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天海(158)「慶長五年七月一日美濃岐阜ノ織田信秀、東国ニ出陣セントス、尋デ、石田三成ノ勧ニ依リ、近江佐和山ニ至ル。」「七月五日、備前岡山ノ宇喜多秀家、山城豊国社ニ詣ヅ。」「七月十一日、近江佐和山ノ石田三成、家臣樫原彦左衛門ヲシテ、越前敦賀ノ大谷吉継ノ東下ヲ美濃垂井ニ要シテ、佐和山ニ迎ヘ、徳川家康ヲ討タンコトヲ議ル。」(「史料綜覧」)岐阜城主・織田信秀は7月1日に、会津に向けて出陣する手筈であった。ところが、出陣の準備に手間取っているうちに、三成の勧誘を受け
覇)三好長慶:吟風弄月の雅覇)甲斐姫:東国の明玉覇)お船:主家存続の決覇)織田信長:古今無双の将覇)立花宗茂:九州の逸物覇)本多忠勝:東国無双覇)佐竹義重:天魔鬼神の業覇)石田三成:主従三世の縁覇)島津義弘:死地後生の決覇)羽柴秀吉:出世の神様©コーエーテクモゲームス
ご訪問ありがとうございます、エリですメンタルから整えるお片付けアドバイザー平日は腰掛トレードで資産運用中♪【片付けの能力は個人差があるから】リビングやダイニングなど複数人で使用するスペースを散らかっても片づけやすい空間にするにはどんなルール作りが必要か。メンバー構成や人数に関わらずはっきりしている基準があります。それが、「いちばん片付けが苦手な人に合わせる」というもの。「苦手」という言葉には、片付けのスキルの他、身体的はハンデも含みます。
ご訪問ありがとうございます、エリですメンタルから整えるお片付けアドバイザー平日は腰掛トレードで資産運用中♪2月に鹿児島県が出してきたスマホゲーム、もうプレイされましたか?戦国武将との恋愛ゲームと思いきや、ゴリゴリに鹿児島の歴史を学べる教材的ゲームになっております。私もちょこちょこ進めていてやっとクリアしました!ただ!一つだけ、分からない!!!最後の称号だけが手に入らないのです!この黒塗りになっている称号。「歴史を語り継ぐ者」なんですが、何が条件なのか分から
天海(134)「訴訟は見直す、治部は蟄居させると言っているのだが、全く、聞く耳を持たないのだ。訴訟者の中には与右衛門(高虎)もいて清正らを説得させているのだが、手に負えないそうだ。オレのおひざ元ともいうべき伏見で騒乱が起きたとなると、さすがに面目が立たない。」と家康は困った顔で言う。「主張が聞き入れられなければ、内府であろうと捨置かん、と息巻いているようですな。」と正信は楽しそうに話すのだ。「オレが困っているのに、お前は嬉しそうだな。」と家康が言うと、「もうお答
天海(132)「是ヨリ先、石田三成、大隅帖佐ノ島津義弘ノ子薩摩鹿児島ノ同忠恒ノ、老臣伊集院幸侃(忠棟)ヲ誅スルヲ責ム、是日、島津氏ノ老臣、三成ニ陳辨ス、尋デ、所司代前田玄以等、忠恒ヲ山城高尾山ヨリ、伏見ニ迎ヘ歸ル。」(「史料綜覧」)三成は忠棟誅殺に激怒し、義弘を呼び出した。義弘は、伏見の出来事であり、詳細について不明である、調査して後日報告すると告げたが、三成は納得しなかった。例によって、頭ごなしに義弘を𠮟りつけたのである。「このようなことをしでかして、島津家が
島津義弘陣跡へ関ヶ原古戦場巡り、今回で最後です前回までに紹介した、石田三成陣跡と小西行長陣跡の間にあります。※位置関係はこんな感じ(現地看板より)陣跡はこんな感じでした小さいですが、駐車場🅿️もありました。陣跡はこの奥にあります。南側からも入る小道がありました。島津義弘について島津義弘は島津四兄弟※の次男ですね。※島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久島津義弘の肖像画豊臣政権は、島津家の結束を崩すべく、長男の義久を冷遇し、次男の義弘を優遇することで対立を
天海(130)2月28日、島津義久が大坂から船に乗って大隅に向かった。義久も上方が長くなっていたので、これ自体は何ら不審なことではなかった。入れ替わるように伊予から藤堂軍が大坂の藤堂邸に入った。高虎が家康の与党であることは誰もが知っていたので、城下には緊張が走ったのである。3月9日、伊集院忠棟は島津忠恒に茶会に呼ばれた。伏見の島津邸には義久も義弘もいなかったのであるが、忠棟は、「これはいい機会だ。」と考えたのである。この際、当主気取りの忠恒に物の道理をはっきり躾
