ブログ記事745件
1614年大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、その後、北条氏重・小出吉英と続き1619年には松平康重が城主となります1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと1619年に大坂は幕府の直轄地となり1620年将軍徳川秀忠の命により大坂城の再建が始まり、その大坂を挟むように守る役割が尼崎城と岸和田城でした。この時期に外様大名の小出秀政が但馬の出石に転封となり譜代大名の松平康重が城主となります1623年に伏見城が破却されると矢倉などが移築され松平康重は山崎城へ転出し1931年には高槻
期間:2024/04/30〜05/08天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額薬)阿茶局:雲外暁光覇)足利義輝:剣気森然戦)江:大猷の抱き守戦)徳川秀忠:精励の大器覇)徳川家光:泰平の礎武)羽柴秀次:黒衣の番将©コーエーテクモゲームス
ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国
徳川家康には、十一人の男子がいました。長男信康1559/4/12〜1579/10/8享年21才織田信長の娘と結婚するも、信長の命令で切腹。次男秀康1574/3/1〜1607/6/2享年34才豊臣秀吉の人質、養子となる。関ケ原の戦いでは、会津の上杉景勝、水戸の佐竹義宣の南下を防いだ。初代福井藩67万石の藩主。長男の忠直は素行に問題があり、次男の忠昌に交代させられた。三男直政は出雲国松江藩主、五男直基は結城松平家、六男直良は播磨明石藩主になるなど、将軍家の兄の
※和意谷池田家墓所「二のお山」池田利隆公、正室鶴子の墓所・・・向かって左(奥)が利隆、右(手前)が鶴子の墓です池田利隆公、鶴子の墓戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573
天海(156)江戸城に入ると、今度は秀忠が、能や酒食で諸大名を持て成したのである。その緩慢な動きに諸大名も訝しく思い、大戦を前にこのようなことでは良くないと口々に言った。この時、江戸にいた諸大名は、伊達政宗、結城秀康、福島正則、黒田長政、池田輝政などである。「どうなされました。そろそろお話下されてもよろしいのではないでしょうか。」と正信が言うと、「お前も上方の情勢を探っているのであろう。」と家康は言う。すると、正信は、我が意を得たり、と笑みを浮かべて、「
期間:2024/04/23〜05/09天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額戦)徳川秀忠:仁孝恭謙の徳呪)徳川家光:大権現の尊崇戦)徳川家康:天下泰平の志武)松平信康:三郎の尊影射)督姫:神君の血縁戦)江:大猷の抱き守星2戦)酒井重忠:奇襲©コーエーテクモゲームス
昨日は増上寺へ再び詣って参りました🙏東京タワーと本堂✨いつ見ても何度見ても心浮き立つ光景です😍今回の目的はこちら開運出世大辨才天ご開帳天安二年(八五八年)掘られたという大辨才天様は、徳川家康が天正十八年(一五九〇年)から信仰した秘仏で、四月十七日の徳川家康の命日に合わせて毎年ご開帳されています。三録山宝珠院は、増上寺裏手。一旦境内を出て後ろへ回り込む方向ですここでもつい撮っちゃう😍歩いて戻っていたら、この日法会があった熊野神社の横を通ったので、お参り🙏熊野神社だけあって、玉
天海(151)実は当年三月は謙信公の追善供養にあたるので、夏中には上洛するつもりであります。それまでに武具を集め、国政を整えていたところ、長盛と吉継の使者が来て、逆心がなければ直ちに上洛せよと言ってきました。赤児でもあるまいに、内府様にしても、讒言を真に受けずに、しっかりと調べれば分かることでありましょう。大体、逆心があっても、知らん顔して上洛すれば褒美をもらえるのであろうか。景勝はそのような世では生きづらいし、弓取りの誇りも失われるであろう。まずは讒言したものを御取調
--------------------------------------------2024年本も大事、人の話も大事。--------------------------------------------2023年秀忠、、、父に戒められる。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
--------------------------------------------2024年人間は平穏には生きられない。愚かな生き物、、、人間、、、わたしもその一人。--------------------------------------------2023年平和ゆえのジレンマですね。やっぱり人間関係は難しいのですね。人は対立するためにしか存在できないのでしょうか。君がいて僕がいる、、、愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,
