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「天正壬午の乱:武田遺領をめぐる甲信争奪戦」をKindleで配信中。織田信長が本能寺に斃れ、織田領は戦国乱世に逆転。それは武田遺領であった甲斐・信濃も例外でなかった。「天正壬午の乱」をゲームデザイン的手法で分析。天正壬午の乱:武田遺領をめぐる甲信争奪戦(歴史ソウゾウ文庫)
今月インフルエンザに感染して、完治後も体調不良が続き体力が落ちました。今は、体調良くなりました。体力を付けるため、8月最後の日曜に山中城に行きました。山中城は、東海道三島宿と箱根宿の中間にあります。永禄年間(1558〜1570)北条氏康により築城。小田原の西の防衛を担う最重要拠点。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐による激戦となりました。豊臣秀次率いる7万の軍勢に対し、北条方の松田康長率いる3千の守備兵との間に、豊臣軍の一柳直末は北条方の銃弾を浴び戦死。秀吉の宿老として活躍した
後北条氏の箱根防衛ラインだった山中城跡に行ってまいりました。城の縄張りもさることながら、北条流と言われた堀の姿をぜひ拝みたいと思いまして、思い立ったら行っちゃいました。山城はかなり発掘・復元されていて、赤土のままだと維持しにくいこともあり芝でおおわれていました。小田原合戦に先立ち、前哨戦として秀吉軍が攻めた戦は、ものの半日で決着がついたということです。怒涛の攻撃と物量作戦によるものと思われますが、城の規模がかなり広大なのに守り切れなかったことが不思議でならないです。
南北朝時代の武将北条時行を描いた漫画「逃げ上手の若君」が人気だそうです。この話の最後がどうなるかが興味深いので、ネタバレ有でちょっと語ってみたいと思います。この話の主人公北条時行は北条氏最後の執権の息子で中先代の乱の主役。南北朝時代を暴れまわったのですが最後には足利幕府に敗れて散ります。しかし、その敗走後どうなったかについてはよくわからない部分があります。まあ歴史的記録においては二十代半ばで鎌倉において刑死したことになっているのですが、そもそも中先代の乱に失敗して敗北したと
6月1日の本佐倉城攻城記。(もとさくらじょうと読みます)京成本線・大佐倉駅から線路沿いに東へ。先が未舗装の十字路へ出たら右へ。50mちょい行くと案内が。左へ。あとは道なり。正面の小高いのが本佐倉城。途中に東光寺ビョウの案内。東光寺ビョウって、このあたりの郭の呼び名。城のメイン部分の図。城郭全体はもっと広いです。このあたりも東光寺ビョウ。草むらに立ち入ることはやめましょう。マムシがいるぞ。正面に人工的な地形が。本佐倉城
小田原城は、源頼朝の挙兵に参じた土肥実平の子・遠平の小早川城を始まりとするらしい。戦国時代になると大森氏の城となるが、1495年(明応4年)、北条早雲(伊勢盛時)が奪取。以後、小田原北条氏(後北条氏)の拠点となりました。三代北条氏康の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や、1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えました。その後、関東支配の拠点として拡張された城は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めのときには、城下町を囲む長さ9㎞の総
僕の長年のボランティア光君が、紫陽花(あじさい)を撮影してくれました。【大長寺】後北条氏由来の歴史あるお寺です。鎌倉女子大岩瀬キャンパスの近くです。数は少ないですが、本堂を左に行ったところに見事な株がありました。丁寧にお世話されているのでしょう。「家畜供養碑」畜産会社さんが建立したようです。生き物の供養碑としては、建長寺の「虫の供養碑」、茅ヶ崎の花水川沿いにも家畜供養碑があります。日曜日でしたが、私以外の人影はない静かなお寺でした。車いすで入ることができます。大長寺。鎌倉市
