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城を観る[YouTube]今回は...(撮影2024/01/30)【城を観る+】《安土城》2024〜安土山に築かれた織田信長の居城!安土城跡を観る〜【城を観る+】《安土城》2024〜安土山に築かれた織田信長の居城!安土城跡を観る〜《安土城》[読み方]あづちじょう[撮影地]滋賀県近江八幡市[撮影日]2024/01/30[撮影者]バイソン[BGM]Dreamland(writtenbyshimtone)[YouTube]城を観るhttps://youtube.com/@sirowo
八幡山城、ラコリーナ、、他にすることもなく~再び安土へ走る懐かしの安土城登城する気はあったけれど…午後ともなると人がウヨウヨ、観光バスも止まっているし明日に体力残しておこうと~気になっていた「信長の館」へ撮影はだけど、著作権があるからSNSはNGと…意味わからんでも受付の女性に観音寺城へのアクセスを細かく聞けたので…収穫ありとするしかし物足りないので、ぷらっと安土城お堀巡り、ポイントもちろん誰もいないセミナリヨキリシタン神学校跡地キリシタンには興味あるからさチャリ
かねてより行きたいと思っていた小牧山城へ行ってきました。段々畑みたいな作りのお城(跡)でとても面白かったです。展示されてる資料の数々も面白かったです。いつもだとこういう場所での資料(文字)は大抵は私の方が半分ぐらい読まなかったりするんですが(こういう場所での文字はあまり目に入らなくて・・・)珍しく旦那様と二人して隅から隅まで目を通しました。資料によりますとここは織田信長が初めて作ったお城でかつ、石垣が用いられた初めてのお城だそうです。それまでは土を盛ったり掘ったりして作るお城だ
安土城ミニミニサイズ・春
天長節、今上天皇陛下の御生誕をお祝い申し上げますみなさん、おはようございます天長節祭今上天皇陛下の御誕生日です心よりお祝い申し上げます日本國をお護りいただき感謝申し上げますアリガトウ「2月23日」の國史です「織田信長、安土城築城」天正4年(1576年)第六天魔王、信長は天下統一のため岐阜から安土へ拠点を移します天主には聖徳太子の夢殿の上に足利義満の金閣寺を建てます最高位にある2人よりも上であるとしたのです一方、地下には大きな岩
皆さ〜ん明日から三連休ですねお天気はかなり寒くなるみたいですねさて、歴女(自称)の私ですが、ある筋からまたまた情報を得ました↓↓↓“幻の威容”安土城の実像探る「令和の大調査」で浮かび上がった信長と秀吉の天下人への思い【読売新聞】編集委員丸山淳一ひと山を丸ごと石垣で固め、青や赤の瓦や黄金を使った建造物が日の光に輝く。山の頂上には地下1階、地上6階、高さ32メートルの天主(※)がそびえる――。宣教師ルイス・フロイス(1532~97)がその威容をwww.yomiuri.c
安土城ミニミニサイズケースに入れて見るとケースギリギリまで作ってます。
安土城製作の下準備と豊臣大坂城天守の製作中
織田信雄はなぜ安土城を焼いたのか信長正室の間違い奇蝶に頭の上がらなかった信長織田信長が本能寺で爆殺された時。織田信長が本能寺で爆殺された時。日野の城主の蒲生賢秀が、安土城の二の丸にいた婦女子は一人残らず自分の城へ引取った事になっているが、もし、城へ残留していた者があれば、それは、賢秀やその倅が知悉している筈である。だからこそ六月十五日に、その蒲生の倅に案内されて織田信雄が兵を進め、誰一人として城から逃れられないように、完全包囲してから放火している。この時代、仏徒の方は、土葬だった
昔「火天の城」という映画がありました、西田敏行が安土城を設計する棟梁の役。原作は山本謙一氏の松本清張賞受賞先生です。この映画では、安土城の設計でコンペになり、主人公とは別の大工が吹き抜けの案を提出してきたて、信長もせれを気に入ったんだけど。西田敏行は、自分の設計案(吹き抜けなし)と、吹き抜けの案と、二つの模型をわざわざ作ってきて、その模型に同時に火をつけて、吹き抜けだとあっという間に全勝する、というのを証明してみせて。それでコンペに勝って「吹き抜けなし」の安土城か建設された、という物語にな
