ブログ記事553件
天海(162)「内府ちかひの条々」「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。一、十人(奉行と年寄)しか誓紙
天海(161)「慶長五年七月是ヨリ先、石田三成、東下セル諸大名ノ妻子ヲ大坂城中ニ収メ、人質トセントス、丹後宮津ノ長岡忠興ノ室明智氏、之ヲ拒ムニ依リ、是日、之ヲ圍ム、明智氏、自殺ス。」(「史料綜覧」)ガラシャの遺言が幾つか残っている。「子共の事は我為に子なれハ、忠興君の為にも子也、改め伝におよハす、三宅藤兵衛へ事を頼候也、此上いわれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に。」(「綿考輯禄」)まず、我が子については忠興にとっても我が子なので、改めて伝える
三日目。夕べからの強い風は治まらず😓羽田からの第一便は欠航になっちまったそうで😓😓八丈島から羽田に戻れそうな風の状態になりそうなら羽田から飛行機は発つらしい。ま、とりあえずうろちょろすっか。玉石がいっぺぇの〜こんなとこや〜こんなとこを〜昇る!🛐左からの強風が治まった変わらず天気悪〜い。お勉強の時間です!この人は大神んとこの脇にある伊勢神社の神様をお祀りした人か!身代わりとはいえ流罪なんて😓それで伊勢神宮の大宮司になれるたぁすげぇなぁ。信者が増えすぎてやべぇから流罪😓腕は良
天海(154)「然らば内府様にとって、この度の会津征伐で、理想の展開とはどのような物でしょうか。」と天海は尋ねた。「うむ、大軍を持って、上杉を屈服させ、戦わずして、勝利することである。その際、金山のある佐渡と庄内は取り上げて、上杉は90万石程度で存続を許す。あれは律儀ものであるから、恩を売れば、忠義で応えるであろう。これが理想であるが、実際に交戦があれば、景勝は隠居させ、上杉には養子を入れて60万石程度で存続させるつもりだ。」と家康は言う。「なるほど、では考えら
期間:2024/04/23〜05/08天井:100倍率:2倍初回:半額戦)徳川家康:大老筆頭の帥射)毛利輝元:維新の先触れ武)宇喜多秀家:千軍万馬の構射)小早川隆景:仁愛智将戦)上杉景勝:不変の面貌覇)前田利家:笄斬りの剛直射)赤座吉家:技巧家©コーエーテクモゲームス
倉敷ふつかめの朝朝は6時半くらいに目覚めたけどあたしはベッドでだらだら前日撮ったスマホの写真を整理したりSNSのチェックとか結局9時過ぎまでゴロゴロしちゃいましたちなみにSちゃんはその間にコーヒーを淹れて朝食のパンを2個食べて大浴場へ♨前日遅くまで飲んだり食べたりした日はあたしは朝は食べれないのでホテルの朝食はつけずにSちゃんにはパンを買っておいてもらったよ10時半くらいにはホテルを出発しよう〜と決めていたのでやっと9時半にベッドを出たあたしSちゃんが淹れてくれた
どこでも住めるならココ住みたい北海道、札幌市、下田市、京都市、高松市、小豆島、八丈島です‼その理由ですが、北海道・でっかいどう。広い大地に無限の可能性を感じる。・広い土地で自然に親しみ、悠々自適に暮らしてみたい。札幌市・北の大地の中心都市。憧れだけではいけないが、住んでみたい。・大志を抱き、挑戦してみたい。下田市・開国の港町。幕末の歴史ロマンを楽しみたい。・雄大な太平洋を眺めながら、毎日、暮らしてみたい。京都市・千二百年の歴史
天海(146)「是ヨリ先、出羽仙北郡ノ戸澤政盛、密ニ陸奥會津ノ上杉景勝ノ動静ヲ徳川家康ニ報ズ。是日、家康之ニ答フ。」(「史料綜覧」慶長四年十一月)慶長4年(1599年)8月22日、上杉景勝は会津に帰国する。景勝は会津移封、間もない事もあり、領内の整備に努め、山道を切り開き、橋梁を修築し、支城の整備を行ったのである。これを戸沢政盛、堀直政、最上義光など周囲の諸大名は脅威と感じ相次いで家康に報告したのであった。これを受けて家康は戸沢政盛に「お陰で会津の様子が分かった