天海(134)「訴訟は見直す、治部は蟄居させると言っているのだが、全く、聞く耳を持たないのだ。訴訟者の中には与右衛門(高虎)もいて清正らを説得させているのだが、手に負えないそうだ。オレのおひざ元ともいうべき伏見で騒乱が起きたとなると、さすがに面目が立たない。」と家康は困った顔で言う。「主張が聞き入れられなければ、内府であろうと捨置かん、と息巻いているようですな。」と正信は楽しそうに話すのだ。「オレが困っているのに、お前は嬉しそうだな。」と家康が言うと、「もうお答
うっちーこと宇都宮芳綱です刷新間もない頃に、9-17鯖でこんな合成にトライしましたこの秀吉さんは1-8鯖の本城主で購入し、素材が豊富な9-17鯖に移動したのです失敗しなければOKですが、果たして結果はグッジョブ♪('-^*)/これで失敗したら泣くよ続いて行きますこれは四至ノ神域に付いて欲しいですが、果たして結果はグッジョブ♪('-^*)/四至ノ神域じゃなかったけど、
No.0352022.4.3(日)真田の兵ども/佐々木功/角川春樹事務所/2021.12.18第1刷1700+10%非常に読ませるリズムと力を持った文章にワクワクしながら読み始め、止まらない止まらないと思っているとあっという間に物語世界に取り込まれ抜け出せない。一気に読了。このストーリー感は、奇想天外な自由発想の山田風太郎に繋がっていく「忍者物語」だろうか。ラストの「真田十勇士」が吠えるシーンでは、知らず知らずの内に込み上げる高笑いを抑えることが出来なかった。これも、作家の技
--------------------------------------------2024年バッファが必要ですよね。余裕がない人生は辛すぎる。--------------------------------------------2023年「それがトップのゆとりというものでございます。四角いものにぴっしりと四角い蓋をして、中の物を窒息させてはなりません」なるほど、確かにそうかもしれません。もしくは、どんなルールを作っても隙はあるということですか。人がつくるルールで
あいも変わらず遅々としてます💦お江と徳川秀忠の子…つまり、浅井、織田、徳川の血を引いているわけなんだけど、そこから天皇陛下に至るのが、家光と勝姫今回は勝姫から天皇陛下まで勝姫は、結城秀康の子、忠直に嫁ぐのだけど、この結城秀康、秀忠の異母兄にあたる人家康の正妻の築山殿が、秀康の生母を側室として認めなかったので、次男であるにも関わらず低い扱いを受けている一時期は豊臣秀吉の養子となり羽柴姓を名乗ったこともあるその秀康と側室の間に生まれたのが忠直忠直は当初、家康や秀忠から慈しまれたけれど、
仙波東照宮の御朱印御朱印は川越八幡宮にて、直書きして頂きました🙏参道入口仙波東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮、とともに三大東照宮のひとつともいわれる⛩️山門⛩️鳥居⛩️拝殿仙波東照宮は、喜多院第27世住職天海僧正が初代将軍徳川家康公を祀ったもの🛐家康公は、元和2年(1616)4月17日、75歳で薨去されると、いったんは、静岡県の久能山に葬られましたが、家康公の遺言に従い、元和3年(1617)、2代将軍秀忠は亡父家康公の遺骸をあらためて日光に移葬しま
徳川秀忠関ヶ原の戦いで遅刻した人だな。実は三男なんだよな。長男、次男はちょっと気の毒だった。通勤時の電車の遅延証明書みたいなモノがあればね。関ヶ原の戦い後に速やかに提出しただろうね。
※こちらの記事は、令和3年7月30日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第47弾として、「上田(うえだ)城の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】江古田原沼袋合戦権現山の戦い第一次国府台の合戦川越城の合戦志賀城の合戦郡山城の合戦厳島の合戦四万十川の合戦今山の合戦耳川の合戦金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦三方ヶ原の合戦叡山焼
歴史ドラマといえば大河ドラマいくつもお気に入りはありますが何と言っても「葵徳川三代」あくまでドラマはドラマ歴史そのものでは無いけれど今の日本人の文化や生活習慣を形作ったのは鎖国政策と260年の間大きな内紛を起こさなかった徳川幕府によるものと☺️その過程が見られるドラマオンデマンドで何度も見直してるけど特に家康が亡くなり秀忠に代替わりしたあたり家康の神号を「東照大権現」とする辺りの天海と金地院崇伝の攻防の面白さ諸法度など家康の施策から更に向上を図る秀忠と側近の才覚などいゃ〜
東日本大震災から13年が経って、元日に能登半島で大地震があって…元千葉県民の〝火打石〟(北総の住民でした)としては、千葉県東方沖で頻発している地震も気にかかります。実家は千葉県北西部(東葛飾こちら参照)ですが、「地震相次ぐ千葉県、飲料水や非常食の買いだめ急増」などというニュース(こちら)を聞くと、父母や(数少ない)友人は大丈夫なのかと心配になる…って、埼玉県南部(南中部こちら参照)に住んでいる自分も千葉県東方沖で地震が起きれば無事では済まないだろうに。本
