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関ケ原町に飛来しているアサギマダラを見た後関ケ原合戦に開戦地にいきました。ここはアサギマダラが、飛来している休耕田のすぐ西側の北天満山の山すそにあり、北側には小西行長陣跡があります。ここから戻って、農道をアサギマダラの飛来地を横に見て真っ直ぐ北にいき、右折して島津義弘陣跡にいきました。ここは西軍布陣地のほぼ中心に位置し、島津隊は西軍総崩れの中、最後まで戦場に残っていたが、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を出しながら大将の義弘を薩摩に帰国させた。後に【島津の退き口】といわこの戦
.............................................................................................................................................................追記:新たな世界の入り口を感じますこれこそが”世界動向”といえるでしょう⤵トランプ式のヤルタ2.0になる世界トランプが米中露首脳会談で作る
明智光秀が山崎の戦い(1582年)のあとに比叡山へ隠れ住んでから、関ヶ原の戦い(1600年)が勃発するまでは18年あります。この18年間という歳月は、「光秀が自らの過去(明智)を消し去り、呪術と政治の天才『天海』へと完全に生まれ変わるための雌伏(しふく)の期間」として非常に重要な意味を持っています。そして、私の想像話では、この18年間の間に世代交代をしながらも自分たちの思いを成し遂げる武将たちがより一層仲を深めた時期でもありました。私の想像話を聞いてください。島津家と明智光秀(天海)島
今回の記事はどちらかというと関連話がメインとなるし、今更このラインナップに有償の石を突っ込むなんて判断をするのは何らかの理由を持った猛者だけであろう。なので、武将詳細は割愛。ご新規諸君がトチ狂ってここに有償石を突っ込むつもりならやめておけ。信玄さん『【信長の野望20XX噺】7周年総選挙(4)』『【信長の野望20XX噺】7周年総選挙(1)』星4まで含めると総勢30名。全部で……5回くらいかなぁ。先ずは光秀さんはこちら。『【信長の野望20XX噺】光秀ガ…ameblo.jp謙信さん『【信長
基本的にお土産は食べ物をもらうことが多いポチです食わせときゃご機嫌でしょ?と思われてます(笑)友人から鹿児島のお土産をもらった。『ポチの好きそうなもの見つけたよー』と言われて渡されたのがコレ。仙巌園の猫クッキー缶クッキーも猫も好きだけど何故私がそこまで喜ぶと思ったんだろうと思ったら不勉強で知らなかったけど、島津義弘の創建した猫神社なのねぅん、確かに島津義弘好き(笑)最近だと妖怪首置いてけもインパクト強いけど【送料無料対象商品】コスパドリフターズ首置いてけ!!TシャツBLA
"関ケ原合戦決戦前夜大垣城"を10月18日(日)に大垣城ホール等で開催します今年も、関ケ原合戦の決戦前日である10月20日(新暦)に近い、10月18日(日)に開催!当日は、歴史人物を駆使して戦う新感覚の1vs1の対戦型歴史カードゲーム"Hi!story(ハイストリー)"の公式大会"大垣三成杯"をメインに、中心市街地に残る"大垣城に関する史跡等を巡る"大垣城重ね押し御城印スタンプラリー"、など、"決戦前夜大垣城"をテーマとしたイベントを開催します(関
期間:2026/10/02〜10/09天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額射)島津義久:大吉の勝戦武)島津義弘:雄武英略の傑射)島津歳久:利害明察の智戦)島津日新斎:中興の仁政薬)雪窓夫人:竜攘虎搏の血©コーエーテクモゲームス