天海(144)「天正五年正月八日(前略)話次、中村次郎兵衛去五日夜相果ト云々。此故ハ此比備前中納言殿長男衆を背テ恣之故ト云々。主者牢人也。定而中納言殿以前不苦之間。形少エ可出ト云々。備前ニハ不白與了松下人一両人メ留守ヲスルト云々。上下七十人ホト之者共。一時ニ聴此事分散。絶言語。亥刻ニ頓退出。予亦就睡。」(「鹿苑日録」)こうして大坂城下で両者は一触即発となったのである。この事態に大谷吉継と榊原康政が調停に入った。しかし調停は長引き、康政は伏見在番の任期を超過してし
天海(143)「そこで忠興公は『5人の側室を持つ。』と言い出し、珠子様に辛く接するようになったという。珠子様は離婚をしようとしたのだが、基督教では離婚を堅く禁じていたそうだ。忠興公は、選りによってお倫様の侍女であったお藤という娘を側室にしたというのだ。」「あの、お藤か。」と天海は驚いた。お藤は本能寺の変の後、倫子のもとを離れ、細川家に仕えていたのだ。姉の侍女だった女に手を出すとは、当てつけなのであろう。「それだけではない。身寄りのなくなった次右衛門の娘・小也を珠
さて、八丈で一番でかそうな神社へ。風は左、右、後ろ🛐どっかにキリシタン灯籠ってぇのがあるらしいけどわかんなかった😓この印は?末社へ。お次。てけてけちょいちょいいるねぇ😊南原千畳敷。噴火した時の溶岩で出来たとこらしい。で、そこにある秀家と豪姫の像。流刑により引き離された二人が仲良く岡山城の方を向いて……。岩手、兵庫千葉、北海道、島根と全国から。これは地物。島寿司って店で食おうがスーパーで買ってこようが大差ねぇって話を聞いたから買ってきた。こんな色になるまで漬けてりゃ目鯛だ
高松から岡山市中心部へ戻ってきました。岡山城の住所が岡山県岡山市北区丸の内。備中高松城の住所が岡山県岡山市北区高松。実は二城とも岡山市北区なんですよ。前回はJR移動してまして岡山から高松まで5駅で、確かに20分ほどで到着した記憶。距離にして約15kmだそうです。こんなに近いんだけど令制国時代の岡山城は備前国、高松城は備中国。二城とこ国境に近い位置だったのが非常に興味深い。さて…ホテルへ戻りまして少し早いけど今日はもう部屋で駄目人間なろうかと思ったが…まだ日も落ち
今度は「明石掃部」について、同じ本から。宇喜多秀家と明石掃部Amazon(アマゾン)明石掃部については、「関ヶ原の合戦」で、宇喜多軍の指揮を取った人物、そして、「大坂の陣」で、真田信繁、後藤又兵衛らと共に、一軍の将として戦った人物として有名ですが、では、どういう人物なのかと言えば、詳しく知っている人は、少ないのかも。さて、そもそも「明石氏」は、播磨国明石郡明石郷を本貫地とする一族です。戦国時代に、その明石氏の一族の中に、備前国に移住する人たちが居て、「備前明石氏」となる
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦で、西軍は敗北。毛利輝元は、徳川家康と和睦し、西軍の主力だった石田三成、小西行長と、首謀者格と見られた安国寺恵瓊は、捕縛され、処刑されることになる。では、西軍主力の一人、宇喜多秀家は、どうなったのか。以下、この本を元に、経緯を見て行きます。宇喜多秀家と明石掃部Amazon(アマゾン)関ヶ原での敗戦が決定的になった時、宇喜多秀家は、自害を決意しますが、明石掃部が説得し、逃がしたという話もありますが、それは、事実なのかどうか。さ
二日目、起きたらダルい…太鼓のせいで胸糞悪くて飲み過ぎた。プラス、ボロ屋で階段や床がギシギシきしむ音で夜中に目が覚めてまた飲んでたしな。朝飯で女将が夕べはうるさくて迷惑かけたからレンタカー代はいらねぇって言ってきた。2日のうち1日分だけは払うって言ったけど、全くタダでいいって言われた。銚子、仙台、八丈と三遍立て続けに難ありの宿に当たるたぁ……これも引き寄せってぇのか??勿論、階段の昇り降りの音がうるせぇから部屋も変えさせた。西隊長、よろしくお願いしやすm(__)m風は後ろ、右、後ろ🛐お
