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2024年度が間もなくスタートしますね。新年度、新学期、新入職員、新入生…と、世の中全体が華やぐ4月を迎えようとしています。各学校においては、新年度の教育課程がスタートします。小学校6年生の修学旅行や、それに関連する平和学習の計画も具体的に検討・実施されることと思います。私たちの会が提案する「私たちのふるさとに戦争があった頃」の授業実践が、より多くの学校で実践されるように新年度も声がけや情報提供を積極的に進めていきたいと思います。今年は戦後79年目、そして学童疎開実施80年
PIECEofPEACE島根教師の会では、毎年研修会を実施しています。今年度は、「旧海軍大社基地遺跡群のフィールドワーク」を開催しました。新年度第1回目の研修会は、出雲市大社町日御碕にある高尾山への歴史探訪登山を行います。太平洋戦争期の高尾山周辺では、海軍特設見張所やレーダー、高射砲の設置が行われました。今回の登山では、現在も点在するレーダー跡や特設見張所跡、兵舎跡を見学しながら頂上を目指します。今回の研修会への参加は、駐車場狭隘の関係から会員とその関係者に限定して実施する予定です
偶然見つけたYoutubeの動画で【ReHacQvs東大生】戦争が壊した記憶!甦れ【AIと対話で奇跡の復活】というタイトルがあり、視聴してみる事に、、、幼いことに平和学習が苦手だった庭田杏珠さん。現在の平和記念公園にあたる中島地区がそんな庭田さんが戦争や平和について考えるきっかけになたっという。戦前の白黒写真をAIによってカラー化できたとしても、心に残っている色までは表現する事ができない。記憶の解凍プロジェクトとして、対話を通じてよみがえった写真がたくさんある。早速
広島撮影旅2024の3日目、最終日の後編です。今回で最終回です。まず、広島市郷土資料館の続きからです。今日もよろしければ、平和学習をご一緒しましょう。この写真は、広島市民の推移をグラフ化したものです。1945年に突然減っているのはアメリカ軍が広島に原爆を落としたからです。昔の「食」に使う道具が置いてありました。郷土資料館って普通は戦争の展示よりもこういう展示が多いですよね。原爆がいかに大きな影響だったかを感じます。ちなみに写真
太平洋戦争末期の昭和19年9月~20年11月まで島根県で疎開していた大阪西区・西船場国民学校の子ども達。佐藤納先生は、5年生女子30名の担任として島根へやって来ました。西船場国民学校は、昭和17年4月に靭(うつぼ)校と東江(とうこう)校が統合して誕生した学校です。統合の前年に靭校に赴任していた佐藤先生は、担任していた4年女子クラスの児童をそのまま持ち上がり、昭和19年3月に西船場国民学校の卒業生として見送りました。その後に4月から5年生女子2クラスのうち、靭地区居住のクラス担任
2024.03.19付の山陰中央新報「こだま欄」に、雲南市・泉岳志さん(29歳)の「戦争の記憶継承の方策探る」と題する投稿が掲載されました。今から79年前の1945年3月、太平洋側にある日本の大都市は次々と空襲を受けました。3月10日は東京大空襲、12日は名古屋大空襲、13~14日は大阪大空襲、そして17日は神戸大空襲です。投稿者の泉さんの祖母様は、名古屋の空襲で焼夷弾による火傷を負われ、孫の泉岳志さんはその体験談を直接聞かれたということでした。泉さんは、戦争体験者の減少を目
2日目は平和記念公園をまわることにしました。平日だから人少ないかと思ったら、やっぱりそんなことはなく、なかなかにぎわってました。最初に行ったのは平和祈念資料館です。平和学習にちょっとおつきあいくださいませ。(刺激の強い写真はいちばん最後にまとめてます。)広島に原爆投下されたのは、1945年8月6日午前8時15分です。写真中央の建物は、最初は「広島県物産陳列館」という名前でした。展示即売会をする場所、という感じです。その後に「広島県立商品
