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藤原不比等は、日本最古の法律・大宝律令制定の中心人物です。右大臣として平城京(奈良市)遷都を主導した政治家でもあります。以上、彼が「古代国家ニッポン」を創った男の一人といわれるゆえんです。その不比等は、斉明天皇4年(658)に藤原鎌足(前号で詳述)の次男として生まれました。しかし、彼が史料にその名を現すのは32歳のとき。『日本書紀』によりますと、持統天皇3年(689)2月14日に任命された判事(裁判官)の一人に「藤原朝臣史」の名がみえます。ここか
石山寺の次に向かったのは天智天皇(中大兄皇子)が都をおいた地です京阪電車の石山寺から乗って近江神宮前へ降りた駅のすぐ前にもう遺跡があります神宮手前にも境内の森に横から入っていく感じ?木漏れ日の道って言うらしい参道に出ました桜が綺麗第二鳥居(横から入ったから第一鳥居は見てない)ここです❗楼門近江神宮は第38代天智天皇をお祀りし、琵琶湖西岸の天智天皇の古都・近江大津宮跡に鎮座しています。全国16社の勅祭社の一社であり、4月20日の例祭(近江大津宮遷都記念日)には
三井寺〒520-0036滋賀県大津市園城寺町246桜の綺麗な時期に伺いました。階段を登って向かいます。観音堂と手水舎天智天皇、天武天皇、持統天皇の三帝の誕生の際に産湯を使った霊泉があることから「御井の寺」という意味で「三井寺」と言われているそうです。パンフレットより。古い歴史のあるお寺なんですね☺️階段を登った上から見る琵琶湖も綺麗でした。桜も満開です🌸金堂三井寺の総本堂で、桃山時代を代表する名建築だそうです。靴を脱いで中を拝観できます。
忘備録です・・完成したお墓を子供たちと観てきました・・子供たちも、お参りしやすいように、近い所にしました。我家から15分です!・・これで一安心・・(*^_^*)ゆっくり、残りの生を楽しみたいと思います・・\(^o^)/それでは今日のブログです・・法道寺の桜(撮影日2024・4・4)この日は近所の枝垂れ桜を観てから、次に訪ねたのは「法道寺」です。桜より、紅葉の御寺ですが・・・山門をくぐると右手に桜があります・・・当時は大きな御寺でしたが、多くの寺領を寄進され隆盛を誇って
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その8)として、「国史編纂編」をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)から⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)までののお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇とし
「虎に翼をつけて」~古代最大の戦い「壬申の乱」の始まり~天智10(671)年10月17日。ときの天智天皇は病床にあった。激しい痛みと苦しみに、わが余命がわずかであることを悟られたのだろうか。弟で皇太子の大海人皇子を呼び寄せ、皇位を授けようとおっしゃったのだった。しかし、皇子は首をたてに振らなかった。「私はもともと病気がちで、こんな体ではとうてい国家を保つことができません」。そして、天皇の息子である大友皇子を皇太子とするよう提案するのだった。「私は本日出家し、陛下のために功徳を修めた
「大化の改新のクーデター」の的(まと)は、権勢を極めた蘇我入鹿でした。朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)からの使節を迎える儀式が行なれる宮中で刺殺されました。鎌足は佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)を刺客に仕立てますが、鎌足自身は当日、柱の陰に身を寄せ、いざという時のために弓で狙いを定めていただけ。刺客となった二名も怖気づき、先に飛び出した中大兄皇子(のちの天智天皇)に釣られる形で入鹿に襲いかかりました。こうみてきますと、
ネタが切れた時の不定期企画『天皇陵巡り』第38代天智天皇山科陵即位西暦661年退位西暦672年皇位年数11年天智天皇より、即位前の名「中大兄皇子」の方が有名かも。西暦645年に中臣鎌足らと一緒に、蘇我入鹿を暗殺するクーデター=大化の改新を起こした人。御陵印所在地天智天皇陵がある事にちなんで、この辺りの地名や駅名は『御陵(みささぎ)』になってる。あと、皇位年代を見たらわかるんやけど、第50代桓武天皇が平安京遷都をするより遥か100年以上昔
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)⑤中臣鎌足
小倉百人一首について見ていきましょう。小倉百人一首は鎌倉時代に藤原定家が編纂したものです。天智天皇から始まり、順徳院までに至る小倉百人一首について、一首ずつ味わっていきましょう。小倉百人一首について-TamatsuLabメインサイトwww.tamatsulab.com
