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奥平氏は愛知県新城市に興った氏族で、今川氏から武田氏に仕えたが、徳川家康の娘婿となって家運が開けた。江戸時代は美濃加納、下野宇都宮、豊前中津などと領地が代わったが、江戸における菩提寺は品川の清光院(品川区南品川4-2)だった。土塀に囲まれた墓所には2代以降の藩主の他に、妻子などの墓石89基が並んでいて、五輪塔や宝篋印塔、笠塔婆などを観ることができる。
今日も家政婦業してきて、帰宅は5時半過ぎでした~🤪中々書き終わらない大和路巡礼…😂岡寺を3時過ぎに出発出来たので、もしや飛鳥寺に行けそう!?その前に岡寺の参道沿いに有った岡本寺が気になる〜本堂に掲げられていた文字も…飛鳥寺に行く前に岡本寺にちょっと寄道してみます岡本寺の寺号標と本堂真言宗豊山派寺院の岡本寺は、高市山岡本寺と号します創建は飛鳥時代舒明天皇の岡本宮と言われる旧跡を伽藍として、岡本寺にしたとも伝えられています盛衰を繰り返し現在の本堂は、昭和63年(1988年)の修
境内の西側に長瀧寺の本堂それにしても残雪の多い事。照り返しで逆光になりました…宝篋印塔辨才天堂と延年水延年水霊水、枯れてます…(;´∀`)石段を登って薬師堂拝殿の西隣の長滝天満宮梅の花は、まだまだ小さな蕾白山神社の本殿3柱が祀られてて、西から越南智社。中央の大御前社。東に別山社。本殿の両隣には摂社。西側の左から児御前社→竈神社。東側の左から神明神社→稲荷神社。参拝するところが盛り沢山です。
春の近江路を巡った滋賀県からの出題です。この宝篋印塔はどなたのお墓でしょうか?太平記や増鏡に登場する歴史上の人物です。→後醍醐天皇の側近、中納言北畠具行卿このお墓のある場所は、中山道の「柏原宿」の外れにある人里離れた小高い山の上です。この地で北畠具行卿は斬首されました。北畠具行郷は処刑される前の1ヶ月を墓所に近いここ「徳源院」で過ごしました。その時の情景が「増鏡」に書かれています。ここを訪ねた日は枝垂れ桜が満開でした。この枝垂れ桜は「道誉桜」と呼ばれています。徳源院は京極家
城の尾山城(久米郡美咲町藤田上・藤田下)『東作誌』には「城の尾山」として城主不詳とする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第3冊美作編より)北東帯曲輪井戸?溜池?の跡の残る北腰曲輪西帯曲輪主郭主郭の南土塁緩傾斜の南二郭?東麓の宝篋印塔城の尾山城遠望軌跡ログ久米郡美咲町の城
初代藩主頼宜公夫人、第2代光貞公夫人、第5代吉宗公夫人や、夭折した藩主子息の墓所で、和歌山市吹上1の報恩寺から長い参道を進むと広い墓域に宝篋印塔が並んでいる。なお、藩主の墓所は海南市下津町の長保寺にある。
折居城(高梁市高山小字折山)別名:折井城尾根頂部に平坦面があり、石敷と宝篋印塔1基を確認した。城館関連遺構は判然としない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)付近の旭神社主郭主郭の宝篋印塔折居城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図旧川上郡川上町の城
桑山氏は関東の名族結城氏の庶流で、尾張桑山庄を領して桑山氏を称した。戦国時代の桑山重晴は豊臣秀長に仕えて初代の和歌山城主(城代)となった。墓は和歌山市鷹匠町1の珊瑚寺にある宝篋印塔だが、案内も説明もないのがもったいない。
中山城(高梁市川上町高山市小字塔の卑)前谷川の南側にある東西方向に細長い標高約500mの尾根頂部に位置する。頂部に規模の小さい平坦面があるが、現在は宅地化されている。東側の尾根先端方向には自然地形が続き、城館関連遺構は判然としない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)主郭?西上段主郭?東下段西下の廃村西出丸?木立の中の宝篋印塔軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図旧川上郡川上町の城