天海(126)このような三成の措置を聞きつけた家康は、その日のうちに伏見の薩摩邸を訪れたのである。家康は、多くの人々を集めると島津家の朝鮮の役での戦勝を褒め称え、名馬と名刀を贈ったのであった。この話題は忽ち伏見城下に流布し、多くの人々が島津家の功績を讃えたのである。無論、これは三成に対する当てつけであった。1月7日、家康は忠恒を呼んで大規模な宴会を開いた。さらに1月9日には、利家らとともに島津家五万石の加増を正式に決め、忠恒を右近衛権少将に任じたのである。このような
このガチャはこちらにて吟味済み『【信長の野望20XX噺】桔梗の才智』今日のは、良いぞ……!本日最初の光秀さんはこちら。『【信長の野望20XX噺】7周年総選挙(2)』さて、昨日『【信長の野望20XX噺】7周年総選挙(1)』星4ま…ameblo.jp20XXでも屈指の良ガチャ。全体回復のガラシャさん。全体&三種攻撃の光秀さん。優良サポーターの煕子さん。固有移植に使える忠興さん。強いて言えば忠興さんの格が少し落ちるが、それでも当たりに入れて良い部類。光秀さんかガラシャさんを仲間に出来
天海(125)遠山邸での宴が終わると、康政は番替で江戸に戻っていった。年の瀬も押し迫った慶長3年(1598年)12月29日、義弘・忠恒父子が伏見城に登城した。西ノ丸の家康は、二人を手放しで歓迎したのである。「泗川での合戦、実に見事であった。前代未聞の大勝利であったと聞く。是非お話を聞かせてもらいたい。」と満面の笑みで言うのだ。謙遜する義弘を尻目に、忠恒は口角泡を飛ばして、武勇伝を話し始めたのだ。義弘が窘めるものの、話が面白いので、満座の者どもは大喜びである。
「誕生日に熊本城おもてなし武将隊会いに行こう!…モノチカと悩んだけど〜(っω<。)クゥ!な旅」【其の参】&【最終回】でござりまする❀.*今回もおつきあいできる方はおつきあい下され(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚それではどうぞ〜(ꕤ•ᴗ•˶)っ自撮りも撮影出来たし(∩˃ᵕ˂∩)♡…でも横撮りもしたかった(„˃⌑˂„)…かもいっぱいいっぱい₍₍(˃͈ㅿ˂͈)₎₎で一枚しか撮れなかったし等と思いつつ(*´σー`)エヘヘ私の定番サクラマチクマモトにて時間潰す
天海(122)家康は義久邸を出ると、その足で幽斎のもとを訪ねたのである。幽斎は薩摩の内情を詳しく知っていた。「龍伯殿は表裏があり、なかなかの食わせ者ですぞ。薩摩は老中の合議といえば聞こえはいいが、私に言わせれば、誰も彼も無責任なのだ。」と穏和な幽斎にしては珍しく辛辣である。「龍伯殿は、配下の者に、お殿様としていい顔をしたいのであるが、その一方で問題が起きれば家臣に責任を撒擦り付ける。自分には責任が及ばぬように、のらりくらりといつまでも態度を決めない。最後はくじを
天海(121)こうして幽斎により蔵入地を増やしてもらい、大名権力を強化したはずの義久であったが、家臣の強い反発を受けて、所領の再配分に応じてしまうのである。せっかくの幽斎の財政改革は骨抜きにされたのであった。朝鮮遠征の義弘は1万人の軍役に対して5千人程しか集められなかったが、文禄の役で奮戦した。それでも絶えず兵員不足、兵糧不足に悩まされていたのだ。そのような過酷な朝鮮在陣で、薩摩家次期当主に内定していた嫡男・島津久保(正室は義久の娘・亀寿)は病死してしまうのである。失意の義
「誕生日に熊本城おもてなし武将隊会いに行こう!…モノチカと悩んだけど〜(っω<。)クゥ!な旅」【其の弐】でござりまする❀.*・゚なんか今回…非常に調子が悪く記憶がかなり曖昧というか(><。)記憶薄きこと多く!甚だ申し訳ない所存(*´・_・`)でござりまするが…(*__)՞՞頑張って(•'-'•)و記していきたい!と思われまするので寛大な気持ちでお読み頂けると誠に…誠に!嬉しゅうござりまする(✘﹏✘ა)おつきあいできる方はおつきあい下され(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚
