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小野小町の館の北側には3つのハイキングコースが整備されている。まだ歩いたことはないが言ってみたいところだ。なんか心に響くところがあるのだ。この南東にはかぶとさんが北東には龍の峰が位置する。こうやって立体図を見ると山というのは繋がっていて名前をつけるのは人工的な印象がする。直線を引いて高さのプロットすれば頂が出てきて山になるのだろうがそれも人工的な操作だ。素粒子の世界が波と粒子に分かれるのもこういった人工的な人間が理解しやすくするための操作の都合なのかもしれない
開湯1200年前、小野小町が旅の途中で病を癒したという伝説や伊達政宗が傷を癒したとされた湯治場、小野川温泉。米沢八湯の滑川、白布、新高湯についで四湯目。旅館組合駐車場の一角にある、この足湯に人が次々来ていた。霊泉小野小町の横には、いつも幸せ猫がいる。向かって右の耳先が避妊去勢済のしるしにカットされてるんですよと地元の方。次に来た方が、いなばのチュールを出すとすごい勢いで舐めだした。本当に猫に人気なんだ。霊泉小野小町の前には共同浴場滝の湯次々人が出入りしてる。少し温泉街
兜山の北の方にある鉄塔のたっている山の名前がどうしても知りたかった。それで小野小町の館の野菜の売店のご主人に尋ねた。彼は観光案内の本を取り出して竜が峰と教えてくれた。その本には名前は書いてない。どうもその理由は登山用の山ではないかららしい。名前がわかると調べは付けられる。桜で知られているのだという。確かに青年の家がその裾野にありそこに登る道は吉野桜の名所で何度か見物に行ったことがある。その青年の家と竜が峰は関連づけられていたのだった。名前がわかれば山にも魂が込められ
『江戸川柳辞典』(浜田義一郎編/東京堂出版)より選句江戸川柳少将は少し風気をおしてゆきAlthoughtheMajor-Generalhasaslightcold,heforcedhimselftogoout.小野小町と深草少将との「百夜通い(100日間、小町の家の玄関まで通う)」のエピソードを踏まえる。ItisbasedontheepisodeofOnonoKomachiandFukakusaShosho's"100nig
今日は謎解きではなく、ブログという事になりますでしょうか。これまで先祖に絞って研究をした成果として、こうも続けて謎が解けると、資料整理やら検証やらが追いつかず、気ばかり焦る状況になりそうなのですが、実はノンビリ取り組んでいます。今、気になっているのは、源義経と小町の末裔と思われる郷御前の子孫ですが、やっぱり現代まで続いているようで、中村さんといわれるそうですが、いつか遭う(「会う」では無く、「遭う」であることが重要です!)ことになりそうで、楽しみになっています。ご先祖のうち
11月3日文化の日、ジダンは大津駅にやってきました。9時38分のスタートとなります。でも、走りますのは、京滋トレイルではありませんでして。如意越えで、大文字山、そして出町柳駅ゴール予定なのです。まずは、京滋トレイルの時と同様、長等公園方面に向かいます。でも、長等公園までは行きません。それだと、舗装路を走る距離が、長くなってしまいますから。トレイル大好きおじいちゃんは。長安寺さんに、お参りするのです。こちらは、紅葉が美しく、さらに、登山道入口でもありますから。自然と、ペースも上
今日は前回に引き続き「猿丸太夫」の一人こと、小野猿麻呂(おののさるまろ)について深く考察を加えていきます。小野猿麻呂については殆どの人が日光山縁起などの話しか知らないので、おとぎ話に出てくる人物の様に思っている人も多くいると思います。福島県にも伝承が残されている通り、人としての小野猿麻呂は結構、各所に伝承されているので、実在であり、小野小町の祖父にあたる事は明らかだと思います。今日はそれを裏付ける情報をお伝えして、小野猿麻呂の実在と、伝承と現実とのギャップも埋めてみたい