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年になると、B29による島根県東部沿岸地域への機雷投下が行われるなど、敵機の姿を目にする機会が増えてきます。大阪西区・西船場国民学校の6年生女子が寄宿していた喜見寺学寮(出雲市斐川町黒目)で、防空壕を掘る事が決まったのが昭和20年5月頃であったようです。『出東だより第4巻』には、「壕もみんなで掘っています。もうすぐ私(佐藤納訓導)の背より深くなります。水がたまるとなかなか乾きませんが、いざという時には水ぐらい気にしないでしょう。何よりも爆風を防ぎたい
終戦まで約1ケ月となった昭和20(1945)年7月5日(木)、出東国民学校の奉安殿に納められていた「御真影」が、空襲の危険を避けて久多美村へ奉還されました。地元の国民学校の児童はと言えば、前の週の6月30日(土)に学徒隊結成式を行い、西船場国民学校の児童も参列しました。そして、7月8日(日)には熊野神社で西船場学徒隊の結成式が開催されています。斐川に疎開していた堀江・西船場両国民学校に対しては、再疎開の指令は出されていなかったようです。地元住民の間では、「西船場校の再疎開が決
これまで、太平洋戦争末期に島根県へ集団疎開した大阪西区の国民学校について調べてきました。その文献調査の中で、「私と西船場国民学校」とのつながりを発見できました。もちろん、私は大阪とは縁も所縁もありません。家族・家系をたどってみても、すべて島根県内の出身であり、大阪との繋がりを見つけることはできません。佐藤納氏の『出東だより第4巻』を読んでいた時、はっとさせられる一文と出会うことになります。その文章は、昭和20年6月11~12日に大水が出た記録の中でした。「…(前略)…6月11日の夕
学童集団疎開の島根県への受入は4回にわたって実施されました。『出東だより』記載内容からまとめると、昭和19(1944)年9月23日に到着した第一次集団疎開、12月7日到着の第二次、昭和20(1945)年4月17日(火)到着の第三次、6月23日(土)到着の第四次集団疎開です。同じ集団疎開と言いながらも、昭和20年からの集団疎開は、前年とは様子が大きく変わってきました。大きな違いは次の4点にまとめられます。①新たに国民学校初等科1・2年生児童も参加千船国民学校の1・2年生が荘原村宗玄寺へ堀
ひろしまのピカの38回目は、ある朝突然、一本の電話から。それは、都内の小学校の先生でした。この三月に自分が受け持っている小学校5年生・全クラスに平和学習の機会を設けたいとのこと。どういう伝手なのかわからないけれど「ひろしまのピカ」のチラシや絵本を見て、ご連絡してきてくださったようです。こんなことってあるんですね。急いで日程を組んで、3月7日に小学校へ行ってきましたたぶん、開催するまで最短だったのではないかしら(笑)3クラス、約80名の小学五年生のみんなが聞
ただいま遠征中につき、皆さまへのご訪問&お返しのコメントができない場合がございます。申しわけありませんが、御了承ください。オイラはフツーの旅人なのでいつも真面目ですが、今日は特に真面目に平和学習をしてきました。昨日、ファミチキ7さまに「ノンアルで行け!」とお叱りを受けたので今日の朝食はノンアルです。これでお勉強は終わったので、これから呑みに行きます。でわでわ。。。。。
昭和19(1944)年9月に大阪西区から島根にやって来た14校の国民学校児童3000人を待っていたのは、20年ぶりと言われたほどの大雪でした。『出東だより』には、天気の記載が次のようにあります。その一部を紹介します。【昭和19(1944)年12月】12月2日(土)…激しい吹雪となる。子どもの部屋へ火鉢を入れる3日(日)…雪と霰が降る。午前中に白くなる。4日(月)…霰が降る〔5日(火)午前中も霰〕7日(木)…霰降る。昼過ぎに地震がある。8日(金)…激しい霰降る。【昭
前回ブログで、疎開地の村人は大阪からの疎開児童をどのように迎え、どのような関わりをもっていたかについて紹介しました。『出東だより』には、「疎開児童援護一覧表」として昭和19(1944)年10月26日に出東国民学校の金森先生から受け取った書類内容を、佐藤納先生が書き写しています。〔第2巻19p〕出東村としての公式の集団疎開学校に対する接待内容の詳細がわかります。【昭和19年】9月21日…荷物運搬宿舎迄󠄀〔国民学校〕9月23日…駅頭茶菓接待〔女子青年団〕・宿舎茶菓接待〔傷痍軍人会〕・到着
