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P1134(七四ウ)ヲ差下シ、敦賀ノ中山ニテ奉(レ)留二神輿一ヲ。敦賀津、金崎ノ観音堂ヘ奉入一テ、守護シケリ。廿七〔白山衆徒山門ヘ送牒状事〕白山衆徒等、山門ヘ牒状ヲ遣ス。其状云、謹請延暦寺御寺楳欲(レ)被(レ)栽(下)許奉(レ)上(二)白山神輿於山上一ニ目代師経罪科一ヲ事右、雖(レ)令(レ)ト言(二)上子細一、于今不(レ)蒙(二)裁報一ヲ之間、神輿御入洛之処、抑留之条、案ルニ是一山之大訴也。倩案(二)事情一ヲ、白山者雖(レ)有(二)敷地一、是併ラ三千ノ聖供也。雖(レ)有(二
見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。平知盛『平家物語巻第十一内侍所都入』より今回の名言名句は、源平合戦の最終戦、壇ノ浦の戦いで敗れ、入水し最期を遂げた平知盛の末期のことばです。平知盛は、清盛の四男で、その生まれもった資質と才能から、清盛にもっとも愛され、後事を託そうとされた知将であり、影の実力者です。総大将たる兄、宗盛が凡庸であったため、代わって平家一門を率い、都の防衛から、壇ノ浦での滅亡に至るまで、軍事の中心となって戦いました。壇ノ浦で、安徳天皇と二位の尼の入水に
渋谷金王丸常光像東京都渋谷区金王八幡宮金王丸?土佐坊じゃなくて??御影の由緒から永治元(1141)年生まれ。17歳の時頼朝の父源義朝に従い保元、平治の乱に出陣。その後出家し土佐坊昌俊と称し、義朝の御霊を弔う。頼朝ともつながりが深く、鎌倉開府に尽力。文治元(1185)年10月25日夜心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。この姿は保元の乱出陣の姿を母に残したものとある。毎年3月にこの像を公開しています。そうそうヨーロッパ系の神職さんがいました。ときたま雑誌な
P395猶激しう,峰の白雪消え遣らいで,谷の氷柱も打ち解けず:さう有って春過ぎ,夏にも成り,賀茂の祭りの頃に思し召し立たれた.八葉の御車に召し,忍びの御幸なれども,公卿六人,殿上人八人で大原通りに日吉の御幸と御披露有って,清原の深養父が作った補陀落寺小野の皇太后宮の旧跡を叡覧有って,それより御車を留め,御輿に召された.遠山に掛かる白雲は散りにし花の形見と成り,青葉に見ゆる梢には春の名残りも惜しまれ,始めたる御幸なれば,御覧じ-慣れたる方も無し:岩間を伝ふ水の声も静けう
P1133(七四オ)安元三年二月九日中宮大衆等廿六〔白山宇河等ノ衆徒捧神輿上洛事〕同十日、仏ガ原ヲ出テ推津ヘ差給フ。同日又留守所ヨリ使二人アリ。税所大夫成貞、橘二郎大夫則次等、野代山ニテ大衆ノ後陣ニ件ノ使追付タリ。即落馬シヌレバ馬足折タリ。信歟是ヲ見テ衆徒弥神力ヲ取ル。同十一日ニ二人使推津ニ到来ス。敢テ無返牒一。以テ詞一使者神輿ヲ雖奉留一、事トモセ1久歟ズ上洛ス。其時貫首ハ六条大納言源顕通ノ御子、人我大政大臣
一の谷に勝利し暴風の中、四国に渡り屋島に奇襲をしかけようと目論む義経。苦難の末、阿波に陸上し讃岐へ、夜を徹しての進軍だった。この時義経に従軍していたのは、田代信綱、金子家忠、親範、後藤実基、基清、それから義経主従の伊勢義盛、佐藤嗣信、忠信、江田源三、熊井太郎そして武蔵坊弁慶以上!?。これをみても寡兵部隊であったことがわかる。義経木像平家方は、船上から矢を射てくる。寡兵が見破られないように、歴戦の老将後藤実基がすかさずカラの内裏に乱入し火を放つ。平家方は随一の猛将教経が指揮をとり、
