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ネットでは創価学会と池田先生への根拠なき誹謗中傷が多い。きちんと調べずに、根拠のないネットや雑誌などの言葉を信じてる人が多い。一般社会では、その団体や人について嘘の情報を信じて、自らもその団体や人を批判中傷することは犯罪行為です。私は学会員ですが、座談会に参加してさまざまな学会員の人の話を聞き、池田先生の指導も同時中継で聞いてきました。私が池田先生を信用し、人生の師匠と思うのは、池田先生は言動一致しているからです。言葉で世界平和、核兵器廃絶、環境保護といいながら
(『人間革命』第5巻より再編集)57〈随喜〉26この短い信心の雄弁は、場内の千七百余人の胸から胸へと通っていった。「幸いにして、当門には不世出の大学匠・堀日亨上人あり、八十五歳のご高齢をも顧みず、これに呼応し、御書の監修に筆をもって立たれたのであります。私たちも、編集、印刷、用紙の手配、校正、装丁等、刊行にいたるまで、想像外の難事業たることを覚悟して、全勢力をあげて断行するものであります。このよ
(『人間革命』第5巻より再編集)55〈随喜〉24このように戸田は、学会の全組織の各部門を一つ一つ固めていった。そして、新しい希望と、明確な進路を与えつつ、七月二十二日、臨時総会を迎えたのである。会場は、市ヶ谷駅近くの東京家政学院の講堂であった。牧口時代から、総会といえば、決まって神田の教育会館であった。それが、五月三日以来の、わずか二カ月の躍進で、もはや教育会館では収容できないことが察知されたからである。
こんにちは。元創価4世のキネシンです。私は、曽祖母の代から創価学会員である家庭に生まれ、創価高校を卒業しました。大学生になってから信仰に疑問を持つようになり、その後、一人で創価学会を脱会しました。現在は大学院で生物学の研究をしていますが、ここまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。創価高校時代の同期とは、今ではほとんど連絡を取っていません。少し話すだけでも、当時にまつわるさまざまな感情が押し寄せ、自分自身が苦しくなってしまうからです。それでも、覚えている名前をたまにインターネットで検
第二次宗門問題――関係性が逆転した時そして1990年代。創価学会と日蓮正宗の対立は再び表面化する。しかし今度は第一次宗門問題とは違った。決定的な対立であった。宗門側は創価学会を批判し、創価学会側も宗門批判を強める。この時の創価学会は徹底抗戦を選択した。当時のニュースでは、寺院で行われる法話に対して学会員が異議を唱える場面も報じられていた。そして最終的に創価学会は破門される。ここで起きた最大の変化は、人々の認識の変化であった。それまで「御僧侶」と呼ばれていた人々が、
なぜ僧侶は「尊敬の対象」から「敵」になったのか?第一次宗門問題と第二次宗門問題の間に起きた意識の変化を考える池田氏の総講頭罷免へとつながる前段階として、第一次宗門問題というものがあった。しかし、この時私はまだ信心をしていなかった。したがって、当時の創価学会内部の空気や宗門との関係について、直接体験したわけではない。私が宗門問題について考えるようになったのは、その後、信心を始めてからである。創価学会の歴史を学び、宗門問題について様々な話を聞く中で、一つの疑問を持つようになった。
(『新・人間革命』第11巻より編集)216〈躍進〉23そのなかで、住宅難、交通渋滞、通勤ラッシュ、下水道の不備、公害の増大など、東京は深刻な問題を抱え、もはや対症療法的な対策では打開は困難な、危機的な状況を呈していた。それだけに、未来を見すえ、全く新しい発想で、国際的な視野から大東京のビジョンを描き、実現できる人が都知事として嘱望されていたのである。矢部は、まさに、そのための最適な人物であったといってよい。
(『新・人間革命』第11巻より編集)213〈躍進〉20隠岐は、当時、旧習も深く、創価学会と聞いただけで、多くの人が、露骨に拒否反応を示した。メンバーは、折伏に出かけて、塩をまかれたり、水をかけられたりすることも珍しくなかった。しかし、皆、意気揚々としていた。「こいでまた一つ、宿業を消すことができたわい」「こげなすごい仏法の話が聞けんとは、本当にいたわしいがのう」島の同志は、朗らかに語り合い、声高らかに
