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子ども達は哲学者であり、芸術家であり、科学者です。子どもの意識や、本能や、能力や、感性の中には、人間の、人間としての意識や、本能や、能力や、感性の萌芽の全てがすでに備わっているのです。確かに、子どもより大人の方が知識をいっぱい持っています。客観的に考える能力も高いです。絵を描いたり何かを作るときに必要な技術に関しても詳しいです。でも、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分らしく表現し、自分の意思で判断し行動する能力においては幼い子どもの方が上です。だから大人たちは子どもに手を焼くのです。実際
今、「本質」を見ようとせず「見かけ」だけ整えて「きれいごと」で済まそうとする人たちがすごく増えてきました。当然、「本当はどうなのか」という議論もしません。「正解」を決めて思考停止しています。そして、社会で共有されている「正解」や「きれいごと」に異論を唱えた時点で「非常識な人」「ひどい人」「優しくない人」「陰謀論者」などという評価を受けてしまいます。昔の人は「見かけよりも中身が大事」と言いましたが、次第に「見かけも大事だよね」という人たちが増えて、今では「中身よりも見かけの方が大事」と考える人
一般的な動物たちは自分を「自分」として認識できないようです。それは「鏡」を見せるなどして確認することが出来ます。「鏡に映った自分」を「自分」と認識できるのは限られた動物だけです。人間でも、赤ちゃんの時は<AIによる概要>赤ちゃんが鏡に映った自分を自分だと認識するのは、一般的に生後6ヶ月から1歳半頃と言われています。この時期までは、鏡に映った自分を他者と認識したり、単なる面白いものと認識したりすることがあります。という状態です。この時期を過ぎると、「鏡に映った自分」を「自分」と認
私は、出生率が減っているのも、子育てが辛いと感じる人が増えているのも、現代社会が「子育て」を、「母親の義務」「母親のお仕事」に変えてしまったからだと考えています。実際、お母さんたちに話を聞いても、「子どもと一緒にいるのが楽しい」「子育てが楽しい」と言う人は少ないです。そして、ほとんどの人が「子育ての楽しさ」ではなく「子育ての辛さ」を語ります。そういう状態では出生率が減ってくるのは当然の結果です。いくらお金をばら撒いても無駄です。また、そういう気持ちのお母さんに育てられている子も「生まれてきて
日本の子ども達は、毎日、学校でも、家庭でも「勉強するのは子どもの義務だ」と考える大人たちによって「勉強」を押し付けられています。多くの人が、同じ価値観で、「仕事をするのは大人の義務だ」、「家事をするのは主婦の義務だ」、「子どもをちゃんとしつけるのは母親の義務だ」と考えています。そして、その状態で思考を停止して「なぜ?」を考えないようにしています。「なぜ?」を考えないように無言の圧力をかけています。日本の教育では「なぜ?を考える教育」をしていません。というか、むしろ「なぜ?」を考えないように教育
私は30年以上、子どもと関わる仕事をしていますが、その間に社会も、大人も、子ども達も大きく変わりました。うちの教室は常に自由テーマです。「自分でやりたいことを見つけ、自分で工夫して創る」というのがうちの教室のやり方です。そのための刺激剤として、色々な見本や色々な本が置いてあります。「お勧め」を提示することもあります。子どが自分一人ではできないことは手伝います。ヒントが必要な時はヒントを与えます。お手本を見せた方がいい時はお手本を見せます。でも基本は、子ども自身が「自分がやりたいこと」を見つけ
常に、「大人の指示命令」に従うように求められて育った子は、自分の頭で考えなくなります。自分の感覚で感じることも、自分の意思で判断し行動することも出来なくなります。そんなことをしても、大人に叱られるだけだからです。なぜなら、子どもの思考方法と、感覚の働きと、心やからだの欲求の状態は、大人とは大きく異なっているため、子どもが、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動しても、それはほとんどの場合、「大人が求めているもの」とは異なっているからです。幼い子どもは「一万円札」と「ビー玉」