ということで3月2日ですが、芝公園の河津桜がキレイとのことで行ってきました。芝公園には旧台徳院霊廟惣門があります。国の重要文化財になっていまして、芝公園や東京プリンス周辺は元々2代将軍徳川秀忠の廟所で、旧台徳院霊廟惣門は1632年に建てられました。1945年の空襲でかなりの建物が焼けてしまい、残ったもののうち旧台徳院霊廟惣門だけが現在の場所に移築されています。芝公園の河津桜はまだ観に行ったことがありませんでした。場所柄河津桜と東京タワーのコラボがよくSNSに上がっており、これは
「上街道」を進みます。曹洞宗のお寺「報恩寺」です。先に記事にした「土田のビードロ」の創業者・石塚岩三郎は、幕末に没しここに葬られています。報恩寺から主要道路に出ると、屋敷門だけがポツンと残されています。少し前までは屋敷があったようですが、今は綺麗に整地されています。ここが「土田宿本陣跡(止善殿)」があったところです。この地は旧東山道土田~善師野~犬山という経路があったことから、古くから宿駅があったようです。初期の中山道の宿駅でもありました。木
新井天神北野神社から、徒歩すぐ。今回最後の目的地は、新井薬師こちらの西門から入っちゃったので、正面から入り直して。真言宗豊山派新井山梅照院薬王寺が正式名称。こちらは霊堂。山門をくぐり直して(笑)境内は桜🌸がいい感じでした。何人か写真を撮っていました。春はもうそこまで🌸最後に素敵な桜を観て🌸こちらは枝垂れ梅だと思います。結構終わりのほうでした。新井薬師の創建は天正14年(1586)。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)がこちらの薬師如来
【問題】徳川秀忠の最初の妻・小姫の説明として正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】伊達政宗の姉武田勝頼の妹織田信雄の娘佐竹義宣の姪【正解】織田信雄の娘【解説】天正18年(1590)、徳川秀忠は織田信雄の長女で豊臣秀吉の養女となった小姫(おひめ)と結婚した。小姫は当時6歳で翌年死去したため、婚姻は形式的なものであった。
天海(106)8月19日、秀忠は伏見を発し、江戸に向かった。江戸に入れば直ちに武将を集め、いつでも上洛できるよう臨戦態勢をとる予定である。秀吉の死は朝鮮の役もあり、当面の間秘密とされた。しかし、早くから民衆の間に噂は広がっていたのである。8月25日、家康と利家は、秀吉の死を秘したまま、徳永壽昌、宮木豊盛を朝鮮に派遣し、明と和して、軍を帰国させることを決定したのであった。8月28日には、家康と五奉行の間で早くも内訌があったという。そこで輝元と五奉行の間で盟約を交わした
早い話が、宇都宮城釣天井事件とは、本多正純が、幕府のトップ(または徳川秀忠)にはめられて失脚させられた事件である。どうして釣天井などというトリッキーな策を使ったのか?実際のところ、釣天井などいうものがその時代にあったのかどうか?あるいは歌舞伎で誇張されただけなのか、よくわからない。しかしそこまでしても幕府から追いやる理由があったのかもしれない。普通毒殺のほうが手間もかからないと思う。果たして天井が落ちてきて人殺せるのかどうかわからん。ある程度重さがないとダメだと思う。例えば笹子トンネ
天海(102)秀吉が病床に就いたのは、晩年に隠居城として築いた伏見城であった。伏見城には淀殿と秀頼が住んでいた。居城である大坂城には北政所・寧々がいたのであるから、いわば正室を蔑ろにして側室の城で臥せったのである。5月15日になると、早くも『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名称の遺言を五大老とその嫡男、および五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てて作成した。上記の諸将は、起請文を書きそれに血判を付けて返書したという。以下要旨。①家康は律儀ものなので
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで、2023年の年末に「家康」が亡くなりドラマが完結したものの「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを続けてきました。今回のお城シリーズは昨年(2023年)11月からスタートして、「徳川家康の出生・青年時代から大御所」までに関わったり所縁があるお城、そしてその死後徳川幕府を盤石にする為に後継者である「徳川秀忠」の命で築かれたお城を紹介してきました。「家康」に所縁のあるお城は、まだまだあると思いますが、一応私の中で捉えて訪
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで、2023年の年末に「家康」が亡くなりドラマが完結したものの「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを続けてきました。<「家康」逝去後の出来事>強力なパワーを持った「家康」を失った「徳川(江戸)幕府」としては、その後暫くの間は「徳川家」に対する不穏な動きが起こらないか、特に朝廷と結びつきを持った動きがないか、畿内の動向を監視するとともに、西国に多くいる外様大名の動きを監視と抑制を行う為に、「大坂城」周辺から西側にかけて或いは