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本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『自分等の手をからずとも官憲の手を借って、色々誤った思想・誤った人の信仰状態をすっくり一新して、明らかな本当の神様の御教えを開く事が出来たのであります。』『それから私は丁度七年間、大本事件に連座して囹圄の身となって居りましたので、其の間はそこらへ行って大きな活動が出来ないので、其の間を利用して、『霊界物語』の口述を始め、『霊界物語』によって御筆先の真相なり霊界の一部なりを
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『浅野さんは英語の学者であるから、今迄の時機を知らない頑冥不霊の人を改めさして、之から新しい空気を注入して呉れるだろうと期待して居りましたところ、自分が真っ先先に長髪になり、『英和辞典』も人にやってしまい、非常にかんかんになってしまった。そしても一つ仕事も悪くなった。どうしても此の儘では、大本は潰れてしまう、之は一辺自分から潰して了おう、そうでなければ潰れる時機が来る。そこ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************出口氏自身も、大本での鎮魂帰神法では随分苦労していたようだ。大正10年には、ついに『鎮魂帰神の法は伝授してあるが、神憑りは許していない。旧役員の神憑りはすべて偽神術によるものであると警告し~』(大本七十年史)とまで宣言している。つまり大本では神憑りを正式に認めていなかったことになる。ならば大正10年頃までその偽神術を黙認していたのはどういう訳なのだろうか。この警告の後、
今回はこういうお題でいきます。日本史の話題ですね。ただ、この話もあまりに資料が少なく、雲をつかむような内容になるかと思います。そのつもりでお聞きください。稗田阿礼(ひえだのあれ)は太安万侶(おおのやすまろ)とともに天武天皇からじきじきに『古事記』を編纂する命を受けました。その理由は、2人ともたいへんに頭がよかったからです。稗田阿礼という名前がまず疑問ですよね。稗というのは雑穀です。昔は粟などといっしょに、米に混ぜて食べられたりしました。もちろん穀物としての地位は米よりずっと低
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************結局このようなやり方は、安全性の面からも適切でないとされ、その後中止されることになる。『一九二〇(大正九)年五月二三日の公告で、「従来の鎮魂帰神の実修法を更め、単に静座瞑目せしめて、お筆先を守護神に聴かしむるに止め、施術者の霊を注ぎ気合を掛くることを廃す。(但し静坐の姿勢は従前の通り)病気鎮魂及び憑霊の発動者には、特別鎮魂を施すことを得。其要領は従前の通りとす」』と、
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************それはさて置き、当時の指導情景の記録があるので、もう少し掘り下げてみたいと思う。形式としては審神者の前に大勢の人達が座り同時に行うものだった。これでは本田霊学の幽斎とは全くの別物だといえる。『幽斎修業は、修業者にたいして、手を一定の形式に組みあわせて、瞑目静座させ、審神者は天津祝詞を奏上し、天の数歌をとなえ、石笛を吹きならして、「ウー」の言霊によって霊をおくる。本来、
【現地レポート】50万人が驚愕した日本史上最も有名な生まれ変わり物語|前世を覚えていた少年「ゆかりの地」めぐりHSメディア_HSMedia2026/05/01#生まれ変わり#前世の記憶#勝五郎日本史上、最も有名な「生まれ変わり」の物語。2025年に公開した動画は、皆様のおかげで50万回再生を突破しました!たくさんのご視聴とコメント本当にありがとうございます。今回は50万回再生記念企画として200年以上語り継がれる「程久保小僧・勝五郎」のゆかりの地を実際に
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************浅野氏は、恩人とも云える出口氏について、その著書で痛烈に批判している。『私は今王仁氏を捕へて、その器にあらずと申しましたが、その意味は、同氏が宗敎家たるに甚だ不適當であるといふつもりなのです。あれ位の藝當をする人ですから、同氏にも、他人の到底眞似のできない長所があります。萬事に如才なく、人意を察してこれに迎合することの巧妙なことは、殆んど一の天才といふべく、又、しやれ地口
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************ところで、そう語る浅野氏も、指導の折に何度も殺されかけたことがあったと述懐している。『霊から暴行を加へられて、九死1生の散々な目に逢ふに至りては、さらに一層つらいものであります。ところが、最初両三年間、私は「今度という今度は、いよいよお陀仏かな」と覚悟したことが、幾度あったか知れません。審神者という者は、ある意味に於て、全く命懸けでなければ勤まらない職業です。』『彼等は
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************「七年八年となると、イヤ實驗材料が集まる集まる、一日平均二三百人にも上るのですから、私に取りては、誠に以て有難い仕合せで、腕によりをかけて、片ツ端から神懸りの實驗を試みました」大本での鎮魂帰神法は彼の人体実験の場だったのだ。これでは出口氏が中止させたのも当然だと思う。霊的な浄化や向上を求めて集まった多くの信徒達を、単なる実験材料として扱っていたわけなのだから。「實はある
