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先週末は四郎が父ちゃんと通院してきました。目は落ち着いていました。凪は今週通院になります。特別変わりが無ければ四郎と柚子の投薬は取りに行く予定です。柚子の定期通院は終わりました。今後は緊急時の疼痛緩和ケアの投薬調整のみへ。今日の四郎🐇💕明日葉大好きだね。食欲排尿排便落ち着いています。異変ある以外はチロブロック増量して初めての2ヶ月検診まではマイペースで過ごします今日の凪🐇💕1年に一度ある大きな換毛来て食糞時間のみおなか安定せず詰まりに警戒中。その時間は超機
大僧正天海(268)「四郎を巻き込んだのは済まなかった。」と伝兵衛は言うが、今更の話である。「事ここに至れば、致し方ない。それより、いかにしてこの局面を打開するかだ。」と甚兵衛は答える。二人は天草・島原を席巻し、長崎を落し、北九州を制して、山陽道を進む構想を持っていた。甚兵衛は宗教的熱狂とは無縁の男であった。一揆勢が戦勝に浮かれている中、冷静に戦況分析していた。「本来であれば、幕府に不満を持つ、西国大名や牢人衆が決起してもよさそうなものであるが…。」と伝
大僧正天海(267)立花軍は一揆勢の猛攻を受けながらも一歩も引かず、攻め続けた。そこで重昌は、松倉軍に対して「直ちに立花軍を救援する」ように命じた。ところが、松倉軍は「たとえ応援しても、立花家の手柄になるだけだ。」と考え、いい訳程度の援軍しか出さなかったのである。そこで、軍目付であった府内目付の二人を松倉軍の陣に派遣したが、家老の岡本新兵衛に助勢を断られたのであった。この度の攻撃は、立花軍と鍋島軍が先陣であったため、有馬軍と松倉軍の動きは誠に低調だっ
大僧正天海(265)【島原の乱⑦】12月10日の10時頃、待ち切れなくなった征討軍は、上使の指示もないまま勝手に原城攻撃を開始したのであった。鉦や太鼓を打ち鳴らせながら、鍋島・松倉軍は大手口と搦め手に殺到したのである。両軍は銃撃しながら、勇躍堀際まで迫っていった。一揆勢はこれを充分引き付けると、頭上から一斉に鉄砲を放ったため、次々と死傷者が堀に転がり落ち、両軍の進撃は阻まれたのである。これを見た重昌は、「即座に之を踏み破る事は難儀ゆえ、一旦引き
おはようございます🐇🐇🐇先日の天草四郎の初めての端午の節句🎏の日は🎏〜かしわもちうさぎの集い〜🎏へ参加出来て嬉しかったですみんなと一緒にかしわもちうさぎさんになれて四郎🐇凪🐇柚子🐇もパワーアップしました✨️可愛い♡かしわもちうさぎさんオマケ編もぜひ見てほしいなぁ〜うめちゃん🐇💕💨💨💨💨💨かしわもちからぴょい〜んと飛び出してる〜🤭🤣🤣(密かに期待していた)WAKUWAKUオマケ編吹き出しちゃいました『端午の節句かしわもちうさぎの集い』一緒にかしわもち
大僧正天海(263)さて、もう一つ気づくことは、天草勢の少なさである。本渡の戦い8,800名、富岡城攻めでは12,000名であった天草勢は、島原勢の救援部隊2,300人を引いても、9,000余名はいたはずである。それが、原城に籠ったのは、たった3,000人であった。しかもその半分以上が女子供となっている。籠城軍を37,00人とすると占有率は10%未満である。多くの農民にとって、海を越える決断は難しかったのであろう。この籠城出来なかった人々が、後に隠れ切支丹に
大僧正天海(262)食糧庫を訪れた有家監物は「おお、これは壮観だな。」と山のように積み上げられた米俵に歓声を上げた。島原勢を率いてきた監物は、本丸大将に任じられている。「5000石か、これだけあれば食料は、当面大丈夫であろう。」と宗意軒に同意を求めた。「一人が一年で一石を食べるとすると、5千人で1年、1万人で半年、3万人で2か月、という所だ。できるなら、もう少しは集めたいが、米が難しければ、魚や海藻を集めるしかあるまい。」と宗意軒は冷めた表情で説明した。「
