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おはようございます!今回の目的地は広島平和記念資料館へ行くことでした恥ずかしながら、初めての訪問でした戦後80年の節目なので、行くべき所と決めていました原爆ドーム平和の灯原爆死没者慰霊碑「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」原爆の子の像長崎の平和記念館へは行ったことがありますが、衝撃を受けていたので広島は避けていました今回広島の平和記念資料館に行くと覚悟を決めて調べてから訪問しましたがあまりに悲惨すぎます戦争は犠牲が大きすぎる外国の方もたくさんい
袋町小学校平和資料館2000年8月6日、NHKスペシャル「オ願ヒオ知ラセ下サイ〜ヒロシマ・あの日の伝言〜」が放送された。番組制作のきっかけは、前年に市立袋町小学校、元の袋町国民学校の被爆した校舎を取り壊す前の調査で、被爆直後に壁に書かれた伝言が見つかったことだ。校舎は一部が保存されることになり、本格的な調査が始まった。NHK広島局はこの「伝言」の関係者を探し、当時の状況と「伝言」の持つ意味を探った。見つかった「伝言」の中には、たった四文字のものもあった。「患者村上」。それは誰なのか、何
広島平和記念資料館地下一階の奥まったところに情報資料室がある。ここには膨大な数の図書が保管されているが、いつ行ってもひっそりとしている。また広島原爆死没者追悼平和祈念館にはこれまた膨大な数の手記が納めてあり、読みに訪れる人を待っている。広島原爆死没者追悼平和祈念館のホームページでも多くの被爆体験記を読むことができるが、中でも心に残る手記の一つに村上敏夫さんの「三児に残す吾が家の原爆記録」がある。村上さんは当時市役所の国民義勇隊本部事務長を勤めていた。8月6日の朝は8時過ぎても爆心地から
広島の2日目は原爆関連施設を観光しました。最初に行ったのは7時30分~8時30分入場予約をした「広島平和記念資料館」へ原爆投下時間、1945年8月6日午前8時15分一般の観光者も多くいましたが、修学旅行生や外国の方々が熱心に見ていたのが印象的でした。平和記念資料館から「原爆死没者慰霊碑」「平和の灯」「原爆ドーム」のある平和祈念公園を望みます。祈りの像平和祈念像原爆死没者慰霊碑原爆の子の像原爆ドーム人類史上初の原子爆弾により大破
『空白の学籍簿』の新聞記事を読んで『原爆の子』を本棚から取り出した。その記事は、2022年10月25日付の朝日新聞、岡田将平さんが書いた。冊子をめくると、あるページに目がとまった。田中悦子さんという生徒の項目だ。悦子さんは広島市役所近くで、建物を取り壊して延焼を防ぐ建物疎開の作業中に被爆した。外傷はなかったが、髪は抜け落ち、歯茎から出血するようになり、約1カ月後、13歳で亡くなったという。驚いたのは、冊子に記されていた住所が私が住むマンションのすぐそばだったことだ。詳しく知りた
11月18日に静岡を出発して、帰宅の路につきました🚙伊勢湾岸自動車道の刈谷ハイウェイオアシスで途中休憩をしました✨リサとランの散歩と、私たちのおやつとして「栗ういろう」を買うためです🌰ハイウェイオアシスの観覧車がワンちゃんOKになっていました🎡乗って見たかったのですが、天気がイマイチだったので次回に回すことにしました✨お昼ご飯は往路でも立ち寄った四日市市の「まぐろレストラン」へ🐟️これまで美味しそうだけど頼まなかった「あなご天丼」と「天丼」を食べました❗すっごいボリュームでと~って
坪井直さんを追悼するテレビ番組や新聞記事でよく取り上げられたのは2016年5月のオバマ大統領との握手だが、それとともに私が大切にしていきたいのは教員時代に取り組まれた「空白の学籍簿」だ。教員時代の坪井さんのあだ名は「ピカドン先生」。自己紹介では必ず自分の被爆体験を話し、8月6日の前には授業を割いて話し、全校生徒の前でも証言した。1977年、坪井さんは翠町中学で教頭をしていた時に学校の戸棚から一冊の古い学籍簿を見つけた。墨で「昭和二十年八月六日戦災死児童学籍簿第三国民学校」と記してあ