(『新・人間革命』第11巻より編集)212〈躍進〉19午後二時半から、九回にわたる記念撮影が始まった。・・・最後に、支部幹部以上のメンバーとカメラに納まった。撮影台の前に立つと、彼は皆に尋ねた。「ご苦労様!ここまで来るのに、五時間以上かかった人はいますか」何人かが手をあげた。彼は撮影台の上の方で手をあげていた、婦人に声をかけた。「どこから来られたの」「隠岐島です!」隠岐
本澤二郎の「日本の風景」(5955)<戦争遺児を切り捨てた公明党創価学会二重の大罪>やたら白い歯を見せつける、仕事をしない引きこもりタバコ好きのタコイチ政権にいらつく国民!新聞テレビは、そそくさと「人事」に舵を切ってのんびりしたものである。例によって連立を離脱した公明党創価学会の影は薄い。支持者は依然として自民の神道にぶら下がり、永田町での存在感はない。野党なのか与党なのか?外野席からは見えない。しかし、房総半島からは戦争遺児殺害事件(木更津レイプ殺人)に対する信濃町の非情な仕打ちに、か
あそこでリーチかけときゃ…どうも、ボクです。何回か前のボクのブログにとても酷いコメントがついていて、その話を友だちとしていたんですが、友だちが「お前の返信見れへんでー」!?友だちのスマホを見るとボクの返信コメントのところに「規約」「ポリシー」などといかにもなことが書いてある。運営はどこに目をつけとるんじゃアホんだら。腹は立ちましたがこれ以上相手してもアンチが喜ぶだけなので辞めます。職場の愚痴を。ここで何回も書いてる小人のオバハンですが昨日またなんかをブツブツ言うてる。「高校生
私:(公明党某議員の失敗パフォーマンスから推察できること)「公明党」と称している創価学会政治部門の或る国会議員が、週刊誌ネタで首相を攻撃して、その元ネタが捏造fakenewsとバレて、シドロモドロの自己正当化の屁理屈で恥の上塗りをしているが、これ、「みっともない奴だね」で済ますのではなく、もうちょっと注目したい。聖教新聞がTVCMをうっている。おかしな話だ。聖教新聞といのは、創価学会員しか買わない読まないし、創価学会員なら宣伝されなくても買う、(地域リーダーだっ
(『新・人間革命』第11巻より編集)204〈躍進〉11衆院選挙の結果が判明した三十日の夜、学会本部にいた伸一のもとに、公明党の首脳幹部が、数人であいさつに来た。伸一は、笑顔で労いの言葉をかけた。「おめでとう!本当によく頑張ったね。何人か落選してしまった人もいるが、次の飛躍台にしていけばいいんだ。始めから、すべて順調にいくなんていうことはありえない。衆院選挙の第一回戦としては、大勝利ですよ」公明党の委員
(『新・人間革命』第11巻より編集)201〈躍進〉8山本伸一は、衆院選挙を迎えるにあたって、支援活動に励む会員が、公明党の進むべき方向性について、より深く理解し、さらに自信をもてるようにしようと心を砕いた。そして、昭和四十二年一月六日に、東京・千代田区の日本武道館で行われた新春の幹部会の席上、公明党の創立者として、党のビジョンを明らかにしたのである。「私には、公明党の創立者として、党の未来像を示し、かつ見守
(『新・人間革命』第11巻より編集)199〈躍進〉6そして、次の瞬間、師子吼を思わせる、烈々たる伸一の声が響いた。「また、その時は、私がデモの先頭を切ります!いつまでも、いいように民衆を足蹴にさせては絶対にならない」自らがデモの先頭に立つという山本伸一の叫びは、集ったすべての青年たちの胸に、黄金の矢となって突き刺さり、闘志を炸裂させたのである。社会のあらゆる階層、年代、職業の、八百万人を超える人び
(『新・人間革命』第11巻より編集)197〈躍進〉4学会本部への脅しや嫌がらせの電話、手紙も、後を絶たなかった。その一方、公明党の結成前後から、衆議院の選挙制度を変えて、単純小選挙区制を採用しようとする自民党政府の動きが、本格化し始めていったのである。・・・単純小選挙区制は、当選者が一人であるため、多くの選挙区で一位になる可能性が高い、第一党、大政党にとっては有利このうえない制度である。しかし、二位
これから挙げる製品や企業の皆様には謝らなければなりません。僕が若い頃、何気なく「これ美味しい」とか「気に入ってる」とか「愛用してる」とか、「デザインと性能が最高!!」とか褒めちぎってるとそれを聞いていた身近な学会員達が情報搾取し、組織的にデマを流したり創価学会の総力を挙げてメーカーにクレームを入れていた可能性があります。*敬称略:「エンジベルト・エンジ足首バンド・ミスターイトウ・でん六・菊水製麺・物体X・dkg・KLEIN・MINOLTA・コクサイ・マイハンド・・タグホイ
