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連休中は皆様どのようにお過ごしでしょうか「日本書紀」を医学的な視点で研究した京都大学のグループがあるという医学的アプローチ、と言うのでしょうか「毎日新聞」昨日の夕刊より親子孫3代で高身長→遺伝的特性前腕部に肉の塊→リンパ管奇形生まれつき白髪→白皮症こちらのような解釈です「日本書紀」をこの角度からw(゜o゜)w面白いですね太古の時代、月の引力が今と異なり人間はみんな高身長だった説と一致するようでもありますまだまだ解らない事ばかり今後の研究成果をお待ち致します
↑上総国分尼寺恒例というわけでもないですが、せっかくの連休なので史跡巡りしてきました。今回行ったところは、以前から行きたかった上総国分寺とその周辺です。何気に、下野国分寺だけ行ってませんが、下野国府・上野国府&国分寺・常陸国府&国分寺・武蔵国府&国分寺・相模国府(推定)&国分寺・下総国府&国分寺と関八州の内6ヶ所は行ってるわけで、これに上総が加われば7ヶ所目となります。関八州制覇までもう少し……まー、安房国府&国分寺は非常に行きにくいので、めっちゃ後回しになってますが(涙目)。と
岡山県の北東部にあった美作〈みまさか〉国の勝田〈かつまた〉郡は、平安時代の辞書に当たる「和名類聚抄〈わみょうるいじゅうしょう〉」によると勝田、飯岡、植月、塩湯、香美、吉野、広岡、豊国、新野、加茂、広野、河辺、鷹取、和気の14郷からなり、国府が置かれた苫田〈とまた〉郡に次ぐ人口を抱えていました。郡名のかつま(勝間、堅間)は目の詰まった編かごのことで、かつまた(勝間田)とは編かごの目のように水田が連なる豊かな土地を言うのでしょう。この勝田郡の役所の跡が、現在の勝央町役場の西側で見つかっています。
みんな!今日は朝起きて、、KinKiKidsのどんなもんやと堂本剛とFashion&MusicBookまとめて聞いてそうだ平城京跡地へ行こう長袖来て行ったんだけど気温29℃服装間違えました🥵KinKiKidsのどんなもんやはKinKiKids二人だった。ラジオって良いね👍って思った、、が、しかし、、コロナ時代に入った時からそして今も、私は光一君タイプの人間だと思ってたんだけど、実際は剛君タイプの人間でした。光一君と西野亮廣さんが似たタイプなのかなまっ、良いとし
幼少期、ワシに運ばれ奈良へ世界遺産・東大寺(奈良市)の創建に尽くし、初代別当(住職)となった良弁(ろうべん)僧正(689~773年)をしのぶ没後、1250年の御遠忌法要が令和5年に同寺で営まれた。良弁は幼い頃にワシにさらわれて大和にやってきたという伝説が残り、文学や歌舞伎の題材になった。時代を超えて親しまれる高僧ながら、その実像は謎に包まれている。東大寺建立に尽力、2023年は没後1250年がっしりとした体格に意志が強そうな顔。良弁僧正坐像<国宝、平安時代>は、東
先日の尾道訪問は「仏画曼荼羅アート」の打ち合わせを兼ね浄土寺に伺った。ご存じの方も多いと思うが、尾道浄土寺は尾道三山の一つとして飛鳥時代に聖徳太子が開創したと伝えられている、中国地方屈指の古刹である。瀬戸内海の交通や商業として発展した尾道の歴史文化に必ずと言っていいほど登場する寺院である。およそ七百年の時代を重ね、いまも尾道の発展を見守り続けている。朱の山門をくぐると正面が本堂、その右手に阿弥陀堂と多宝塔が建つ。これらは中世仏教建築の代表的な建築物として現存している。それに対し、境内西側に
こんにちは🍀タイトルのままでございます本気の本気で毎週『光る君へ』を見ておりますこれはあくまでもドラマですので藤原道長と紫式部が実際にあんなふうだったとは思ってはおりませぬがそれでも脚本はいとおもしろく実在の人物の中にオリジナルキャラをお見事に使っていらっしゃる中世近世に比べて資料の少ない時代だからこそ妄想満載にできるのが大変楽しいのです感情を揺すられたりドキドキするドラマは眠れなくなりがちなので普段はあまり見ないのですが平安時代で紫式部などと言わ