■広島へ向かった理由–心の奥の声に導かれてここ数年ずっと、胸のどこかに「広島平和記念資料館へ行きたい」という思いがありました。“行きたい”というよりも、「一度は必ず足を運ばなければならない場所」そう感じていたからです。そして今年は終戦から80年という節目の年。今年中にどうしても行こう、と決意が強くなっていました。ただ正直に言えば、平和記念資料館を一人で訪れる勇気は、まだ少し足りませんでした。その気持ちを知人に話したところ、「それなら一緒に行こう」とそっと寄り
本日は被爆体験伝承者及び家族伝承者を対象とした意見交換会に出席しました。来年6月から定時講話は1階のビデオシアターに戻るとのことです。
ちょっと広島に行くことになり久々にパパリンとの二人旅とりあえず、用事は夜ですが早めに行って広島観光しますどこに行こうかな?無計画のまま出発今は福山から広島まで23分で着くのね…早っ着いてからパパリンがなんか、水族館が最近できたらしいよなんて情報を教えてくれたのでじゃあ行ってみる?広島もとまち水族館10月31日にオープンしたらしいなかなかよかった〜久々に行った水族館で癒されましたそして、そのままの流れで原爆ドームと平和記念資料館へ平和記念資料館はパパリンが広
坪井直さんはやっとのことで御幸橋にたどり着いたが、そこでも治療らしい治療はしてもらえず、一時は死を覚悟した。なお、松重美人さん撮影の御幸橋の写真に見える後ろ姿の男性の一人が坪井さんだとされるが、自分だと名乗り出ている人は他にもおられて断定はできないようだ。(西本雅実「1945年8月6日松重美人撮影写真を読み取る~「広島原爆の撮影者」とともに~」広島平和記念資料館資料調査研究会『研究報告第19号』広島平和記念資料館2023)坪井さんはそれから似島に運ばれた。そこで息を引き取っ
最終日の朝です☀️今日も良い天気朝8時前、昨日訪れなかった広島平和祈念資料館へ向かいます噴水から🌈資料館は7時半から開館しています受付でのチケット購入は8時半からなのですが、ネットチケット🎫を購入すれば7時半から入館出来ます平和記念館は2019年にリニューアルされていますワタシが小学校の修学旅行で訪れた時とどう変わっているのでしょうか。。展示室に足を踏み入れると、CG映像を多く用いていたり、被災物の展示の解説の主語が『私』なので自分自身がその当時に引き込まれていく感覚がありまし
先日、8月22日の熊本日日新聞に私の取材記事が掲載されていることに気がつき、早速取り寄せました。広島平和記念資料館で被爆体験伝承講話をしていた時に研修に来ていた新人記者さんからインタビューを受けた際の記事になります。結構大きく写真が掲載されていてびっくりしました。掲載どうも有難うございました。また、やっと寺報も全て発送完了しました。今回は本当に時間がかかりました。11月下旬はスケジュールを空ける努力をすべきでした。
本館にあったジオラマとその中に置かれた三体の「被爆再現人形」を撤去する方針がはっきりと打ち出されたのは2010年の「広島平和記念資料館展示整備等基本計画」だった。本館のレンガ模型・ジオラマ模型本館(被爆の実相)では、実物資料の展示を中心としたありのままを伝える展示とするため、撤去や代替展示が望ましい。(広島平和記念資料館「広島平和記念資料館展示整備等基本計画概要」2010)人形の撤去について市民の関心が一気に高まったのは、2013年3月14日の市議会で
「原爆の絵」を使うにしても、もっと他にアイデアはなかったのかと思うものもある。本館に入って最初に見る絵のことだ。さまざまな色で原爆の閃光を現し、その光の中で一人の男性が頭を両手で覆っている。絵を描いた石谷龍司さんは爆心地から1.1km離れた富士見町で被爆し、頭と両腕に大火傷を負った。石谷さんは絵についてこう説明している。自宅の中にて異常な爆音が聞こえ、庭の石をつたって上空を見上げた所B29が全速南下中、思はず頭を下げた瞬間、突然全身が異様な閃光につつまれる。同時に異常(強烈)な光熱につ