先日、ネットに出ていた記事ですが、ある小学校で地震を想定した防災訓練を行ったそうです。いつもは授業中に、授業の一環として行っていたのですが、その日は「現実」を想定して予告せずに行ったそうです。その記事はこちらです「抜き打ち避難訓練」で「校庭にいた児童」の想定外の行動とは?【専門家が緊急提言】間違った学校の避難訓練の功罪抜き打ちですから、授業をやっているクラスもあれば校庭で活動している子ども達もいるわけです。実際の地震も、人間界の事情とは無関係に「不意」に来ますからね。その「不意」に対処でき
自然とのつながりを失い、自分の心やからだ、そして生活の大部分を「社会とのつながり」だけに依存するようになった現代人は、社会の変化を敏感に感じ取って、それに合わせようとしています。ファッションや音楽はもちろんのこと、生活様式や、生き方や、子育ての仕方や、そして生き方まで社会の流行に合わせようとしています。子どもの英語教育が流行れば、競争に乗り遅れまいと子どもを英語教室に通わせる人も多いです。子どももまた、テレビで野球が流行れば野球をやりたがり、サッカーが流行ればサッカーをやりたがります。ゲ
現代人は、勝ち負けを競う「競争」が大好きです。スポーツでもゲームでも勝ち負けを競っています。「歌」や「旅」といった、本来は競争とは無関係のものまで勝ち負けを競わせいるテレビ番組も多いです。勉強もまた、「人生において勝ち組になるための道具」として子ども達に押し付けられています。テストもまた勝ち負けを競わせるための道具として使われています。そしてその勝ち負けの結果が「成績」という形で示されます。成績表は「子どもの成長」ではなく「勝ち負けの結果」を親に伝えるためのものです。だから「相対評価」になっ
詳しく調査したわけでも、そのような研究結果を見たわけでもないのですが、私の個人的な印象として「自然の中での遊びを楽しめない子は、学ぶことも楽しめない」ような気がするのです。大人でも同じです。それは私の友人たちを見ていても強く感じます。ただし、「学ぶことが好き」=「学校の成績が良い」とか「一流大学を出ている」ということではありませんからね。知的な好奇心が旺盛だということです。そして私は「学校の成績が良い」ことよりも、「知的な好奇心が高い」方が、子どもの成長や人生にとっては、はるかに重要なことな
みんな、「学校は勉強を教えてくれるところ」だと思っています。実際、先生も勉強を教えようとしています。先生だけでなく、子どもの成績が悪いと勉強を教えようとするお母さんも多いです。でも実は「勉強」は教えることが出来ないのです。出来るのは「学ぶ手助けをすること」だけです。子どもの成長も同じです。子育てで大人が出来ることは、子どもの成長をサポートすることだけです。それ以上のことは出来ないし、やろうとしてしまうと逆効果になってしまうのです。知識は教えることが出来ます。でも、「知識を覚えること」=「勉強
暖かくなってきたこの時期楽しいのが「お散歩遊び」です。家の中にあるものは全て人工的なものばかりです。そこには不思議も驚きもありません。当然、家の中で遊んでも、遊びが閉鎖的になり、同じ遊びの繰り返しばかりになります。そのような遊びを繰り返しているだけでは心もからだも育ちません。でも、一歩外に出るだけで、そこには不思議と驚きの世界が広がっています。不思議なものや、知らない世界との出会いがあります。ただ問題は、外に出ても、自分の周囲にある「不思議」と「驚き」に全く気付かない人が多いと
「慣習農法」と呼ばれる一般的な、「耕し、肥料や農薬を撒く農業」においては、農家の人が生産計画を立てて、計画的に生産します。そしてこの方法なら質が高く、均一な作物を、大量に収穫することが出来ます。夏に冬の作物を作ったり、冬に夏の作物を作ることも可能です。(天候や害獣の影響は受けますけど)この場合の主人公は農家(人間)です。それに対して自然農法においては、「人間」ではなく「作物」や「自然」の方が主人公になります。人間は自然の力を借りて、作物の育ち、命の働きを補助するだけです。この場合、「人間の都