P1132(七三ウ)散位朝臣目代源朝臣在判トゾ書タリケル。依之、衆徒返牒云、白山中宮ノ大衆政_所返牒所ノ衙来牒一紙ニ被(二)載セ送一ラ神輿御上洛ノ事マシマス牒、今月九日ノ牒、同日到来ス。依(レ)テ状一ニ案(二)ルニ子細一ヲ、在二神明和-合一シ。而ルニ点二定シテ吉日一ヲ、進二発ス旅-路一ニ。次ニ以(二)テ人-力一ヲ不四可三成二敗ス之一レヲ。冥慮
P1131(七三オ)欲四スル早被三レント停二-止セラ衆徒ノ参洛一ヲ事牒、奉三テ振二神-輿一ヲ、衆徒企(二)テ、参洛一ヲ、令(レ)ム致(二)サ訴訟一ヲ。事ノ之趣キ非四ズ無三キニ不二ルコト1重一カラ。因(レ)テ茲ニ一差二遣シテ在-庁忠利一ヲ、尋二_申子細一ヲ之処ロニ、為二メニ石井ノ法橋訴ヘ申一サンガ、令(二)ト参洛一セ有(二)返答一云々。此ノ条豈ニ不可然一。争デカ依二テ小事一ニ、ヤ2可四キ奉三
こんにちは。一ノ谷へ急行する義経隊を作っています。今回は馬をほぼ仕上げました。往年の優駿たちをモデルにしてみました。印象に残っている1990年代から2000年代の競走馬たちです。私はそれほど競馬に詳しい訳ではないですが、今回、当時の競走馬の名前を調べて、懐かしいなあと感慨にふけっておりました。詳しい方はそれぞれ推測してみてください。まずは芦毛です。モデルは「芦毛の怪物」の異名を持つ、、、オグリキャップです。次も芦毛です。連銭芦毛のつもりで塗りましたが、その競走馬が連銭芦毛とい
今回はこういうお題でいきます。カテゴリは妖怪談義でしょうか。さて、みなさんは茨木童子について、どんなことを知っておられるでしょうか。多くの方は、渡辺綱との争いの物語をあげられるのではないでしょうか。片腕を斬られた茨木童子がそれを取り返すまでの話。では、茨木童子はどこでどのように生まれ、どんなふうに育ったんでしょうか。茨木童子についての最大の疑問は、人間の盗賊なのか、それとも鬼だったのかというものだと思いますが、それはここでは論じません。おそらく結論は出ないだろうと思われる
P1130(七二ウ)庁ヘ使ヲ立タレバ、目代僻事シツトヤ思ケム、庁ニハシバシモタマラズシテ逃上ニケリ。宇河ノ大衆共不力及一シテ僉議シケルハ、「所詮本山ノ末寺也。本山ヘ可訴申一。若此訴訟不叶一ハ、我等永ク生土ニ不可帰一」。「尤々」卜テ、神水ヲ呑ミ一同シテ、神輿ヲヤガテ振上奉ル間、安元三年二月五日宇河ヲ立テ、願成寺ニ着給フ。御共ノ大衆一千余人也。願成寺ヨリ同六日、仏ガ原、金剣宮ヘ入給フ。於茲一一両日逗留ス。廿五〔留守所ヨリ白山へ遣牒状事同返牒事〕同九日、留守所ヨリ牒状アリ。使者ニハ楠
あまり、誰がどうのこうの、とは、言わないが、ずっと、そのまま、その人が強いままではないと言える。それは、古典「平家物語」の世界にも書いている。…いや、エックスとかアメブロでも、「この記事は不適切」とか「この動画は不適切」なんて理由で削除されることが、ある。僕にとってみたら、「ああ、あれこそが、原因だった」と思っていても、いずれ、その人にも、「措置は来ると思う」のだ。昔、かかりつけ医の精神科の先生は、診察で、僕に「いずれそういう人は、措置が来ます」とあったが、そう思う。若い時ならば、