天海(128)遠山邸には続々と兵糧、武器類が運び込まれていて、蔵の中はまるで武器庫のようである。利景には与力も付けられ、屋敷は500名程の兵で厳重に警固されていた。隣接する加藤嘉明邸は、既に嘉明が大坂に移ったこともあり、暗く静まり返っている。「徳川屋敷には既に兵が5千人程度集まっていて、さらに続々と増えているようだ。与右衛門様から聞いたのだが、京極宰相が参加しているそうだ。」と嬉しそうに利景が言う。「うむ、いち早く南近江を抑えたのは吉兆だ。こうなれば佐和山も迂闊
こんにちは今朝、ラジオを聴いてくださった皆様いつもありがとうござます早いもので、2023年度ラストの放送。新年度はパーソナリティの曜日変更があるそうで坂さんとの掛け合いも本日が最後。実に寂しいものですね4月からは、小西さんがお相手になるとの事。リスナーの皆様、引き続きよろしくお願いいたしますさて、本日は岡山市内にて打ち合わせ。岡山全域の魅力を発掘しつつ、いかに県外から、世界から、岡山県にお越し頂くことが出来るのか?単なる旅行ツアーではなく、付加
例の脚に真剣ブッ刺し事件だがとある記事を見て…初めに加害者の教員を擁護するつもりは全く無いと言っておく。この事件に対してコメンテーターらしき男が「居合道家は何故か知らないけど真剣を使いたがる」と発言。なんでわざわざ危険な日本刀を使うの?なんで居合刀を使わないの?という事。剣術家にとっての日本刀は職人の道具と同義。職人は自分の使う道具に強いこだわりを持つ。同様に剣術家は自分が扱う日本刀に強いこだわり持つ。もっと分かり易く言えば野球選手が自分好みのバットをオーダーする。これと同じこ
大阪からの帰路で、岡山に立ち寄りました。津山城。入園料310円です。無料駐車場あります。あと10日もすれば桜の名所でもある津山城を見ることができたのですが・・・城郭も、石高から考えると相当な大きさで、天守閣もかなり大きかったのが想像できます。森忠政(槍の名手、森可成の子供で、叔父は信長とともに殉死した森蘭丸)が建設に着手。忠政は、江戸城や駿府城の普請でと当時の城作りのノウハウを吸収したと言われ、この名城が1616年に完成したと言われています。建造物も本丸に31・二の丸12・三の丸17もあっ
岡山県庁通り停留所🔴総合版(💯点満点)2024年3月現在①交通利便性8点②治安8点県警本部⭕️③買い物環境4点④飲食店9点⑤子育て環境7点⑥公共施設10点⑦観光スポット10点⑧家賃価格など6点⑨商店街・SC7点⑩防災5点消防署⭕️合計74点🔴一人暮らし男性版合計72点※一人暮らし男性版は交通利便性と飲食店重視🔴一人暮らし女性版合計71点※一人暮らし女性版は交通利便性と治安重視🔴
あーーーーー……またかよ……またヤツらかよ……先日のニュース。脚に真剣ブッ刺し事件。人と相対し、間合いに入った状態で真剣を使うなど絶対に有り得ない。そんな基本中の基本すらも守れない愚か者に真剣を振る資格なし!!技術や知識は金で買えねーんだぞっての!その腐り切った制度を根本から改めるべし!我ら不伝流では人と相対して指導する場合は必ず木刀に持ち替えている。居合刀ですら切先は鋭利で危険なのだから。何の落ち度も無い我々にも飛び火し、また肩身が狭くなるから頼むからこれ以上
今日は新橋駅前の「とっとり・おかやま新橋館」で開催されている【第四回刀剣と岡山を知る展】に行ってきました!私の兄が大阪から岡山に移り住んでもう30年近く。岡山の地が気に入って、今は「岡山をもっと知ってもらいたい!」「岡山を盛り上げていきたい!」とPR活動を頑張っていて、今回のイベントにも参加しています。私も応援の気持ちで顔を出してきました。木元ゆうこちゃんも親戚が岡山にいて縁があることから、『私も行く〜!』と一緒に来てくれることに!2階のイベント会場では、備前長船の刀剣の展示が