卍秋葉山卍瑞雲院卍寛延三年十一月当院十五世泰山任超叟築造🗺春野町🗺✨宝篋印塔✨年代不詳寸法、全高200㎝、全幅120㎝『皇風永局』『国土昇平』『五穀豊穣』『万民楽?』『圓成宝?』『????』『佛日高輝』『放光維新』の刻銘ありと書きましたが年代と掘られてる文字がわかりました⏬️✨文化六年(1810)第十九世大圓孝本和尚に依る瑞雲院本堂並開山堂塔改記念宝塔宝塔台刻字✨⏬️⭐️正面⭐️圓成寶塔八萬由旬佛日高輝放光維新⭐️西面⭐️萬五國皇皇鳳永扇
埼玉県秩父郡長瀞町の総持寺に立つ宝篋印塔です。埼玉県北部から群馬県の利根川流域(支流の鏑川・烏川・吾妻川を含む)に特徴的にみられる須弥壇型宝篋印塔(二重宝篋印塔)と呼ばれる形式のものです。塔身1つ・笠1つが一般的な宝篋印塔ですが、塔身が2つありその間に須弥壇(初層笠・中台)と呼ばれる部分が挟まっています。この2基は夫婦のものと思われる逆修供養塔(生前供養塔)です。基礎部には(東面・嶋田弾正忠満の逆修供養塔)北面大日本国武蔵州秩父郡白鳥郷東面下野村住嶋田
今年も小俣京丸に行ってきました。いろいろありましたが、天気も良く無事に帰ってこれました。向こうの尾根の崩れた所の下が小俣京丸崩落は年々ひどくなる。小俣京丸集落もあちこちで崩落が進む。集落の中を移動するのも中々難しくなってきた。時:2025年3月22日小俣京丸その17へ続く小俣京丸その15『小俣京丸その15』謎の宝篋印塔小俣京丸からの帰り道いつもの宝篋印塔いまだになんの宝篋印塔か判明しない今回も健在!於:浜松市天竜区春野町豊岡訪:令和六年(2024…am
宝篋山は小田山とも呼ばれていて、かつては南麓に三村山清冷極楽寺という巨大寺院があった。昨年2月のブラタモリで鎌倉の紹介があり、鎌倉の極楽寺と忍性の五輪塔を訪ねたのを思い出し、今日は宝篋山麓の五輪塔に寄ってみた。途中の踏み石に、へばり付くように小さなスミレが1輪咲いているのを発見!春の兆しを期待して、いつもの極楽寺コースを上る。宝篋山麓の五輪塔:高さは約320cm。忍性と共に三村山極楽寺に入り、忍性が鎌倉に移った後、事業を引き継いだ頼玄の墓塔の可能性が高いという。宝篋印塔:この山の名
無偏山法性寺の次は同じ上新郷にある曹洞宗の高木山祥雲寺へ。山門をくぐるとこんな感じ。御本堂。境内には石仏がいっぱい。こちらは六地蔵塔かな?供養塔。宝篋印塔。五重塔。石灯籠。鐘楼。御朱印。
前方後円墳こんにちは、よっこん日記のよっこんです。以前のブログの「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)について、追加情報を得たので紹介します。『近所の探検記録(10):宝篋印塔』宝篋印塔こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、近所の住宅地の中にある小山に、気になる石塔を見つけたので紹介します。散歩コースの住宅街に、細…ameblo.jp2025.2.15のブログで紹介した「宝篋印塔」「奉書冩一石一字」「大乗妙典全部」と文字が刻まれている。大乗妙
太田道灌の墓道灌はこの辺りにあった粕屋館で非業の死を遂げました。洞昌院の境内北側に胴塚と呼ばれる宝篋印塔の墓と自害石と呼ばれる平らな石。なぜ墓前の左右の切り株に、屋根がかぶせられているのかと思ったら・・・道灌の四十九日の供養に当時関東にいた詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が祭文(さいもん)をささげ、植えた松と考えられます。明治半ばに描かれた墓の絵を見ると、立派な松が二本そびえているそうです。
