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この記事↑で、男神(彦星)として選んだ月読神社なんで単独でここに???と、腑に落ちない。というわけで探検隊、出動というわけでハンナちゃんに現地調査をお願いした🌈お暇な時に、図書館へ行ってきて〜と。そして、そして、たくさんの写真が送られてきた!もう、チャーくん大興奮!!!自分では見れない『紙の情報』ゲットだぜ!神仏分離令後に、寺は衰退し月待講があったおかげで月天子大勢至宮だけが残ることになったがその名前はダメ!と、お上に言われたんでしょう。それで、月読社となり
喜秀山貞祖院貞祖院本堂慶長13年(1608)松平忠吉(徳川家康の四男)の義母於ミツは松平忠吉の位牌所を清須に建立し当初忠吉の法名より玄白寺と称した於ミツ没後はその戒名をとって貞祖院と称するようになったこの地へは17世紀中ば頃までに清須から移転したと推定される当時の本堂は天明2年(1782)の大火により焼失したが明治5年(1872)尾張徳川家霊廟の1つを建中寺から移し本堂とした建中寺霊廟の本殿と近似した建物で多少の改造を受け入母屋造妻入りにな
愛知県【名古屋城(別名:金鯱城)】2026年8月10日現在、「名古屋城」天守閣(再建中)は、2018年5月7日から木造復元工事と耐震性不足のため閉館中です。再開の見通しは最短でも2032年度以降とされている。天守閣に上れないが見学に行ってみました。令和8年(2026年)10月1日より名古屋城観覧料金は個人の方は500円→1000円に変更されるとの事。「名古屋城」の歴史(ホームページより抜粋)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1610年(慶長15)、大坂の豊臣方
※2026年1月26・27日訪問※二ノ丸南側の空堀沿いを東側に歩いて行きますこちらの石垣の角地部分には【二之丸太鼓櫓】と呼ばれる二層の櫓が建てられていたようです✨この太鼓櫓は、写真好きで知られる幕末の尾張藩14代藩主、徳川慶勝が撮影した古写真が残されているとの事で、将来的に復元して頂けるとお城ファンとしては嬉しい所ですね広大な空堀と立派な石垣を存分に満喫しながら、次の目的地へと向かう為、地下鉄名古屋城駅に向かいました🚶という事で、今回の名古屋城散策はここまで✨天下の名城名古屋城は、非
※2026年1月26・27日訪問※名古屋城の中心部を後にし、二ノ丸南側の空堀沿いに歩いて行きますこちらの石垣の角地部分には【二之丸未申櫓】と呼ばれる二層の櫓が建てられていたようです✨絵図などによると、L字型のような形状の櫓で、櫓の北側の石垣上には多聞櫓が【二之丸大手二之門】まで続いていたようです空堀も非常に立派で、かつては多聞櫓と共に名古屋城の防衛を担っていました✨未申櫓跡の石垣を見ながら、二之丸南側の空堀を東側に歩いて行きます🚶◆尾張国・名古屋城(金鯱城)二之丸太鼓櫓跡/特別史
※2026年1月26・27日訪問※現在、名古屋城に入る正門として使用されている【榎多門跡】を見て行きましょう✨【正門(旧江戸城蓮池門)】と書かれた案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼現在の正門の位置には、榎多門という名の門がありました。明治維新以降に一之門、二之門が次々に撤去され、1911年(明治44)に名古屋離宮の正門として旧江戸城蓮池門が桝形の石垣を拡げて移設されました。1945年(昭和20)の空襲で焼失しましたが、1959年(昭
※2026年1月26・27日訪問※西の丸城宝館を見学し、付近の【米蔵跡】を散策して行きます【西之丸の米蔵と御蔵構】と書かれた案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼西之丸には、尾張藩の備蓄米を保管する米蔵が6棟ありました(一番御蔵~六番御蔵)。米蔵が立ち並ぶ空間は御蔵構と呼ばれ、食糧を貯蔵する大切な場所として、周囲は高塀や蔵の壁によって閉じられ、御蔵御門によって出入りは制限されました。米蔵は大正時代までにすべて取り壊されましたが、三番御
※2026年1月26・27日訪問※引き続き西の丸城宝館内を見学させて頂きます✨😌✨名古屋城に関する歴史や豆知識など、大きなパネル展示で詳しく紹介されています✨そもそも、この西の丸城宝館自体が、かつてこの場所に建てられていた【三番蔵と四番蔵】を外観復元した建物なので、それだけでも価値が有る建物なんですね内部を見学し、帰り際に《ミュージアムショップ三番蔵》へ名古屋城に関する書籍や様々なグッズ、名古屋土産などが並んでいましたが、今回はこちらの【ki-gu-mi「名古屋城」】を購入🏯こちらの