7日~9日中島さんととっても明るく元気なみなさん(東京都・千葉県からお越し)元保育士のみなさん…楽しい話は尽きず…楽しいお酒も尽きず(?)平和学習もしっかりサトウキビ畑歌碑広場役場の「憲法九条の碑」そして辺野古大浦湾が見渡せる工事現場で
大阪の集団疎開学童の疎開生活は、昭和19(1944)年9月から昭和20(1945)年11月まで1年以上にわたって続きました。疎開地の村人は、大阪からの疎開児童をどのように迎え、どのような関わりをもっていたのでしょうか。西船場国民学校訓導・佐藤納氏『出東だより』に見られる地元住民による疎開児童支援に関する記載を紹介したいと思います。≪昭和19〔1944〕年≫9月23日(土)【荘原駅から荷物運搬】国民学校児童に荷物を持ってもらったり、車に積んでもらう【到着日の夕食】赤飯と魚のご馳走に
集団疎開地では、昭和20(1945)年4月以降の学寮生活で大変困った事態が発生しました。それは、「6年生の教科書問題」です。太平洋戦争末期には大都市が空襲を受け、軍需工場を始め都市部に大きな被害が出ます。これによって、「教科書」が手に入らなくなります。疎開児童がもっている前年度の学年教科書は、新学年の児童用として利用します。しかし、6年生は卒業・中学校受験のため帰阪し、教科書は持ち帰っていました。大阪書籍の会社に残っている教科書を、関係保護者に依頼して何部か入手したり、
昭和20(1945)年3月、日本本土への空襲のねらいが、本格的に市民を対象とするものになりました。爆弾ではなく、焼夷弾を使用して市民の生活を焼き尽くすことで、戦争継続を断念させることをねらったのです。3月10日の東京大空襲、3月12日の名古屋大空襲、3月13日深夜の大阪大空襲、3月17日の神戸大空襲によって、大都市は次々と焼き払われていきました。それによって、多くの犠牲者が出るとともに、生活の場を失い地方の親せき等を頼って疎開する世帯が多数出ました。この結果、昭和20年4月以降
家族旅行へ。兵庫県にあるsoraかさいへ。特攻機や戦闘機、それに関する資料などが展示されている。『平和資料館~in大阪城公園~』あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。【電子書籍】[汐見夏衛]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}【映画パンフレット】『あの花が咲…ameblo.jp『社会科の家庭学習』戦争はなぜ起こる?どうすれば防げるのか?歴史と国際社会のしくみから考えよう(楽しい調べ学習)[森肇志]楽天市場${EVENT_LABEL_01…a
2024年2月13日に高尾山にある旧海軍のレーダー施設跡や特設見張台を訪ねて登山をしたことはすでに紹介しました。今春実施予定の「PIECEofPEACE島根教師の会」の「春の研修会」の下見のための登山でした。頂上付近は、三段の平地が造成されていて、一段目に兵舎跡、二段目が監視当番用の兵舎施設跡、三段目にレーダー・監視台施設跡が見られます。しかし、これまで高尾山へ登山された他の方のブログを見た際に、「登山途中にも施設跡がある」と書かれているのを発見。さっさく2月29日にその
太平洋戦争初期は、比較的穏やかな日々が続いた山陰地方でしたが、物資不足・出征による労働力不足が深刻化し、銃後の生活は厳しさを増してきました。昭和19年7月7日にはサイパン島守備軍の玉砕によって、日本本土への空襲や海上封鎖のための機雷投下が行われるようになっていきます。佐藤納先生の『出東だより』には、警戒・空襲警報発令に関する内容はどのように綴られているのでしょうか。【昭和19〔1944〕年】11月17日(金)…2時間目頃、警戒警報が発令され直ちに帰寮する。〔警報に関する初記載〕1