大僧正天海(261)「城内にこもり申し候浪人、四十人御座候。年頃は、五、六十ばかりの者どもにて御座候。かの牢人ども、何方よりこもり申し候か、在所の儀は存ぜず候。」(「右衛門作口書」)大量の土石が運び込まれ、溝を掘り、城の外側には塀が巡らされ、二歩ごとに銃座を設けた。特に塀は厳重に作られ、松木数千本を一丈にそろえ、三尺を埋めた。横木を二本差し、竹束で柵を設け、板で打ち付けた。本丸の中央に四郎のための礼拝堂を建てた。同年代の小姓と共にそこで祈りを捧げるのである。
大僧正天海(258)両目付は「知っている」はずの、説明を聞いて大いに驚いていた。それを見て、細川家の家老はただ呆れていた。「これは恐らく、江戸からの下知が来るまでの時間稼ぎでしょう。」そこへ、天草の本渡で大きな野戦があり、富岡城代・三宅藤兵衛が戦死したとの一報が入ったのである。これに両目付は顔色を失った。「天草がこれほどまでに甚大な被害を蒙る事態になった以上、もはや軽々しく手出しができる状況ではない。いよいよ上意を待って行動すべきである。天草の件につ
大僧正天海(257)城攻めの惣奉行を務めた森宗意軒は、その夜の軍議に出席し、城攻め継続を主張したが、同意は得られなかった。「もうすぐ松倉長門守が小倉に入る。その後に幕府の征討使がやってくる。そうなれば、鍋島藩も細川藩も参戦するであろう。ここで一揆勢が分散していては勝機がない。そこで一旦有馬に引き返し、戦線を立て直すことにした。」と益田甚兵衛が説明する。これは蘆塚忠右衛門も同意していた。「口惜しいのは理解できるが、富岡城はさほどの重要拠点ではない。島原
大僧正天海(254)「十五以上の者は召し連れ候へ、十四以下の子供は男女とも召し連れ候こと無用の由、山野に捨ておく事もならず、十四以下は淵これある所に夜々連れ行き、刺し殺し、水底に沈めたる由なり。」(「細川家記」)その頃、天草一揆勢は上津浦城跡に6500名が集結していた。一揆勢は村々に基督教改宗を迫り、改宗せぬものは皆殺しにした。天草の一揆は宗教一揆であり、異教徒に対しては実に残虐であった。このため、殺されたくなくて上辺だけ改宗したものも多数存在したのであ
大僧正天海(253)もちろん、私はそうは思っていない。緊急対応に追われ繁忙を極めた家光が、わざわざ自ら天海の宿坊を訪れるとは、よくよくのことである。ましてやこの時、天海は102歳である。将軍としてもっとも気力に溢れていた時代の家光が、今更何の助言をもらうというのだろう。私の古い読者であれば、家光が訪ねた理由は、わかるはずである。家光は、一揆が天草に及んだと聞き、仰天したのであろう。天草の番代(城代)は三宅藤兵衛重利であり、外ならぬ天海(明智秀満)の実
大僧正天海(249)細川藩は、まず小左衛門と小兵衛を脅して、嘘の書状を書かせた。「甚兵衛殿と四郎殿が一旦宇土にお帰りならねば、我等は天草に戻れません。」父・伝兵衛には「甚兵衛殿と四郎殿がそこに居られては、当地も迷惑でございます。お二人を当国へ戻されますよう。」と書き綴った。これに対して伝兵衛の返書は「甚兵衛殿と四郎殿は、現在長崎にお越しである。」というものであった。「島原の様子、追々申し上げ候ところに、御下知しだいに仕るべきの由、かしこみ奉り存じ候。
大僧正天海(248)府内目付は小禄で、九州の大大名に気後れしていた。このため諸大名からの催促と幕府の御法度の間に挟まれ、何の決断もできなかったのである。「加勢の儀は、とかく江戸より御下知あるべく御座候間、そのうち彼の者ども、何とぞ静まり申す様の手立てあるまじく候や。かようの儀は、各藩のうち御一人出で候て、御相談あるべく儀と存じ候。」(「細川家史料」)「加勢については、いずれにせよ江戸から下知があるはずです。それまでの間、あの者共を、どうにかして静めさせるため
4月12日が命日・忌日の有名人・著名人238年79歳没(自殺)ゴルディアヌス1世さんローマ皇帝1555年満75歳崩御(?)フアナさんカスティーリャ女王1638年17歳没(討ち取られた)天草四郎(益田時貞)さん島原の乱の指導者1817年86歳没(?)シャルル・メシエさん天文学者メシエカタログ1945年63歳没(脳卒中)フランクリン・ルーズベルトさん第32代アメリカ合衆国大統領⇒『フランクリン・ルーズベルト(1882年1月30日生~1945年4月12日