期間:2026/09/29〜10/06天井:100倍率:2倍初回:半額武)島津義弘:雄武英略の傑武)島津豊久:知勇卓犖の壮武)井伊直政:百世の神将武)立花宗茂:西国無双©コーエーテクモゲームス
『島津義弘』(しまづよしひろ)戦国時代の薩摩国の武将。武勇の誉れ高く、“鬼島津”と言われ恐れられた。戦国時代の屈指の猛将と言えるでしょう。エピソードの多い義弘ですが、今回は、“島津の退き口”です。関ヶ原の戦いとは、東軍徳川家康と西軍石田三成の戦い。(一応、形の上では西軍の総大将は毛利輝元)島津は、今でいう鹿児島。地理的に遠く、家康も三成もあまり関係がありません。この戦争には、関わりたくありません。そうは思っても、時代
島津家と明智光秀の交流の想像話です。光秀と島津とは表立っての交流記録はありません。島津家との交流で記録に残っているのは、坂本城で行われた家久との歌会の記録だけです。島津家と明智光秀の交流は、光秀が足利義昭の家臣時代にありました。島津家は足利義昭🟰将軍崇拝者でした。そして、島津義弘が拝謁に来ました。義弘は元の名が『忠平(ただひら)』でした。そして、『義珍(よしたか)』にし、最終的に『義弘』に改名しました。義弘もまた、真田のように隠密に京都に来ていました。外務担当は、明智光秀でした。
明智光秀が真田と島津とどこで知り合ったのか?想像話ですが聞いてください。明智光秀が足利義昭の家臣だった頃の話です。足利義昭と織田信長は、最初の頃はお互いに利害関係が一致していたので上手くいっていました。足利義昭が将軍として、自分の政治手腕を発揮したいと思うようになり、利害関係が崩れ始めました。1570年に信長から『殿中御碟(五ヶ条の条書)』を突きつけられました。義昭が諸国に手紙を出すときは信長の了承を得るという制限書です。信長への不満わ募らせた義昭は、将軍の権威を使い、全国有名大名た
本日は戦場跡めぐり!「開館時間」とか関係ないので朝こっぱやくから出動です!!あと保冷バッグにコンビニで冷凍ペットボトルを買っておべんと冷やす事を覚えました!!7時ころホテルを出て関ケ原まで40分ほど!(滋賀から近いんですねびっくり)まずは大谷吉継陣跡です!駐車場を全部網羅してくれてるサイトを見つけたんです…有難すぎる…書いてあった通り!七台ほどの駐車場ですでこっからどう行くの?^^;しばらく迷ってしまいましたが道路を渡ってこちら線路の向こう側らし
美山へ行った…鹿児島県日置市東市来町…美山昔は苗代川との呼称だったこの里は美しいと評判なのだが…8月の猛暑日に行ったのがいけなかった散策をしたかったのだが命の危険を感じるほどだったのでやめておいた山々を見て感慨深い思いがしたそう高くはない山々に囲まれているこの里の先祖たちがずっと見てきた山だなと…豊臣秀吉の朝鮮出兵において島津義弘に捕虜として連行された朝鮮人陶工の末裔たちが集住してきた薩摩焼と呼ばれるブランドの陶磁
関ヶ原の戦いinかごしま2026.09.15ドラえもんの「タイムマシン」と「どこでもドア」で…関ヶ原の戦いは急きょ、鹿児島市で行われることとなった。こういう設定でこの話は進む。写真は軍勢の配置である。426年前の本日、つまり西暦1600年…午前9時ごろに、石田三成(西軍総大将)が関ヶ原(岐阜県)の笹尾山から見ている風景を、鹿児島市街地に重ねてみた。彼は鹿児島市の「城山展望台」から眺めている。そこから見ると、それぞれの武将の布陣はこのように見えるはず。左側から…徳川家康(
9月15日は何の日か、ご存じか…関ヶ原の戦いである。(旧暦)天下分け目の戦いとも言われる。小学校6年生のときに、宅習帳(宿題ノート)の裏に書いた「関ヶ原両軍配置図」が出てきた。これを書いている最中の記憶がしっかりと残っている。楽しみながら夢中で書いた。50年近くも昔の話である。この頃、戦国時代の歴史が好きだった。青色が西軍、赤色が東軍である。それぞれの武将が陣地を敷いた位置となっている。明治になり、日本陸軍がドイツ陸軍から招いていた教官メッケルが、この関ヶ原の戦いの
