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加東市室町観光協会より。室町幕府6代将軍足利義教は、嘉吉の乱で赤松満祐によって暗殺され、その首は足利家ゆかりの安国寺に手厚く葬られました。境内裏の首塚である宝篋印塔は、ほとんど完全な形で保存されており、室町時代中期の優れた石造物としても重要な文化財となっています。嘉吉(かきつ)の乱とは。室町時代は嘉吉元年、西暦は1441年に播磨・備前・美作の守護赤松道祐が室町幕府6代将軍の足利義教を暗殺。領国の播磨で幕府方討伐軍に討たれるまでの騒動。ふむ、歴史ある寺院ですなと・・・言うことを知って行っ
しばらくこのブログは、読書ネタでは文芸物が続きましたが、今回は歴史もので森茂暁著「室町幕府崩壊」角川ソフィア文庫より、です始まりに南北朝時代、終りに戦国時代という二つの動乱の時代を迎え、「尾大掉わず」などと揶揄される室町幕府。その崩壊はどのようなプロセスを経てなされたのか。その考察を、独裁的な性格を恐れられた六代将軍・足利義教の事歴を中心に四代・義持の時代からまとめたのが本書です六代義教の時代は、将軍が家臣によって殺害されるという前代未聞の出来事「嘉吉の乱」によって唐突に幕を閉じます
この夏、千葉県の長生郡一宮町、上総一ノ宮にある「玉前神社」に行って参りました。上総国は、総(ふさ)の国と称し、『古語拾遺』によれば、忌部氏が四国の阿波国から部民を伴い、海路でここにいたったとされます。総(ふさ)国は、大化改新で上総、下総の二国に分かれました。上代では、東北への足がかりの地であり、鎌倉時代は千葉、足利などの諸氏が守護となり、室町・戦国時代には上杉、里見、北条氏が支配しました。ご由緒は*****平安時代にまとめられた延喜式神
先日、学生チームの3人と共に九州国立博物館へ行ってきました。江戸幕府と並ぶ程長く続いていた室町幕府です。しかし、江戸幕府と比べるとあまり多く歴史が語られていないのが室町幕府でもありました。歴史に詳しい松下先生も興味津々であったこの「室町将軍」展へ行ってきました。調度品に感動する学生もいれば、歴史の授業で覚えた単語などが実物として見れたりなど、それぞれ感じるものは違えど気づきは多かったようです。また、一通り見終わった後に松下先生の解説もありいろんな角度から見識と教養を広めることが出来たの
昨日小雨が降るなか九州国立博物館の「室町将軍展」へその後土砂降りになり特別警戒状態になって佐賀・長崎方面は大変だけど開催期間は9月1日までだから状況を見て行ってみてね!(西鉄太宰府行きの電車が動いてれば行けると思うので)入場口にあったワークシートを見ながら(写真左青いパンフレット)記入欄に気が付いて手持ちのボールペンで書きいれていたら場内の案内の人が来て「ボールペンは使えませんので」と鉛筆をくれた(あとで回収箱があったので入口に貸し出しがあったのかも)全然気が付かなかっ
8月24日、九州国立博物館で9月1日まで特別展示されている室町将軍展を観に行きました。(会社の人から特別優待券をいただいてたので、無料で観られました。)あまり歴史は詳しくないですが、戦国時代は好きななので、そこにつながる室町時代は興味がありました。写真撮影は基本NGですが、3カ所だけOKでした。入口にある室町幕府歴代15代将軍のサマリー漫画勘合貿易の説明室町幕府歴代将軍の木像圧巻でした室町時代は三代将軍義満までは安定してましたが、それ以降はカオスですね将軍が暗殺されたり、くじ引
「過去の業」と「昔のゆえ」2いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!前回の続きです。前回は、義光が娘の駒姫の死に際して、自分の力でどうにもできない領域である「前世」というものに理由を求めた言葉について書きましたが、私にとって前世と現世という視点で思いつく言葉と歌は、やはり前回あげた最上義光の言葉と二条院讃岐の歌です。