おつですー!やっと新年度で落ち着きますかねー(笑)さてさて、4月5日に南島原で行われた「原城一揆まつり」のドローンショウのBGMを作成しましたあ!無事終わったのでここでこっそりお披露目。ドローンスクールの校長?をやってる同級生の女の子から「おまつりでドローンショウするから音響てつだってやー」と連絡きたのが1月末。いーよーと気軽に返答したところ、「曲もつくってーやー」と。まあちいさなお祭りだろうと思い「いーよー」と(笑)そのあと色々聞いていくと割とおおごとやんかあ(笑)最終的に
大僧正天海(243)「角蔵・三吉らからめ捕り、島原へつかわし、牢舎おおせ付けられ候。そのあとまた郷民あつまり、かの外道本尊の絵をかかげ深く恭敬しおり候よし代官聞き、さっそくその絵像をうばい取り、散々に引き破りければ、外道ども大いに腹を立て、代官をたちまち殺害す。」(「有馬古老物語」)郡代・林兵左衛門は一心不乱に祈祷している村人を見て激高し、座敷に上がると「聖画像」を剥ぎ取り、散々に引き裂いた。「おのれ、天罰も恐れぬ愚か者め。この者は御天主様の御敵であ
大僧正天海(242)島原側の代表は、上総村の寿庵というものであった。洗礼名であり、恐らく本名ではあるまい。一揆は首謀者が特定されることを最も恐れるのである。「我ら天草は、善主から選ばれた天童である天草四郎を総大将にしている。」と大矢野松右衛門が言った。当然、寿庵も「予言書」は知っていた。「それについては、われらも異存はない。ついては、有馬村で切支丹集会を開くつもりだ。」同意する。すると、森宗意軒が、「いざ、戦となったら、軍を指揮できるものはいるのか。
まだまだ天草のことは続きます何度も寄ってるあまくさ村ですがなかなかいい時間に寄れず帰りに寄れたら何か買って帰りたいのですが帰りは通り過ぎるだけなのでただ寄るだけのことが多いんです平日でもお客様多かったです天草四郎の像だけは撮ろうかなと寄りましたここにはたくさんのソフトを売ってるお店があるのを知ってたのでリゾテラス天草に寄らなければここでソフトを食べるつもりでしたがもう目的は達成していたのでここで食べることはなかったです。ソフトにしてもちょうどいい時間に寄ったことが
大僧正天海(240)【島原の乱②】「寛永十四年・四郎年十五才に罷成候」(「細川家記」)、「四郎父甚兵衛六十三才ノ農夫」(「耶蘇天誅記」)小西家が関ケ原の戦いで滅んでから、37年が経っている。すでに7人は、60歳を超えた老人であった。例えば、森宗意軒は、「オレは戦がしたいだけよ。」と明言していた。「せっかく朝鮮、大坂の陣で生き残ったのに、何事も為せぬまま、死んでなるものか。最後は武士として、大きな花を咲かせてみせる。」というのである。
大僧正天海(239)2.「南蛮人の子孫」の追放ここでいう「南蛮人」とは主にポルトガル人やスペイン人である。ポルトガル人等と日本人女性との間に生まれた子供、およびその母親たちが対象となり、マカオへと追放された。その数は287人にのぼったという。キリスト教の血筋や繋がりを国内から完全に排除し、幕府の基督教の禁教を徹底するための措置である。この様に幕府は、基督教の禁教政策を強めていた。松倉氏にしても寺沢氏にしても、この幕府の政策に従っていただけなのである。
「魔界転生」「魔界転生」予告編1981年6月6日公開。山田風太郎の伝奇小説を映画化した異色作。配給収入:10億5000万円(1981年度ランキング第10位)。原作:山田風太郎脚本:野上龍雄・石川孝人・深作欣二監督:深作欣二キャスト:千葉真一:柳生十兵衛沢田研二:天草四郎時貞佳那晃子:細川ガラシャ緒形拳:宮本武蔵室田日出男:宝蔵院胤舜真田広之:伊賀の霧丸松橋登:徳川家綱成田三樹夫:松平伊豆守久保菜穂子
温かい1日日中クーラー付けた凪柚子四郎地方我が家の子どもたち🐇🐇🐇凪、柚子、四郎との記録と備忘録を残しています。記録、備忘録から3兎それぞれの疾患の通院時を見極める判断材料にも使っていますのでお気遣いなくでよろしくお願い致します🙇♀️(柚子の術後ケア中もありましてコメントのお返事ゆっくりですみません🙇♀️)昨日受診したのは四郎と柚子四郎前回検査からの2か月後検診を柚子の術後通院に併せてスケジュール調整して父ちゃん一緒に受診して来ました。(凪だけ少し●安定せず