今日和誤字脱字は見逃してね♪この方は『北条氏康さん』という戦国時代の御方なのですが知ってますか?関東の人なら知ってますよね。鎌倉の北条氏とは無関係です。伊勢氏の流れをくみ、小田原城を拠点とした大名です。北条氏康公は、北条早雲公のお孫さんで、北条家の勢力を最大に拡大した三代目です。武田信玄公、上杉謙信公、今川義元公と派遣を競って睨み合った御仁です。他の三人比べて存在感が薄いのですが、組織造りに定評がある。総合力に秀でた人物のようです。北条家は5代目の北条氏直公の代に、豊臣政権に下ることを拒絶
9月14日(日)天気、良かったのに17:00過ぎから雨「西勝楽町若者」の曳山で外題;『耳川の合戦』文峰作人物;「島津義弘」「大友宗麟」天正六年(1578年)、戦国時代後期。織田信長が天下統一を進める一方、九州では島津氏と大友氏が日向国の支配を巡って激突した。大友宗麟率いる大軍に対し、島津義弘は退却を装って敵を誘い込む「釣り野伏せ」の戦法でこれを撃破し、大友軍は壊滅するこの勝利により島津氏は九州南部の覇権を確立し、九州統一へ大きく前進した歴史的な合戦である。
いつもの事です。誤字脱字はご容赦願います。今日和7月上旬から家族の身の回りで生じた理不尽による『戦い』が一旦収束しました。未だ油断できる状況ではありませんが一段落しました。御支援して頂いた上様方に心から御礼申し上げます。ありがとう御座いました(__)追記何があった?どうなった?との問が多いので、簡潔に述べます。リアルの人達が絡むので詳細は控え、漠然とした返答をさせて貰います。7月上旬に一斉攻撃を受けます。それまで正体を潜めていた者達が豹変しました。例えると、同じ時期に、芸能人でユーチ
【この記事のポイント】・「島津義弘=鹿児島」は思い込み。義弘公が青春と命をかけた真のホームグラウンド「宮崎県えびの市」・わずか300の寡兵で大軍を包囲殲滅した戦国史の奇跡「木崎原の戦い」・「大勝利」の裏に隠された「島津軍ほぼ全滅」の凄惨な死闘と、急転直下の「豊後落ち」定年退職後の夢である「日本全県制覇旅」の宮崎妄想シミュレーション、第2弾。昨日の記事では、のんびりした南国リゾートかと思いきや、エリアごとの重力差が激しすぎる「時空のジェットコースター」ルートを提示されたことをご
島津義弘である。皆の衆、息災であろうか。10月25日(日)、我ら熊本城おもてなし武将隊が日向国(宮崎県)は都城への出陣が発表されたぞ!令和8年度都城島津伝承館特別展「都城島津氏の歩みと新『都城市』」を開催します-宮崎県都城市ホームページ令和8年度都城島津伝承館特別展「都城島津氏の歩みと新『都城市』」www.city.miyakonojo.miyazaki.jp今年令和8年は、都城市がいまのかたちとなって20周年、そして“島津発祥”から1000年という記念すべき年である!これを記念し
退き口仁義三河雑兵心得拾八井原忠政著双葉文庫720円元百姓で足軽上がりの植田茂兵衛が徳川家康配下で天下統一まで上り詰める物語。関ケ原の戦いで西軍を総崩れに追い込んだ直後だ。西軍の島津軍は関ケ原では特に戦闘には加わらなかったが総崩れする味方を見て敵中突破の退却戦をしかけてきた。主君家康の鼻先を掠めて突破する退却に激怒した家康が島津義弘の首をとってくるように厳命する。退却する島津軍を猛追する徳川の中に茂兵衛はいた。徳川の猛追を必死でかわす島津隊はどうにか逃げおおせ
一度でいいから冒険してみたいことある?▼本日限定!ブログスタンプ冒険みたいな人生はもういいっす…😅「冒険の日」1965年(昭和40年)同志社大学南米アンデス・アマゾン遠征隊がアマゾン川の源流から130kmを世界で初めてボートで下りました。「富士山測候所記念日」1895年(明治28年)富士山頂剣ヶ峯に野中測候所が開設されました。野中測候所は私財を投じて開設されたもので、1923年(大正12年)に開設された気象庁富士山測候所の前身となりました。富士山測候所は、1999年にレーダー