リニューアルされた広島平和記念資料館では「黒い雨」のコーナーも「原爆の絵」が印象的だった。以前から展示してある「黒い雨」の跡が残る白壁とともに、「原爆の絵」が3枚新たに展示された。一枚は、山の向こうから押し寄せてきた大きな雲から降ってくる「黒い雨」の絵だ。広島市の西8kmの自宅から見た光景を原田義諦(ぎたい)さんが描いた。頬が火照るほどの閃光、思わず尻餅をつくほどの激しい爆風の後だ。「見よったらね。きのこ雲がもくもくもくもく、とにかく丸い雲が中へ渦を巻くわけだ。そしたら段々大きくなる
写真では伝え切れないあの日の惨状をどうやったら見て知ることができるのか。注目されたのが「市民が描いた原爆の絵」だった。「広島平和記念資料館更新計画」にはこう記されている。被爆直後の被災写真や記録映像が少ない中で、被爆者自らが体験を基に描いた原爆の絵は、被爆の惨状を伝える貴重な資料である。その多くは、絵中に作者の解説が記されており、被爆当時や絵を描いた時の被爆者の思いを伝えている。(広島市「広島平和記念資料館更新計画」2007)具体的な展示計画をつくる検討会議でも「原爆の絵」をも
あらためて戦争の悲惨さを考えさせられる資料館でした
松重美人さんは御幸橋でカメラを構えた時の気持ちをこう語っている。天をいぶる炎と黒煙で薄曇りでしたが、8月の暑いアスハルトに火傷でずるむけの体を投げだす多くの被災者の目が私に集中しているように見えます。その中には、体を動かすこともできない母親の胸にすがりつく幼児の姿。赤ちゃんを横抱きにかかえ“目をあけて、目をあけて”とその子の名前を呼びながら、泣き叫ぶ母親。この大惨事に一枚も撮影できませんでしたではすまされません。職務がかかっています。目の前の多くの被災者がどのように思おうとも、写さな
私は昨晩が風邪もお腹も。朝7時半開店のドラッグストアへ行って、風邪薬とお腹の薬。薬を得て安心しました。飲んでた漢方はもう効かないほうで、強力そうなベンザブロックになりました。薬のおかげでお腹は治り、咳もおさまりました。(お客様もそんな症状の方が8割)さて朝イチは、平和記念公園へ。晴天です。相生橋でバスを降りて、ゆっくりご案内しました。原爆ドームの後、人数少ないので、爆心地も。また公園に戻り、動員学徒慰霊塔。バラ園。貞子さんの友人の発案から始まって寄付を集めてできた
御幸橋にある松重美人さんの写真今はスマホで誰もが気楽に写真を撮れるが、昔はそうではなかった。特に戦争中は街中でカメラを構えたらスパイかと疑われた。カメラで8月6日を記録するのは困難なことだったのだ。16歳だった深田敏夫さんは動員先の陸軍兵器補給廠で原爆に遭った。閃光に驚いて兵器庫に駆け込んだ途端に爆風に吹き飛ばされたが幸いけがはなく、兵器庫から顔を出すと空には見たこともない大爆煙。カメラが大好きだった深田さんはその日もズボンのポケットに愛用の小型カメラを忍ばせていた。思わずポケッ
残り少ない十一月に連日ブログを書いています。今日は、今月初旬に立ち会った忘れられない舞台のことを。事の始まりは、八月に聞いたラジオでした。俳優の池田舞さんからの情報で、被爆者の手記や詩の朗読を長く続けてこられた現在90歳の女優・高田敏江さんがラジオ深夜便で「朗読に託す平和への思い」を語っているとのこと。アーカイブですぐに聴きました。ほがらかで鮮やかな高田敏江さんのお声がすっと身の内に入ってくる。戦争を体験している私たちだからこそやらなければと40年も続けてこ
広島平和記念資料館リニューアルの基本方針の一つは「被爆の事実をストレートに伝える実物資料の展示」だ。けれど、例えば将来、陸軍被服支廠の爆風で凹んだ鉄板の扉が資料館で展示されたとしても、その爆風の威力の凄まじさは伝わりにくいのではなかろうか。やはり、爆心地から2.7km離れた現地まで行って見てこそ伝わるものだと思う。資料館の実物資料でどこまで「ストレートに伝える」ことができるか、これからも知恵を出し合っていかなければならないだろう。課題は他にもある。リニューアルされた資料館東館のコンピュータ