5月27日(土)は東京都八王子市滝山城の見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は八王子市教育委員会の村山修さんが案内してくれました。城郭史学会の見学会でこれまで滝山城は一度もありませんでした。意外な事に今回が史学会初めての滝山城見学会でした。滝山城石碑滝山城は駅から離れているので、この日の集合場所は城の最寄りバス停そばにある滝山観光駐車場でした。この日の参加者は34人でした。集合時間になると、今回の案内講師の村山さんから説明があり、見学会が始まりまし
4月4日、山中城を攻略。東海道線・三島駅の南口からバスで40分ほど。バスは1時間に1本くらい。途中の病院や三島スカイウォークへ行く人が多いので、平日でも混んでいます。三島スカイウォークここまでで多くの人が降車。山中城跡に着きました。山中城は旧東海道に沿って、南北700mほどの範囲に分布。バスを降りた場所は図の中央下。左が南(三島)で、右が北(箱根方向)。1558年~1570年頃に、北条氏(後北条氏、小田原北条氏のこと)が築城。東海道を西から攻めてくるであろ
可愛いゆるキャラに出会う(実は小田原北条氏ゆかりの足軽)いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!昨日は鎌倉北条氏について書き、今日は小田原の方ですよ。自分のツイッターの話ですが、小田原北条氏関連のフォロワーさんがいらっしゃる関係で、関連する史跡がある埼玉県寄居町のツイートがまわってきました。寄居町公式ホームページトップページwww.
伊豆の国市民有志による韮山城・伊勢宗瑞(北条早雲)の情報発信・支援を市長に要望しました。*鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏を区別するため前者を鎌倉北条氏・執権北条氏、後者を後北条氏・小田原北条氏と呼びます。伊勢宗瑞の嫡男氏綱から北条氏を名乗ります。鎌倉北条氏→桓武平氏後北条氏→伊勢氏→桓武平氏家紋は三つ鱗伊豆の小豪族だった北条氏が鎌倉幕府執権に就き権威を奮った事に因んで、伊勢宗瑞が伊豆國韮山に居城を構え氏綱が小田原に本拠地を移すと改称。後北条氏が関東の覇者として君臨します。
ゴールデンウィーク中、毎年恒例になっている山中城に行きました。山中城は、東海道三島宿と箱根宿の中間にあります。永禄年間(1558〜1570)北条氏康により築城。小田原の西の防衛を担う最重要拠点。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐による激戦となりました。豊臣秀次率いる7万の軍勢に対し、北条方の松田康長率いる3千の守備兵との間に、豊臣軍の一柳直末は北条方の銃弾を浴び戦死。秀吉の宿老として活躍した一柳の死に、秀吉は3日間嘆き悲しんだそうです。奮戦虚しく北条方は城主松田康長の討ち死により
多賀谷城跡公園から西に進み、八千代町を通って坂東市にある逆井城跡公園に向かいます。坂東市はどこかと思ったら、旧岩井市が猿島村と合併して坂東市になったとのことで、坂東はもっと広い範囲で、平将門の出身地との伝説があるので、坂東の中心を名乗っているようです。途中に古墳のような山があるので寄ってみると児童公園の山で、すぐ先の逆井城跡公園に着きました。広い公園は飯沼川の低地に面した台地の端にあり、空堀の先に二重櫓が復元され、戦国時代に後北条氏が築城してその後廃城になったとのことです。本丸では前日の
#いま気になってること小田原城のブログを書いていてもやもやした、北条氏の歴史をひもとくこと!そのもやもやの原因は、伊豆ひとり旅の最後の「北条氏の小田原城」2023年2月22日(水)2月22日(水)(車)5:30起床、日の出撮影7:30朝食8:30チェックアウト9:30小室山リッジウォーク“MISORA”(小室山観光リフト)10:00Cafe・32113:00ランチ14:00小田原城18:30八王子旅の目的は、す