私たちが知っている農業とは全く違う形で作物を育てる「自然農法」という方法があります。私が自然農法について知ったのは、数十年前に福岡正信さんの「わら一本の革命」という本を読んだのがきっかけです。それは、耕さず、肥料を与えず、管理せず、自然の力に任せて作物を育てようとする農法です。そして私の周囲には「自然農法」で畑をやっている人が何人かいます。私たちが知っている普通の「耕し、農薬や人工肥料を与え、積極的に管理しながら育てる農法」のことは「慣習農法」というそうです。勝手な思い込みで、「自然農法」の
人間が人間のために作った人工的な環境の中で暮らしていると、何が本当のことで、何が人間の脳が作りだした幻想に過ぎないのかということが分からなくなります。人間が作った人間のためだけの環境そのものが自然の摂理に反し、普遍性を持たない「幻想の産物」だからです。だから、その社会の中では人間の都合に合わせて「社会や生活を支える価値基準」がコロコロと変わるのです。そして、目先の事ばかりに振り回されるようになり、「本当のこと」が分からなくなってしまうのです。人類誕生以来、当たり前に行われてきた「子育て」が困
昔の人たちは、子育てにおいて、「人に後ろ指を指されないような生き方をしなさい」ということを子どもに対してよく言っていたような気がします。ちなみに「後ろ指」は、後ろから指されているので自分では見ることが出来ません。ですから、それは自分の中に「自分を見る目を持ちなさい」という事でもあったのではないかと思います。そしてそれは、姿勢や、言葉遣いや、仕草や、立ち居振る舞いや、様々なマナーや、物の扱い方や、物や事に対する価値観に関するようなこともよく言っていたのではないかと思います。そこには一つの「美
4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。あと、茅ヶ崎で、毎週火曜日の10:30から「ポランの広場」という「親子で遊ぶ会」をやっています。4月からの生徒を募集しています。2才頃から大丈夫です。**************「芸術」と「自然」は密接につながっています。それは「テーマとして自然を選ぶ人が多い」とい
「芸術」には「正解」がありません。ただし、「正解がないんだからなんだっていい」ということではありません。「目に見える形における正解」はありませんが、「精神的な方向性における正解」はあるからです。だから、子どもの自由な作品を褒める芸術家は多いですが、子どもの作品は美術館には飾られないのです。まただから、全く異なった技法、表現で描かれたにも関わらず、西洋の芸術に東洋の人が感銘を受けたり、東洋の芸術に西洋の人が感銘を受けるということが起きるのです。時代や場所が異なっていても、人間の「精神」と呼ばれ
私が言う「芸術」とは、社会的なジャンルとしての「芸術」のことではありません。学校教育の中に「もっと積極的に絵画や、踊りや、音楽の授業を取り入れて下さい」ということでもありません。この説明は難しいのですが、それはシュタイナー教育が「芸術教育」ではなく「教育芸術」という言葉を使っていることともつながっています。つまり「芸術の教育をする」のではなく、「教育そのものを芸術に変える」ということです。それは、物事を「教育は教育」「芸術は芸術」というように縦割り的に考えていたら出来ないことです。これを行う
「子育て」や「教育」が語られるとき、「学び」や「遊び」の大切さを語る人は多いです。でも、「芸術」の大切さを語る人は少ないです。「シュタイナー教育」と「モンテッソーリ教育」の一番大きな違いもそこにあります。その「芸術」の代わりに語られるようになったのが「科学」です。「芸術」を伝える代わりに「科学」を伝えるようになったのです。「芸術」の世界とのつながりが強かった「神様」も「科学」に置き換わりました。一般的には「芸術」と「科学」は全く異なるもののように思われていますが、実は非常に近い関係にあるの
私は、現代の教育や生活には「学び」はあっても、「芸術」と「遊び」が不足しているような気がします。だから学んだことが、頭の中だけに留まり、身につかないのです。「芸術」と「遊び」が不足した結果、「学んだことを検証する場と機会」を失い、みんな「与えられた正解」をそのまま信じ、それにこだわるようになりました。そして、「自分の意見」を言わなくなりました。人の意見に耳を傾けなくなりました。「自分らしさを大切に」などと言う人は多いですが、生活の中から「芸術」と「遊び」が消えてしまったら、何が「自分らしさ」な
