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プロの仕事をしている人~自分の理想とする高みがありそれを目指している人、とでもいうのか?を見るのが好きだ。今日は用事があって、天神から西鉄大牟田線に乗った。目当ての電車が来たので、さてと、と乗り込んだ時大きなはっきりした声で、しかし柔らかなトーンで「どこへ行かれますか?」と私が乗る電車の車掌さんの声がした。”え?な、なに?平尾までだけども。”とこたえようとしたら、あわてるな、呼びかけられたのは私ではなかった。ホームにいる3人組の女子グループに掛けられた言葉だったのだ
御手洗神社から狭い道をすすむと小さな川に出ました。『2024-11-07宇美川そばに鎮座する御手洗八幡宮と飛行機(神功皇后伝説の地)』吉塚駅から宇美川に沿って歩くと福岡空港に着陸する飛行機が何機も見ることができました。こんな撮影スポットがあったんですね。コンデジでも普通に撮影できましたよ。…ameblo.jp普通にあるいているとキレイな鳥が飛び去りました。カワセミです。カメラを用意していなかったので写真は撮れませでしたが自然が残っているんですね。住宅地の中をウロウ
平安時代の貴族と聞いて何を思い浮かべますか?和歌や恋愛、宮中の華やかな暮らしでしょうか。しかし、その裏側には日本の国境を守り命を懸けた貴族もいたことをご存知でしょうか。その一人が「藤原隆家(ふじわらのたかいえ)」です。今回は、彼が1019年に九州で繰り広げた防衛戦「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」についてお話しします。藤原隆家は、関白を務めた藤原道隆の子で、藤原道長の甥にあたる人物です。かつては京都で権力争いにも巻き込まれ、「さがなもの」とまで呼ばれる荒々しい性格で有名でした
1014年三条天皇と中宮妍子の間に待望の子禎子が生まれたが、皇子ではなかった。道長の思惑どおりにはいきませんでした。さらに内裏は火災になり、三条天皇は妍子と共に枇杷殿に移りました。そのため枇杷殿にいた皇太后・彰子は高倉殿に移ることとなりました。高倉殿は、頼通の屋敷です。道長「恐れながら、内裏の2度の火災は天がお上の政にお怒りである証しと存じまする」三条天皇「聞こえぬ。もっと大きな声で申せ」道長「この上は国家安寧、四海平安のため何とぞご譲位あそばされたく臣道長、伏してお願い申し上げ
偉人・敗北からの教訓【BS11】11月23日(土)午後9時~菅原道真・怨霊から神となった平安貴族平安時代、怨霊として恐れられた後、神となった菅原道真の敗北から現代に通じる教訓を探る【BS11】偉人・敗北からの教訓放送時間:毎週土曜日よる9時00分~9時55分【アンコール放送】毎週水曜日(第2週除く)よる8時00分~8時53分www.bs11.jp『菅原道真公』のことを考えると…「はぁなんでこんな目に合わされなきゃなんないわけ」って怒りがおさまら
大河ドラマ「光る君へ」43回「輝きののちに」の感想の続きです。隆家、清少納言と脩子(ながこ)内親王。隆家は清少納言らに謝る。「そなたと脩子(ながこ)内親王を置いて(大宰府へ)ゆくことを許してくれ。」清少納言は「大宰府でお目を治してお戻りくださいませ。」と優しい言葉をかける。隆家は清少納言のことを「いつもかみつきそうな勢いであったが、それがなくなった。」と清少納言のらしくなさを指摘する。(本当に変わったのか?)==============
大河ドラマ「光る君へ」43回「輝きののちに」の感想の続きです。土御門殿。道長、倫子、頼通(よりみち)とその妻、隆姫(たかひめ)。倫子が横で、教通(のりみち)の子を抱いてめでている。道長は隆姫に向かい、「頼通(よりみち)の子を産んでもらいたい。」と話す。その後、隆姫がいなくなったあと、頼通(よりみち)は父・道長に言う。「隆姫にあのようなことを仰せにならないでください。」横にいた倫子は息子・頼通に「父上のようにもう一人妻を持て