藤原鎌足(中臣鎌子)は、NHK大河ドラマ『光る君へ』で藤原道長の時代に栄える摂関家の祖といわれます。中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに大化の改新のクーデター(645年)を成し遂げ、朝廷の政治を有力豪族の蘇我氏から天皇家に取り戻した忠臣という扱いで紹介されることが多い人物です。ところが、そのクーデターの4年後の大化5年(649)、『常陸国風土記』に「大乙上(だいいつじょう)中臣□子」とあり、□の部分に「鎌」の字を入れると、クーデターの4年後に鎌足は、平安時代の制度でいう「正八位
【壬申の乱から平城京遷都まで】壬申の乱で、大海人皇子が天智天皇が営んだ近江朝廷を滅ぼして天武天皇となり、飛鳥に浄御原朝廷を築いたが、天武天皇の崩御後持統天皇が即位し、藤原鎌足の息子不比等を参謀として藤原京を設営し、元明天皇の時代に平城京に遷都した、という流れが正史に記されたことである。【不改常典と天智天皇】元明天皇は即位の宣命の中で、即位の正当性の根拠として天智天皇が制定した「不改常典」をもちだし、先帝(所生の文武天皇)の指名によって即位したことを述べている。持統天皇も元
■第26代継体天皇古事記、日本書紀では、第15代応神天皇の5世孫。近江国生まれ。名は男大迹王(オホドノ王)。幼い頃父を亡くし、母の故郷である越前で育ち、越前国を支配する57歳。武烈天皇崩御。皇位継承者はいなくなり、有力豪族の大伴氏、物部氏、巨勢氏が協議。大伴金村の「オホドノ王に皇位を継いでいただく」という言に決定。オホドノ王を越前に迎えに行く。オホドノ王何度も辞退するが、507年58歳で即位。武烈天皇の姉を皇后とした。■第27代安閑天皇(在位5年)■第28代宣
はい!奈央です。コロナ禍の前年の夏、琵琶湖の東岸~北岸を旅しました。その時から、ずっと湖西地方を訪れたかったのです。今回の旅は、琵琶湖の西岸のほんの一部に過ぎませんでした。でも、大津宮と近江神宮どちらもずっと行きたかった場所だったのです。近江大津宮錦織遺跡近江神宮楼門への階段きっかけは、福岡県糸田町にある泌泉(たぎり)の存在と、福永晋三氏の「倭王朝は筑豊にあった!」という説です。つまり、「天智天皇は筑豊におられた!」という説です。福永氏の説をそのまま信じているわ
はい!奈央です。昨日のブログでは、天智天皇の百人一首巻頭歌のことについて、気持ちが沈んでしまうようなことを書きましたが、今日は、「ちはやふる」の世界で楽しみたいと思います。「ちはやふる」とっても面白いアニメと映画でしたね。競技かるたの聖地!近江神宮animateTimesHPよりお借りしました。今年も1月6日に第70期名人戦と第68期クイーン戦が近江勧学館で開催されました。その結果、川瀬将義六段(三島せせらぎ会)が第70期名人位井上菜穂六
はい!奈央です。競技かるたと天智天皇どんな関係があるのでしょうね。かるた祭・かるた開きの儀近江神宮HPよりお借りしました。〔日時〕令和6年1月7日(日)午前9時斎行〔会場〕近江神宮神座殿(かみくらでん)小倉百人一首巻頭歌ゆかりの近江神宮で、天智天皇御製「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」伝説的な歌ではありますが、2つ目の勅撰和歌集である後撰集以後、天智天皇の御製として伝承され、小倉百人一首の巻頭歌として置かれました。
はい!奈央です。外拝殿で参拝した後、やってきたのは黄色いアウターのおじさんが一生懸命掃除をし続けている漏刻の前です。漏刻(ろうこく)というのは、水時計の一つであって、いくつかの箱を階段状に置き、管によって水を順に下の箱に送り込み、最下方の箱に1目盛りが約10分を示すように印を付けた矢を立てて、その矢の浮沈により時刻を計ったものです。広州にある元代の漏刻ASUKAHISTRICALMUSEUMFanClubHPよりお借りしました。天智称制6年(66
はい!奈央です。いよいよやってきましたよー!近江神宮です。「ちはやふる」で、千早が、詩暢が、新が登って行った楼門への階段です。ここを登るのが夢だったのです。彼らの声が聞こえてきそうです。あー、もう、満足です。今、私が居るところは、下の境内案内図の二の鳥居を抜けて、右側に折れて手水舎を過ぎるとすぐに現れる楼門への階段です。近江神宮境内案内図近江神宮HPよりお借りしました。ここに来るには、大津京シンボル緑地から林の中を抜けると表参道に出ます。すると、左手に二の
名作の語りべ芙美のブログにお越しくださいましてありがとうございます「万葉集」その二をYouTubeにアップしておりますので下のサムネイル画像をタップしてお聞きくださいませ今後ともどうぞよろしくお願いいたしますスタンドエフエムにも朗読をアップしておりますそちらものぞいていただけると嬉しく思いますスタンドエフエム画像はネットよりお借りしました飛鳥時代に活躍した女流歌人額田王が詠んだ歌は「万葉集」に12首残されています額田王は皇太子となって「大化の改新」と
はい!奈央です。大津宮の跡を探して錦織(にしこおり)地区を散策してまーす。大津宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続きましたが、昭和49年からの発掘調査により錦織がその中枢地区であることが確定的となったそうです。下の地図の中央上部のピンクの円で示したエリアが、史跡近江大津宮錦織遺跡です。発掘された地点は以下の通りです。今回、私が訪れたのは、第1地点と第2地点の2ヶ所です。近江大津宮跡発掘地点じゃがべーさんのHPよりお借りしました。
