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久しぶりのブログ更新。先月、地元水戸市の観光地に行ってきた。水戸市は、地元なのに実は、弘道館行ったことがなくて、近くは通ったことはあるけど。弘道館は、水戸藩九代藩主・徳川斉昭が、藩の学校として開いたところ。↓この写真は、歴史好きなら訪れたことのある人や写真で見たことのある人もいるかと思う。尊攘とは、尊王攘夷の事。水戸藩は、元々尊王思想受け継がれてきた藩。尊王とは、天皇を敬う、尊ぶ思想。攘夷とは、外国人を排除するという意味。幕末、尊王攘夷というと長州藩をイメージする方も多いかなと
#今日の朝ドラ②/「らんまん」【記事の概要】俳優の神木隆之介(29)が主演し、4月3日にスタートするNHK連続テレビ小説「らんまん」(月~土曜前8・00、土曜は1週間振り返り)に、俳優のディーン・フジオカ(42)が幕末の志士・坂本龍馬役で出演することが決定し7日、同局から発表された。4月開始「らんまん」ディーン・フジオカ7年ぶり朝ドラ凱旋「光栄」坂本龍馬役“恩人”五代さまと親交(スポニチアネックス)-Yahoo!ニュース俳優の神木隆之介(29)が主演し、4月3日にスタート
伊豆の旅②下田の玉泉寺を訪ねた。元は真言宗の寺だったが16世紀に曹洞宗に改宗されて現在に至る歴史ある寺である。幕末にはアメリカ総領事館として使用された。初代総領事はタウンゼント・ハリスである。境内には「ハリス記念館|があってハリスの遺品。関係資料、書簡などが展示されている。またそれ以前、日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官が滞在した。境内にはペリー艦隊の乗組員5名の墓地、ロシア人の墓もある。(玉泉寺)(タウンゼント・ハリス)(唐人お吉)ハリスから看護
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、幕末の尊王攘夷派の志士天誅組の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は2月27日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
一日一字を記さば、一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う吉田松陰(1830年-1859年)吉田松陰[注1](よしだしょういん、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉-安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。今日の単語努努
(本文とあっていませんが、三条大橋西詰のスタバでお茶したときの写真です)2011年4月16日、私とDANさんは京都三条大橋に到着しました。のべ11日間で543.3㎞走って11日目の14時30分に到着したわけですが、この日は尺取虫方式旅の初日ということで滋賀県の三雲から走り始めており、土曜日なので京都に宿を取っておりました。帰るのは翌日の午後ですから、丸々一日余ってしまったことになります。倍以上の日数をかけて歩いて三条大橋に辿り着いたときは、その日に帰らねばならないということもあって、少し
人間、好きな道によって、世界を切り拓いていく坂本龍馬(1836年-1867年)坂本龍馬は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。他に才谷梅太郎などの変名がある。ウィキペディア今日の単語苛む[さいなむ]動苦しめる。いじめる。"後悔の念にさいなむ・まれる"·"せめさいなむ・む"·"切りさいなむ・む"きびしくとがめる。また,しかる。"馬の命婦をもさいなむ・みて/枕草子9"
ご訪問ありがとうございます。お銀ちゃんで~すさてさて浪花屋の若旦那はん(お銀ちゃんパパ)お銀ちゃんがいなくなって心痛で寝込んでる八重ママを省みず好き放題してはりまっせ八重父大阪屋大坂文左衛門大剣幕で浪花屋へ乗り込んで来られましたがな大坂屋さん言うたらな、そんじょそこらの貧乏お大名なんて束になってもかないまへんで※画像。。お八重ママの父君😅実はこのお方は美人画で有名な北川歌麿先生画像拝借しました。イメージぴったり浪花お銀・時空
孝明天皇の祭日は、先帝前三代例祭となります。御歴代天皇の数の多さから皇霊祭を定め、近四代の天皇の例祭のみを個別に行い、それ以前の御歴代天皇は十年、百年などの式年の年のみ祭儀を行うと明治十一年に定めたことによります。第百二十一代孝明天皇は幕末の天皇、明治天皇の御父にあらせられます。御名は統仁(おさひと)。天保二年(1831年)生。御父は仁孝天皇、御母は正親町雅子(おおぎまちまさこ)。在位、弘化三年(1846年)から慶応二年(1867年)。第十二代徳川家慶から第十五代