ご訪問ありがとうございます。先週の「光る君へ」では、双寿丸(伊藤健太郎さん)が賢子と別れて、主人である平為賢(神尾佑さん)について大宰府に行くという展開でした。NHK「光る君へ」をしへて!佐治芳彦さんより同じ頃、目を負傷した藤原隆家(竜星涼さん)も、名医がいるという太宰府の赴任を希望していましたね。隆家ですが、一条天皇の皇后の宮である定子の弟で、「枕草子」では目立ちたがりでユーモアのある人物に描かれています。クラゲの骨『サロンの華<1>清少納言その4中関白家とのやり取り』
刀伊(大陸の女真族)はまず、対馬・壱岐を襲いました。『小右記(しょうゆうき)』などによると、計184人の住民が殺害され、585人が捕虜となったとあります。そして刀伊はついに外敵の侵入を防ぐための日本側の防衛施設、警固所(福岡市)を落とすために博多へ上陸してきました。しかし、大宰府の藤原隆家の指揮のもと、九州の豪族らが見事、刀伊を追い払います。ふたたび刀伊が船越津(ふなこしのつ=糸島市)へ上陸したものの、逆に捕虜となる者も現れたといいます。大宰府軍はなおも
大河ドラマ「光る君へ」43回「輝きののちに」の感想の続きです。道長&仲間たち(四納言)の作戦会議。道長は帝の様子をみなに話した。「このままでは、帝としてのお務めが果たせぬ。」いつも強硬路線の俊賢は「譲位をご願い奉るのですね。」という。いつも慎重路線の行成は帝の気持ちを察する。俊賢は「内裏中にご譲位を望む気分が高まるようはかりましょう。」という。俊賢の強硬路線でいくことになった。行成は納得できない様子である。(無言であったが。)
九州鉄道記念館、大宰府の麒麟像、大刀洗平和記念館今週は千葉県に戻ってます。天気は良いけどやはり熊本よりはちょっと寒いですね。今回は福岡・山口4泊5日旅の最終投稿です。秋芳洞から熊本に戻りますが、その途中に1泊しながら3か所に寄りました。九州鉄道記念館は旧JNR門司鉄道管理局跡に設置され、JR九州関連の車両等を展示しています。懐かしい車両ばかりでとても楽しい施設です。特に電車運転台に設けられた運転シュミレーターはとても楽しかった。以前は「電車でGO!」良く遊んだし
大河ドラマ「光る君へ」43話「輝きののちに」私の感想③です大宰府に行くことになった隆家が向かった先は脩子内親王のもと自分が後見役なのに都を離れることを詫びるため。その場にはまるで憑き物が取れたような穏やかな表情の清少納言いや、ききょうの姿よかったよかった(きっと清少納言ファンからクレームが殺到したんだろうなNHK)そうだよ❗️恨みは人をダメにする❗️恨みで己の命を支えるなんてそんなの絶対清少納言じゃない❗️サ
先日、知人から福岡のお土産「梅ケ枝餅」を頂きました♪「梅ケ枝餅」は福岡・大宰府名物で、菅公の好物で、梅ケ枝餅を食べると病などを防ぐ特効があると言われています。さまざまなメーカーから梅ケ枝餅が出ていますが、やはり一番なのは「かさの家」のものです。昔、福岡に住んでいた時によく食べていました。モチモチとした薄皮で、甘さ控えめなつぶあんがたっぷり入っていて、香ばしく焼き上がっています福岡空港のターミナル内の「玉屋」でも売られていますが、早いときだと午前中に完売してしまうので、ご注意ください
三条天皇に入内した藤原道長の娘のライバル(娍子=すけこ)が立后した際、その儀式に多くの貴族が道長の権勢を憚って参列しませんでした。ところが、藤原隆家は敢えて参列してその気骨を示しました。よって『大鏡』は隆家を「さがな者(規格外の人物)」と評し、道長との比較で隆家が政権をとったら「天下の政(まつりごと)は隙間なく治まる」という世評を載せています。政治家としても期待されていたことがわかります。その「規格外の男」は、寛仁3年(1014)、太宰権師(当時の外務次官)に任