城というのは、普通は複雑な経路をくねくね曲がりながら登っていくように設計されています。もちろん、防御の観点からです。ところが、安土城は大手門から天主まで、真っ直ぐに大階段が作られていました。これはつまり、信長はこの城を防御するつもりはまるでなかった、ってことです。天主(と安土城では書きます)というのを初めて造ったのも信長ですが、あれは「見せつけるためのもの」であって、軍事的意味は全くありません。つまり安土城は、要塞ではなく、宮殿なんです。戦国時代はもう終わる、この城が攻められたりすること
自己肯定感を上げて、"もっと楽に自分を生きる"をサポートしています。カウンセラーの和田優子です。⭐️初めましての方はこちら>>自己紹介⭐️各種ご案内>>こちら⭐️和田優子公式LINE>>ご登録はこちら☆・*:.。..。.:*'☆*:.。..:*☆・*:.。..。.:*・゜゚昨日、一昨日に引き続き、本日も日記ブログです。今月上旬、1泊2日で滋賀県へ。歴史好き、お城好きな中1息子と彦根城、安土城跡を巡る
自己肯定感を上げて、"もっと楽に自分を生きる"をサポートしています。カウンセラーの和田優子です。⭐️初めましての方はこちら>>自己紹介⭐️各種ご案内>>こちら⭐️和田優子公式LINE>>ご登録はこちら☆・*:.。..。.:*'☆*:.。..:*☆・*:.。..。.:*・゜゚昨日に引き続き、本日も日記ブログです。今月上旬、1泊2日で滋賀県へ。歴史好き、お城好きな中1息子と彦根城、安土城跡を巡る旅です。
天海(75)天海のもとに小姓がやって来た。日本水軍を率いる藤堂高虎が、朝鮮出兵の前に家康に挨拶に来たという。「与右衛門か。」と天海は正信との話を思い出していた。近江坂本で何度か会ってているが、当時は駆け出しの足軽大将で親しいというほどではなかった。居室に通されると珍しく家康と高虎の二人きりである。何か秘密めいた話でもあったのかも知れない。「こちらが、先ほどお話した私が帰依する天海上人である。上人、こちらは、藤堂佐渡守殿である。」と家康が紹介すると、天海は丁寧に座
史官~太田和泉守~摂津・丹波13回目九月二十九日加賀の一向一揆衆で大坂石山本願寺の連絡に当たっていた者を正親町中納言殿が捕らえ、信長様に進上した。信長様は大変喜ばれた。この者は成敗された。十月一日山崎の町人が先年、明智殿と村井殿が裁定した裁判を不服として信長様に直訴した。信長様が村井殿に事実を確認したところ、村井殿より裁定の内容と判決についての返答があった。信長様は町人の直訴が曲事であると申され、定に従い成敗された。十月八日戌の刻、信長様は二条城を出発し安土に向
昨日は滋賀県近江八幡市に移動。16時半頃ホテル到着、17時前から走りに出ました。遠いイメージのあった安土城ですが、5.5kmほどでしたので行ってみました。途中安土駅へ初めて安土を訪れた時は電車でしたので30年ぶりに安土駅にきました(^^)信長公像信長公のとびた君そして安土城へいつもの風景ですね。これらもGET!今までこの手の報酬をGETする時は天守に近づかないといけませんでしたので、中に入らないと無理
史官~太田和泉守~摂津・丹波13回目九月二十九日加賀の一向一揆衆で大坂石山本願寺への連絡係の者を正親町中納言殿が捕らえ、信長様に進上した。信長様は大変喜ばれ、この者を成敗された。十月一日山崎の町人が先年、明智殿と村井殿が裁定した公事を不服として信長様に直訴した。信長様が村井殿に問い合わせたところ、公事の内容と判決についての返答があった。信長様は町人の申し立てが曲事であると申されて掟に従い成敗された。十月八日信長様は戌の刻に二条城を出て安土に向かわれた。十月九日
安土城が1573年に築城されたと同時に摠見寺は信長によって城郭内に建立されました天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあり城内を訪れる人たちはこの境内を横切り参上していました。本能寺の変の直後に天主・本丸が焼失しましたが摠見寺は類焼を免れましたが江戸時代後期の1854年に焼失してしまいましたその後、大手道脇の徳川家康邸と伝わる場所に寺を移して現在に至っています。三重塔は1454年に建立。近江国甲賀郡長寿寺より移築。仁王門は入母屋造本瓦葺きの楼門。1571年に建立され甲賀郡
高層の木造建築を建てる場合には中央に心柱を立てるのが当時のやり方でしたしかし安土城天主の中央の一つだけ礎石がなく空いた穴があるだけでこの穴の上に宝塔があり穴には壺が入っていたと推測されているようです。しかし発掘調査で穴には壺のカケラもなかったのでしょうか?