知人某が訥庵の書幅を入手した。蜻洲呑尽又征韓蜻洲呑み尽して又た韓を征し欲混八紘為一丸八紘を混ぜて一丸と為さんと欲す休道英雄徒黷武道ふを休めよ英雄徒だ武を黷すのみと蠻夷今日膽猶寒蠻夷今日膽猶ほ寒しとある。詠史詩で、豊臣秀吉が題材である。尊王攘夷思想は、わが国の国体を守ることを目的とした。尊攘の中心人物となったのが訥庵である。後の征韓論や八紘一宇の源流が訥庵であることを如実に示している。貴重な書幅である。大橋訥庵は、清水
好きないちごスイーツは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1862年(文久2年)1月15日、坂下門外の変が起こる→公武合体を進めていた老中・安藤信正を、江戸城🏯坂下門のそばで、尊王攘夷派の志士が襲撃。逃げた安藤は武士らしくないという理由で老中を追われます。•••••cut•••••🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓
どうしてこの本に辿りついたかというと、多分尊王攘夷の話から「尊皇」ってなんだろう、とちょっと考えてみたことがきっかけだったと思います。これは太平洋戦争中に、杉本五郎の著作『大義』を読んで(っていうか教師に読ませられて)、純粋に感動し尊皇精神にその身を捧げた挙句、裏切られ傷ついた青年のお話。城山三郎さんご自身の実体験に基づいているそうです。怨念のような本でした・・・主人公の青年・柿見は、『大義』に刺激を受けて、予科練に志願します。体罰を受けても理不尽な言いがかりをつけられて
『尊王攘夷』とは『尊王』と『攘夷』です。天皇こそが日本の王であり統治者である。国学の盛んな水戸藩藤田東湖の学説です。藤田東湖日本を異国から護るには、欧米人を討て!が『攘夷』です。『尊王攘夷』教科書で出てくる場面は、幕末です。が、『尊王攘夷』は『尊王攘夷思想』として昭和にも生き続けます。第一次世界大戦前後、世界で吹き荒れた『民族主義運動』欧米列強からの独立。アジアで、アフリカで、南米で。日本からの独立。中国で「五・四運動」、朝鮮で「三・一独立運動」。日本でも『民族
司馬遼太郎さんの『昭和という国家』を読了。昭和20年8月15日(終戦)までの昭和年間の前半における日本国家が、なぜ第2次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へ突入していくことになってしまったのか。司馬遼太郎さんが語る言葉、歴史観にひきこまれ、「なるほど〜」と気付かされたものが多く、国家というものの発展と、教育(人材育成)の尊さと難しさを、大いに考えさせられる本でした。特に、◇大日本帝国憲法における統帥権について、◇この時代の価値観にも影響していたと気付かされた明治維新を引き起こ
宇宙の法則は集合と分散である。とは、ほかの誰でもない私が14年位前に気づいたこと。しかしこれは熱力学の第二法則であるエントロピー増大の法則と同じことを言っている。エントロピー増大の法則とは即ちエネルギーは高い方から低い方へと移行する。この時エントロピーは増大する。簡単に言えば冷たい水にお湯を注ぐとお湯のエネルギーが冷たい水へ移行し、全体に拡散してぬるま湯になる、と言うことである。集合している状態がエネルギーの高い状態であればそれは分散の状態へと移行するのだ。物理の他の法則、例え
「旧東海道歩き」は、早雲寺の参拝を終え、小田原に向かいます。早雲寺の前にある「湯本白山神社」は、箱根湯本の総鎮守です。白山信仰の歴史は古く創建年代は不詳です。江戸時代までは白山権現と呼ばれ、地元の人々に温泉の守護神として崇められてきました。天平年間(729~748)関東に「疱瘡(ほうそう)」が流行ったとき、加賀白山霊場開祖「泰澄」により派遣された弟子「浄定」が白山権現社を建て十一面観音を祀ったところ、病を治したという伝承があるそうです。伝わるところによる
『この国のかたち-三』-司馬遼太郎●宋学について-⑤✪由来、思弁哲学から出たものが実際の政治・経済に適(かな)うはずがなく、よく考えてみると、朱子学は本場の中国でさえーー明・清の官学だったとはいえーー清朝の滅亡(1912年)までこれが実際に適合していたかどうか、疑わしい。空論の徒を生み、停滞をつくりあげただけだったのではないか。日本では、建武の中興崩壊後、60年の南北朝戦争がつづいた。争乱の結果、朱子学史観(大義名分論)とおよそ別な方向へ日本史は発展した。室町幕府、織豊政権、それに徳川幕
西浅草は合羽橋本通り公西会商店街で見つけた(目立つ)鮮やかなグリーンカラーの郵便ポスト浅草かっぱ橋地域が舞台になったフジテレビアニメ「さらざんまい」のオリジナル郵便ポストだそうです(マンホール蓋もあるそうで、今度探してみよ)設置年月日:令和3年3月10日住所:台東区西浅草3-3-8合羽橋交差点付近で見つけたかっぱ河太郎そして「さらざんまい」のマンホール蓋でした合羽橋本通りを、更に西へ進むと海禅寺(台東区松が谷3-3-3)脇に「梅田雲浜墓」説明