天海(120)九州征伐の敗戦で、島津家は混乱を極めた。島津家は、もともと、一族衆や国衆の力が強く、戦国大名に権力が集中していなかったのである。この弱点を稀有な戦闘能力を持つ4人の兄弟が補い、九州統一目前まで突き進んだのである。しかし、その後の敗戦により、島津家の求心力が一気に弱まり、一族・国衆が勝手なことを始めたのである。それでも島津家中では当主・義久の権威が高く、談合と呼ばれる老中の合議制によって、家中は辛うじてまとめられていたのだ。それに比べ弟の義弘の政権基盤は
天海(119)慶長3年(1598年)11月25日、家康と利家らは明水軍が日本軍の帰路を妨害しているとして、筑前国名島城にいた三成と浅野長政に、高虎と協議するよう指示した。三成らは博多に待機していた高虎を呼び出すと、帰国する朝鮮諸将の護衛のため対馬海域に出撃することを命じたのである。高虎は伊予水軍を率いて、またしても船上にいた。船の舳先に腰かけ、大海原を見ていたのである。今日の対馬海峡は、冬にしては穏やかであった。「殿、ここにおられましたか。」と声を掛けられ、振り向く
期間:2024/03/19〜03/26天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)島津義弘:死後後生の決武)島津貴久:柔断の英主薬)雪窓夫人:竜攘虎搏の血戦)島津義久:総大将の才射)島津歳久:利害明察の智星3射)樺山善久:心眼・参戦)島津忠恒:心眼・参©コーエーテクモゲームス
期間:2024/03/19〜03/26天井:100倍率:2倍初回:半額射)大友宗麟:豊後の王薬)角隈石宗:道学兼備武)島津義弘:雄武英略の傑戦)島津家久:軍法戦術の妙星3武)佐多忠増:猪武者・弐©コーエーテクモゲームス
天海(118)明水軍の指揮官・陳璘は露梁津の戦闘が終わると、危機的状況にあった自船を救援に来てくれた李舜臣に礼を言おうとした。その時初めて、李舜臣が戦死したことを知ったのである。椅子に座っていた陳璘は床に崩れ落ち、「君は何故、死んでしまわれたのか。」と号泣したという。このような慟哭は各兵営に満ち満ちたのである。(「懲毖録」)さて、この戦いで両軍がどのような被害を受けたのかは、例によって史料により異なるのだ。朝鮮側の史料「懲毖録」によると「焚賊舟二百餘艘。殺獲無算。」
天海(117)11月17日夜、島津軍を先頭に日本水軍は露梁津に向かった。これに対して、明水軍の陳璘は北の竹島付近に、朝鮮水軍の李舜臣は南の観音浦に身を隠し、露梁津を渡る日本軍を待ち伏せしたのである。18日未明、島津軍先鋒の樺山久隆が無事に海峡突破したので、続いて島津軍本隊も海峡を通過しようとすると、突然目前に南北から明・朝鮮水軍が現れたのである。明水軍の先鋒は副将・鄧子龍、朝鮮水軍の先鋒は李舜臣であった。朝鮮水軍では「李舜臣将軍の先鋒は、危険である。」として多く
天海(116)慶長3年(1598年)10月1日、家康、利家らの内命を受けて徳永寿昌、宮木豊盛が釜山に到着した。この日はちょうど泗川新城で義弘が中路軍を破った日であった。8日に、二人は泗川に赴き義弘と面会、さらに順天、蔚山と訪問した。二人は朝鮮在城の諸将に「明国軍が撤退すれば、釜山に集結し帰国するように。」という五大老の命令を伝えたのである。蔚山城の清正は麻貴の指揮する東路軍を寄せ付けず、慶州に退けていた。朝鮮での戦いに無意味さを感じていた清正は、撤退命令に素直に従い、1
〖石川県能登地方での地震による被害を受けられた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。〗義援金受付窓口↑ニセサイトではありません💦石川県のホームページのリンクを貼ってあります。力になりたいと思われたら訪問してみて下さい!みんなで助け合いましょう‼️⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫愛用です😉店頭よりかなり安く買える魅力🐸【第2類医薬品】フェイタスZαジクサス21枚Amazon(アマゾン)ドラゴンボールZ[お菓子チョコレート]仙豆チョコポット/バレンタインAm