『書道技法講座44本阿弥切古今集』(伝・小野道風村上翠亭編/二玄社)より選句、習字あ万のすむさとのしるへ尓あら那く尓うらみむとのみ人のいふらむ小野小町海人の住む里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人の言ふらむI'mnotatouristguideofafisherman'svillage,sowhyisthegentlemantellingmeto"lookatthebay(Ihateyou)"?それは、あなたが男を袖にする(冷淡
…小野門跡とも云われる寺院は?「小野門跡」とも云われるのは、山科・小野にある「隨心院」である。「雨僧正」とも云われた「仁海」が正暦2年に創建した曼荼羅寺に始まる。5世・増俊(ゾウシュン)の時に「隨心院」に改められ、7世・親厳(シンゴン)の時に門跡寺院となった。小町の末裔とされる女子小野小町ゆかりの寺とされ、小町が用いたと云う化粧井戸や、小町を恋して「百夜通い」をした深草少将らの恋文が埋められたと伝わる文塚などがある。又、少将の悲恋をテ
今日は小野吉子(二代目、小町)の祖父である、小野猿麻呂もガッツリ関係している「猿丸太夫(さるまるだゆう)」の謎について言及してみたいと思います。以前にも軽く触れてきてはいましたが、柳田国男の先行研究でかなり核心にまで迫っていたのに、もう一歩思考仕切れていないようでしたので、現代ならではの解釈を加えて分かりやすく説明してみようと思います。まず、この問題を考える上で大事な前提条件があります。①現代と違い、古代や中世における人間と猿の関係は今よりもずっと近かったようで、猿をペッ
昨日、近所にある隨心院へ散歩に行ってきました時代劇のロケなんかにもよく使われています隨心院の正面である薬医門。ここのロケーションはよく画面に登場します乳母車じゃないのが残念イチョウもすっかり黄金色に〜と思えば、早くも葉っぱが落ちてる箇所もあり、なんとなく寂しい気持ちに…ちゃんと季節を感じてくれてるかなぁお日さまが心地よさそうです本堂前の庭にもなつと一緒に入りたかったのですが、階段を上らなくてはいけないのと、観光客でごった返していたので断念ひとりでチャチャっと写真だけ隨心院は
厚木市小野にある小町神社から始まった追跡劇ですが、その後の調査から分かった事を加えると次の様になります。①比企尼は元々は京都に居た。②丹後局は吉見系図によると「無双の歌人」だったそうです。③丹後局は惟宗広言との間に産まれた子が「島津忠久」となった。④比企尼には三人の娘がいる。⑤長女の丹後局は惟宗→安達へと嫁いでいる。⑥次女は河越へと嫁いでいる⑦三女は伊東→平賀へと嫁いでいる⑧次女の娘が「源義経」の妻となっている。これらの情報を図に起こすと次の様になります。最初は初
聚光院で4月と10月でレプリカと本物の国宝障壁画を見比べてよくわからん😭💦💦などと嘆いてたすてれんきょやけど、お陰て紫式部&小野篁の墓所にお参りできたん。北大路堀川下がるにある紫式部&小野篁の墓所。4月には歩道の工事で立ち入り禁止。心残りがあったんが解決出来て良かった。そやけどなんでこの2人が並んでるん。小野篁は802年の生まれ。紫式部は973年(諸説あり)生まれ。年代は全く違うし、親戚でも無い。紫式部は藤原氏、小野篁は小野氏。業績?紫式部を顕彰してると思う石碑。(すて
皆さま、お変わりありませんか。2023年1月に名古屋で行われます、笠井叡オイリュトミー講座の詳細が決まりましたので、案内状の発送に先駆けてお知らせいたします。この講座は公開講座ですので、どなたでも参加していただけます。皆さまの参加をお待ちしております。名古屋オイリュトミー研究会中村眞貴子オイリュトミーで「卒都婆小町」を踊る4みなさま、いかがお過ごしでしょうか。この一年間、言葉のオイリュトミーでは「卒都婆小町」に取り組んでまいりました。長いテキストで、前回は小町
~アロマセラピーと風水を融合させた世界初の開運メソッド「アロマ風水」~人気ブログランキングへブログランキングに参加しています。みなさまの応援が毎日の更新の励みになります<(__)>アロマ風水®創始者及び、運命学神道研究家の横井靖弘です。まもなく受付を終了するこちらですが…香りであなたに宿る龍神とつながり豊かさと幸せを手に入れる|アロマ風水5000人以上が体験し、龍神とつながって豊かさと幸せを手に入れた究極の開運法を大公開!古来から、神さまの力を