ホルモン補充してきましたあの💉なんであんなに痛いのHCGもだけど筋肉注射痛いでも頑張りました💪上手くいくといいなそんで娘氏は今日から修学旅行朝5時半に家出て6時半出発していきました🚎うちらもついでに下関までぶらり旅をしてきました晴れてたらよかったけど小雨だよねえでも楽しかった♥️次は娘氏がおるときにでも来年は受験生だからね大宰府行かなきゃ🚗³₃ではでは
(ネタバレあり)ドラマは1013年から1014年(長和3年)の出来事になります。長和2年(1013年)7月、中宮妍子(倉沢杏菜)が内親王を産みます。道長は男の子でなかったことで落胆します。まひろが「帝にすらことさらあしざまにお耳にいれる人がいる・・・・」と書いていました。「源氏物語」は51帖「浮舟」まで書き進んでいるようです。宇治十帖も後半部分に入りました。もうすぐ終わりです。内裏で火事が起きたことにより、長和3年(1014年)2月、彰子(見上愛)が頼通の高倉殿に移り、そこで敦
※2024年10月17日訪問※中門跡の西側、史跡公園の西側を走る道路沿いには【西南建物跡】の案内板が建てられています西南建物跡についての説明などは有りませんでしたが廃寺にまつわる何かしらの建物が存在していたようです✨史跡公園側には、発掘調査時の写真が掲載された大きな案内板が設置されていましたがかなり年季が入っていて少しわかりづらいのが残念ですが、拡大してみると何とか見えてきそうですこちらは伽藍配置の配置図側面から見た多賀城廃寺の復元図なども掲載されていますね【特別史跡多賀城廃寺跡
※2024年10月17日訪問※続いては伽藍配置の南側に位置していた【中門跡】です下の画像の復元模型で言うと中央下の部分に見える門ですね※復元模型は東北歴史博物館所蔵※【中門跡】の石碑も設置されていますね✨こちらも遺構部分が表面展示されていますね✨▲陸奥国・多賀城跡附寺跡廃寺跡・南西建物跡/特別史跡▲に続く
先日のNHK-Eテレの番組、「知恵泉」で、平安時代の貴族、藤原隆家を紹介していた番組の中で、隆家が異国との戦いに立ち向かった話がありました。寛仁3年1019年の刀伊の入寇。当時は秩序を保つため、朝廷の許可なく戦闘を行うことは、禁止されていました。隆家はすぐさま許可を求め使者を送りますが、書状の往復には少なくとも20日はかかります。仕方なく、隆家は自らの判断で、兵を集め、大宰府の正規兵と共に戦うしかし、地元の豪族の士気があがらない
大宰府で失意の内に亡くなったはずが…神楽ならではの筋立てで仇敵を討つ策謀により大宰府に流された菅原道真恥ずかしながら、菅原道真といえば学問の神様、という認識しかなかった。10月27日、安芸高田市の神楽門前湯治村、神楽ドームの昼公演での第一演目は黒瀧神楽団による「菅原道真公」。会場で用意された資料にあるあらすじによると、主人公道真の復讐、大立ち回りが軸になっているようだ。学問の神様が見せる旧敵との激闘やいかに、興味津々でかぶりつきに座った。史実によると、9世紀末に宇
※2024年10月17日訪問※続いては伽藍配置の南西に位置していた【塔跡】です下の画像の復元模型で言うと真ん中に見える三重塔ですね※復元模型は東北歴史博物館所蔵※少し盛り上がっている遺構部分が塔跡です【塔跡】の石碑も設置されていますね✨こちらにも塔の建物を支えていたと思われる礎石が残されていました塔跡の中心部には丸い穴の空いた礎石が残されており、いわゆる【心柱】のような柱が建てられていたのかもしれませんね▲陸奥国・多賀城跡附寺跡廃寺跡・中門跡/特別史跡▲に続く
★おすすめグルメランキングはコチラ★参拝後は、何か甘いものが食べたいね~ということで、参道をプラプラ。八女茶スイーツを探していたのですが、ドンピシャで素敵なお店を発見!!「香菓(かぐのこのみ)」さんです。賞味時間はたった5分の金糸モンブラン!はいここに決定~(^0^)椅子はなく、サクッと食べるスタイルのお店の用です。金糸モンブランは熊本産和栗を使用しているようで、細さ1mmの極細仕上げ!和栗のほうと迷いましたが、今回は期間限定の八女茶で!注文をするとお姉さんが目の前でスルス
