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大僧正天海(146)羅山の名が知られるようになるのは、「方広寺鐘銘事件」であろう。新進気鋭32歳の羅山は、家康の期待通りに「鐘文」の中に「呪詛」があるとの見解を示した。羅山は一貫として仏教を批判していた。それなのに、あえて「僧侶」として家康に仕えたのは、いづれ崇伝や天海にとって代わりたいという、野心のためであろう。思想的には仏教に代わり「儒教」、取り分け朱子学を広めたいということである。寛永元年(1624年)には、将軍・家光の侍講となっていて、寛永9年(
大僧正天海(144)「(寛永九年正月廿五日)本城に天海大僧正、金地院崇伝をめし、御葬式の内議あり。深夜密々に幽宮へ納め奉るべしと定らる。御葬日をも崇伝考て廿七日と定む。」(「大猷院殿御實紀」)家光は、本城に天海と崇伝を召すと、御葬儀の段取りを打ち合わせた。今夜のうちに御尊体を幽宮に納めることになったのである。「幽宮」とはこの場合、「神霊が永久に鎮まる宮居」の意味であろうが、具体的には西の丸の何処なのかは、分からない。崇伝は吉凶を調べ、葬儀の日を廿七日と定めたので
天下人の名字に込めた大名統制策ということで、前著『羽柴を名乗った人々』に続いて有力大名に松平名字を与えた(島津家久の例から「任じる」という形だったことが判明しています)江戸幕府は、どのような基準で行っていたのか。本書では20家を超える外様大名の事例からそれを類例化していきます。『『羽柴を名乗った人々』黒田基樹著』羽柴という名字は、元々木下藤吉郎秀吉が織田信長配下の国持大名となった辺りから使用するようになったものです。信長が自身の立場の上昇に伴い一門であっても織田の名…ameblo
大僧正天海(143)「(寛永九年正月)廿四日夜亥刻、大御所大漸に及ばせ給ふ。廿五日御遺命には、御葬礼御法会倹約を宗とし、霊牌一の外何も新に製する事あるべからずとなり。」(「大猷院殿御實紀」)寛永9年(1632年)1月24日夜、10時頃に秀忠は息を引き取った。最後に命じたのは「祭礼・法会は倹約せよ、霊牌を一つ作ればよい。他には何も新調するな。」という言葉であった。長らく秀忠は「凡庸な二代目」と評価されていた。テレビドラマでも、関ケ原に遅延し家康に激しく
大僧正天海(142)秀忠は御三家に向かい、「今の将軍は果報者だ。先代とお別れした時、私は些細なことでも、話し相手がいないため、随分心細く感じたものだ。それが今では、解決が困難な問題も、お互いに心を通わせ、将軍を支援することができる。もし将軍に相応しくない挙動があったときは、汝等のうちで代摂(職務を代行する)することだ。決して神祖(家康)の櫛風沐雨の労を忘れることのないようにしなさい。」と話した。三卿は感涙して言葉もなかったのである。次に秀忠は老臣を呼び、「私
大僧正天海(141)「(寛永九年正月)三日拝賀例の如し。金地院崇伝まうのぼり年筮を献ず。大御所年筮は御病中によりて奉らず。此のほど駿河大納言忠長卿はしばしば崇伝につきて、御勘気御免のことをこはれしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)正月3日、例年通り、崇伝は年筮(占い)を行うために登城した。忠長は崇伝を通じて「御勘気御免」を願い出たが、これも認められなかった。4日、将軍家光、尾張大納言義直、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房がそろって西の丸の秀忠を見舞った。7
大僧正天海(140)【秀忠薨去】「(寛永八年)閏十月朔日御咳気により外殿に出給はず。(中略)四日、御平癒有て始て西城にならせ給ふ。」(「大猷院殿御實紀」)家光は相変わらずで、病弱であった。周囲は、秀忠の病状が思わしくないのに、家光に万が一のことがあってはどうなるのか、心配で仕方がなかった。せめて家光に跡取りがいれば良いのであるが、その気配はなかった。「(寛永八年十一月)二十一日駿河大納言忠長卿江戸近郊迄もまかり、大御所御けしき伺はん事を金地院崇
