ブログ記事786件
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士と小野古風氏とは異母兄弟の間柄であるが、居士は妾腹であったから、子供の時より古風氏にはなはだしく軽蔑されたおられた。しかるに居士がひとたび戊辰の難局に当たられて以後は、古風氏心より居士を敬服し、常に先生先生と呼んだので、居士家人とともに、兄が弟を先生
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士慶応三年戊辰三月、駿府総督の宮に赴かれる前夜、いずこよりか大酔して帰宅し。茶づけがあれば早く早くと玄関より呼んで入られた。夫人はさっそく膳部を進められた。●時に益満休之助氏が来ていたので、居士は直ちに別室で益満氏と内談し、それより膳部に向かって
酒に酔って殴りかかった若き明治天皇を、山岡鉄舟は体を張って諫めた。■■転送歓迎■■No.3414■■R06.02.02■■4,183部■■■1.「近代世界の大帝王」1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御されるや、英国の首相アスクィスが即座に下院に提出した追悼動議は、満場一致で可決された。その際の演説で、彼はこう述べている。[a]__________余は歴史上、日本天皇陛下の如く一治世の短期間に、その国民ならびに世界人類のため、かく宏大にしてかつその必要
私は、宮地水位先生を知る前から山岡鉄舟先生を尊敬しています。😊鉄舟先生に憧れ、“我神也”と思い続ける瞑想から座禅に変えましたが、私が向かった先は禅宗のお寺ではなく、産土神社でした。知花敏彦先生は、いつもイエス様やお釈迦様の話をされていました。クリスマスの講話では、会場にイエス様がこられていると話されていた事もありましたが、😳日本の神様の話は全くと言っていい程なさっていませんでした。😔私は、知花先生の指導されていた瞑想を10年間続けましたが、神道を信仰し、我が国の神様にお導きを願うことし
上野のお山から初音の道を歩くその4寛永寺~慶喜公墓所~全生庵歌川広重の「名所江戸百景」と斎藤月岑の「江戸名所図会」を小脇に、「上野のお山から初音の道を歩く」のその4です。◈その1:御徒町駅~上野広小路~上野山下(寛永寺黒門跡)~西郷隆盛像前まで歩きました。◈その2:彰義隊のお墓~清水観音堂~五條神社~穴神社(花園神社)~文殊堂跡まで。◈その3:荷担堂(にない堂)跡~旧寛永寺五重の塔の横を通り「上野東照宮」へ。そして大噴水の横をぬけて両大師堂、こども図書館までをレポートしま
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士は尊皇攘夷党を率いて、朝幕一致を主張されたので、幕府側の士は大いに居士を疑い、しばしば暗殺を謀った。とりわけ、旗本に忠直の聞こえある。松岡萬氏が憤慨し、一日泥酔を装って居士の背後にたわむれかかって柔術でその首を挫かんとする刹那、居士その手をとらえて反
読書セラピー「賢者の一言」ショーペンハウアーヴェーダのウパニシャッドには天寿は百歳だといっている。これはいわれのあることだと思う。なぜかといえば私は、九十歳を越えた人でなければ美しい死に方にあずかることができない、すなわち何の病気もなく、卒中もなく、痙攣もなく、喘鳴もなく、いや時としては顔色蒼白となることもなく、大抵はすわったまま、しかも食事のあとに死ぬ、いや決して死ぬのではなく、ただ生きることを止めるというような死に方はできないということを知ったからである。幸福についてより…
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士の壮年時代は極めて貧乏で、とりわけ元治元年の大みそかには、わずか八両の支払いができぬため、晩方より掛け取り一同が台所口へ押し寄せてかわるがわる催促する。〇掛け取り当時は御用聞きの店への支払いは盆と暮れの二回払いで、あとはつけで処理していました
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●文久三年四月十三日の夜、清川八郎氏が赤羽橋で殺された時、その凶報が居士のもとへいち早く伝えられると、居士はすぐ義弟石坂周三氏、氏は居士夫人の妹婿。を呼び清川氏が肌身離さず身に着けている同志の連判状と清川氏の首級を取ってこいと命じられた。●そこで、石
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●木像梟首事件に付き浪士隊よりその筋への願書写●先般等持院の足利氏の木像を梟首した者共、逮捕され入牢申し付けられましたところ、右は忠憤激烈の至情により行動したのであって、にくむことは少なく、無頼の行為とは違う者でございます。この行為を厳重に罰する