※2024年10月17日訪問※続いては伽藍配置の南西に位置していた【金堂跡】です下の画像の復元模型で言うと左下に位置する大きな建物ですね※復元模型は東北歴史博物館所蔵※【金堂跡】の石碑も設置されていますね✨金堂跡にも講堂跡と同様に、礎石が規則的に並べられていますね✨一つ一つの礎石もかなり大きく、立派な建物が建てられていたのでしょうね✨▲陸奥国・多賀城跡附寺跡廃寺跡・塔跡/特別史跡▲に続く
★おすすめグルメランキングはコチラ★いよいよ太鼓橋を渡り大宰府本殿へ!平日ということもあり、そこまで混んでいる感じはありませんでした。(鎌倉の方が凄いような印象です)ご本殿は124年ぶりの大改修により、2026年まで仮殿での参拝になります。国際的に活躍する建築家、藤本壮介氏によるデザイン・設計なのですが、なんだかジブリを彷彿とさせるような世界観です。しっかりお願いした後は、ここでお土産の御守りやらあとは今年同じく受験のお友達も多いので、鉛筆やらたくさん買い込み、もちろん絵馬にも
※2024年10月17日訪問※続いては伽藍配置の中央に位置していた【講堂跡】です下の画像の復元模型で言うと中央に有位置する大きな建物ですね※復元模型は東北歴史博物館所蔵※【講堂跡】の石碑も設置されていますね✨廃寺内の中でも広大な面積を誇った講堂跡には当時の物と思われる【礎石】が残されています✨規則的に配置されており、かなりの大きさの建物で有ったと予想されます✨一つ一つの礎石もかなり大きいですね✨▲陸奥国・多賀城跡附寺跡廃寺跡・金堂跡/特別史跡▲に続く
※2024年10月17日訪問※続いては伽藍配置の北西に位置していた【経楼跡】です下の画像の復元模型で言うと左側に有る楼閣の建物ですね※復元模型は東北歴史博物館所蔵※【経楼跡】の石碑も設置されていますね✨こちらも遺構部分が表面展示されていますね✨▲陸奥国・多賀城跡附寺跡廃寺跡・講堂跡/特別史跡▲に続く
先日のNHK-Eテレの番組、「知恵泉」で、平安時代の貴族、藤原隆家を紹介していた番組の中で、隆家が異国との戦いに立ち向かった話がありました。藤原隆家が立ち向かった、ということですが、なぜ、隆家が九州にいたのか。という部分を書きたいと思います。(↓)この4年前、隆家は目の病気を患い、視力の低下に苦しんでいた。そして、藤原実資に相談を寄せた。実資は周囲から一目置かれていたが、ひとこと、ふた言を物申すうるさ型であった。だが、隆家のことは
筑紫の大宰府(地名は太宰府)に左遷された。昌泰4年正月25日、従二位で右大臣の道真を大宰権帥(ダザイノゴンノソチ)に任命するとの宣命が発せられ。古くから、大臣が罰を受けた折は、権帥として太宰府に遣わすのが例となっていた。政治上の罪人として派遣されるのだから、権帥の名はあっても政務をとる事はなかった。2/1には、京を発ち、今の長岡天満宮のある地は、菅原家の領地だったとされる。道真はここに立ち寄り、腰掛けて京を振り返った石が「見返り
※2024年10月17日訪問※続いては伽藍配置の北西に位置していた【西倉跡】です下の画像の復元模型で言うと左上に見えている建物ですね※復元模型は東北歴史博物館所蔵※【西倉跡】の石碑も設置されていますね✨こちらも遺構部分が表面展示されていますね✨▲陸奥国・多賀城跡附寺跡廃寺跡・経楼跡/特別史跡▲に続く
★おすすめグルメランキングはコチラ★本当は参拝前のお食事はあまりよくないらしいのですが、お昼前で誰も並んでなくタイミングがよかったので先にお昼を食べることに。何故か今年になって周りで福岡に行く人が多くて、「ここ美味しかったからおすすめだよ~」というお店を幾つか教えてもらいました。まずは明太子の「ふくや」さん。テイクアウト用の明太茶漬けが有名ですが、奥のイートインスペースで食事をすることが出来ます。我々の目当てはこちら!「明太茶漬け膳二重の塔仕立て」です♪まるでハイティーのよう