ここで、思ったのは、僕も、地域の偉い人から、表彰されるはずだったが、欠席するはこびになった。理由は、病気が再燃するかもしれないから、だ。かかりつけ医の先生は、診察で、そう指摘し、僕も納得をした。…ところが、分かったことがある。世間は、理不尽が多いと思う。先生は、診察で「世間は、理不尽がいっぱいある」と言ったが、それは、僕も、そう思った。例えば、僕は、知的に、『方丈記」や「平家物語」や、歴史上の人物、例えば、豊臣秀吉などの短歌で「ああ、現実は、儚い」と思うこともある。または、最近
P1513(三九オ)ルハ、「コハ何ニ。カヽル勧賞トヤ思食レシ。我身ニ一階僧正ヲモ申ベキカナソムドコソ被思食一ツルニ、是ワ非分ノ所望ナリ。凡ハ王子誕生ア(ッ)テ祚ヲ継シメム事モ、海内無為ヲ思フ故也。今汝ガ所望ヲ達セバ、山門憤テ、世上静ナルベカラズ。両門ノ合戦出来テ、天台ノ仏法忽ニ滅テムズ」トテ、御ユルサレナカリケレバ、頼豪悪心ニ住タル気色ニテ申ケルハ、「此事ヲ申サムトテコソ、老ノ波ノ朝暮、肝胆ヲバ摧キ候ツレ。叶候マジカ
木曽義仲が京へ攻め上り、平氏は都落ちして九州へ。豊後の代官、藤原頼経のもとに京から支援の命がおりる。だが、頼経は法皇に見捨てられた平家を九州で迎えて奉仕するわけにはいかないとして追い出すべく豊後の住人緒方三郎惟栄(諱:惟義)に平家軍を討つよう命じた。緒方惟栄(諱:惟義)像(陶彫)緒方惟栄の出自は、正に神話。豊後日向にまたがる優婆岳今の祖母山の岩屋に住む大蛇と人間の娘の子!?つまりは惟栄の人並はずれた強者であることを強調しているのだ。そんな惟栄の音頭で九州
P1129(七二オ)ノ務ヲコソ行ベカリシニ、万ヅ心ノマヽニ振舞シ故ニヤ。同三年八月ニ、白山ノ末寺ニ宇河ト云山寺ニ出温アリ。彼ノ湯屋ニ目代ガ馬ヲ引入テ湯洗シケルヲ、寺小法師原、「往古ヨリ此所ニ馬ノ湯洗ノ例無シ。争カカヽル狼籍有ベキ」トテ、白山ノ中宮、八院三社ノ惣長吏智積、覚明等ヲ張本トシテ、目代ノ秘蔵ノ馬ノ尾ヲ切テケリ。目代是ヲ大ニ嗔テ、即彼宇河ヘ押寄テ、坊舎一宇モ不残、焼払ニケリ。宇河白山八院ノ大衆、金大房大将軍トシテ、五百騎ニテ加賀国府ヘ追懸ル。露吹ムスブ秋風ハ鎧ノ袖ヲヒルガ
まーこーれーへ私の好きな平家物語の冒頭。祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色盛者必衰の断りを表すおごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如したけき者もついにはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ↓チャッテイにイメージ画像作ってもらったこの諸行無常がいいのよね。仏教的な考えだそうで。「何事も、変わっていく。」だからこそ、何事も刺激になり、知的好奇心がくすぐられ面白くなります。だからこそ、一瞬一瞬が尊くて、味わいがあるのよね。
文覚とは?元は遠藤盛遠という武士だったが、19歳のとき出家とのみ紹介されている。武士時代から文覚が尋常でない行動力の持ち主であるが故に、不倫を持ち掛けた相手、袈裟御前の機知にはめられ、袈裟自身を斬ってしまう話は「平家」では紹介されてない。芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を読むと盛遠、袈裟、源渡それぞれの立場がよくわかる。袈裟御前、源(渡邊)渡、遠藤盛遠(文覚)像この不倫殺人事件を機に盛遠は出家し文覚となりは荒行に励む。寒中滝に打たれる修行により霊験を得る。仁
