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・垣堅くして犬入(いぬい)らず家庭内が正しく治まっていれば、それを乱すようなことは外部から入ってくることはない。大学中庸で国を治めるには家庭から、家庭を治めるには家族から、家族を治めるには自分自身を治めることとある。自分を管理できない人は結局政治なんてできないということです。それにしては政治家のスキャンダルは後を絶たない。なんでそういうことをするかと疑問に思う。頭がよくてもダメですね。かといってオリンピック選手が議員になった例もあるけど苦しい練習をして得た経験を政治に使えそう
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士はある時、三遊亭円朝を呼んで予は子供の頃より桃太郎の話を聞き、はなはだ面白く感じた。予は今日は桃太郎の話を一席語りくれよと命じられた。そこで、円朝は得意の弁に一層よりをかけてこれを演じた。●しかるに居士はサモ不満そうに、お前は舌で語るから肝
こんばんは!えりなです😊素敵なご縁に感謝------------------------------テーマ別はこちらから------------------------------今日は、いいなと思ったYouTubeから私の利他の精神…どこ……笑作品の中に息づいている日本人の精神性、アニメ・漫画に全ては詰まってるぜ!!「この世界の仕組みと理。そして我々はどう生きていけばいいか?」金融・政治・教育・歴史全てがつながる、アカウントが残っている内にお願いします◇公式ラインへ今すぐ登録お願
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●ある時平沼専蔵氏がその長子を喪い、悲嘆号泣しつつ居士を訪い、私は今日より仏門に入って亡児を弔いたく思います。先生何卒御指導を願いますという。居士はウン予もまた長子を亡くしましたから、実に同情に堪えぬ。●しかし、仏門に入ってだだ明け暮れ経陀羅尼を
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士ソハもっともの次第だが今からゆうゆう官途の稽古をしてもおれまい。しからば俺に極手っ取り早く官吏になれる唯一の秘訣がある。この秘訣さえ会得すれば大臣参議の官職でもなんのヘチマの皮だ。そのかわり少し骨は折れるが、ナニ十日か二十日も一生懸命になればよい
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたもので〇す。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●ある時田舎出身の一人の若者が居士に面接を請うた。居士すぐに引見されると、若者はいう、私は越前の国三国港のもので内田宗太郎と申します。私の家は元土地の素封家と称しておりました。が父の代より悲運に傾き今は全く没落してしまいました。●そこで私は不敏な
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●またある時居士の実弟小野飛馬吉氏が、兄鉄舟は色情の修行によほど骨折ったと見えまして、ある時鉄舟が色情というものは一切衆生、生死の根本だから、実に執拗なものだといいましたので、私は色情なんというものは、だれでも年を取れば自然になくなるでしょうといいますと
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●その頃鉄舟はたいてい東京へ出ており、私は三児を抱いて静岡の留守宅を守っておりました。ところがある夜のこと、鉄舟の枕元に顔青ざめ、身やせ衰えた私がチャント座っているので、鉄舟は驚きお前は英子ではないかといって、フト立ち上がる間に、その影は消え失せてしまっ
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●編者はかつて居士の色情修業のことを後室(居士の妻)にただした。すると後室ソハ夫婦間の恥話をせねばわかりませぬと初めにいい、鉄舟は二十一歳で私と結婚しました。そのときより、よく独り言で色情というやつは変なものだ。男女の間妙なものだといって小首をかしげてい
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●千葉氏はある時真に禅修行をするには、情欲を絶たねばいかぬと考え、居士にその意を語ると、居士は大いに驚嘆して、足下はエライことに気がつきましたね。情欲は生死の根本だからこれを絶たぬ間はいくら禅修行をしたといっても皆半途に終わるのだ。●しかし、情欲を
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●千葉氏は真の禅修行をするには僧侶になって禅堂へ入らねばいかんと考えて、居士にその意を語ると、居士はソハまだ早い、世間のことを十分勤めて後のことだといわれたから、千葉氏は思いとどまったが、その後また思い返して、居士に語ると、居士はやはりまだ早いといわれる
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●千葉氏はこれを展観すると白隠という落款があるので、コハいかなる人ですかと聞く、居士ソハ百年前の禅宗の高僧である。すると千葉氏は急に眉をひそめて、私は一体仏法は異端の教えであって、坊主は媼婦人をだましてへそくり金をまきあげることを心事とする。実に汚穢きわ
【啓蟄のコラム江戸無血開城と山岡鉄舟】1868年(慶応4年)3月9日(新暦4月1日)、幕臣・山岡鉄舟が駿府城で薩摩藩藩士・西郷隆盛と会見し、幕府の恭順謝罪の意を訴えて徳川家を救いました。江戸無血開城といえば勝海舟と西郷隆盛が成し遂げたことのように伝えられておりますが、その前交渉に臨んだのが山岡鉄舟でした。徳川慶喜の使者として3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に赴き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会して談判することになります。この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●すると千葉氏は憤然として、身を震わし顔色を変えて、しかし、同じ人間ですから、他人にできることが私にできないはずはございますまいという。居士はその機に投じ、しからば「宇宙に太陽は二つなく、天地間にただ一人」ということを講究しなさいといい、なおこれを講究す