お彼岸の手土産に買った、ちょっとお高いどら焼き我が家用にも少し買いました。たまにこういうの食べると美味しいですね当選品です!デジタルポイント毎日ありがとうございますコンビニ引き換えファミペイのアプリで500mlのビールのクーポン発見ハイボールも美味しくいただきました♥️持田ヘルスケアよりコラージュフルフルリキッドソープ&コラージュフルフルプラススカルプシャンプーサンプル何かと助かるサンプルありがとうございました!当選通知が来ました受け取りに仙台まで行かなくて
天草・島原の乱というのは、本質的には圧政に苦しむ農民の一揆であり、宗教弾圧が主な原因ではなかった、という見方が今日では有力です。しかし、彼らは「キリシタン一揆」という看板を掲げ、これがあたかも宗教戦争であるかのような演出をした。それは何故か。「キリシタンの旗を掲げて城に籠っていれば、海の向こうから救世主がやってくる、かもしれない」と考えたから、それしかないでしょう。何の希望もなしに、田舎の農民一揆が全日本の幕府軍を相手に籠城するなんて、バカげています。彼らは天使の軍団が地上に降臨するが如く
有岡城跡JR伊丹駅からすぐの場所にある有岡城跡、戦国時代に荒木村重は伊丹城を攻めて伊丹氏を追放します。城を有岡城と改めて城下町まで堀と土塀で囲い総構えの城郭にしました。織田信長の対毛利輝元の中国攻めにおいて秀吉が総大将になり、黒田官兵衛が参謀をつとめ播磨平定から中国攻めに進んでいきます。ここで三木城の別所長治が反旗を翻し、更には黒田官兵衛と親しかった荒木村重までも離反します。落合芳幾太平記英雄伝三十八荒木摂津守村(当方所蔵)絵本太閤記より荒木村重が餅を食らうの場面を浮世絵とし
前回の島原城の記事からまたまた間が空いてしまいました。島原城から島原半島を南へ30km、車で1時間弱下った南島原市に島原の乱(現在の教科書では「島原・天草一揆」)の舞台となった原城跡があります。原城は当時26万石ともいわれた戦国大名・有馬貴純によって明応5年(1496年)日野江城の支城として築かれました。16世紀末期に有馬晴信によって大規模な改修が行われ、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などを備えた近世城郭として生まれ変わりました。現在見られる石垣や枡形、本丸櫓台などは晴信の改修時のもの
以前にもお伝えしましたが、明後日は天草エアラインで天草へ向かいます。ただですね……ちょっと気になることが。この路線、悪天候による欠航がわりと多いらしいんです。機材はプロペラ機。風に弱いとかなんとか。しかもその貴重な機体はオンリー1福岡へ飛ばし、熊本へ飛ばし、時には大阪へ……。「一機でそんなに働いて大丈夫!?」と、思わず機体の体調まで心配してしまいます。なので思わず言いました。神様、仏様、キリスト様!どうかよろしくお
ブログ更新6656回目天草キリシタン館昭和41年オープンした熊本県にある資料館島原・天草一揆や潜伏キリシタン建物展示所長散策ぶらり~お散歩旅です。島原・天草一揆を中心とした天草キリシタン史を、4つのゾーンに分けてわかりやすく展示した資料館。館内には、島原・天草一揆で使用された武器や国指定重要文化財の天草四郎陣中旗、キリシタン弾圧期の踏み絵、隠れキリシタンの生活が偲ばれるマリア観音など、約200点が展示されています。原の乱(島原・天草一揆)を中心に、この地のキリシタンの歴史
天草といえば天草四郎天草四郎と言えば「島原の乱」島原の乱は、1637年から1638年まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府への大規模な武力闘争でそのリーダーが天草四郎。そして天草四郎は肥後育ち。島原が長崎なので、天草も長崎県だと思っている人も少なくない。かつての私もそうでした。でも天草は熊本県です。もっとも、天草四郎が最後に籠った原城は長崎県です。1万9000人もの犠牲者を出した「島原の乱」。そこまでしなければ