本を片づけていたら、以前に読んだ高橋是清の『是清翁遺訓』が出てきた。パラパラとページをめくっていたら、目に留まった文章があった。今回は、その『是清翁遺訓』から尊王攘夷論の根底、人格の感化について触れている文章を紹介してみたい。「維新當時の青年達は、現今の若い人達に比べて見ると、馬鹿馬鹿しいまでに、律氣者(律義者)ばかりが揃つてをつた。融通が利かなかつた。しかし、彼等の間には、何物を以てしても、斷じて動かすことの出來ない、一個の信念がひそんでをつた。熾烈なる尊王の思想が、彼等の生活のすべてを支
京都三条をうろついてたら幕末史に必ず出てくる池田屋騒動の場所新撰組、会津藩の尊王攘夷と長州、土佐の討幕派が壮絶な斬り合いとなった池田屋#京都#池田屋#幕末#新撰組
「若しも他より之を犯して我国の邪魔をする者あれば、之を国権を犯すの無礼と云う。無礼者は之を打ち払て可なり。遠慮に及ばざることなり。」福澤諭吉-通俗国権論
小林正観さんの心に響く言葉より…吉田松陰は、思想的には攘夷論(じょういろん:外国と戦わなければならないという主張)。しかし、浦賀(うらが:横須賀市)にやってきたペリーの黒船4隻を見て、戦ったところでとても勝ち目はないことを知ります。そして、外国を倒すにはまず外国のことを知ろう、と思い立ち、なんとペリーの黒船に乗ってアメリカに渡ろうと企てたのです。しかし、密航しようとしたのが発覚して、松陰は野山獄(のやまごく:山口県萩市)という牢屋に入れられてしまいました。
voice-153たぶん何かがおかしいのではなく、おかしいところを具体的に指摘できるからおかしいのであって、そのおかしいところが現状をもたらしていると解釈できて、だから現状がおかしいと言えるのだろうが、ではおかしいところを改めれば現状が現状ではなくなるかというと、確かに現状のおかしいところを改めればそうなるのだろうが、改めることができないとは言えないだろうし、改めようとしているのだろうが、なかなか改まらないからしぶとく現状が維持されていて、そのしぶとさが現状を変える上で
武家の「御屋敷」と言った弘道館の内部です京都で散々見たー御屋敷ーとは異なり質素な部屋が続きます・・・かつて大政奉還後徳川慶喜も蟄居したという「至善堂」の御座の間です・・が何の飾りもなく正面に大きな拓本が飾られているだけですその前にある正庁の正席の間ーも水戸藩らしい己に厳しく天皇を貴ぶ拓本が飾られています・・・至る所墨で書かれた「扁額」と「拓本」が唯一部屋の装飾で地味ですが落ち着きのあるこれぞ武士の屋敷ーと言える趣のあるものでした・・拓本には「尊王攘夷」の文字が・・・・皇室を
L'époquedelarévolutionMeiji,c'étaitlabased'ungroupedesamouraï"Goryo-eji"dansletempleKōdaï-ji.----------2022年07月29日撮影。高台寺、月真院。中は非公開です。新撰組参謀だった伊東甲子太郎が新撰組と袂を分かち、孝明天皇の御陵守護の任を拝命したということで、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成。高台寺塔頭の月真院を屯所としたため高台寺党とも云われます。圓
和文化・おもてなしマナー講師の安達和子です本日は【彰往考来】について話しますね水戸には「彰往考来(しょうおうこうらい)」という言葉があります。「過去をあきらかにして、未来を考える」という意味です。この思想は、徳川光圀が明暦3年(1657年)30歳のときに日本の未来を考えるには、国の成り立ちを知り学ばなければならないと「大日本史」の編纂を始めました。そして水戸学が生まれ徳川斉昭公が日本最大の藩校「水戸弘道館」を創設し「尊皇攘夷」という思想が生まれたのです。この大
さて、今回の人物帖は主人公・武子の父である岩松俊純です。この俊純も実は武子と同じく、大学時代に「新田官軍」の俊純の写真を見た時に、「いかにも殿様という感じだな」という発言があったことが今回のキャラクターの大元になりました。俊純までの岩松家は以前のコラムで書いていますので、今回はそこは省略します。猫絵の姫君コラム⑤新田猫絵の示した道|智本光隆ブログ(ameblo.jp)俊純は文政12年(1826)生まれ。通称は「満次郎」父は岩松道純、母は中山主馬信泰の娘です
こんにちは、philosophiaです<桜田門外の変>は幕末の安政7年(1860年)3月3日に大老井伊直弼が桜田門外で水戸浪士ら一八名により暗殺された事件。『桜田門外ノ変』(上・下)吉村昭著従来幕府側からの視点で安政の大獄とセットで描かれることが多く襲撃側の水戸脱藩浪士の日記をもとにした視点は斬新でした!ちなみに、赤穂浪士討ち入り、桜田門外の変、二・二六事件は雪にまつわる三大事件ですねぇ~。challenge→change→