最初に告知をさせて頂きます。いずれも会場は茅ヶ崎駅周辺です。○「遊びの勉強会」第一弾「ガラクタ楽器を作ろう」4月19日(土)10:00~12:00参加費2000円/家族(子ども同伴OK、材料費含む)○「気質の一日講座」4月26日(土)10:00~16:00参加費5000円会場(大人のみ)講座とワークの両方をやります。興味はあるけど遠方なので・・・という方、この機会に是非体験してみて下さい。いずれも連絡先は「こちら」です。件名に「遊びの勉強会」とか「気質の一日講座
子どもは「余白」を見つけるのが得意です。その「余白」とは「大人の目や管理が届かない時間と空間」のことです。昔は、家の周辺や子どもの周辺にそのような「余白」(大人の目や管理が届かない時間と空間)がいっぱいありました。そして子ども達は、そのような場で、子どもだけで遊び、冒険したりしました。ケンカもしたし、危ないこともしました。今の大人が目にしたら絶対にすぐに止めるであろう「あんなこと」や「こんなこと」もしました。そして子ども達はそのような余白で、大人が提供できないような「色々なもの」、「色
自然界に生きている全ての生き物は、「生まれ、成長し、生きて行くための余白」を必要としてます。その「余白」を通して、自身の生存や成長に必要な他者と出会い、つながり、支え合っているからです。「他者から切り離された個」だけを守っても意味がないのです。「余白」があるから、他者と出会うことが出来るのです。一人一人が個室(檻)に入ったままで、「共有の空間」(余白)に出てこなかったら、誰とも出会えないですよね。それはまた、個室から出たばかりの子どもにとっては「未知の世界」でもあります。これは「地」と「図
最初に告知をさせて頂きます。○「遊びの勉強会」第一弾「ガラクタ楽器を作ろう」4月19日(土)10:00~12:00参加費2000円/家族(子ども同伴OK、材料費含む)○「気質の一日講座」4月26日(土)10:00~16:00参加費5000円会場(大人のみ)講座とワークの両方をやります。興味はあるけど遠方なので・・・という方、この機会に是非体験してみて下さい。いずれも連絡先は「こちら」です。件名に「遊びの勉強会」とか「気質の一日講座」と書いてお問い合わせ、お申し込
東洋の絵画などでは「余白」ということを大切にしています。それに対して西洋の絵画には基本、余白がありません。隅から隅まで描き込まれています。私はそれを、東洋では「時間と空間が創り出す世界」を見ていて、西洋では「物質が創り出している世界」を見ているからなのではないかと思っています。だから東洋の絵画に描かれたものには影も重さもなく「存在感」が希薄で、西洋の絵画に描かれたものには影も重さもあって「存在感」がたっぷりとあるのでしょう。まただから西洋では「物質が創り出している世界」を研究することで、科
子どもが何かをしようとしている時に、お母さんがその意図を察してパッと手伝ってあげる姿をよく見かけます。大きい子が木登りをしていると小さい子も真似をして登ろうとします。でも、登れません。時には「登りたい」と泣くかもしれません。すると、優しいお母さんは、そんな子どもの気持ちを察して抱きかかえて枝の上に載せてあげたりします。子どもが転んだ時も、自分で立ち上がるまで待たずに、パッっと抱いて立たせてあげるお母さんは多いです。子どもが「出来ない」と言えば手伝い、「分からない」と言えば丁寧に説明してあげ
昨日は横浜でやっている「ホライゾンオブクフ」世界15都市で150万人を超える人々を魅了したVR作品が日本初上陸!時空を超えて、クフ王の謎に挑む。4500年前のエジプトを体感せよ!を見て(体験して?)感じたことを書きましたが、ARやゲームのような道具は人を「分かった気」「やった気」にさせてくれる道具としては非常に優れています。兵士の訓練にも非常に有効です。というか、もともとコンピューターゲームは軍事目的のために作られたものですから・・・。学習の場やセックス産業でも大活躍するでしょう。仮