…真言宗小野流の拠点として知られたが、「小野」の地名から絶世の美女として名高い「【72】小野小町」が住んだ所と伝承されている。小町は平安初期、仁明朝に出仕したが、天皇崩御後、小野の里に引き籠り、余生を送ったと伝わる。同寺境内には小町の井戸や文塚などの遺跡がある。隨心院は、遅咲きの梅でも有名で、境内の梅園に紅色の梅が咲く頃には、観梅会が催されるが、菅笠に薄紅色の梅花を挿した少女たちが華やかに「【73】はねず踊り」を舞い踊る。深草少将の伝
2020年9月5日京都・奈良の旅3日でぇ~勧修寺さんを後にしぃ~4寺目で向かった先はぁ~真言宗十八本山の一つでありぃ~善通寺派の大本山であるぅ~随心院さんでぇ~御座いますぅ~!!総門をくぐり抜けぇ~庫裡へ向かい~境内の中を拝観させて頂きますぅ~!!でぇ~拝観料を支払うとぉ~受付の側にぃ~小野小町さんがぁ~登場ですぅ~でぇ~境内の色々な場所を拝観ししながらぁ~本堂目指しますがぁ~ご覧の通りぃ~庭園も最高に綺麗でぇ~心
前回、厚木市小野の小町神社は瀬織津姫のお墓ではないのかという事を書きましたが、同地には「小町塚」と呼ばれる古墳がある事を今日知りました。(引き続き、神奈川の小町伝承を追っかけています。笑、笑、笑)(『Etsuro1のブログ』からの引用です。)小町神社が古墳の様な所にある印象を受けていたのですが、写真の撮り方の問題だったようで、実際には(『Etsuro1のブログ』からの引用です。小町神社・・・その1-Etsuro1のブログこの塚はなんだ?・・・小町塚神奈川県厚木市小野
京都「時代祭」の前回の続きです。今回は、20ある時代祭の列の12番目から15番目までです。時代は「藤原時代」へと遡ります。まずは、⑫「藤原公卿参朝列」から。公卿(文官)です。目線いただきました。公卿(武官)です。胡床に座る際に使用されていた皮。公卿は「豹」です。殿上人(文官)です。同じく胡床に座る際に使用されていた皮。殿上人は「虎」です。華やかな列が見えてきました。⑬「平安時代婦人列」です。先頭は「巴御前」。「横笛」。「
小町神社の存在から神奈川県に小野小町の末裔がいることを確信したので、神奈川県の小野小町伝承を調べると、あっさりストーリーが分かったと思うのでご紹介いたします。『中世歴史めぐりyoritomo-japan.com』に小町神社について書かれたものがあったので引用すると、小町神社〜小野小町と丹後局の伝説:厚木市〜源頼朝の御落胤伝説www.yoritomo-japan.com「小町神社(こまちじんじゃ)は小町姫を祀る神社。(中世遺跡めぐりからの引用です。)伝説によると、源
前回、神奈川県にいるはずの小野小町の子孫について書きましたが、今回は岡山県の小野小町の子孫について(うちの事ですが……)も少し分かってきたので書きたいと思います。我が家は曖昧ながらも「分家筋らしい」とは聞いていたのですが、それを裏付ける情報が出て来て、かつ本家筋の様子も分かって来たので記録を残そうと思います。まずは我が家の家筋は美作にあった小町小野家の分家筋で、領地の美作の小野を守っていたのでしょう。恐らく分かれたのは、守る必要の出来た平安時代末期から鎌倉時代頃ではないかと推測しま
主人と最近、城を目的にドライブすることが多く、「京都に行ってないね」という会話をしていました。色々とブログをみていると👇ふと鮮やかな襖絵に一目惚れ。醍醐寺には行った事があったけれだすぐ近くなのにこちらのことは全く知りませんでした。ヤマトノココロの記録用心の日記『京都地下鉄・嵐電1dayチケット⑧〜随心院其の一〜』さてさて…………【神泉苑】を出発し、地下鉄東西線「二条城前駅」から乗車し、ココロが下車したのは「小野駅」だ目的地を確認するそして、徒歩10分弱で到着したのは……a
きていただいてありがとうございます東福寺の方丈の八相の庭を眺め、庫裡を出てぐるりと裏側にまわると、東福寺三名橋と言われる橋の一つ「偃月橋(えんげつきょう)」が見えてきます。この橋は初めて渡ります。方丈が国宝の「龍吟庵」に続きます。しかしながら、龍吟庵は工事中で全く何も見ることができませんでした。勉強不足でした。龍吟庵は、例年春と秋に公開されるそうです。令和4年秋は修繕工事のため公開されないそうですよ。隣に「即宗院」があります。「自然苑」があるそうですが、こちらも春と秋の特別拝観