まーこーレーへYouTubeって、便利❤️安土城に行きましたー。(城チュウブさん、ありがとう)天主閣は再現されておりませんが、大手道、石垣が立派!安土城の眺めも、壮大!行ってみたいなあ。明日は、関ヶ原かな。YouTubeって、便利。城Tubeさん、ありがとう。
安土城ライトアップの完成
締め切り間近の感じの様に僅かに空いた時間で同時製作。姫路城の製作の合間に安土城の石垣製作。姫路城は本来最後に水張りをするのですが、水張りを最後にすると乾燥までの時間が掛かるので、先に水張りをして、水張りで触れられ無い時間で安土城を製作するダブル製作をしてます。趣味ならやらないかな
安土城ライトアップの下準備
土塁や石垣を食い違いにする事によって敵が城内を直接見ることができず直線的に侵入できないよう防御機能を加えた出入り口(虎口こぐち)なあった黒鉄門の先が城内と考えられます。本能寺の変の時、蒲生賢秀が留守居役として在城していました。蒲生賢秀・氏郷親子は本拠地の日野城に信長の妻子達を移動させました。その後、明智軍が安土城を占拠します。しかし光秀が羽柴秀吉に敗れると直ぐに天主・本丸が焼失しました。焼失した理由はたくさんありますがどれも確たる証拠がありません、その後、安土城は信長
ご訪問くださりありがとうございます。家人次男とずっと気になっていた安土へ。滋賀でもかなり南の方でした。安土城へ向かって下道を走りました。近江戦国の道との看板。安土城跡の案内所ちょんまげのとびたくんがいました。本能寺の変の後に燃えて(犯人不明)最近の発掘調査では豊臣秀吉の時代に砕城(意図的に城を崩すことらしい)になったのではないかとのこと。石垣が残っていました。頑張って登るつもりできたのですが急勾配の手すりのないまっすぐな長い階段が見て断
摠見寺の鐘楼は徳川家康の屋敷跡とされる場所に1932年に建立されました持仏堂や小堂などを持つ城は各地にありますが堂塔伽藍を備えた寺院が建てられたのは安土城だけでしたしかも城への通り道が境内になっていて南西にある百々橋口道から入った者は必ず境内の中を通り抜けなければ城には行けませんでした。宗教心が薄いと言われていた信長ですが信長の造った安土城は宗教的な要素が意外と多いのは何故なんでしょう⁉️
「安土城」29年前の震災から学んだことみなさん、おはようございますまた、あの日がやって来ました都市直下型の阪神淡路大震災一瞬にして尊い命を奪っていったあれから29年いま、能登の人が試練を受けている共に頑張って欲しいと思いますアリガトウ「1月17日」の國史です「織田信長、安土城築城開始」天正4年(1576年)信長は琵琶湖の東岸、京都に近く北陸との交通の要所安土山に築城しました松長久秀の多聞山城の天守閣を参考にします平山城で城下町を見渡すことができ
浅井長政・朝倉義景の両氏を滅ぼし長篠の戦いで武田勝頼を撃破した織田信長が1576年に築城を開始し3年後の1579年に五重七階の天主が(安土城では天守ではなく天主です)完成しました。しかし1582年に起きた本能寺の変で信長が死んでしまい天主も原因不明の火災で焼失してしまいます駐車場から大手道に向かいます。大手道や城内の石段には、ところどころ石仏が使われています。
先月行った安土城で発掘調査が行われていました今朝の山梨日日新聞に成果が載せられています秀吉はやはり信長が嫌いだったんだろうね
今日も寄ってくださりありがとうございます*安土城跡へGO〜*↑復元された安土城byいらすとや・ワンさんはラコリーナの🅿︎でお留守番だったのでお次はワンさんTimeへ✷ラコリーナの前に行ったランチ🍚✷岩魚は小さかったけれど囲炉裏で焼かれて身がふわふわで美味しかった此処でも↑お留守番をして貰っていたのでたくさん歩こうネ事前調べで安土城への入山