おはようございます。本日はお不動様のご縁日です。愛知県名古屋市八事山興正寺写真を撮っていたら、鴉が飛んできました。木陰にメジロ本日もお元気でお過ごしください。
※2026年1月26・27日訪問※続いて訪れたのは西之丸跡に建てられた【西の丸御蔵城宝館】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼西の丸御蔵城宝館は、西之丸にあった三番蔵と四番蔵の外観を再現した展示・収蔵施設です。名古屋城の御蔵があった場所に、名古屋城が所蔵する「宝」と名古屋城の「情報」を紹介する施設という意味で「城宝館」と名付けました。名古屋城の歴史を紹介する「歴史情報ルーム」、国指定重要文化財名古屋城本丸御殿障壁画を始めとした名古屋城所蔵品等を公開する「展示室」をとおし、名古屋城
※2026年1月26・27日訪問※続いて西之丸跡の【六番御蔵跡】を見て行きます建物の跡を示す【礎石】のような石材を見ることができますね✨【六番御蔵】の案内板が設置されているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼六番御蔵は1834年(天保5)に建てられた米蔵です。発掘調査により、柱の下にある礎石の配置が分かりました。また蔵の東辺と南辺の一部には、礎石と礎石の間に、四角錐状の石(間知石)を地覆石(地面に接する部分に置かれる石)として使用していることが確認出来ま
※2026年1月26・27日訪問※続いては名古屋城の【西之丸跡】を散策して行きます【名古屋城西之丸のご案内】という案内板が設置されているので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼西之丸は本丸の南西に位置しています。南側にある現在の正門の位置には榎多門と呼ばれた桝形門がありました。明治初期に榎多門が撤去された後、旧江戸城の蓮池門が移築されました。西之丸内部には御蔵所と呼ばれる空間があり、米蔵6棟が並んでいました。現在は米蔵2棟を外観再現し、名古屋城の歴史や所
※2026年1月26・27日訪問※本丸西南隅櫓(未申櫓)を見学し、本丸表二ノ門まで戻って来ましたこの本丸二ノ門の南側には、敵の侵入を防ぐ為の【大手馬出】が設けられていたようです【大手馬出】の案内板が設置されているので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大手馬出は、本丸表二之門の南側に有る防御空間で、堀と虎口(せまい出入口)によって敵の侵入を防ぎました。馬出の石垣の上に多聞櫓を張り巡らせた国内唯一の馬出であり、防御力に非常に優れていました。馬出の西側にあった
※2026年1月26・27日訪問※二階南面の屋根に格式の高い軒唐破風(軒先を丸く反り上がらせた屋根飾り)を重ねています。1921年(大正10)に石垣が崩れて倒壊しますが、その後宮内庁によって修復されたため、丸瓦には徳川家の葵の紋ではなく天皇家の菊紋がかたどられています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲櫓の下の【空堀】ではシカ2頭がエサを探していましたね🦌◆尾張国・名古屋城(金鯱城)大手馬出跡/特別史跡◆に続く
※2026年1月26・27日訪問※本丸と西之丸の間にも【鵜の首】を見る事が出来ますこちらにも【鵜の首】の案内板が設置されていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼鵜の首とは、城を内側に入れこみ道幅を狭くした部分。本丸の周囲には、大手・搦手など五か所鵜の首があり、本丸への敵の侵入を阻んでいた。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆尾張国・名古屋城(金鯱城)本丸西南隅櫓(未申櫓)/特別史跡・国指定重要文化財◆①に続く