4月20日青森の地震のニュースを眺めていたとき、ふいに、首の後ろ——ちょうど付け根のあたりに、熱が灯るような感覚が走った。じわり、と内側から滲むような熱。その直後、「秋田」という言葉が、説明もなく、ただ静かに浮かび上がってきた。なぜ青森ではなく秋田なのか。理由はわからない。けれど、不思議と違和感はなかった。秋田市手形は、護符を伝えてくださった方がかつて暮らしていた土地であり、また、護符を作成する時や毎朝神棚に日々唱えている天津祝詞を世に広めた平田篤胤が眠る場所でもある。
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************浅野氏はその著書で自ら指導したという鎮魂帰神法について、その実態を吐露している。『が、過去現在の大本敎が何であらうとも、靈的體驗を、ふんだんに供給してくれたことにかけては、私はどんなに感謝しても、感謝し切れなく、考へて居るのであります。信仰を求めて、大本に集つた人達から云へば、あそこが立派な修行場でありませうが、私から云へば、あそこは一の實驗場で、信者は悉く私の研究材料で
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************次に浅野氏ではなく、大本側の文献を見てみよう。『王仁三郎は四月二八日、浅野夫妻らと綾部を出発、二九日横須賀の浅野の宅につき、海軍機関学校長・木佐木少将夫妻ほか数人に面会し、鎮魂を実施した。五月一日東京池袋の尾寺宅へ出向き、五月三日には横須賀の三浦屋(成川浅子宅)に一泊して、そののちふたたび浅野宅に滞在し、海軍将校や海軍機関学校の教官たちに、宣教とともに鎮魂の実修をした。そ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************一方、出口氏は自身の鎮魂帰神指導、並びに浅野氏との出会いについて下記のように回想している。どうやっても上手くゆかない自身の幽斎指導に嫌気がさし、自分の代わりに信徒の相手をする人物として浅野氏を選んだようだ。『それから自分も病人の鎮魂がサツパリ嫌になり、神懸りの修行も断念して了ふた。が大正五年に横須賀の浅野サンの宅へ行つた時、参考のために又もや幽斎の修行をして見せたのが元と
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『想ひまぐらせば大正五年の春、不図した動機から同志を集めて(判読できず)西洋式に言ったら、所謂家庭交霊会を催すことになったのですが、いよいよ行ってみると、他の人達は、上手下手は別として、兎も角或る程度の霊媒能力を発揮するのであるが、私ばかりは、人一倍の努力を佛っても、なかなかものにならず、通常意識が茫然自若として頑張っている。私はいつもしれッとして、他人に起こる諸現象を客観
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************浅野和三郎氏の鎮魂帰神法出口氏と浅野氏の出会いは、大正5年4月という。初めて浅野氏が出口氏から大本霊学の講義と鎮魂帰神法の実修を受けたのは4月28日横須賀の浅野氏宅でのこと。浅野は2回目の鎮魂帰神法の実習の際に、王仁三郎から審神者を行うように言われて、参加者に対して審神者を行った。つまりその時に出口氏は浅野氏に大本での審神者の資格を与えている。しかしながら、当然これは本田霊
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************長沢翁に出会う前は、出口氏自身の過去の体験に基づいて指導していたが、実際の所、憑霊のほとんどが妖魅霊という有様だった。長沢翁に出会った後はどうだったかと言えば、状況はあまり変わっていない。わずか3日程度の静岡逗留では、自身が翁の審神者を受けることと、他の人達の幽斎を見学する程度しか時間的に無理だったはずなので、審神者の法の伝授など未だ程遠いレベルだったことは疑いない。故に、
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『上田会長の留守中に、上谷の修業場は、霊憑りの発動で、修業者二〇余人のうち大部分が妖魅に憑かれて大騒ぎとなった。なかでも、福島の霊憑りははげしかった。「丑の年に生まれた寅之助で、丑寅の金神だ」と叫んで、裸になり、開祖の筆先の言葉をまねて、のべつまくなしにどなりちらし、始末におえない状態となった。会長が祈願をこめて鎮魂をしたので、一時は発動がしずまったが、他の霊憑りにも、たく
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『駿河より余等二人、帰村してみると、斎藤の家の内外は人の山を築いて居て、中には多田琴、斎藤しづ、同たか、岩森とくの四人に、妖魅なり野や狐や野天狗が懸って踊り回りて居る。門口には斎藤元市氏が、必死になって数多の見物人の侵入を制して居る最中である。家の内外は、狂乱と罵詈とに充たされて居て、取りつく島が無いのであるが、元市氏は、先ず二人の帰国を喜んで、「とも角、話は後で委しうするが
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************また鎮魂石を、「師の霊として大切に肌身はなさず守って居た」とあるが、鎮魂石には長沢翁の霊が鎮まっているわけではない。これを見ると、授与された時に翁の話(鎮魂法のやり方や諸注意)をきちんと聞いていなかったこと、そして御神霊の神気を感じる能力がなかったのがよくわかる。『それから神鏡を見せると、恐れて面をかくすのである。神前の扉を開かんとすれば、大声を出して絶叫するのである。鎮