P1128(七一ウ)者共ナリケレドモ、サカ<”シカリケル間、院ノ御目ニカヽリテ召仕ハレケリ。師光ハ左衛門尉、成景ハ右衛門尉ニ、二人一度ニ成タリケリ。少納言入道ノ事ニ合シ時、二人共ニ出家シテ、各名乗ノ一字ヲ不替一へ、左衛門入道ハ西光、右衛門入道ハ西景トゾ云ケル。二人ナガラ御倉預ニテ被召仕ケリ。西光ガ子、師高モ切者ニテ有ケレバ、検非違使五位尉マデ成ニケリ。廿四〔師高与宇河法師事引出事〕安元二年十一月廿九日、加賀守ニ任ジテ、国務ヲ行間、サマ<”1ノ
人間の愚かさを知ることができると思う読書いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!現在、私は、とある大学の運営担当部署で教員をしていますが、本来の専門分野は戦争文学(軍記物語)です。『平家物語』などが有名ですね。研究のために自分で紙焼き写真から字をおこし、現代語訳を作成した作品もありますが、ポピュラーな作品は、すでに出版されている書籍と
P1127(七一オ)有ケリ。千手丸ハ本ハ三浦ノ者也。後ハ駿河守ニナサル。今犬丸ハ周防国住人、後ハ肥後守トゾ申ケル。鳥羽院ノ御時モ、季範、季頼父子近ク被召仕テ、伝秦スルオリモアリト聞シカドモ、皆身ノ程ヲバ振舞テコソ有シニ、此御時ノ北面ノ者共ハ事外ニ過分シテ、公卿、殿上人ヲモ物トモセズ、礼儀モ無リケリ。下北面ヨリ上北面ニ移リ、上北面ヨリ又殿上ヲユルサルヽ者モ有ケリ。カクノミアル間ニ驕レル心アリキ。彼ノ季範ト申ハ源左衛門大夫康季ガ子息、河内守是也。季頼ハ季範ガ子也。大夫尉ト云モ、是也
P394高雄へ送り奉られた.聖斜めならずのいとほしみで二人の侍共に哀れまれ,大覚寺の微かな住まひをも常は訪ひ奉られた.その後頼朝文覚の下へ便宜の時は,如何に中将の子は昔頼朝を愛せられた様に,朝敵をも滅ぼし,会稽の恥をも清めうずる物で有るかと仰せられたれば,文覚全て不覚人で御座る:御心安う思し召せと申さるれども,頼朝見る所が有ってこそ請ひ受けられつらう:謀反起こさば,定めて方人をせう聖ぢゃ:但し頼朝が一期の間は如何でか傾けうぞ?子供の末は知らずと仰せられた事は,真に恐ろ
P1126(七〇ウ)興歟被召仕ケルガ、去久安四年正月七日、家ヲ発シテ蔵人頭ニ成ニケリ。其後次第ニ成上テ、中宮亮ナドマデハ法性寺殿吹歟御推挙ニテ有シ程ニ、法性寺殿隠レサセ給テ後、大政入道ニ執入テ、サマ<”ニ宮仕ケル上、日ゴトニ何ニテモ一種ヲ奉ラレケレバ、「所詮、現世ノ得意、此人ニ過タル人有マジ」トテ、子息一人入道ノ子ニシテ、経邦ト申付テ侍従ニ成サレヌ。三位中将重衡ヲ聟ニナシテケリ。後ニハ中将、内ノ御乳母ニ成
共通テスト国語について①✏️43万人のレース。全員必死。二次試験に出せる受験生は平均点(60〜62%)を超えた者になる。平均割った20数万人が滑り止め私学(定員割れが深刻化)へ流れて行く。2026年睦月17*18の土日に実施。NHKほか報道の枕詞で共通テストの会場が報道され、翌日の話題にのぼる。河合塾も進研模試も、なべて(古語、全てと同じ)「国語の平均点は下がる」と予測。私も同感。去年11点上がった反動が一つ目の理由、二つ目の理由として隔年現象で上がった翌年は下がるから。200点満点の