近隣の里山とでも申しましょうか?冬の間は春から秋にかけての山行に備えてハンデのある脚を慣らしておく目的で歩いています。2024年4月10日(水)「金剛山か岩湧山に登ろう!」という気持ちではいたものの平野部の桜を楽しむのも「今のうち」「大阪城も良さそう!」「大阪城へ行こう!!」「平城宮跡は?」兼ねてから「行きたい」と思っていた場所です。「そうそう前から行きたいと思ってた」「平城宮跡へ行こう!!!」10時過ぎに自宅を出発、京奈和道が役立ちます。Googleタイムラインの記録
3月13日、秋田市内の湊城を攻略の後は、土崎駅前からバスで秋田城へ1年半ぶりの再訪。バス停を下りた場所から階段を上ります。道路をまたぐ歩道橋の向こうには秋田城跡歴史資料館があるが、1年半前に訪問済みなので今回はパス。秋田城は前身の出羽柵(いではのき)が奈良時代の733年に造られ、その後760年頃に秋田城と呼ばれるようになる。奈良時代~平安時代に宮城県の多賀城と共に東北地方の政治、軍事の拠点だった古代の城。9世紀中ごろまで使われていました。海野近くで港もあり、大陸と交易
こんにちは。桜が散り始めたかと思ったらいきなり夏日。体が慣れないので23~25℃はキツイです。そのうち日本も春と秋がなくなって雨季と乾季になるのでしょうか。薬師寺へ出かけた3月末のこの日も20℃越えの暑い日でした。こちら平成15年に再建された伝統工法の復元では最大の大講堂。ここで学僧たちが仏教を学んだそうです。こちらは薬師寺の中心的な建物、金堂。昭和51年にほぼ創建当初の姿で再建されました。内部には有名な薬師三尊像が安置されていますが内部写真はNGです。国宝にて
アルコール:18度精米歩合:90%原材料:米(国産)米麹(国産米)使用米:製造:中本酒造店購入価格:先日東京キモノショーで購入した日本酒。奈良時代の酒造りのレシピを再現したものだそう。奈良時代、天武天皇の孫・長屋王の邸宅跡から出土された1300年前の木簡に記載されたレシピ。今の時代で入手できる素材で蘇らせたとか。全然古臭くないお味、1300年前も本当にこの味出せるの…?当時の米や水でだいぶ違うかな??酸味がありつつ、香りが良い。長屋王やこの邸宅に
備前国分寺跡の西側にある赤磐市馬屋〈まや〉遺跡は、平成3~4年(1991~92)に山陽自動車道建設に伴って発掘調査が行われ、規則的に配置された奈良時代の建物群が見つかりました。この場所はその地名から古代山陽道の高月駅〈たかつきのうまや〉跡と推定され、これらについても館や厩舎と考えられています。この建物群の一画で、須恵器〈すえき〉と呼ばれる灰色をした焼きものが掘り出されました。稜椀〈りょうわん〉という宴会用の食器で、輪状のつまみの付いた蓋〈ふた〉が被さっています。食器内の土に含まれていた脂肪
「朱雀門を通りぬけて」(平城京)篠笛の独奏曲荒井ひとみ作曲集CD3の2「曲想」復元された朱雀門(画像お借りしてます)講堂、ところどころ改修されていますが現存する唯一の「平城宮遺構」興福寺北円堂、「鎌倉時代に再建‼️」されたもの興福寺の阿修羅像(一番人気がある😁)大仏様に描かれた仏画(画像お借りしてます)(画像お借りしてます)奈良時代都の周囲には「外郭」がめぐらせてありました南の入口は「羅生門」でそこから北にまっすぐにのびるのが
参拝日2024/2/111/5石仏白山社いしぼとけはくさんしゃ愛知県名古屋市昭和区石仏町1-71☎052-853-1160現在は書置きの対応の様です。サイズはかなり小さな物になり11.5×7.5㎝私が頂いた中では一番小さい宮司さんは常駐では無いですが確認をした所平日はほぼ社務所におられるようです。鳥居と社号票蕃塀拝殿左にある社殿は不明この奥に境内社廊下のような所の名前が・・・?隙間からちらっと見えた本殿宮司さんがこ