経ヶ森から梅津寺へ(その4)こんにちは、よっこん日記のよっこんです。前回の続き、岩子山の山頂から「興居島」の「小富士」は絶景でした。また、山頂には「岩子山蔵王堂祠」があり、「蔵王大権現」を祀っていました。『近所の探検記録(15):経ヶ森太山寺奥の院(その1)』経ヶ森太山寺奥の院(その1)こんにちは、よっこん日記のよっこんです。近所を散歩していて、ふと山を見上げたときに、気なっていた場所があります。山頂…ameblo.jp『近所の探検記録
前回は氷瀑の四王寺滝に向かったのに添田町営バスが満員で乗車できず、行くことができませんでした。今回は四王寺滝にリベンジです。平日だったので、バスの乗客は私Ⅰ人だけでした。英彦山の登山口に向かう国道500号線は大寒波で路面がアイスバーン状態です。私は、車のタイヤも性癖もノーマルです。だからバス利用が正解でした。登山口の別所駐車場は満車でした。スタッドレスタイヤでも運転は怖いと思うのですが・・・バスの運転手さんも立ち往生している車をよく見かけると言っていました。無理しな
宝篋印塔こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、近所の住宅地の中にある小山に、気になる石塔を見つけたので紹介します。散歩コースの住宅街に、細い道を見つけました。奥の小山に通じているようです。前を通るたびに、この先がどうなっているのか気になっていました。細い道を進んでいきます。写真では分かりづらいですが、かなり急な坂道です。落ち葉を集めた黄色いゴミ袋の先に、石碑が見えます。山頂部には、200平方メートルほどの空間がありました。(落ち
石神井公園の禅定院など周辺をぶらり散歩してきました禅定院紅梅禅定院慈光山無量寺寺号標禅定院山門説明板本堂宝篋印塔と鐘楼観世音菩薩像石仏・石像キリシタン灯篭宝篋印塔と茅葺の鐘楼いぼ神地蔵弘法大師像書院・庫裡受付なかよしわらべ石碑説明板紅梅蝋梅ツグミカワラヒワお食事中ツグミコゲラヒヨドリジョウビタキ♂ジョウビタキメスシジュウカラメジロ福寿草カンザキアヤメ凧あげ野球場コガモ石神井川コサギオナガ☆ご覧いただき
巳2025🐍017🐉‼️2024年08月31日(土)🐉‼️御朱印巡りをはじめて⛩️‼️12年っ⛩️‼️浅草寺🐉🏮‼️浅草神社⛩️‼️をお参りしたあとは⛩️🐉🏮‼️浅草寺の子院のひとつ🐉‼️関東三大聖天のひとつ🐉‼️本龍院(待乳山聖天山)を参拝🐉‼️御朱印を拝受しました🐉‼️🐉待乳山本龍院🐉前回の参拝blogです🐒‼️『23;05-06.待乳山聖天(本龍院)≪東京都台東区≫』2016-1912016年04月02日(土)『御朱印巡りin都営浅草線沿線』最初は『関東三大
網引駅からは北条鉄道に乗車して約20分。終点の北条町駅に着きます。北条町駅から歩いて20分くらいで羅漢寺に到着とても小さな寺です。五百羅漢で有名。江戸時代頃に作られた羅漢像は製作者不明ですが素朴な堀りから一般人が掘ったと言われています表情が全て違い.探すと自分に似てる像があるとか…菊と羅漢様落ち葉と羅漢様江戸時代初期の宝篋印塔シコンノボタンまゆみ参拝者は自分だけ…とても静かでよい所です羅漢寺のすぐ南側・住吉神社の赤く染まった紅葉を見に行きます
指定文化財にはなっていませんが、総社神社にも拝殿の背後に仏塔がありました。基礎石を勘定して右から6基までが仏塔。それより左は境内社(合祀された神社)です。社務所改築時に板碑などが出土しました。中には応永4年(1397年・室町時代)と彫られた板碑がある様です。倒れた板碑2,立ってる板碑1。いじる訳にはいきませんから見た限りでは應永四年卯年と彫られたものは見当たりませんでした。保管してあるのかも知れません。左から境内社、板碑3基、五輪塔や宝篋印塔の残欠と思われるもの。興味深
