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大坂冬の陣の終結は、徳川軍が放った大砲が、淀君の御座所(居室)を直撃し、淀君が恐れ、秀頼に和睦するように懇願したためでした。
家康が大坂冬の陣で勝利できた理由黒井ドラゴン3.22.20263月18日放送のNHK『歴史探偵』戦国スペシャル・豊臣大阪城をONEで見た。大坂の冬の陣の際、豊臣方の非常に堅固な惣構えがあったにもかかわらず、家康が勝利できたのは、家康がヨーロッパから最新鋭の大砲を導入し、使ったからだった。もし、家康がこの時に大砲を使っていなかったら、おそらく家康は、豊臣方の堅固な惣構えによって敗北していたのではないか、と思った。家康が大坂冬の陣で勝利できたのは、家康が普段から
安曇野、いまだアルプス颪の寒風きびし!しかし…やっと!我が家の庭先に福寿草が。春近し!なれど、レポはまだ冬の候楠木正行公碑から中之島の木村重成の巨碑へ。初めて見て感動したのは8年も前。小楠公碑から近かった。あぁ、懐かしや、久しぶり!しかし前来た時とおんなじ、だれも碑なんぞ見ていない、通り過ぎるのみ(寂笑)。碑には「木邨(村)長門守重成表忠碑」と刻まれている。これは8年前↓、石碑の亀裂が修復されていた↑。木村長門守重成は、豊臣秀頼に仕えた側近の武将。大坂冬の陣・夏
1614年の大坂冬の陣において、豊臣方が守る今福砦を徳川方の佐竹義宣が奪ったが、木村重成や後藤又兵衛が来援して激戦となった。古戦場は大阪市城東区今福西1の住宅地の中にあり、祠と鳥居が建てられている。
1614年の大坂冬の陣において、豊臣方の井上頼次が守る鴫野砦を徳川方の上杉景勝が奪ったが、木村重成や後藤又兵衛が来援して激戦となった。大阪市城東区鴫野東3の城東小に石碑や説明板があり、隣の八劔神社には「上杉景勝本陣之地」の石碑がある。
今年も「建国記念の日」がめぐってきました。大事な話ですので、リブログのそのまたリブログをします。
1/26、京の冬の旅で特別公開中の豊国神社と方広寺へ豊国神社は、今月二回目だわ豊国神社の公開は、書院と宝物殿だが、宝物殿の方は、料金はかかるが常時入れるのだが、今回は目玉があるここは、入場料が、柴三郎一人とちょっと高いが、チケットサイズのクリアファイルが付き豊国神社、宝物殿の中も含めて、全て書院一部屋だけの公開学生のボランティアガイドが説明をしてくれるのだが、結構たどたどしかった豊国祭礼図屏風これは、レプリカでモノホンは宝物殿洛
1月18日の出来事350年マグネンティウスがローマ皇帝コンスタンス1世を殺害し自ら帝位に就く。1020年(寛仁3年12月21日)藤原頼通が関白に就任する。1486年ランカスター家のイングランド王ヘンリー7世がヨーク家のエリザベスと結婚し、薔薇戦争で対立していたランカスター家とヨーク家を統一。1615年(慶長19年12月19日)大坂冬の陣で和議が成立する。1701年フリードリヒ1世が初代「プロイセンの王」に即位。1871年ヴェルサイユ
『【おでかけ】大阪京都旅行記①』万博に3回も行ったのにイタリア館には行けなかったのでイタリア館で展示されていた天空のアトラスが大阪市立美術館で見られるとの事なので行ってきました大阪市立…ameblo.jp美術館を出た後はすぐそばにある茶臼山に向かいます大坂冬の陣では徳川家康、夏の陣では豊臣方の真田幸村の本陣として、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台として知られている場所です昼食はカフェシエルでハンバーグセットを頂きました1000円でこのボリュ
目元が好きな芸能人は?▼本日限定!ブログスタンプ木津川口の戦い(1614年)-Wikipedia12月19日-Wikipedia1614年の今日は木津川口の戦い(1614年)が始まった日です。事実上、大坂冬の陣が始まった日です。幕府軍が木津川を占領、豊臣軍が苦渋の決断(和睦)をするほど追い詰められた事件でもありました。・大坂冬の陣・夏の陣古戦場「大坂冬の陣・夏の陣」は、「関ヶ原の戦い」の勝利によって江戸幕府の征夷大将軍となり、天下の覇権を握った「徳川家康」が、大坂城(のち