茨城県のとある城に向かう途中、「小町の里」という看板を見かけ、1度は素通りしたものの、2度目に見かけた時に急遽行くことにしましたというわけで今回は番外編となります「小町の里」は小野小町(おののこまち)ゆかりの地で、小野小町はご存知の通り、絶世の美女とうたわれた平安時代の歌人です彼女の数ある伝承の中に、京都から東北に旅する途中、病に倒れ、現在の茨城県土浦市小野の小野氏宅で介抱を受けましたが、元慶7年7月7日、69歳で亡くなったとされるものがあります介抱した小野家では、小町の命日に代々供養を
小野氏ばかりを研究していて、気づいた事の一つに、「神」として祀られる人とそうでない人の差はどこにあるのか?例えば、小野篁は生前から冥界で仕事をしていたなどと云われている通り、明確に小野篁が原因だと分かる形で「天変地異のような神憑った出来事」があったとしか考えられません。小野妹子は遣隋使として中国まで二度も行き、小野氏としての立場や名声を築いた為か唐臼山古墳の所に小野妹子神社が残されています(ただし、小野氏の神ではなく末裔の誰かの家の為の氏神としての様ではあります)、小野氏の系図には多
みくるです今日は『なぞりがきm百人一首』をしました。なぞりがき百人一首(ユーキャンのおうち時間シリーズ)Amazon(アマゾン)944〜6,900円Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る9番の小野小町の歌です。花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまにあれほど見事だった桜も、なんとなく過ごしているうちに長雨で色あせてしまいました。(恋に悩むうちに私の容色もすっかり衰えてしまいました)才色兼備だったという小野小町の叶わない
世界の三大美人👸✨クレオパトラ楊貴妃小野小町小野小町ゆかりの〈随心院〉「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」は平安時代に『古今和歌集』に詠まれた歌ですが鎌倉時代には藤原定家が『百人一首』に選んだ有名な歌です小野小町の生没年や出自や生誕地にも諸説があり小野小町の姿とされる絵も後姿が多いそうでどれくらいの美人かというのはこの歌から推察されるのかもしれません・・・花の色が色あせてしまったように私の容姿も・・・・・ぼんやりしているうち
お久しぶりです。「何とかリーダー」とかいう、給料は上がらないのに責任だけ爆上がりする肩書きをいただいて、更新が滞っているはぐれ20です(笑)。noteの方は、月1ぐらいで更新できているので、そちらもお楽しみください。問題下の画像から連想される、「小倉百人一首」9番、小野小町ゆかりの寺院は何でしょう?(撮影:京都市山科区)このあたりは小野氏の栄えた場所であり、地名もズバリ小野。最寄りの地下鉄の駅も小野駅。で、この寺院のあたりが小町の屋敷跡といわれています。謡曲「通小町」で
今日は伝承上からみて、本物の小野小町の文張地蔵について、市井の情報と如何に乖離しているかをお伝えしてみたいと思います。小野小町の文張地蔵と言えば、京都山科区にある隨心院にある文張地蔵が有名だと思います。(小野小町文張地蔵尊像)(文塚)(↑『隨心院門跡小野小町略縁起』から引用)隨心院は小野小町の邸宅跡をうたい文句にしている為、上記の様に小野小町にゆかりのあるものを集めているように思えますが、『小野小町行状伝』によると桜塚(一名を文塚)は元々この地にあり、随心院
毒黒蜂サーシャさんとコメントにてやり取りしていて、福島県の小野小町伝承には二人の小野小町の伝承が混濁している事に話が及んだので、コメントに書くには長くなることもあり、改めて書いて見たいと思います。岡山県倉敷市の伝承もそうなのですが、1200年も経つと情報が混濁してくるのが当たり前の様で、倉敷市の伝承には三人の小野小町の事が伝承されていた事が分かっています。それぞれ別の人格なのですが、小野小町という源氏名が一緒なので、何時しか一人の事の様にくっつくのです。福島県の伝承も同