図書館でこんな資料を見つけたよ。志度寺には、今大河ドラマで話題の、藤原道長の藤原北家の祖、藤原房前が、その父藤原不比等と志度の海女との間に産まれた、という伝説(縁起絵)があるんですよ。そしてその舞台となったのが真珠島です。初めてこの話を聞いた時は驚きました。日本史で有名な「大化の改新」を天智天皇と共に成した藤原鎌足の息子(不比等)が、志度まで来て、志度に住む海女と結ばれて、房前を産んだと言うのですから。しかもこの話、能になるくらい有名な話なのです。志度寺は昔、日本中に名の知れた
はい!奈央です。近江の旅の続きです。今、私は、大津京シンボル緑地という場所に来ています。後ろの林は近江神宮の社地です。この大津京に都を遷したのは第38代天智天皇です。大化の改新で有名な中大兄皇子その人ですね。西暦663年、日本は百済を救援するために朝鮮半島に出兵します。しかし、日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、日本は唐軍にいつ攻め入られるかという緊迫した状況を迎えます。この情勢の下、西暦667年、天智天皇によって飛鳥から近江への
「以下は、旧版『筋権党宣言草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。「はじめに以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編
はい!奈央です。やってきました。大津京駅です。私の後ろに見えるモニュメントは、時計をモチーフにしたものだそうです。でも、よく見ると、赤いショールの様なものを纏っている人物のようです。後で調べてみたら、この像は、「時の少女像」というんだそうです。冬で寒そうなので、どなたか親切な方が毛糸のショールを作って着せてあげたのでしょうね。さらにここには、万葉歌碑もありました。「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
はい!奈央です。久しぶりのお出かけ系のブログです。先日、関東の企業様を訪問したことを書きました。その帰り道、京都に降りて、近江へと向かいました。京都駅のコンコースは、若い人たちや外国からの旅行者達で溢れかえっていました。そういえば、数年前にこんな感じで京都にやってきたことを思い出しました。6年も前の事だったんですね。あの時も外国人の旅行者が多くて、バスにも乗れず、結局、あまり観光客が来ない静かな道を歩いて散策しました。でも、今回は、明確な目的地があります。それ
【火曜日は百人一首、にほんのひ】飯野和好さん、八助の寺子屋日記その一話。二話がとても面白く、一話も読んでみたいと予約。江戸時代のてらこやも、子どもたちを集め読み書きそろばん、教育しながらゆたかなじかんをすごす。飯野和好さんがえがくように個性ゆたかな子どもたちと過ごしていたのだろう。はちすけえらい、素敵、すくすく育てよーい。百人一首。ふくしゅー。新天地になりカルタを一度もせず五ヶ月が経ちました。きょうは天智天皇。長男小3、いちおう歌を覚えてました。こつこつ。100年読み継がれる名作
愛の擬人法(treeluv2.jpg)(treeluv3.jpg)(fingerluv.jpg)(love109.jpg)小さな赤い花(lotus1.gif)わたしをあなたの庭に咲く小さな赤い花にしてくださいそして、お水を注ぎながら何かお話を聞かせてくださいわたしは何も言えないけれどあなたの言葉を聞きながらいろんなことを思うのですあなたに愛されるようにいつまでも綺麗に咲いていますだからわたしのことを忘れずにいてくださいbymer
名作の語りべ芙美のブログにお越しくださいましてありがとうございます「万葉集」その一をYouTubeにアップしておりますので下のサムネイル画像をタップしてお聞きくださいませ今後ともどうぞよろしくお願いいたしますスタンドエフエムにも朗読をアップしておりますそちらものぞいていただけると嬉しく思いますスタンドエフエム【おもひぐさ】万葉集は4516首の歌があり20巻からなっています【万】はよろずの、沢山の【葉】は言の葉、すなわち歌のこと
\\メイクしながらスキンケア//山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!ようやくたどり着いたあこがれの年金生活‥夢見た悠々自適ゆうゆうじてきの年金生活は、なぜか幽遊自虐ゆうゆうじぎゃくの年金生活にさま変わり‥だがしか~し転ころんでもただでは起きないのが団塊だんかい育ちのいじましさ!つかんだ節約せつやくテクニックを余すとこなくご披露いたしましょ~ぅこちらからどうぞ日本の7世紀の政治情勢は、天智天皇の即位と短期間での崩御によって激動の
人間関係の変化を感じるみなさん、おはようございますお彼岸ですご先祖様とお話をしてくだい何をしたかったか代わりに現世でやってくださいアリガトウ「3月19日」の國史です「近江大津宮、遷都」天智天皇6年(667年)斉明天皇(37代)崩御の後称制、皇位に即位せず政務を執ってきた中大兄皇子は都を飛鳥から近江大津宮へ遷都しますそして、遷都後、天智天皇(38代)として即位します近江(滋賀県)は四方を琵琶湖と山に囲まれた天然の要塞です水上