天海(104)「初夏の頃より御不例在まし段々重らせられ次第に衰へ給ひければ政所淀殿を始めとして譜代外様の大名小名昼夜の分かちなく御殿に詰め御機嫌を伺ふに七月初めより彌々重らせられ次第に衰え給ひければ、医術を終くし諸寺諸山の御祈祷に誠を凝し祈念しけれ共少しの験しもなく上下万民心を苦しめ天に仰ぎ歎きける。」(「真書太閤記」)7月15日、死期を悟った秀吉は、利家邸に諸大名を集め、家康らに秀吉の遺物を与えた。そして家康と利家・輝元との間に起請文が交わされ、諸大名には秀頼に忠節を
天海(90)明軍は何とか慶州まで遁れたが、日本軍のさらなる追撃を恐れて漢城まで逃走した。飢えと恐怖で敗走した明軍は途中で暴徒と化し、行く先々で暴虐を尽くした。後に揚鎬は万暦帝に対して「蔚山城の加藤清正に壊滅的な打撃を与えたが、兵馬が疲労し、日本軍の援軍も水陸から上陸してきたので撤退した。」との戦勝報告を行った。この報告を受けて万暦帝は「国威、大いに彰わした。」と賞賛したのである。ところが、軍内部から「戦死者が二万に及ぶ。」との報告が上がって来た。明軍の統括・邢玠の部下で
西日本で行ってみたい場所は?瀬戸内市先日、「瀬戸内市ファンミーティング2024」に参加させていただきました。岡山県の瀬戸内市、このイベントで知ったのですが、瀬戸内の言う地名から、自分は勝手に広島、または岡山だとしても広島県寄りの岡山かと思っていたら、岡山市の右隣、兵庫県寄りの街でした。日本刀の聖地であり、宇喜多直家・秀家公、牛窓の風景などなど有名で、牡蠣やしらす、里海米、キャベツ、備前黒皮かぼちゃなど、おいしいものいっぱいの街であることがわかりました。本格焼酎か
八丈島初上陸、2日目の続きです。宇喜多秀家の住居跡を訪れると、岡山城の石がありました。島民は昔から、島流しで送られてきた人を暖かく迎えていたそうです。夜は地元で人気の「ステーキチャーリー」へ。溢れんばかりのサラダに、ハラミステーキをいただきました😋ワインも一本空けてしまいました🍷次に、ステーキチャーリーで教えて頂いたバーが開いてなかったので、その近くの「スナック蘭」に飛び込み😃島焼酎「一本釣り」ボトル入れました😆楽しく過ごさせていただきました😄翌朝は八丈植物公園へ。この漫画
天海(82)左軍の秀家が南原城を落としたころ、右軍の毛利秀元も黄石山城を攻略した。両城陥落後、左軍、右軍は全州に集結して、今後の方針について協議したのである。その結果、清正や長政らの軍勢は、忠清道侵攻後、慶尚道に戻ること、秀家や義弘の軍勢は、忠清道侵攻後、全羅道の経略にあたること、船手衆は全羅道沿岸を制圧すること、などが決められた。その取り決めに従って高虎ら船手衆は、全羅道の南岸を海路西へ進むことになった。一方、朝鮮水軍は水軍統制使に復帰した李舜臣が、碧波津で反攻の
天海(81)「倭兵は南原府を陥れた。天将楊元走り還った、全羅兵使李福男、南原府使任鉉以下諸将皆戦死した。楊總兵は南京に到り、城を増築し、城外の軍馬墻には多くの炮穴を穿ち、城門には大炮三門を据え、深く塹壕を掘り、防備を厳にしたが、閑山既に敗れて賊水陸より殺到するの報道が頻々として来てるので城中の人民は逃散って、獨り總兵の率ゆる馬軍三千だけが城内にいた。」(「懲毖録」)この頃、日本軍陸上部隊は慶尚道から全羅道制圧を目指し、両道の要衝にある南原城、黄石山城を攻略しようとし
こんにちは殿友達【宇喜多秀家殿】が出来た岡山県の永山泉水です岡山市が本拠地のはずの宇喜多秀家が突然別のエリアに現れたら皆さん、どんな反応をするのだろう?そんな実証実験を昨年、湯郷温泉でやってみました意外や意外?観光客の皆様は大喜びで握手をされ、地元の皆様は店舗から出てきて撮影を要するに、宇喜多秀家はどこに居ても【映える】という事しかもですね、こちらの殿、中身もしっかり宇喜多秀家なんです話し方も、動きも、しっかり宇喜多秀家そんな殿と歩
【問題】宇喜多秀家は、八丈島へ流された後、次のうち何と号したか?【選択肢】青岩賀郷豆七久福【正解】久福【解説】慶長11年(1606)、宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍に付いたことにより八丈島に流された。島に到着した秀家は名字を「浮田」、号を「久福」と改めた。