大僧正天海(138)「(寛永八年六月廿三日)大御所御不例により、医員岡本就封のいとまたまふ。」(「大猷院殿御實紀」)依然として秀忠の体調は優れず、医員の岡本就封が辞職することになった。その間も、秀忠の「宿痾」は進行し、日々「気鬱」が激しくなっていったのである。半井通仙院成信が召され、懇ろに診察を受けると、「寸白」の気がある事を発見した。まず「宿痾」とは持病・長患いのことで、「気鬱」とは、「疲れやすく、憂鬱、倦怠感」に苛まれ、「食欲がなく、気力がわかない」
大僧正天海(137)「(寛永八年三月)八日、大御所疝なやませ給ふにより、御気色うかがひ給ふとて西城にならせらる。尾水両卿もまうのぼらる。」(「大猷院殿御實紀」)この頃から秀忠の体調は、急激に悪くなる。この「疝」とは恐らく「疝痛」のことで、腹部を中心に、急激に差し込むような激しい痛みが周期的に繰り返される症状をいう。ただし、疝には「ヘルニア」という意味もあり、26日には、灸治療により、「平快」しているので、その可能性もある。「十六日けふより、二十日迄、
母・西郷局=父・徳川家康三男・徳川秀忠=お姫おえよ子千姫玉姫勝姫初姫和姫長丸(1601~1602)徳川家光徳川忠長徳川政子保科正之徳川秀忠(とくがわひでただ)1579年5月2日–1632年3月14日1605年から1623年の退位まで徳川王朝第2代将軍徳川家康三男娘の徳川雅子を通して明正皇后の外祖父初期の人生(1579–1593)徳川秀忠は1579年5月2日徳川家康と西郷夫人の間に生まれました
大僧正天海(136)「一、駿河大納言様、弥(いよいよ)御手討かさなり、此十日前ニ小浜民部子御誅伐、其後御伽之坊主御きり候由候、年寄衆かたく御異見被申、以来ハ可仰付とて御かためニて候処、又か様ニ御座候。」(「細川家書状」)忠長は浅間神社で猿狩りをした帰り道、何を思ったか、駕籠の中から脇差を抜くと、駕籠かきの肘を突き刺したという。家光のもとには、これまでも忠長の粗暴な行いが報告されていたが、秀忠には知らせていなかった。寛永7年(1630年)12月、忠長は
大僧正天海(135)【駿河大納言】「(寛永七年十一月)是月駿河大納言忠長卿封地にて城をいで、安養寺山の奥毬子といふ所にて猿を狩たまふ。江府の鎮守山王も、猿をもて神獣とし、当国浅間の神も猿を神獣とし給ふよし申伝ふれば、この山中にて猿を殺事、むかしより大に忌所なりと、村老らなげきとどむるといへども、更に用ひず狩せられしかば、国人等この卿の御行衛頼母しからず。いかがおはしますべきと、爪弾してあざみけるとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)家康の子孫には、大きく分けて二つの
那須町芦野の南、唐木田で国道294号と町道が合流する東側の竹林にある。建中寺を新墳墓というのに対し、ここを旧墳墓として区別している。確認されているものとして、18代資泰のものと19代資俊の実母のものがある。南北朝時代の芦野氏の祖資方(すけかた)から、江戸時代前期の18代資泰(すけやす)の頃までの墓域であると伝えられている。資泰は大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)に出陣しており、将軍徳川秀忠の上洛にも2度お供している。その墳墓域から、少し上の方に上がると竹林が広がっている。その
大僧正天海(131)「高虎命を聞き、泪を流し、拝謝して曰く、恩眷一に斯に至る、敢て勉強せざらんやと言ひ、明日疾を力め入り謁す。」(「名将言行録」)高虎は、利勝の話を聞いて、涙を流し、手を合わせた。「まさか、そのような御言葉を頂けるとは思いませんでした。これほどの恩恵を受けたからには、一層の研鑽、努力いたします。」と決意し、「明日は気力を奮い立たせ、お目に掛かりに参ります。」と述べた。秀忠は大層喜び、三の丸まで出迎えた。高虎は秀忠の歓待を受け、夕刻まで西の