※2026年1月26・27日訪問※大天守と小天守を結ぶ橋台には【剣塀】という防御設備が設けられています✨【剣塀】の案内板が建てられているので確認していきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大天守と小天守を連結する橋台は、高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。大天守への敵の侵入を防ぐもので、剣塀と称されている。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆尾張国・名古屋城(金鯱城)鵜の首(本丸西側)/特別史跡◆に続く
※2026年1月26・27日訪問※さて、この名古屋城の天守台には面白い話が伝わっています✨現在の名古屋城は【大天守】1基と【小天守】1基という縄張りですよね実は当初の計画段階では大天守の西側部分にも小天守を造るという計画が有ったとされているんです✨天守台の西側部分は石で埋めた箇所があるのですが、この場所が西側小天守への通路部分に当たる場所との事大工頭として名古屋城建築計画を担ったのが中井正清という人物なのですが、その中井家に残る指図を見ると大天守の西側にははっきりと小天守が描かれてい
※2026年1月26・27日訪問※御深井丸跡を散策し、再び天守方面に視線を移してみると、巨大な天守を支える【天守台】の石垣が見えてきます✨こちらは天守台石垣を東側(本丸側)から見た写真📷️天守台石垣の北西角地付近には【天守の石垣】という案内板が設置されているので確認していきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天守の石垣は、上部が外側に反り出す、いわゆる扇勾配であり、石の重みや土の圧力がたくみに分散されるため、はらみにくく、しかも美しい。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
※2026年1月26・27日訪問※続いては【御深井丸跡】を散策して行きます【御深井丸】と書かれた案内板が設置されているので確認していきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸の北西側に位置する曲輪で、東へ細長く続いており、低湿地を木材で埋めて築かれたと言われています。万治元年(1658)に北穴蔵、南穴蔵(火薬庫)が建てられたが、爆発の危険があるため、その30年後に城外へ移されました。大筒蔵、弓矢櫓など、多くの武器庫が幕末まであり、東端には塩蔵がありました。▲▲▲▲▲
土岐のアウトレットに行って来ました🙋♀️スポーツ店、靴屋、生活用品などを見ながら、良いウォーキング🚶♂️🚶♀️暑かったけど、風があったんで何とか気持ちよく👍帰りに、尾張徳川家ゆかりの寺「定光寺」に立ち寄りました。建武3年(1336年)創建の臨済宗妙心寺派の古刹だそうで、立派な本堂や、その周りにも立派な建物がいくつかあり徳川義直の廟(びょう)もありました。良いもの見させて頂きました🙏2026.7.14
※2026年1月26・27日訪問※続いては【御深井丸西北隅櫓(清洲櫓)】を御深井丸の内部から見て行きます先程、水堀越しに見たのがこちらの構図です櫓の側には【重要文化財西北隅櫓】の案内板が建てられているので確認していきましょう✨古名は戌亥櫓。清洲城天守を移築したと伝えられ清洲櫓とも称されます。昭和39年の解体修理により、古い建物の材木を一部用いて元和5年(1619)頃に造営されたことが明らかになり、清洲城天守の古材を転用した可能性が高まりました。屋根三層・内部三階で、全国でも
※2026年1月26・27日訪問※御深井丸を北西に進んで行きます非常に広大な御深井丸跡を歩いていると、何やら蔵のような白壁の建物がこちらは、明治初期に建てられた【乃木倉庫】と呼ばれる建物で《国指定登録有形文化財》に指定されています✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ばれるようになった。当建物は煉瓦造平屋建で、旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が
※2026年1月26・27日訪問※天守北側の御深井丸部分には、何やら石材が並んでいて、さながらヨーロッパの遺跡を思わせるような場所が有りますこちらは、かつて天守を支えていた【礎石群】との事【天守礎石】と書かれた案内板が建てられていますので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼昭和30年(1945)に焼失した旧国宝天守の礎石。地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。長く焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり現在地に移し、かつての敷設状況を再現