「食べるお香」と呼ばれるお菓子があるのをご存知でしょうか。京都祇園にある、江戸時代1617年創業の『亀屋清永』。こちらの「清浄歓喜団」というお菓子が、それです。香司になる勉強をしていた頃に先生からこのお菓子の話をお聞きし、一度食べてみたいとずっと思っていました。ですので先月、京都を旅行した折に祇園にあるお店を訪ね、購入してきました。パッケージに由来が書いてありましたのでご紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
すぐ南は渡瀬氏の居館でした。「上組遺跡」。東部やすらぎ公園の東方。(静岡県浜松市中央区(旧南区)渡瀬町400)駐車場なし。トイレ・自販機なし。2010年に調査されました。主に奈良時代から鎌倉時代の遺跡ですが弥生時代の土器もみつかっています。土器・須恵器、井戸跡・中国産陶磁器などが見つかっています。↓【目次】その他の場所はこちらから検索↓https://ameblo.jp/clubecoast/entry-12397560515.html茶器繁花
ブログにお立ち寄りいただいてありがとうございます<(__)>このブログについて50代後半おひとりさま+ねことの日常や趣味のこと・仕事のことを書いています。先日奈良県の月ヶ瀬梅林に行った帰り『月ヶ瀬梅林【奈良県】お花見へ』ブログにお立ち寄りいただいてありがとうございますこのブログについて50代後半おひとりさま+ねことの日常や趣味のこと・仕事のことを書いています。奈良県の月…ameblo.jp平城宮跡に寄りました。どど〜ん‼︎本当はほかのお寺に寄るつもりだったので
奈良時代女性ファッション奈良時代の貴族たちが着ていた装束を、現代に再現した「天平衣装(てんぴょういしょう)」。1300年近く前、遣唐使を通じて平城京にもたらされた唐(中国)の最新ファッションは、今もモダン。時代を超えて、多くの女性の憧れです。《天平衣装》奈良時代には、美しく染織され、高度な織り方がされた高品質な絹織物が生産されるようになったことから、上流階級の服の素材には主に絹が用いられていました。しかし、品質の高い絹織物の衣服は上流階級の人しか着ることが
このブログで過去に数回取り上げている、NHK紀行・バラエティ番組『ブラタモリ』、3月2日の放送で『奈良・正倉院〜なぜ1,300年もお宝を守れた?〜』が放送されたので、このブログで紹介をします。この回のテーマ「なぜ1,300年もお宝を守れた?」からもわかる通り、この回のブラタモリは正倉院を紹介する内容。奈良ファンとしては必見と期待をし、TVの前で正座する感じで鑑賞させてもらいました。番組のスタートは正倉院正倉の前から、タモさんは「午前8時半、この時間には誰もいない」という掴みで
3月3日日曜日〜その3P267では、奈良の東大寺が登場する。(写真)私のストックブックにある、S43年2月1日発行の『国宝シリーズ(第1次)全7集』〜「第2集奈良時代東大寺月光菩薩」。
今から1300年前に都がおかれた平城京、青い屋根瓦に朱塗りの柱で彩られた建物が建ち並ぶ様子は、さながら花の盛りにたとえられました。この青い屋根瓦がわが国に登場したのは、588年に蘇我馬子〈そがのうまこ〉が建立した飛鳥寺〈あすかでら〉が最初と言われています。堂塔の軒先に連なる瓦には、仏教の精華を表すように、朝鮮半島から伝えられた清楚な蓮〈はす〉の花の文様があしらわれていました。それから半世紀ほど経て、中国から新しいデザインが伝えられます。それは8枚の花びらが反り返ったさまを立体的に表現した文
(旧)睦月十八日光浴びて水面跳ねゆく影を見て東院庭園二月の終わり雲端平城宮跡の東の張り出し部分にある東院庭園へ。聖武天皇の娘、称徳天皇時代の庭園を2010年に開催された平城京1300年祭を機に復元したもの。
2月16日、東北新幹線でGO大宮からも富士山が見えるんだあっと言う間?に仙台着。東北本線に乗り換えて国府多賀城駅へ。日本100名城の1つである多賀城へ1年半ぶりの訪問です。駅前には再建中の多賀城門のモニュメント駅舎の北西に見える小高い丘は、館前遺跡。多賀城に赴任していた国司が住んでいた場所だそうで。以前訪問した時には古墳かと思っていました。館前遺跡に登ってみる平坦地です館前遺跡の北西へ行くと、通路などが以前よりも整備されていました。湿地の中に