どうも。吉良家といえば、忠臣蔵の敵役として有名ですよね?江戸の庶民は、幕府に庇われた吉良を大とし、取り潰された赤穂浅野家を小と見て、判官びいき・・・依怙贔屓したわけです。まぁ、確かに可哀相なんだけれども。江戸幕府の成立時期の「建前論」からいくと、赤穂浪士事件後に取り潰された吉良家こそ判官びいきすべきだろうよ、と思うのです。。。と思って、つらつら書き連ねたい。吉良氏は、室町幕府を興した足利氏の連枝に当たる名家です。清和源氏と呼ばれる「源平藤橘」のうちの一つの名前は聞き覚え
王子が、社会科で室町幕府を勉強中なので銀閣寺を観たいと…☆京都水族館にも暑いっ💦💦💦着くなり、王子王女のたっての希望で京都でラーメン人は何故京都に来ると甘いモノを求めるのでしょうか。今回のホテルはグランヴィアホテル京都京都タワーを見詰めながら寝ました。素敵な対応をしてくださったコンシェルジュさん☆ありがとうございました😊
前回の続きです。龍安寺を出て、南の方向に10分ほど歩いて次の場所に到着。等持院。室町幕府歴代将軍15人の菩提寺です。本堂には歴代将軍の木像があることでも知られています。等持院公式サイト残念なことに本堂・霊光堂が工事中のため歴代将軍の木像は現在見ることはできませんが、夢窓国師の作庭した庭園を見ることが出来ます。そして私が今回見たかったのがこのお墓。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の墓です。私が初めてこ
どうも。南北朝時代、というのは非常に複雑な利害関係が絡んでいる上に、後醍醐天皇がどうしてもキーパーソンであり、「尊王攘夷」論の基礎知識になってる側面があるので題材にしにくいです。ですが、室町時代が日本社会の形成に寄与しているウェイトは大きいので、アンタッチャブルであるというのも困る。その反動みたいな気運があって、新書「応仁の乱」をはじめとするざっくりとわかりやすい室町時代の解説がプチ・ブレイクしてたのだと思います。まず、基本的部分として室町幕府の時代は日本の人口の拡大期であっ
昨日は一日中台風10号の暴風域、および強風域の予報が出ていたので家に引きこもるつもりでした。しかし幸いにも私の住む地域は風すらさほど吹かず雨もパラパラで蒸し暑さを感じるのみでした。エアコンが苦手ですので気温が低い日は窓を開けますが昨日は一日中、窓を開けっ放しでした。となると・・・退屈というわけで開館しているかネットで確かめた上で九州国立博物館へ行ってきました。室町将軍展高校の選択が世界史だったため足利将軍のことはよく知
山梨学講座「甲斐源氏の歴史と系譜」第3回日本列島に広がる武田一族-安芸・若狭の武田家を中心に-メモ1いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!本日も自分の研究メモのような内容です。7月~8月にかけて山梨県で開講されている「甲斐源氏」についての講座の内容をメモとしてまとめました。Twitter(8月17日)にあげた内容を詳しく書いています。
昨日は、母や弟と太宰府市の九州国立博物館に行ってきました。特別展「室町将軍~戦乱と美の足利十五代~」つまり、室町幕府の足利将軍十五代・240年の歴史展ということで、各地の博物館や寺社から国宝級の茶道具や掛け軸、甲冑や刀剣類、文書類が多数集められて展示されていました。勿論、そんな貴重な品々は撮影が禁止されていて、こちらの日明貿易(勘合貿易)の勘合符と呼ばれる割札の展示位しか撮影できませんでしたが・・・。撮影可能で嬉しかったのは、足利将軍家の菩提寺であった京
8月7日の休日日数と交通費節約で、展覧会とミュージカル鑑賞を1日で楽しむことにしましたしかし、そのような予定を心待ちにしている前日までは、仕事で急遽変更があったり…でハードな毎日にだけど、この日を逃せば次はないのでと気合いを入れて、まずは太宰府へ。参道を歩きながら、マンゴーソフトまずは、天満宮にお詣り毎年夏恒例の水みくじも引きました初詣共々、今回も大吉太宰府行きメインの九州国立博物館へ足利15代将軍の特別展足利家の将軍は、尊氏と義満くらいしか知らなかったけど。15代続いた