大僧正天海(130)【寒松院】事情を知らぬ、中御門尚長と阿野實顕は驚いて、「通村が御心に叶わぬとは、いかなる事でしょう。」と尋ねた。「仕えるさまが、両御所の御心に叶わぬのだ。両御所の御心は、我等には計り知れぬ。ただ、二條行幸の時以来、通村の所業がお気に召さぬとのこと。急ぎ別のものに武家伝奏を命ずるべきである。ついては日野大納言資勝が、適任と思うので、新たな伝奏としてはどうか。」というのである。翌15日、「通村を罷免し、新たに日野資勝を武家伝奏とする
今日はお不動様のご縁日なので、高野山の、塔頭寺院、南院さんの、お大師様を守護されているお不動様、波切不動尊参拝です。本堂へ。本堂で、お不動様のご真言をお唱えし、虎哲霊の安寧、成仏、ご守護、オカンの当病平癒と延命を祈願しました。本堂の天井には、龍神様が、描かれています。次に、隣にある徳川家霊台に初の参拝。説明文、日本語と英語だけというのがナイスです。御城のような石垣があります。徳川家康の霊屋でしゅ。その内部、日光東照宮の様な、装飾がされています。水戸黄門でおな
大僧正天海(129)「寛永六年十二月一日、所司代板倉重宗、武家伝奏権大納言中院通村・左衛門佐土御門泰重ニ、俄ノ譲位ニ就キテ、秀忠・家光ノ詰問アラバ、返答スベキ旨命ズ。」(「史料綜覧」)重宗はいずれ幕府の処分がある事を予測し、武家伝奏の中院通村と土御門泰重に、幕府からに尋問があれば、答えるように命じた。後に通村は江戸に召喚されているのである。「寛永七年正月廿六日、所司代板倉重宗、京都ヲ発シテ、江戸ニ之ク。」(「同上」)正月賀辞のため、重宗は江戸に下
大僧正天海(128)「御局ノ衆ノハラ宮様達イカホド出来申候ヲ、オシコロシ、又ハ流シ候申候事、コトノホカムゴク御無念ニ思シメサレ、イクタリ出来申候トモ、武家ノ孫ヨリ外ハ、御位ニハツケラレナイヨウトノコト。」(「細川忠興書状」)後水尾天皇には、側室(局)がいたが、中宮和子以外の子を幕府は認めなかった。このため、側室にできた子は、「オシコロシ」または「流シ」てしまったのである。これを行わせたのは、恐らく秀忠であろう。保科正之の段でも話したが、秀忠は異常なほど子供に
久能山東照宮は静岡市にある徳川家康を祀る神社です。家康が1616年に死去すると、その遺命により駿河湾に面した久能山に葬られ、翌1617年に2代将軍・秀忠によって久能山東照宮の社殿が造営されました。久能山には推古天皇の頃、渡来系の秦氏が久能寺を建立し、1568年には武田信玄が久能寺を他に移し、この要害の地に久能城を築きました。また、久能山東照宮と同じ時期に日光東照宮の造営が行われ、家康の一周忌に日光東照宮へ遷宮されました。日光東照宮は3
雑誌「歴史街道」の今月号。特集は、「真田一族と関ヶ原」ということで、ようやく、購入。歴史街道2025年12月号(特集1「真田一族と関ケ原」)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}その中から、「第二次上田合戦」について。そもそも、この「上田城」は、徳川氏が築いた城です。天正11年(1583)、当時、徳川氏の配下となっていた真田氏の領土を、越後国の上杉氏が、攻撃をする様相を見せる。それに対抗するために、徳川氏は、「海士淵」という場所に、城
来ていただいて、ありがとうございます今日の文字は22日の「ブラタモリ」は「京都•二条城」お題は「二条城に隠された徳川三代の思惑とは?」昨日は何故、家康は二条城をあの場所につくったのか、という「家康の思惑」を書いてきました今日はその後、二代秀忠、三代家光がどんな思惑で二条城を、発展させていったかをそれを探りにタモリさんたちは二条城の北側に北側には住宅地がそのまま歩いて行くと、高さも積み方も違う石垣がタモリさん「(つくられた)時期
当初は入手するつもりがなかった。大河ドラマを毎年、見ている訳ではないので特に思い入れなどなかったが、この間、徳川家広氏がテレビ出演を果たし、また特にベトナム人の奥さんには良くしてもらっているので暫く経ってから購入することにしたのだ。これまでも見聞きしてきたように徳川家康は駿河の今川家、尾張の織田家、甲斐の武田家という戦国時代の真っ只中で生まれた。徳川家康の誤算というのは最初に結論を言ってしまうと主君の今川氏真の死のほか、やはり本能寺の変による織田信長の自害であろう。この織