「誕生日に熊本城おもてなし武将隊会いに行こう!…モノチカと悩んだけど〜(っω<。)クゥ!な旅」【其の壱】でござりまする❀.*・゚前回から2ヶ月しか経ってないけど誕生日に熊本城おもてなし武将隊に会いたい!:(,,ŏŏ,,):ガマンデキナイ…モノチカもあるけど(・ὢ・)いや!一度は誕生日に熊本城おもてなし武将隊に会いに行きたい(っ;ω;)っと言うことで会ってきました(^O^)熊本城おもてなし武将隊の皆様に(⑉˙ᗜ˙⑉)今回も私のブログなので(*´ω`*)ゞエヘッ
こんにちは。前回は取り乱しまして申し訳ありませんでした。キモチを切り替え取り組みさせていただきます。よろしくお願いします。さて、今回もこのところ続けています薩摩遠征からです。今回こそは戦国薩摩ど真ん中の御仁の銅像になります。よろしくお願いします。島津義弘木像(妙円寺)伊集院駅の敵中突破の騎馬像は何度もこのブログに載せてますが、コチラの鬼島津さんの木像を載せるのは初めてかと思います。コチラの木像は、鬼島津さんの400回忌の際に製作された木像とのこと。ここにある戦国島津のご
鹿児島観光昨日まで2日間の鹿児島旅天気は生憎の曇り空だけど雨は降らなくて良かった鹿児島についてすぐ駅ビルの上にある観覧車乗ってみましたよ1番高い所からの景色その後、照国神社この木を見て思い出しました前回の鹿児島旅行でも行った神社でした😆この後カンフル罪のライブそして翌日薩摩の英雄小松帯刀像鹿児島の街には至る所に薩摩藩士の象があります歴史に興味の無い方もご存知?西郷隆盛像一際立派な銅像ですこちらは西郷どんが最後に身を隠した通称、西郷洞窟ここに来るとツラい🥲この
皆の衆!元気にしておるか?隼之記(はやてのしるし)を見に来ていただき誠に嬉しき次第。本日は二月二十二日、そう、にゃんにゃんにゃんで「猫の日」にござる!猫と申せば、戦国屈指の猫好き、島津義弘様!ある戦では猫を七匹も同伴させ、戦に臨まれたと聞いておりまする。実は本日は他にも、島津義弘様が治められた”薩摩”に関わりがござる、ある出来事が起こった日なのじゃ。それが、「西南戦争において薩摩軍が熊本城の総攻撃を開始した日」にござる。元より、この熊本城は、薩摩におられた島津家の抑えとして作ら
「我慢できないから熊本城おもてなし武将隊に会いに行こう!…母巻き込み型の旅…^^;」【其の漆(なな)】最終回!で…ござりまする(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚今回は23日天守閣前のブログ続編でござりまする⸜(๑’ᵕ’๑)⸝お付き合いできる方はお付き合いくだされ(,,˃ᵕ˂,,)さてさて天守閣前演舞の後武将がのぼりを持ってお休み処へと片付け開始(((╭(・ㅂ・)╯テコテコ暫く母と広場で私達定番の武将隊待機_(_*´・ω・`*)_してたら熊本城のガイドの方が「どち
「我慢できないから熊本城おもてなし武将隊に会いに行こう!…母巻き込み型の旅…^^;」【其の陸(ろく)】でござりまする(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚お付き合いできる方はお付き合いくだされ(ꕤᴗᴗ)⁾⁾1/23の天守閣前演舞時のブログです(^^)……今回は2部構成です|°―°٥)マジカ…。長いし画像も多いので(˃▵˂)՞՞それでは第1部をどうぞ~(꜆՞.ˬ.՞)꜆城彩苑の演舞が終わった後雪もチラホラ降っていて゜。҉☃かなり寒く:;((•﹏•๑)));:「
島津義弘である。皆の衆、息災であろうか。鹿児島県いちき串木野市にある「薩摩開運神社」ここには江戸時代、薩摩藩の重要な資金源となった金山があり、全長120メートルにも及ぶ地下坑道が今でも残っておる。現在では年間を通じて温度が一定な地下の環境に着目した「濱田酒造」が焼酎の貯蔵や熟成に用いておる。この地下坑道に開かれた、"知る人ぞ知るパワースポット"といった感じであるが、この神社に祀られておるのがわし、島津義弘である‼︎ここは鹿児島県姶良市にある精矛(くわしほこ)神社より分祠された由緒ある