初めて佐渡へ行きます。名古屋から安い旅費で行くとなると、早朝に家を出なければなりません。もう、切符は購入済みですので、体調を整えてその日を迎えたいと思います。能は、般若や女性の怖いお面をつけ、地面に足をすりすりさせながら歩く、独特の動きですが、元はといえば庶民の娯楽の一つです。当時は田楽のほうが人気があったようですが、観阿弥と、その息子・世阿弥が京都の今熊野神社で見事な能を演じ、これを見物して気に入った室町幕府三代将軍・足利義満がパトロンとなったことで、能も世間の注目をあびました。
浦和画家小松崎徹郎最新作✨✨✨作品「足利尊氏」室町幕府の初代征夷大将軍画家曰く何かペンで描きたくなってみた作品現存してる尊氏像には遠く及ばないから自分流にアレンジしたそれもまた楽しい作業であると。
今日における日本の美意識は、室町時代の歴代将軍が作り上げたものでした。https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-08-04/31/28396/1902811/3代・足利義満の肖像画には「あらゆるものは絶対的な無から生まれた幻のようなもの」という内容の漢文が書かれています。これは、中国最高の美術家でコレクターでもあったが故に治世に失敗した北宗の8代皇帝・徽宗(きそう)になぞらえているものだそうです。当時、明との国交を結んだ義満は、日本に自分の権力
来ていただいて、ありがとうございます。今日の文字は(Higashiyamaimperialtreasures)今日のNHK「日曜日美術館」は「よみがえる美の力~室町将軍の文化戦略~」。現在、九州国立博物館で開催されている「特別展室町将軍戦乱と美の足利十五代」会場にずらりと並んだ歴代の将軍像。初代尊氏からして、私たちが教科書で観た絵とは全く違う顔をしています。実は、この展覧会の像の方が本物らしいのです。それは、将軍が亡くなり四十九日の法要にはもう
昨夜スマホでイヤホンして爆音で音楽聴いた。彼からLINE来ないみたいだったのでもう好きな音楽堪能。そしたら11時前くらいにLINE来た。飲みにでも行ってたのか?今帰り、みたいだった。お疲れさまです。12日に仕事終わった後に来てくれる。楽しみにしてるよ!私は今年は夏なのに食欲が落ちない。まあ梅雨が長くて7月は肌寒い日が多かったし。昨日音楽聴きつつ、本を注文した。「チトー・独自の道」昔から世界史の中でも旧ソ連圏、バルカン半島、中東には特に興味があった。チトーのことはぜひ読みた
相国寺を後にして⇨🌟向かったのはこちらHamacdeParadis(アマーク・ド・パラディ)寒梅館同志社大学室町キャンパス内寒梅館の1階にあるカフェレストラン学生だけでなく一般の方も利用できます素敵な建物です中も素敵※混んでいたので内部の写真はお借りしましたこんなに素敵なレストランですが学食なので食券を買って並びます平日でしたが学生はもちろん一般の方々もたくさんいて混み合っていました日替わりランチAパン豚肉のピカタ肉味噌ソースこれで550円
さて、今回はこの本の内容を読んでの考察に行ってみましょう。室町幕府全将軍・管領列伝(星海社新書)[日本史史料研究会]1,512円楽天やはり、この本の構成にあるように室町幕府最大のターニングポイント(転回点)は「くじ引き将軍」足利義教の時代ですね。その理由は、義教が「嘉吉の乱」で横死して以降、関東方面に関する記述はめったに見られなくなることです。足利義政が反乱を起こした成氏の代わりに兄(母親違いの兄)の政和を送り込んだことと細川政元が関東に行こうとしたぐらいのものです。