大垣ミニパック再販の喜びも束の間、今月の公式物販は8月23日(日)で終わっていました・・・一昨日、行けばよかった・・・ならば来月とイベントカレンダーを見ていると9月21日(祝)・・・公認イベントは毎週開催されていますが、物販がある公式イベントは愛知県だと月1ぐらいになっている様です。物販でしか買えないパックは島津、西軍デッキに欲しい「大垣ミニパック」と武田軍、上杉軍デッキに欲しい「宿命の龍虎」になります。あとは名古屋城でしか売っていないパックと犬山城でしか売っていないパックぐらいで
【昨年は88豪雨災害の影響で中止だった加治木太鼓を2年ぶりに体感しましたした8月16】おはようございます。熱帯夜明けの8月17日の朝となりました。現在、6時5分.室温27.7度湿度69%となっています。16日のきのう、晴れてまぶしい太陽の陽ざし強く蒸し暑い中、国道沿いを進み、千鳥公園を通り宇曽野ノ木川に架かる橋を渡り、春日団地を通り姶良市加治木町春日神社(大隅五社)へ行き姶良市加治木町①木田加治木太鼓踊り保存会と②反土加治木太鼓踊り保存会の加治木太鼓踊り披露を8時40分
—島津家の庭園に“まさかの猫”。雨宿りから始まった、小さな神社との温かい出会い—---🐾①猫神社とは?仙厳園の敷地内にある、小さな祠のような神社。正式には「猫神(ねこがみ)さま」と呼ばれていて、島津家ゆかりの“猫の伝説”が由来になっている。●猫神の由来•島津義弘が朝鮮出兵の際、猫の瞳の動きで時間を計ったという逸話が残っている•その猫を大切にしたことから、“猫は福を呼ぶ守り神”として祀られるようになった•薩摩では昔から“猫は縁起物”として大切にされてきた
大神神社さんへのお詣り、すみました。あと、気になることは、奈良盆地の東南に位置するこちらからの景観を見ること、あとは神仏習合の知見を得ること、の二つです。久すり道に入る前にここありました。開館の時に来ないかんですね、また他日。拝殿前を通り、南になる鳥居からでました。ひと気はぐっと少なく、いい雰囲気の所に出ました。これ。お詣りに向かう。おっ!これやがな。大事なお山、四つ高い方、左が金剛山、正面あたりが葛城山。右、見えないけど二上山。手前、盆地内は、左が畝傍
黒川岬展望公園から日木山川沿いに進み、日豊本線の線路を渡ると精矛(くわしほこ)神社に7時半に着きました。戦国時代の武将の島津義弘を祀っていて、元は隠居所に明治時代になって創建され、大正時代に現在の場所に移転したとのことです。拝殿の横の義弘公ゆかりの小径を進むと渋谷稲荷があり、渋谷の玉里島津家に祀られていたとのことです。https://www.kagojinjacho.or.jp/shrine-search/area-airaisa/%E5%A7%B6%E8%89%AF%E5%B8%82/6
覇)三好長慶:吟風弄月の雅覇)甲斐姫:東国の明玉覇)お船:主家存続の決覇)織田信長:古今無双の将覇)立花宗茂:九州の逸物覇)本多忠勝:東国無双覇)佐竹義重:天魔鬼神の業覇)石田三成:主従三世の縁覇)島津義弘:死地後生の決覇)羽柴秀吉:出世の神様©コーエーテクモゲームス
関ヶ原の戦いにおける島津義弘の陣は、笹尾山の石田三成陣と天満山の小西行長陣との間にある小さな丘の上でした。島津義弘・豊久、山田有栄、長寿院盛淳の諸将に率いられた島津軍総勢1,500は、石碑が立つあたりに豊久と山田有栄が、後方の薩摩池と呼ばれる池のあたりに義弘と長寿院盛淳がそれぞれ陣取ったと言われます。三成や行長が山を背にした好立地に陣取ったのと比較すると、島津陣はなんだか諸将からはじき出され、孤立した「残り物」みたいな場所に陣取らされたのではないかとの感が残ります。小西行長陣から見た島津陣