乱以来の衝撃」であるJRの売店で、京都のブラックサンダーが売られていたのだ抹茶のチョコなんて珍しくもないし、スルーしようとしたところ、「応仁の乱以来の衝撃!」という言葉にグッと来てしまったなにせ京都では、「先の戦争」というと、太平洋戦争ではなく、応仁の乱だという話を聞いたことがある1467年のことであるひとよむなしい応仁の乱であるそして中央やや右下に書かれた「雷神どすう」にもグッと来てしまっ
いい季節なので久しぶりに京都お散歩へ。三十三間堂では壮観な1000体以上あるたくさんの仏像は有名ですが、そのながーい廊下?縁側?で端から端まで弓矢を打ちまくる競技を行っていたそうで、今も一本だけ屋根に矢が刺さったまま残っています。一昼夜、1分に9本という驚異的なペースで1万本以上打ちまくるとのことで昔の人は尋常でない体力があったことが分かりますね。それにそんな矢を打ちまくって壊れない建物も凄いです。京都で応仁の乱以前からある建物は、この三十三間堂含め4つしかないそうです。応仁の乱がなければ
多分皆さんボランティアでやっていただいてるまち歩きツアーがありまして、これで2度目の参加です。他にも、まいまいツアーにも参加してるけどこっちは料金がお高めでなかなか参加できず何せこちらは500円ポッキリガイド役の方の交通費にもならなくない?と心配になる程です。本当にありがたや🙏ただ日曜メインなので休みもそう取れずどうしても行きたいとこだけ行くことに。(宣伝していいか分からないので名前は控えます)今回はどうしても行きたかった応仁の乱関係前回も書いたけど全くこの時代は不勉強
第一〇三代後土御門天皇は、室町時代の天皇です。御父は後花園天皇、御母は藤原信子。御名は、成仁(ふさひと)。嘉吉二年(1442年)生。在位は、寛正五年(1464年)から明応九年(1500年)。文正元年(1466年)に大嘗祭(天皇になって初めて行われる新嘗祭)が執行されましたが、翌年応仁元年に応仁の乱が起き、以降九代二二一年にわたり大嘗祭は中断しました。応仁の乱は、八代将軍足利義政の弟義視と、義政の子義尚が次の将軍の座をめぐって対立したのが発端の乱です。京都を主戦場に約十年に及んだため、
日本三大悪女と言えば、北条政子日野富子淀君の3人です。尼将軍北条政子Amazon(アマゾン)日野富子:政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事(ミネルヴァ日本評伝選222)Amazon(アマゾン)淀君(講談社文庫)Amazon(アマゾン)男尊女卑の時代に成立した呼び方なのででしゃばりな女というイメージを付けられた人たちです。が、それだけではない。北条政子は、夫没後の政争に関与したと言われていま
⚔️応仁・文明の乱(1467–1477)―日本を「戦国時代」へ導いた大乱1.応仁・文明の乱とは?期間:1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)、約11年間主戦場:京都当初の元号にちなみ「応仁の乱」と呼ばれるが、長引いたため「応仁・文明の乱」ともいう表面的には将軍家や守護大名の「家督争い」でしたが、実際は室町幕府の政治システムそのものが揺らぎ、社会全体が大転換を迫られる契機となりました。2.複雑に絡み合った原因👑将軍家の後継者争い足利義政の弟・足利義視(よしみ)を後
買い出しを終えて、全てを収納今日の予定は終了しました少しゆっくりして、ニャンズと母をやって、昨日は落ち着いて作業が出来なかったので、物作りをしていたら、こんな時間(笑)物作りをしている最中も、主人の都市伝説話を聞かされ続けておりましたよ(笑)私の、携帯異変の話など聞き流されて…最近は3iアトラスに夢中です興味が有る方はググって下さい(笑)楕円形だの、下に小さい物体が有るだので、その3iアトラスが宇宙に大量の水を放出したとかで、大騒ぎをしています(笑)1400年ぶりにレモン彗星も
上御霊神社が応仁の乱の発祥の地とは興味深いですねもっと西陣側かと思っていました山名宗全が西陣ですね堀川通以西は西陣と言われます京都の上の方は井戸が多いですね祖母のところにもありました京都の地下には琵琶湖に匹敵する量の水があるといわれていますそれは山城地域まで広がっています伏見は有名ですが宇治市では以前は地下水を水道水としていました京都市では水道局には藤を見る一般公開もあり、6年か7年前に言ったことがありますし、去年のクリスマスには献血で本部にいっています京都はその点では