みなさんは偕老同穴〈かいろうどうけつ〉という言葉をご存知ですか。同じ墓に入るまで添い遂げる仲の良い夫婦という意味です。ふるさと農道が縦断する勝央町間山〈はしたやま〉の一画を発掘している時、この言葉を思い起こさせるような墓が見つかりました。それは、砂利を敷き詰めた一辺60㎝ほどの四角い穴の中に、二つの骨壺と酒?を容れた壺を納めたものです。高さ30㎝ほどの玉ねぎのような形をした骨壺の口は食器を使い封じていましたが、その中には焼けて細かく砕けた骨がぎっしりと詰まっていました。骨壺の特徴からすると
愛知県豊川市の【三河天平の里資料館】に来ました。ナビで見た【三河国分尼寺跡史跡公園】を見て気になって行ってみたら、公園の反対側に資料館がありました。イベントの案内です。奈良時代の、天平文化の出土品の展示がありますよ。色々な展示品がありますね。奈良時代の歴史が好きな方は、振り返ると楽しくなると思いました。古代瓦にも触れます。五重の塔の模型ですね。資料館はそこまで広くないので、公園と共に回るのをオススメします。レ
伊坂幸太郎の螺旋プロジェクトを読み進んでいる。全8作家による共通テーマを持つ作品群です。このプロジェクトの特筆すべき点は、これらの作品が、同時期に一斉に連載されていることです。私は古代を終わり、聖武天皇と光明子の時代を終わり、平将門に入ったところで、思う所あり、明治を先に読み出しました。光る君へを今、楽しく見ていて、奈良時代ではありますが聖武天皇編は、重なるところもありおもしろく読みました。天皇家=山族、藤原家=海族と定義して天皇家が蝕まれていく様を聖武天皇の心根を慮りながら探っていく展
美味しいご飯を食べた後は大和郡山城跡へ筒井順慶が城築し大和でもっとも大規模な城郭で豊臣秀長の時代に完成したそうですもうお城は残ってはおりませんが立派な石垣は残りさかさ地蔵様奥に顔があり逆さ向いたお地蔵様がおられます天守台跡からの眺め梅が咲き始めでいい香りがしてました郡山城跡は桜の名所でもありますので桜の季節は賑わうさて、次は薬師寺へkanちゃんたら薬師寺をナビに入れる時に「薬師寺保栄な」って入れてた薬師寺保栄って年代が分かるよねー(笑)薬師寺に行
◇◆◇◆◇◆「常識ある行動をする」心の扉メンタルカウンセリング横浜◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆にほんブログ↑応援クリックお願いします。相対的というのは、他との関係、比較において成り立っている様子をさします。つまり「Aさんは勉強もできて美人で人気もあるのに、それと比べて私は全然ダメ」といったように自分の価値を他人との比較で決めてしまうことです。たしかに多くの人にとって、「勉強ができること」「人気があること」「仕事ができること」「お金を持ってい
朱雀門から平城宮跡内を東へ移動。第一次大極殿が見えてます。そしてこちらが、第二次大極殿跡建物はありません。大極殿跡。若草山、霞んでます。西の方角に第一次大極殿。天平17年(745年)聖武天皇が紫香楽宮から戻って、第一大極殿があった東側に第二次大極殿を造りました。この大極殿の南側に東区朝堂院、さらに南側に朝集殿院があり、壬生門まで続きます。いまは大極殿、朝堂、壬生門の土壇が残っているのみで、広々とした広場になっています。平城宮跡内を移動しました。推定宮内省。見学します。役人の
※こちらの記事は、平成20年11月2日に書かれたものです。こんばんは。今回は教育社歴史新書<日本史>の2、水野祐氏著の『大和(やまと)の政権』についてです。これを読んだのも、下手すれば10年前とかなので細かい内容を思い出しつつ紹介してみようと思います。水野氏が冒頭で述べるのは「大和朝廷(やまと・ちょうてい)」と「大和の政権」という表現の違いについて。氏曰く、「大和朝廷」といえば神武天皇(じんむ・てんのう)から脈々と続き、奈良(なら)時代に至るまでの天皇家の王権を言う言葉であって、「大和