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●幕府への建白書草案以下皆清川八郎氏筆跡●一、浪士募集の儀は東西地方の風儀もあるので、各地方に取り集め、大阪鎮海に呼集したり、江戸に繰り出したりするなど、いずれも不都合のないように命じられるよう存じます。●一、将軍御帰城の上、攘夷をなさるべき
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●幕府への建白書草案以下皆清川八郎氏筆跡●一、朝廷の御賄料の御増加のことは勿論、総じて公卿方に融通を十分されるよう。廉恥の気風が行われますように、一刻も早く御沙汰遊ばされたく。かつ公卿中姉小路中納言殿、三条大納言殿を始め国家のために周旋いたされた方
前回から“心の置き所”について書き始めましたが、😊これまでの自分を振り返るうち、なんだか自分の事がかわいそうになってきてん…。😔知花先生の教えに従い10年以上“我神也”とひたすら瞑想し続け、その後山岡鉄舟先生に憧れひたすら座り続け、宮地水位先生を尊敬し、15年以上ひたすら祈り続け…。今朝方、もし私が自分の指導霊だったら何て思うだろう?と考えてみると、🤔きっと神仙方に“そろそろ迎えに行ってやりたいんですけど…”とお伺いをたてるのではないか?と。そして、女仙方はどのように思って下さ
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●幕府への建白書草案以下皆清川八郎氏筆跡●一、伊勢の皇廟は、尤も海の近くで夷荻の侵入を逃れることはできない。兼ねて尾張藩と藤堂両藩が警護しておりますが、何分手薄の様子が見えております。神器が汚されるようなことのないように藤堂家に万一の備えを申し付け
今回から瞑想、鎮心時に置ける心の置き所について。😊私は、二十歳の頃に知花敏彦先生を尊敬し、先生の指導されていた瞑想法に従い、瞑想時だけでなく四六時中“我、神也”“我、大愛也”と10年以上唱え続けました。今振り返ると不思議。よく続けられたなと…。😶当時私は、知花先生の著書を全て持っていたことは勿論、講話のテープも沢山持っていましたし、月報も取ってました。お金を貯めては清里まで先生の講話を聞きに行き、先生のご自宅横のペンションでバイトをしたこともありますが、知花先生は、心の置き所については
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●幕府への建白書草案以下皆清川八郎氏筆跡●一、尊攘の大義を御勇断の上は、皇城の警護が第一ですから、去年の秋から親兵を差し上げるよう朝廷から御命令がありました。幕府においていまだ御決裁なく、朝廷は申すに及ばず、列藩すこぶる不平の様子が見えております。
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●幕府への建白書草案以下皆清川八郎氏筆跡●一、恐れながら上書いたします。この度幕府においては尊攘の大盛事を御決議なされたということでこざいます。天下の浪士たちのの中で尽忠報国の者広く招かれ、御採用あそばされるという御趣意に付き、私共は及ばずながら周
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士二十四歳の時、天下の大勢を望んで、自分の進むべき方針を定められた。それは挙国一致して皇威を世界に広め、内には幕府の運命は最早尽きているから要はその終わりを全うすることである。有終の美を飾るには速やかに朝廷の命を奉じて攘夷の大鉈を振るいその後、大政を奉
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士は撃剣に次いで禅に非常に骨を折られた。家にあることいずれを問わず、夜分は必ず二時間座禅をせられた。ところが居士壮年の邸宅は障壁天井すべて大破に任せていた。●そこで、居士は生来の殺生嫌いときたから、多数のネズミが昼夜室内に出入りして跋扈跳梁を極め
賢者の一言竜馬くん「心はいつも太平洋ぜよ」(株)ナムコ竜馬くんより………………………………✨✨✨この竜馬くんは、腰の刀を引っ張ると4種類の言葉をしゃべります。中でもこのセリフは大好きなのですが、太平洋のようにでっかい心で、でっかい夢を見ましょうよ、という、まぁ普通のメッセージです。本当の竜馬さんならきっとこう言うでしょう。「心はいつも青空ぜよ」思考の雲で曇っているように見えても、実は空の上にはいつも青空がある、本当のあなたは完全無欠の青空なんだよ…と。竜馬さんと千葉道