前回は、模刻問題をめぐる「戸田先生の指導違反」論を検証しました。今回は、現在の論点です。「学会がいま授与している日寛上人の御本尊は、開眼もされていないコピーで、しかも手を加えた偽物だ」──この主張を分解します。主張は実は3つの部分でできています。一つずつ見ましょう。①「コピーだから偽物」──前の連載で決着済み複製であること自体は、偽物の根拠になりません。宗門自身が信徒に授与してきた御本尊の大半が、御形木御本尊という複製だからです。詳しくは前連載の第2回で検証した通りです。②「開眼さ
(『人間革命』第5巻より再編集)20〈烈日〉20戸田の秘めた未来図と、学会の現状との空漠たる距離は、実は、戸田の考えと、支部長たちの考えとの隔たりにあった。彼は、それを悟ると、この差を急速に埋めることに着手した。つまり、精鋭主義で行くことを決意したのである。そして、組織の整備を急ぐことに、心を砕いていった。それから十日とたたない四月六日、戸田は、講義が終了した直後、引き続いて臨時支部長会を開いた。席上、
(『新・人間革命』第11巻より編集)187〈常勝〉58「ぼくも同じ考えだ。国家の指導者同士の和平交渉も大事だが、根本的な平和の道は、一人ひとりの人間の生命を変革する以外にない。つまり、人間の心のなかに、崩れざる“平和の砦”を築く、”人間革命“しかないんだ」「だから、結局、遠い道のりのように思えても、広宣流布の推進こそが、最も確かで、本質的な平和への道ということになる。すべての人間が仏の生命をもち、
中道改革から、また、離党者が出ました。落語家の柳家さん、男性です。この方、学会員さんの家系でもあるし、リベラル系の血筋も引くので、期待していたのですが離党した理由が、「選挙で得た民意と、私の思うところが違うから」だそうです。哀しいです…
最初の学会員が誕生しておよそ半世紀――イタリア・カンパニア州の今〈ワールドトゥデイ〉【企画・連載】www.seikyoonline.com安原稔安原稔-「いいね!」2,908件·141人が話題にしています-27年5月より、玉野市議会議員を退職し、宇野地区連合自治会会長として地域のボランティアに取り組んでいます。www.facebook.com
この記録についても、事実と推測を分けて整理します。事実日記から読み取れる事実は、この日は祖母の49日法要だった。叔母さんが創価学会の男性を呼んだ。あなたの見た印象では、その男性は仏教でいう僧侶のような役割だった。その男性は袈裟などではなく、スーツ姿で来ていた。この点についてここは宗教の違いが関係しています。創価学会では、一般的な仏教寺院の僧侶が法要を行う形式とは異なることがあります。そのため、僧衣ではなくスーツ姿学会員同士で読経を行う地域の役職者などが進行するというケ
前回は、模刻問題の事実を時系列で確認し、1978年に時の法主・日達上人御自身の開眼供養で決着していたことを見ました。すると相手はこう言います。「戸田先生は『どんなことがあっても御本尊だけは勝手に作ってはいけない』と指導した。池田先生はそれを破った。師弟不二の破壊だ」今回は、この論法を検証します。まず確認すべきこと──その指導の出典最初にすべきことは、シンプルです。「その指導は、いつ、どこで語られたものですか。正確な文言と出典を教えてください」と確認することです。この種の「戸田先生語
前回の記事では、1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」において、28歳の青年室長・池田大作氏が選挙指揮の陣頭に立ち、「東京モンが偉そうに」という関西特有の分厚い壁を乗り越え、支援候補を見事にトップ当選へ導いた歴史を書いた。しかし、この「地べたを這う庶民の躍進」は、当時の既成政治や社会に大きな衝撃を与えた。急速に拡大する創価学会という新興勢力を、多くの人々が警戒の目で見始めていたのも事実だった。そして翌1957年(昭和32年)7月、29歳になった池田氏を待ち受けていたのが「大阪事件」で
家族や知人から「学会は御本尊を勝手に作った。模刻事件を知らないのか」と言われて、答えに詰まった経験はありませんか。この続編連載(全5回)は、前の連載(全5回)と同じく、論破ではなく、同じ悩みを持つ方が落ち着いて事実を確認できるように書いています。今回はまず、「模刻問題」とは何だったのかを、時系列で整理します。大事なのは、学会側の主張だけでなく、宗門側の資料も認めている「動かない事実」から押さえることです。時系列で見る模刻問題1951年(昭和26年)戸田第二代会長が、第64世・日昇上人