11月22日土曜日トトロの森お散歩コースを歩きました\(^o^)/狭山湖石原慎太郎著山口観音と勘違いした狭山山不動寺総門長州藩毛利家江戸屋敷の門御成門2代将軍徳川秀忠御朝に建てられていたものスゴいお寺でした(^o^)byXperia1Ⅵ
大僧正天海(124)「(寛永六年八月)廿一日御乳母をして伊勢両宮に代参し上洛せしめらる。」(「大猷院殿御實紀」)お福は家光が重篤になったとき、東照大権現と伊勢神宮に願掛けをしている。その結果、家光が快復したと考えられたので、お礼の参内をすることになった。日光山には家光自らが参内したが、病み上りの家光に伊勢までの長旅は困難であった。そこで代参として、将軍様お局(御年寄)であるお福が伊勢神宮を訪れ、併せて上洛することになったのである。病床の家光に、朝
大僧正天海(123)「(寛永六年四月)又、東叡山麓の不忍池に異鳥三飛来る。人これを見しるものなし、画工をしてその形状を模写せしめて御覧にそなふ。西海の辺りには多くすむ鳥にて、名は島鵜といふよしなり。」(「大猷院殿御實紀」)不忍池に見慣れぬ鳥が三羽飛来して、話題になった。画家がその姿を模写して幕府に届けたという。幕府の者が調べるとそれは西海(九州)辺りに沢山いる「島鵜」という鳥だったという。では、その島鵜という鳥がどのような鳥かというと、これが良く分からない。
大僧正天海(121)一方、「水痘」は、一般に水疱瘡と呼ばれるもので、水痘・帯状疱疹ウイルスによって引き起こされる感染症である。家光は幼少期に「水痘」に罹患したと書かれているが、これも「天然痘」であったともいう。家光付の医員(岡孝賀、久志本常淳)は当初水疱瘡が再発したものと思い込み、治療を誤った。こうして家光は重体となったのである。天然痘は大変感染力が強いため、家光の近習も、恐れて近づこうとはしなかった。そこで家光が高熱を発すると、お福は自ら添い寝をし
大僧正天海(120)【家光大病】「(寛永七年七月)御不予によて星夕の賀なし。尾水両卿御けしき伺はれて後、西城にのぼり拝謁せらる。」(「大猷院殿御實紀」)家光はまたしても体調を崩し、星夕の賀(七夕)が中止となっている。将軍家は、毎年庭先に祭壇を設け、梶の葉に和歌を書きつけて星に供えるという七夕の行事が行われていた。また、七夕の祝膳には、素麺が出され、これを食べると病気にかからないといわれていた。尾張大納言義直と水戸中納言頼房がお見舞いに訪れ、その後、西の
大僧正天海(119)正之は不幸な生い立ちであったが、周囲の人間には恵まれていた。まず見性院は、温情があり、凛とした知性を備えた人物であった。幸松丸を自身の孫のように慈しみ、愛育した。正之の温情ある性格は、彼女によるものであろう。養父となった正光も、15年もの間、忠実に尽くした。また傅役には清廉潔白の士・民部正近がつき、訓育している。高遠城では、狩野八太夫、井上市兵衛、小原内匠等の剛勇の士に守られていた。16歳以降は、鉄舟和尚が、禅や儒学を指導している。正之は
生麦(なまむぎ)駅とは、明治38年に開業した京急本線の駅です。令和元年には、京急120周年記念でワンピースとコラボして、駅名が「生麦わらの一味駅」になったことがあるそうな。た、楽しそうじゃないか。このあたりは現在、横浜市鶴見区生麦。なので電柱の地域表示も生麦生麦。あっちもこっちも生麦。またも、線路との間に建物がはさまり、線路沿いですが電車が見えない。そもそも江戸時代、2代将軍徳川秀忠の一行がこの地を通りかかった時、道がぬかるんで水たまりだらけの状況だったそうな。住人たちは「お殿様
大僧正天海(118)正之の母は「お志津」という。父は北条家の家臣・神尾伊予栄加と伝わる。北条家滅亡後に浪人して、江戸に出たが、生活は苦しかった。お志津は幼い頃から子守などをして生計を援けたという。27歳の時、江戸城に上がり、当時「権勢ならぶ者なし」という大姥局の下女として奉公するようになる。お志津は、利発なうえに容姿端麗で、苦労人で気配りができた。それが秀忠の目に留まり寵愛を受けるようになり、やがて懐妊したのである。秀忠の正室・お江は側室を決して認めなか