昭和19年9月23日に島根県入りした大阪西区・西船場国民学校の子ども達は、翌週末に地元国民学校への登校が始まりました。学校へは週に2回午前中の登校でしたが、勉強以外の勤労作業はどんなことをしていたのでしょうか。『出東だより』には、10月の勤労作業の様子が次のように紹介されています。10月11日(水)…学校から依頼され、5年生がイナゴ取りに出かける10月12日(木)…午前中に荘原村にある村有林へ薪取りに出かける10月13日(金)…児童の発議でイナゴ取りに出かける10月14日
大阪西区・西船場国民学校の子ども達は、昭和19年9月23日(土)の午後に島根へ到着し、それぞれの指定学寮に入りました。島根での最初の1週間は、どのように過ごしていたのでしょうか。『出東だより』には、最初の1週間の様子が次のように記録されています。9月23日(土)…到着した日の夕食は、赤飯と魚の歓迎のご馳走が準備されました。9月24日(日)…朝食は昨日の赤飯と白いご飯と共に出されました。9月25日(月)…午前中に学寮で算数と国語の学習。午後は出東国民学校で入校式。式の後、礼法堂
太平洋戦争の戦況悪化を受け、昭和19年8月から第一次学童疎開が実施されました。島根県への受入は、昭和19年9月22~23日の両日になりました。当時の島根県民は、大阪からやって来た疎開児童たちをどのように迎えたのでしょうか。当時、大阪西区・西船場国民学校の訓導であった佐藤納先生が残した『出東だより』には、次のような様子が描かれています。【各駅での接待の様子について】〇昭和19年9月22日21:53大阪駅発の集団疎開専用列車にて出発した。〇9月23日列車が島根県に入ると、駅々
ぶちうまいじゃん!広島その274広島市南区皆実町実食日2023年12月16日久しぶりに、わんぱくにお好み焼きを食べたくなりました広島市南区の有名店である【お好み焼きひらの】さんへ伺いました100円自販機があるお店ですwこのお店は1989年創業の地元に愛されているお店で名物は“そばライス”ですと言う情報でやって来たのですが“テラシー焼き”って何?“つーじー焼き”って何よ??あもんの頼んだ“そばライス”を作ってくれていますあれは、二つのお好み焼きではありませんあ
2024年2月19日から21日までの大阪市訪問の最終日、島根県雲南市三刀屋町へ再疎開した天王寺区大江国民学校があった大江小学校を訪問しました。この学校は、第一次集団疎開で大阪府内の中河内郡縄手村・英田村へ疎開しています。大江国民学校の生徒だった丸井靖夫さんの体験記によれば、疎開先が学校区からわずか8駅しか離れていなかったため、疎開生活の寂しさやつらさから自宅へ逃げ帰る「脱走」が頻繁に発生したとされています。また、第一次大阪大空襲の夜、夜空を真っ赤に焦がして自分たちのふるさとや家族が
21日~22日及川さんご夫妻(東京都から)昨日は嘉手納…読谷と廻り、平和学習をされましたそして今日、ご家族と合流して沖縄を観光!いってらっしゃーい!
集団疎開体験者の方を訪ね、現在お住いの大阪市西区九条南のご自宅を訪ねました。その方のご自宅は、九条北小学校のお近くでした。この九条北小学校の南にある校庭近くに、現在「九条北会館」と「九条北公園」があります。ここは、かつて戦時中に「九条中国民学校」があった場所なのです。九条中国民学校は、島根県松江市恵曇村・佐太村へ学童集団疎開した学校です。九条北国民学校は、現在の出雲市東林木・西林木へ学童集団疎開しました。九条中国民学校の生徒であった中平定春さんの疎開体験を、地元国民学校
島根大学教職員の戦争体験手記が綴られた『私と太平洋戦争』を続けて少しずつ読んでいます。第二章は「徴兵は延期されたが」のタイトルです。昭和18(1943)年10月、理工系と教員養成学校の学生を除く学徒に対し、これまでの徴兵猶予が解除され、多くの学徒たちが出陣することになりました。雨降る明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行式も10月21日に行われました。その時、徴兵猶予の継続を受けた理工系の学校で学んでいた7名の方の体験手記が、この章には集められていました。読み進めていくと、徴兵は猶予