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『総理閣下より鎮魂の玉、御母堂より天の岩笛を拝領したが、綾部へ来るまで、師の霊として大切に肌身はなさず守って居たが、ついに中村竹蔵にわが心を籠めて授与したのである。その大切なる品を下付した余の心を無にして、稲荷講社から出たものだからと云うて、迷信の余り、明治三十五年の旧十一月頃に、園部まで突き返すと云うて、園部で紛失させてしまった。』(出口王仁三郎著作集第1巻第11章)二回目
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『余は、総理の審神者で、有形の神感法を修行したのである。しかしただの三日の逗留であったから、充分に修行する事も出来ないのは遺憾であった。』(出口王仁三郎著作集第1巻第11章)総理とは長沢翁のこと。3日間の逗留では何度か帰神術の稽古(出口氏は有形の神感法と言っているが)をするのがやっとであろう。『帰りに臨んで、総理より大神の御分霊一体を幽斎修行発達の守護として下付せられた
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『多田が帰神を修得して正当の神主になるまでには、幾多の記すべきものあり。ほとんど数うるに暇なき程にて、また審神者の苦辛したる事実は、筆紙の尽くし得うべきにあらず。次に、修行者・石田小末が口を切り、斎藤たか、十三歳の女が口を切り、順次に修行者の口が切れて来たが、始めの程は妖魅ばかりで、審神者を非常に困らせた次第は、順を追いて記載するの考えである。さて八人の神主は、各々口を
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『かくの如く、邪神は神主に感合して第一に審神者を迷わせ、神主その者を迷わせ、しかして世人を瞞着せんとするなり。故に審神者にしてその器に非あらざる時は、ついに邪神のために、幽斎研究の道場を始め精神までも占領せられて、妖魅界に引き込まるる事あれば、最も慎しむべきなり。妖魅を退散せしむるには、まず言を以て懇ねんごろに説諭するにあり。二、三回までは、説諭を以て追い出すべしといえ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『多田の感じかけた時は、非常に騒ぎまわって大いに余を窘迫せしめた。見る見る顔色は朱を注ぎ、身体を非常に動揺し、手を急激に上下し、口を一文字にし、猛悪なる血相を現し、以て余の審神者に向かって一生懸命に飛びかからんずる勢いを示して居るのである。余は、始めて有形感合法の妖魅に出で会くわしたのでいささか心配したのであったが、吾の修業であると思うたので、直ちに開き直って厳正の態度を示
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『路銀は調達したが、さて困るのは八人の修行者である。中途に放任して置いて一日でも他出したなら、それこそ妖魅が恐いものなしで神主を襲うて、半狂者に陥らしむるの恐れがある。そこへまた、反対の乗ずる懸念があるから、ともかく一人なりと神主を卒業させて、それを審神者代理にしておかねば旅行する訳にはゆかぬので、また一心に幽斎を研究するのである。』(出口王仁三郎著作集第1巻第10章)幽
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************これらは出口氏が長沢翁に会う前のことだが、後の大本流の鎮魂帰神法とは異なり、出口氏と神主は一対一で対峙している。しかしながらその後が問題だ。本来であれば、神主の霊魂の穢れがある程度祓われるまで、しばらくの間、審神者は祓いだけで転霊は行わない。なぜなら神界に対し失礼にあたるからだ。転霊していないのに憑霊が起こる場合は、ほぼ間違いなく妖魅霊だと思っていいだろう。何度か正神界の
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************出口氏が長沢翁に出会う前後の状況を大本の資料から見てみたい。『喜三郎は深夜家を出て、産土神社に参詣して祈願をこめ、高熊山の洞穴でしばらく感合法の練習をし、園部の天満宮で神霊感合の状態にはいった。(中略)今回の出修で、はじめて帰神術の大略を体得したので、さらに幽斎の修業をすることにし、斎藤仲一宅で第一回の幽斎研究会を開いた。(中略)喜三郎は審神者(神感を審判し神の正邪を
その素晴らしさを伝えたい!古神道を中心とした、精神修行の体験記『休日行者』(著・水明)古神道との出会いから、始まる神様、人物、未知の行法を行い、体験学習を重ねる人物の体験記。不思議な秘術の伝授や、悪霊との戦いなど、脚色なく誠実に記録しました。古神道をはじめ、精神修行に興味がある方。実践している方へおすすめの一冊です。等身大の修行を、見てください!古神道の教えは、復古神道の巨星である江戸時代の国学者・平田篤胤先生を源流とし、一部の人から人へ伝わってきたもの。「古神道と、一般的な神道は
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************2.いわゆる「鎮魂帰神法」について明治以降、出口王仁三郎氏、浅野和三郎氏、友清歓真氏などにより盛んに「鎮魂帰神法」なるものが行われた。しかしながら、本田翁をはじめ直系の長沢翁、稲葉翁、佐藤翁らの鎮魂法・帰神術とは異なり、彼らが行う「鎮魂帰神法」は本田霊学とはかけ離れたものであった。出口王仁三郎氏の鎮魂帰神法についてまず大本教を見てみよう。出口氏が鎮魂帰神法と