土屋氏は、桓武平氏の一流である中村氏の分家が、土屋郷を領して土屋姓を名乗ったことに始まり、鎌倉幕府では御家人となったが、室町時代の上杉禅秀の乱で国を追われ、甲斐武田氏の家臣となったが、同氏の滅亡により徳川氏の配下に組み込まれ、江戸時代は久留里藩や土浦藩の藩主となり土浦藩主家は明治維新まで存続した。墓は土屋城の南側一段下の居館跡にあり、五輪塔や宝篋印塔が一列に並んでいる。
みなさんおはようございます~(*^^*)本日はいろいろ忙しい…病院行く予定…きっと早い時間から出かけてる…天王寺の四天王寺…聖霊殿に向かいます…猫の門、22日にしかあいてませんが、入れるわけではないですそして聖霊殿の正規の入口は虎の門ですもちろん蟇股は虎です…裏側も虎…特に見どころではありません…1月22日だけ秘仏公開です…聖徳太子49歳像です、きっと日本ではここだけです…有名なのは法隆寺にもありますが35歳像ですね聖霊院が手前です、奥が奥殿…そ
今週に入って最高気温が12.3℃と暖かい日が続いていてちょっと春の気配も感じられますが、外に出たらやっぱりまだ寒い。まあまだ1月も半ば過ぎだし、もう一度くらい寒波がやってきてもおかしくないな。アメリカではこの冬最高の寒波が到来しているらしく、テキサスやルイジアナ州でも雪が積もっているらしい。トルコの火事も台湾の地震も気になるのにテレビのニュースやワイドショーはN君とFテレビのことばかり。H県知事関連であれだけ言われたのにマスコミってホントに凝りないなぁ。何もはっきりしていない問題をああ
長福寺は、延暦2年(783年)比叡山延暦寺の僧徳珍によって創建された天台宗の寺院です。当時は、八幡宮(現在の大森神社)の境内に薬師如来を安置して祀られており、七堂伽藍を有していました。元久元年(1204年)に僧教道により布引のふもとに移り、さらに寛永14年(1637年)僧光忠により現在地に移られました。江戸時代は、この地の領主、最上家代々の祈願所であったと言われています。この長福寺本堂の玄関は、旧最上氏大森陣屋の表玄関が移築されたと伝わっており、大森町の歴史を知る上で、現在残されてい
昨日(1月20日)、天気も良く、思い立って、かねてから一度登ってみようと考えていた「宝篋山」に登ってきました。宝篋山は、つくば市北東部にある標高461メートルの山です。案内図によれば、古くは「三村山」あるいは「小田山」と呼ばれ、山頂には鎌倉時代中頃に建立されたもので高さ2メートルの宝篋印塔があります。当時、真言律宗の布教の拠点であった「極楽寺」があり、宝篋山はその裏山に位置しています。周辺には歴史的石造物が多数残っています。この銘板には「宝鏡山」と書かれて
浄土宗報身山無量院弘誓寺は田園の中に静かなたたずまいを保っている。寺伝によるとはじめは、延暦10年(791年)建部社の神宮寺で大願寺と称し延暦寺乗止観院に属していた。現在は、近江七弘誓寺の一つで建部の弘誓寺として有名である。七弘誓寺とは中興の祖、源平の戦いの『扇の的』で有名な那須与市宗高に七児があり、それぞれ一寺を立て弘誓寺と称した七つの寺の事である。その中で二男願名坊宗信が関東下野国から近江の国に報ぜられた父に従って石畑建部の領主となり、発心して当寺を建立したので
苗村神社の次は湖南市岩根にある天台宗の岩根山善水寺へ。こちらの寺院は湖南三山のひとつです。車を停めて境内に向かうと、立て看板があり御本堂の桧皮屋根を50年ぶりに葺き替え中とのこと。国宝の御本堂。完全に白いシートで覆われていました(^_^)葺き替え中も堂内は参拝できます。白いシートの中はこんな感じ。御本堂。内陣にもあがらせていただき、たくさんの仏像を間近で拝観できました!元三大師堂。六所権現社。百伝池。「善水元水」元三大師がこちらの水を御病気の桓武天皇に献上した