平和記念公園原爆ドーム&広島平和記念資料館全国的に暖かく行楽日和の3連休父の一周忌の法要に行く前日に広島で途中下車。プチ観光をしました。3連休の初日。名古屋から新幹線の指定席が満席で取れないそこで考えた作戦は...早起きして①名古屋始発のひかり自由席(3車両ある)に並ぶ→もし座れなかったら立つしかないけれど...②京都で降りる人が多いので空いたら座るホームに到着すると...①の15分前に発車する名古屋始発のぞみがまだ停まっている自由席(2車両しかない)の
「広島・長崎の被害を矮小化する」のは、必ずしも悪意によるとは限らず、むしろ無意識にやっていることの方が多いのではなかろうか。それは他人事ではないということ。私自身も平和公園から一歩外に出たとたん、お昼に何を食べようかなどと思っている。歩いている通りの敷石の下にはまだ骨が埋まっているかもしれないのに。こんな話がある。2007年4月、田邊雅章さんは自分が生まれ育った爆心直下の街をコンピュータ・グラフィックスで再現し、ニューヨークの国連本部で上映した。その時のことだ。「自分は、広島へ何度
広島平和記念資料館のリニューアル事業は2003年から動きだした。多くの人から意見を聞いて2007年に「広島平和記念資料館更新計画」が策定され、2010年により具体的な「広島平和記念資料館展示整備等基本計画」がつくられ、そこから2019年まで25回に及ぶ「広島平和記念資料館展示検討会議」で、全体計画から資料の選定、配置、説明板の文字の大きさに至るまで細かく検討された。「広島平和記念資料館展示整備等基本計画」では「被爆の事実をストレートに伝える実物資料の展示」により「原爆の非人道性、原爆被害の
『はだしのゲン』は、1953年の暮れにゲンが東京へ旅立って「第一部」が終わり、そのまま完結となった。けれどその年でヒロシマの苦しみが終わったわけではない。佐々木禎子さんが白血病と診断されたのは1954年だが、被爆者に白血病が多い状況はそれから20年以上も続いている(鎌田七男『改訂版広島のおばあちゃん』核戦争防止国際医師会議2021)。白血病に続いてがんも増えた。そうなると、病気そのものの痛み苦しみ以外にも、被爆者は様々な不安、悩み苦しみを抱えることになる。2019年4月に広島平和記念資料
被爆者は戦争が終わってからも次々と亡くなっていった。それは『はだしのゲン』でも同じだ。ゲンの初恋の人となった光子さんは突然血を吐いて、どうやっても血が止まらなくて息を引き取った。医者は「急性白血病」かもしれないと言った。光子さんは市内中心部にあった自宅で被爆したが、たまたま防空壕の中にいて熱線は浴びずにすんだ。それから8年、ゲンと仲良くなって宮島に行ったり、二人楽しくお好み焼き(今風なのはご愛嬌)を食べたりしたのだが、時々吐き気がしたり目の前が真っ暗になることは親にも隠していた。親にもゲン
壊滅した広島で活動した陸軍船舶練習部第十教育隊や広島地区第14特設警備隊(「賀北部隊」)の元隊員の人たちに後で白血病が出たかどうかは手元の資料ではわからない。しかし広島大学の調査では8月6日から9日までの間に市内に入った人たち(「入市被爆者」)で白血病の発生は43例あるという(庄野直美・飯島宗一『核放射線と原爆症』日本放送出版協会1975)。被爆者に白血病の発症が多いのは明らかだと結論づけられた。白血病については「広島平和記念資料館の軌跡36」でもふれているが、異常な白血球細胞が無秩序に増
昨日より、冬限定のタンドリーカレーバーガーの販売を開始しました。本格的なカレーソースがとても美味しいです。是非お召し上がり下さい‼️そして、本日は広島平和記念資料館にてS県からお越しの修学旅行生に被爆体験伝承講話を行いました。約1時間弱となりましたが、出来るだけ丁寧にお話させていただいたつもりです。本日はご清聴誠に有難うございました‼️