※2026年1月26・27日訪問※本丸の北東部の石垣の角には本丸【丑寅櫓】という二層の櫓が建てられていました現在、塩蔵構の鵜の首から東側へ向かう通路は本丸搦手馬出現在石垣の修復工事中の為先に進めなくなっているので、丑寅櫓の直下までは行けず、少し遠目からの撮影となっております◆尾張国・名古屋城(金鯱城)御深井丸天守礎石/特別史跡◆に続く
※2026年1月26・27日訪問※塩蔵門から東に進むと、左手に水堀が本丸側に凹んでいる箇所を見ることが出来ます名古屋城に5ヶ所有る【鵜の首】と呼ばれる防御施設の一つですね✨鵜の首とは、堀を内側に入れこみ道幅を狭くした部分🔥敵がこの凹んだ部分を『城の中心部への最短距離』と思い込み、攻めて来た際に周囲の三方から集中放火を浴びせることが出来るという仕組みだそうです✨この鵜の首の東側に位置する【本丸搦手馬出】は、現在石垣の修復工事中の為、これより先の通路は行き止まりになっているので御注意下さい
※2026年1月26・27日訪問※本丸の北側に設けられていた不明門を潜ると、その先は本丸の北西を囲う御深井丸東部で、この辺りは【塩蔵構】という小さな曲輪になっていたようです本丸から不明門を出て右手には巨大な石垣が残されています✨この先には【塩蔵門】という桝形の門が建てられていました絵図などによると、丁度この辺りに門が建てられていたようですね✨門の規模や石垣の様子から、かつては櫓門のような建物が建っていたのではないかと推測されます✨こちらは塩蔵門跡から臨む天守の姿塩蔵門の北側には門を
※2026年1月26・27日訪問※本丸の北面に設けられていた【不明門】を見て行きましょう✨石垣と土塀に囲われた【埋門】の形式の小さな門ですね✨【不明門】の案内板が設置されていますので、確認しておきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸と御深井丸をつなぐ門で、常に鍵がかけられていたため「あかずの門」と呼ばれ、本丸の非常口としての役割を担っていました。土塀外側の屋根に槍の穂先を並べて侵入を防ぐ工夫がこらされています。1945年(昭和20)の空襲で焼失し、1978年(昭和53
※2026年1月26・27日訪問※天守の北東部分には【御殿椿】と呼ばれる椿を見ることが出来ます🌳▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼かつて本丸御殿の南庭には「大城冠」という品種の椿の古木がありました。1945年(昭和20)の空襲で本丸御殿とともに失われたかに思われましたが、焼けた幹から新たに伸びた芽を育てて、不明門内に植えました。成長した椿は、例年3月中旬~4月上旬に八重咲き大輪の白い花をつけ、今も城内を彩っています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆尾張国・名古屋城(金鯱城)
※2026年1月26・27日訪問※《尾張名古屋は城でもつ》名古屋城のシンボルである【天守(大天守)】を見て行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天守は本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。橋台には多門櫓は無く塀を巡らせ、軒先には槍の穂先を並べた剣壁であった。なお、『金城温古録』によると名古屋城(尾張藩)では「大天守」ではなく「御天守」と呼称されていた(以下では一般的な「大天守」としている)。天守は政治権力の象徴とされ、特に
※2026年1月26・27日訪問※絢爛豪華な本丸御殿を堪能し、続いては【小天守】を見て行きます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼名古屋城の小天守は2層2階地下1階で、大天守の関門の役割をした。平面は長方形で外見は千鳥破風一つと簡素な意匠だが、規模は他の城の三重級の天守を上回る。小天守1階と2階内部の長押の六葉の釘隠しや入側は板敷で、部屋は畳敷きで板戸で部屋が仕切られていて、小天守口御門付近は小天守1階の落狭間から敵は攻撃され、小天守地下1階の内部は枡形となっていて御金藏として使用して