『欲深き人の心と降る雪は、積もるにつれて道を失う』高橋泥舟の名言である。高橋泥舟は、江戸時代末期の幕臣で、槍一筋で徳川慶喜の信頼を得た人物。勝海舟、山岡鉄舟らと並び「幕末三舟」の1人とされている。幕末の動乱期に活躍した。詳しい生涯、その功績はよく知らないが、槍術の名人で、まさに、武人である。だからこそ、敗者となり、命を奪われる危機に瀕した主君の徳川慶喜公を最後まで守り抜き、絶大な信頼を得たのだろう。欲はほどほどに、雪もほどほどに。欲が深ければ、
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●千葉立造氏は居士に親炙することおよそ十五六年間であったが、始め五六年は岩佐純氏の代診として居士邸に出入りしていた。その間診療以外のことは一言も及んだことがなかった。居士ははなはだ彼の素朴を感じ入り、ある日千葉氏を別室に招き、姿を正して突然あなたは医者で
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●中条金之助氏は幕府旗本の士で、維新の際には彰義隊長に推された。その門地年配ともに居士の上にあって剣術もなかなか秀でていた。●しかるに、ひとたび居士と相知るや、深く居士の人格に敬服し、自ら後進の礼を取るに至った。維新後は富士の裾野に隠退しもっぱら開
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●剣法は実地の場に至りては生死を決断するところなり。近頃剣法を遊戯のごとく思い、互いに勝負にのみ流れ、実地に臨むがごとく力を尽くすを見ることはない。〇もうすでに明治を十年も過ぎると、剣術は剣道となり、柔術は柔道となって、スポーツとして近代化し、山岡
おはようございます!!ぎょ〜かいの朝から名言、格言のお時間です(笑)今日は家康遺訓から有名な格言です!山岡鉄舟の書です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりを敵と思へ。勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば害其身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ざるは過ぎたるに勝れり。」ぎょ〜かい的にはここ⚫不自由を常とおもへば不足なしが響きますね
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●この請願における立ち切り試合の妙は、一日午後二三時にある。このころになると立ち切り者は全く心身を打失して至誠一片となり、その活動が真に名人の域に入る。されば、一請願ごとに実際死地を経るのだから、その技術に著大の進歩を見るのは当然である。〇疲れ切っ
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士はその剣道場春風館に、特に請願という一方法を設けて、身体強権志気熱烈たる門人を陶冶された。請願とは一死を誓って稽古を請願するの意義で、その方法はほぼ三期にわかれていた。●そこで、第一期の請願を申し出る者があると、まず居士より一場の垂訓があり、
山岡鉄舟再興の鉄舟寺金澤成保(山岡鉄舟坐像)静岡・清水の太平洋を見下ろす山麓に、臨済宗妙心寺派の鉄舟寺がある。奈良時代に行基が、「駿河七観音」(安倍七観音)のひとつ千手観音像を納めたとされる。もとは、現在久能山東照宮のある久能山の山頂にあって「久能寺」といったが、武田信玄によって現在の地へ移され、江戸時代末期までに荒廃したものを、幕末の英傑・山岡鉄舟が再興し、「鉄舟寺」となった。本尊は千手観音菩薩。(山門(仁王門)、写真はWikipediaより)山岡鉄舟の人となり鉄舟
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●浅利氏は明治某年に修行を終え、以来剣を取らなかった。以来修行を怠ることはなかったが、浅利氏に勝つ方法はなかった。であるから、剣を取って諸人と試合の後、一人で浅利氏のことを思えば、浅利氏たちまちに剣の前に現れ山のように映った。●常に浅利氏と戦わんと
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●学んでできないことはないという真理あり。成さざるは自ら為さざることである。私は九歳で撃剣に志し、真陰流久須美閑適斎に従って学んだ。その後北辰一刀流井上清虎の門に入って修行し、かつ、諸流の壮士と試合することその数千万。●のみならず、その間、刻苦精思
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●明治十四年二月十八日。聖上武州八王子駅へ行幸。翌十九日宇津貫村御殿峠において、ウサギ狩りの御催しあらせられ、居士もまた供奉しておられた。●時、たまたま一匹のウサギが狩り立てられて逃げ来たり。突然居士に跳びついたから居士はこれを抱きとめ、聖上に献じ
『江戸の備忘録』ー磯田道史●山岡鉄舟と武士道(妻の気概)このごろ武士道の本が人気である。武士の道が素敵なものに見えるらしい。甚だしきに至っては「ビジネスに武士道を」などという。だが、武士道はそんな俗なものではない。武士の道を践むのはつらい。家の者を巻き込んで、まことに苦しい境遇に立ち至る。山岡鉄舟(1836~68)の家庭がそうであった。山岡は武士道の鑑とされ、「山岡鉄舟と云う称号は武士道の代名詞だ」(勝海舟)とまで言われた男である。山岡の生き方をみれば、武士道のなんたるかが、わかるのだが
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士は明治五年六月。岩倉具視、西郷隆盛二氏の切なる推薦により、十年間の約束で宮内省に出仕し、同十五年六月をもって辞職せられたのであると。●居士宮中宿直の時は、下僚および給仕等に休息を許し、独り自ら端座徹夜されるのが常であった。ところがねある夜某官
私の大好きな禅の言葉に「電光影裏春風を斬る」というのがあります。山岡鉄舟もよく色紙などに書かれています。ちなみに鉄舟さんの道場の名前は、ここからとられて、「春風館」と名付けられました。鉄舟さんは剣禅一如の大先生でした。昔、中国のお寺に敵の軍勢が攻めて来ました。修行僧たちは一目散に逃げ出したのですが、住職の無学さんは平然といて一句詠んだのです。電光影裏春風を斬るわしの身体を斬ってもどうという事はないぞ。稲妻がぴかっと光り、刀が春風を斬るようなほんの一瞬の、まったく意味のない
〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇現代口語文に近い形になおしました。〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。●居士終身剣道に執心し、ことに維新の大変に遭遇されしにかかわらず、ついに一度も人を切られしことはなかった。自分が人を切らぬばかりでなく、維新の際には部下の浪士どもに厳しく無益の殺人を戒め、なお血気に余る危険な浪士には陰に陽に監督してその行為を束縛された。