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士の生涯中、最も苦心したことは撃剣である。その初めに盛んに稽古された頃はほとんど狂人のようであった。ある時は厠のなかでも、ある時は布団に寝ているときも絶えず試合をしているように体勢を取った。●また、歩いている途中でも竹刀の音が聞こえると飛び込んで
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●しかしながら、これを打ち破る方法はある。その方法とは。今ここに勇士と臆病の士がある。試しに深山の上に導いていうには、この谷を踏み越えられた者に百金を与えると。●勇士は百金を得るために奮って超えようとする。しかしながら臆病の士は躊躇して進まない。その
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士十八歳の時より、幕府の講武所に入って武術を学ばれた。そして二十一歳の時その技量抜群で世話役に上げられた。ある日所員の怠惰を破ろうとして、木剣を以て厚さ一寸余りの羽目板を突き抜かれた。このことは所員に伝わって同僚中の奇談となった。●また、しばしば
吉村昭の『敵討』には、表題の「敵討」と共に「最後の敵討」が収録されている。数日前、オタク同好の士に四コマ漫画自家製本を買ってもらうために乗った電車内で、「最後の敵討」を気まぐれに再読した。気まぐれに、と断ったのはクライマックスの部分のみの再読だから。本作はほぼ100頁で、終盤のほぼ30頁分である。読者からすれば、主人公六郎のそれまでの雌伏とそれにともなう尋常ならざる忍耐、苛立ちをすっ飛ばして、敵討の完遂に至る数日、数時間、数秒のドキュメントに立ち会い、強く深い共感を同時進行で持てる
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士二十一歳の時。ある夜同輩数人と某氏邸に招かれ、主食の宴を受けられた後それぞれの自慢話に夜の更けるのを忘れた。とりわけ主人の某は大いに健脚を誇り。拙者明日は下駄ばきで成田山へ往復約三十五里の道を歩くつもりだが、だれか同行する方はござらぬかといって、傲然
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●静山先生は世にまれな槍術の名人であった。ことに天性の親孝行である時、病にかかり絶食十日以上になってしまった。母堂はその衰弱の様子を見て深く嘆かれた。●すると先生はその翌日より道場へ出て門人一同を指導し、そして自らも鍛錬をして、午後四時ころ部屋に戻り
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士二十歳のときに山岡静山先生の門に入って槍術を学ばれた。しかるにいまだ、幾月もたたないうちに、静山先生は水練の先生の溺れるのを見て助けようとして隅田川で水死された。〇鉄舟本では、「おぼれている人を見て」とあったように思いますが、この本では「其の水
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士父母に死別して異母兄の家に寄寓して以後はその衣服破れがちであったので、同僚はあだ名をつけて襤褸鉄とよんだ。しかしこれを居士は甘んじて受けられた。そして自らも襤褸鉄と名乗られた。●居士十九歳の時の時に、本所の古風氏は知人宅より小石川の自邸に帰ろう
空手歴40年フルコンから沖縄空手、日本柔術を経験し時に指導もしている川崎が「空手の型のやり方」を解説します!「命もいらず名もいらず・・・」とは何か!?明けましておめでとうございます!今年も皆さんにとって良い一年でありますように!また、2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震の被災者の方々へは、心よりお見舞い申し上げます。現在も現地では予断を許さない状況が続いておりますが、一日も早く復旧されますようお祈り申し上げます。
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士十七歳で、母君の死に会い、父君と死別されたが、父君終焉の時居士を枕辺に呼び、黄金三千五百両を出して五人の子供に委託されました。●それは酒井極、芝忠福、小野駒之助、小野飛馬吉、落合務である。これらは皆居士の同母弟である。そこで居士は五弟を引き連れ