7月21日の日曜日に入ったころ、「室町幕府全将軍・管領列伝」を読み終えました。室町幕府全将軍・管領列伝(星海社新書)[日本史史料研究会]1,512円楽天最近、室町時代が日本史ファンの間でブームになって九州国立博物館では特別展が開かれるようになりましたけれども、なぜブームになって人気になったのか、を私なりに分析しますと、最近の日本社会でスローガンのように唱えられている「自己責任」という言葉がぴったりの時代で、しかも能や狂言、床の間といった現代にまで続く日本の伝統文化がこのころに
みんなの回答を見る日本史史料研究会というところが監修した「室町幕府全将軍・管領列伝」(星海社新書)ですね。室町幕府全将軍・管領列伝(星海社新書)[日本史史料研究会]1,512円楽天なぜおすすめかと言うと、500ページ以上もする分厚い新書なのに、値段が1400円+消費税という「安い」価格だからです。普通ならハードカバーで3000円以上はするはずで、どんなに安くしても2000円台を割り込むなんてことはないでしょうね。いま、九州国立博物館で行われている
足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは、建武五年(1338年)八月十一日、正二位に昇進した時である。これは閏七月に新田義貞が越前国藤島の戦いで戦死した後である。尊氏の征夷大将軍就任に伴い、光明天皇の皇太子であった後醍醐の成良親王が廃止され、光厳上皇皇子益仁親王が皇太子となった。後醍醐が南都に逃亡してもなお、講和条件を維持していたが、この段階で講和を破棄したことになる。これは八月二十八日に暦応に改元している。しかし幕府内伝奏の倦怠のために暦応年号を使用し始めたのは九月からだった。直義も八月十一
真夏がついに姿を現し始めた・・・。今週後半からの出来事を7月18日・・・宇治・槇島城に立て蘢っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡へ(1573年)7月19日・・二千円札発行。当時の小渕恵三首相の発案により(2000年)7月20日・・・国民の祝日に関する法律公布・施行。9つの祝日が誕生(元日、成人の日(1月15日)、
鎌倉にいた足利尊氏は、建武二年(1335年)九月頃から、後醍醐の帰還命令を無視した一方で、大量の「恩賞充行袖判下文」を発給し始める。しかし、後醍醐天皇の命で新田義貞を大将とする足利討伐軍が出陣すると、尊氏は政務を直義に任せ、代わりに直義が「恩賞充行下文」を発給した。義貞軍が箱根まで切迫してきて、出家した後再度挙兵した際に、袖判下文の発給を再開する。この後直義も下文を発給するが、尊氏が恩賞充行のものであるが、直義のものは「還補」という、従来所有していた土地を返還する、という意味合いの下文である。た
室町幕府の創設者である足利尊氏、彼は実に毀誉褒貶の激しい人物である。殊に皇国史観に凝り固まった連中からは、今もなお「逆賊」だの「三大悪人」とか言われ嫌われている。ただ、行動を見るに尊氏自身は朝廷(少なくとも後醍醐)には反逆の意図は持っていなかったように思う。彼が独断で北条家の残党を討ちに関東へ下った挙句に勝手に論功行賞するなどの独断専行で反逆を疑われているが、おそらく彼はそれが最終的には朝廷の為になる、朝廷には後で許しをもらおうなどと軽く考えていたのではなかろうか。また、その人物を見
高師直は高一類と主人である足利尊氏・直義一族の活躍もあり、足利氏と同門である新田義貞勢の運動で、鎌倉幕府は滅亡した。その後、後醍醐天皇による建武の新政がはじまる。師直は足利家執事だけでなく、建武政権において、元弘三年九月に発足した「雑訴決断所(ざつそけつだんしょ)」と呼ばれる土地に関する訴訟(所務沙汰と呼ぶ)を司る機関に所属した。該当する国司・守護に対して、荘園の横領・濫妨停止(らんぼうちょうじ)と下地沙汰付(さたしつけ)の遵行(じゅんぎょう:執行措置のこと)命令を律令制の牒(ちょう)形式で発給