4月10日、JR横浜線の中山駅へ。南口から線路と平行に北西へ10分ほど進み、左手に入ると三保天神前公園。公園の北西にある小高い場所が目的地。住宅地を回り込むように進み、目的地の南側へ行くとお寺の門。舊城寺(現字体では旧城寺)きゅうじょうじと読みます。入城門には龍門柱の一番上には龍と獅子多くの寺院などに見られますね。本堂元は榎下城(えのしたじょう)という城でした。この場所は第2の郭。本堂手前の右手にある解説パネル榎下城は、
3月29日、埼玉県行田市の忍城(おしじょう)を攻略。JR高崎線の熊谷駅で秩父鉄道に乗り換え。自分が乗った電車は動物のラッピング。他にもいろんなラッピングの電車が走っています。話が脱線したが、本題へ。行田市駅で下車城跡へ着く前にも、各種の跡地があります。高札場の跡この折れ曲がった道には、枡形門の跡確かに枡形の道ですね。このように、街中の至る所に石碑があります。見えてきました。忍の時鐘楼跡です。鐘楼跡を抜けると、
「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。武者行列のパレードが市内を勇壮に練り歩きます。鉄砲衆小田原城天守閣本丸広場では鉄砲演技も。北条早雲像小田原城☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今日は、本編のホームページに、下田城の登城記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html下田城は、現在の下田市の市街地の南側の小高い山に築かれた山城です。小田原城を拠点として関東一円を治めていた後北条氏のお城で、天下統一を推し進める豊臣秀吉と後北条氏との間の緊張が高まると、1588年(天正16年)に、下田城は、山中城と共に大改築を受けました。総延長700mもの空堀も築かれたそうです。下田城
私も子供の頃は今川は公家化して弱くなったと思っていました。近年の研究で、大大名となった今川は文化人としても優れていただけではなく、武士として武芸にも秀でていたと解っています。今期の大河の氏真はまるでバカ殿こういう描き方は簡単に人物のくせを表現できるのかもしれないけれど安易に過ぎませんか例えば高師直を歌舞伎の忠臣蔵で女好きの悪役と描いているからと、そのままに転写するのが芸がなさすぎるのと同じに思います。(実際の高師直は文武両道を地で行く文化人。軽薄な人物ではない)文武両道の知的な人
3/15(水)~17(金)に、「青春18切符」を使用して「お城巡り」に出かけた時のブログ、2日目3城目です。2日目は、ホテルを7時半に出て「高崎駅」周辺をブラブラしました。というのも、嘗て高崎には勤務地の支店があり度々訪れていたことがあり、もう10年も経てば周辺の様相が一変していたので変貌ぶりを眺めました。「高崎駅前」には「オーパ」と「イオン」「高崎髙島屋」前までペデストリアンデキッキそして8時前に駅レンタカーに到着して8時15分にはスタートしました。まずは「安中市」にある「
今になっての投稿ですが、今年初の城攻めは1月。続100名城興国寺城。前々から行きたかったんです。ここは戦国大名第一号と言われる北条早雲旗揚げの城。当初、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は足利家に仕えており姉(妹の説もあり)の北川殿が今川家の今川義忠に嫁いでいました。1476年北川殿の夫である今川義忠が戦死当時4歳だった北川殿の嫡男・竜王丸と義忠の従兄弟・小鹿範満の間に家督争いが起きます。この時、竜王丸側として今川家に派遣されたのが伊勢(早雲)。小鹿側として扇
北条氏康-大願成就篇(単行本)Amazon(アマゾン)314〜5,104円富樫倫太郎先生の北条サーガ北条氏康編の第二弾です。氏康の父・氏綱は、順調に領土拡張を進めていきます。まず、ここまで良好な関係を維持していた今川家が義元の妻を武田家からもらった件で手切れをし、駿河国の東側をせめて自領にします。更に房総半島で勢力を築いていた小弓公方を国府台合戦で滅亡に追いやり、扇ガ谷上杉家の河越城を奪い取り、武蔵の国をほとんど手中に収めて、扇ガ谷上杉家を滅亡寸前の所まで追いやります。