P1125(七〇オ)リ。院三条殿ニテ大饗行ハル。近衛大将ニ成給シ上ハ、1子細ニ及バネドモ、又宇治ノ左大臣ノ御例、憚リアリ。又大政入道心モトナゲニ云ハレケレバ、「由ナシ」ト、被レ仰ケルトカヤ。廿三〔五条大納言邦網之事〕五条中納言邦綱卿、大納言ニ成ラル。歳五十六、一ノ中納言ニテ御坐ケレドモ、第二ニテ中御門中納言宗家卿、第三ニテ花山院中納言兼雅卿、此人々成給ベカリケルヲ止テ、邦綱卿ノナラレケル事ハ、大政入道、万事思サマナル故也。此邦綱卿ハ中納言兼輔卿八代ノ末葉、式部大
こんばんは!ハガルです先日の土曜日は星風繭遊(ホシカゼケンユウ)名義でのソロデビューライブだった。記念すべき初ライヴを目撃してくれたすべての皆さん、ありがとうございました!!思ったより多くの方が足を運んでくれて嬉しかったなぁ緊張して前日は全然眠れなかったけど(笑)初めてのお店、泪橋ホールは、アットホームで昭和レトロな感じで雰囲気良い空間だった。皆さまにあたたかく見守られて、なんとか無事に、星風繭遊としての最高のスタートが切れたと思う。この日は、ライブならではの貴重な体
仁平の頃(1150年代)、近衛帝の御代。毎夜帝がうなされる。高僧に加持祈祷をさせるも効果がなかったので武士に命じて警護させることとなり、源頼政に白羽の矢が立った。帝が苦しむ時刻になると黒雲一叢現れる。その雲のなかに怪しい姿。頼政は「南無八幡大菩薩」と唱えて矢を射る。命中した獲物に家臣の井早太が近寄り刺し通した。それは、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴き声はとらつぐみ‥‥図像では右が井早太、左が頼政ということでしょう。頭のてっぺんに矢が刺さっているのが鵺。残念ながら、胴体は狸、尾
P1124(六九ウ)バリテ嗔リテ御坐ケレバ、人、歯グヒノ大納言トゾ申ケル。カヽリシ人ノ孫ナレバニヤ、此俊寛モ僧ナレドモ、心武ククミ奢レル人ニテ、加様ノ事ニモ与セラレタリケルニヤ。就レ中、此俊寛僧都ト成親卿ト殊更親ク昵ケル事ハ、新大納言ノ内ニ、松、鶴トテ二人ノ美女有ケリ。俊寛、彼ノ二人ヲ思テ通ヒケル程ニ、鶴ハ今スコシ容皃ハ増リタリ、松ハ少シ劣リタレドナカリワリモ、心ザマ無レ難ケレバ、松ニウツリテ子息一人儲タリケル故ニ、大納言モ隔ナク打憑ミ語ヒ
反平家行動第二弾となる三位入道源頼政が以仁王を擁しての挙兵。このとき頼政御年76歳。以仁王は後白河院の「第二皇子として優れた資質」を持っておられたがために建春門院(高倉帝生母)の「そねみ」を買い、皇位への望みが絶たれていた。因みに百人一首の歌人式子内親王は妹になる。六波羅の平家は以仁王逮捕の兵を宮の御所送るも一人立ち向かう長谷部信連が奮戦により、王は三井寺に逃れた。治承四年五月、三井寺では宮の到着を新羅明神の加護として、清盛を調伏すべく延暦寺、興福寺に牒状を送る。反平家の大寺院連合
こんにちは。一ノ谷へ急行する義経隊を作っています。とは言っても前回は馬の製作のみでした。馬を七頭作ったので、騎乗する武者も七体作ることになります。今回はこちらのキットから拝借します。日本兵キットの3体、Ⅱ号戦車キットの4体を使います。当然、足の部分を、騎乗に適した形に改造することになります。エッチングニッパーで足を切り離し、さらに膝も一部切り離します。再度足を取り付けるときは、まずピットマルチのりを塗り、乾いた後に足を位置決め。隙間に、画材であるジェルメディウムを塗り込んで、乾