江川邸から、ガイドの説明を聞きながら韮山城へ行きました。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のさい、山中城を攻める部
報徳二宮神社の先に図書館がありますが、老朽化で最近閉館したようです。図書館の先の郷土文化館は無料で見学でき、遺跡からの出土品や、後北条氏の勢力図、小田原攻めの配置図が展示されています。明治になって箱根登山鉄道小田原市内線の前身の馬車鉄道が出来て、丹那トンネルの工事資料もあり、小田原城の本丸の動物園に2009年までゾウのウメ子がいたのを思い出しました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%99%BB%E5%B1%B1%E9
土曜日の午後、鎌倉歴史文化交流館で開催中の「北条氏展vol.4北条義時の子どもたち―中世都市鎌倉の黎明」に行って来ました館内での撮影は🆗(一部、展示品を除く)撮影したものはSNSで発信して欲しいと書かれていたので、今回は遠慮なく撮影しました以下、前回記事からの続きです。北条氏滅亡後の室町時代足利氏によって鎌倉府が設置された後、町は一旦活気を取り戻しましたが、長くは続かなかったようですね。4代公方・足利持氏(もちうじ)御教書1445年、4代~5代公方と幕府(京都)との関係が悪化、鎌
相模原市に編入されたかつての神奈川県城山町。城山ダムによって堰き止められた津久井湖。相模湖、津久井湖、この辺りの神奈川県の水源ではいくつかの町、村が湖水に沈んでいます。治水はどうしても地形を変え人が住む場所を変え、湖底にかつて人の営みがあった事さえ忘れ去られます。城山町という名の通り、ここには城がありました。山城です。城跡までこの湖畔の観光センターからは一キロほど登ります。時間が無いので登るのはまた今度にします😅この城山は鎌倉時代に三浦党である津久井氏の築城
都道府県別索引へ雛祭りやDRCにうつつを抜かして城攻め忘れやがったなんて後ろ指さされれんよう、城、城っと💨ここからは土の遺構出てくるよ〜🙌→現在位置八ツ橋の架かる池の横が新曲輪の北端にあたる。斜面の立ち上がりの外側に土塁、その内側は堀だったらしい。沼沢の広がる岸寄りに土塁を築いて、わざわざ堀を入れている…😮この堀は新曲輪の外側を這った後、岩槻城址公民館のところで途切れている。→現在位置野球場の方から入ってくる道があって、ここに大きな説明板が立っている。往時
ある調査研究発表会に参加した。その時、聴衆の質問に対して、尊敬するある研究家が「北条は滅びる運命にあった」と答えた。ある「現象」があれば、その現象が起こる「要因」は必ずあるのではないか。歴史というのは「現象」の連続である。「滅亡」というマイナスな現象があったのなら、その要因を考察し検証することが、歴史研究に対する社会の要請ではないだろうか。そうした社会の要請を考えない研究は、小中学生がやっている「調べ学習」と大して変わらない。「トリビア」的な「新発見」がもてはやされてい
今日は、神奈川県と静岡県の県境にある足柄城の登城記を本編のホームページにアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html足柄城は、足柄峠に位置していて、築城されたのは1555年(天文24年)。北条氏康が改修した記録が残っているそうです。その後、北条氏が、甲斐・武田信玄と駿河・今川義元と結んでいた三国同盟が、武田信玄によって破られた1568年(永禄11年)の翌年から大規模な改修が行われ、更に、北条氏
1月10日、八王子城へ。約3年ぶりの攻城。以前にこんな石碑あったかな?無料駐車場脇にある石碑は以前からあったけど。前回はメイン部分の御主殿を見たので、今回は本丸など山の方へ。籠城戦に備えて築かれた山の部分は八王子城跡自然公園って言うんだ。よく見ると、ツキノワグマに注意だと。マムシ、イノシシに注意の看板は以前からあったけど・・・用心深いクマって、人の気配を感じるとじっと身を潜めるそうで。人が1m横を通っても動かずに隠れるから、我々は気付かないもの。うっかり道を踏