大阪市天王寺区を訪れた続きです天王寺公園の北側にある「茶臼山古墳」遊歩道が整備されていて公園の一部となっています茶臼山といえば、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川家康が、本陣を構えた場所慶長20年(1615)の大坂夏の陣では真田幸村が、本陣を構えた場所としてとても有名です後円部と推定される墳丘の上にあがってきました茶臼山の山頂とされている場所です石碑がありました真田家六文銭の家紋が付いています反対側には、
❄️大坂冬の陣―豊臣の誇りが燃え、徳川の策が凍てつく―🏯序章:天下分け目の“再戦”慶長19年(1614年)。関ヶ原の戦いからわずか14年、再び日本の覇権をめぐる戦火が上がりました。この戦いは単なる城攻めではありません。それは、徳川家康が「豊臣という記憶」を葬るための最終戦であり、同時に、豊臣秀頼が「父の遺志」を守るための孤高の抵抗でもありました。📜平和の裏で進んだ“豊臣包囲網”二元支配の不安定構造1603年、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。だが、
最初は息子の様子を聞くだけで良かった。話を聞くたび心の中で泣いていた。しかし、見受けの話が出た時、ここで断ったら二度と息子の話が聞けない、と思ったら、いつのまにか播磨屋の申し出を受けていた。あれほど不安だったのが、播磨屋に嫁ぐのが楽しみになった。そしておそのは、ついに播磨屋の御新造さんとなった。はじめは店の者も、遊女に狂って主人がおかしくなったと陰で噂していた。おそのに向ける視線も冷たかった。汚いものでも見るように、おそのは孤独だった。しかし、おそのは一通り
石打ちとは、「印地(いんじ)」ともいい、昔から正月や五月五日に、子供が大勢集まり二手に分かれて石投げをする行事だ。しかし、投石により、怪我や死亡は日常茶飯事に起こる。京の石打ちで亡くなったとすれば、その亡くなった子供がほんとうに真田の忘れ形見か、という疑問があっても、ありえないことではないのだ。おそのは自分の子供を、進さんの言っていた真田の忘れ形見に重ねたのかもしれない。進さんがわざわざ繰り返し繰り返し話したこと、それは、ほかの者に話してほしい、と言わんばかりの切なる願い。
大八が京の石打ちで死んだことにするとは、重綱の策であった。大坂の残党狩りに対する徳川の追跡は緩むことがない。大御所(徳川家康)が高齢であればこそ、生きているうちに大坂方の者を、一人残らず根絶やしにしたいとの強い思いは、誰もが恐れるほどしつこく粘りついてくる。それから逃れるには、すでにこの世にいないことにする以外、手立てがない、と、いうのが重綱のたどり着いた答えだ。それには全国を回って、触れ回る必要がある。この国を歩きつくすだけでもどれほどの時が必要だろうか。もしかした
幸村は首をまわして、後ろに目を向けた。先ほど、幸村が見つめていた内堀を埋めているさま。そう、政宗も見つめていた内堀を埋めているさま。その思い、徳川方のやりように対する、やり場のない怒りともつかぬ感情。その思いが、もしやこの男、真田幸村も同じ気持ちではないのか、と思ったからだ。つい、この古い知己である幸村に、かつて信繁と呼ばれていた頃の幸村を重ねてしまったのかもしれない。「真田殿、このいくさ、このまま終わるであろうか」幸村は埋められていく内堀を見ている。「終わらぬでし
政宗は何が聞きたいのだろう。何も聞きたいことなどない。幸村が大坂城に入城したのは、幸村なりの考えあってのこと。若い時から長い時間、幽閉されていたのだ。貧しくとも平穏な生活だったはず。それを捨ててなお、そのまま終わりたくなかった。幸村ほどの才があれば、その才を活かしてみたい、たった一度の人生、その命を燃やしてみたいと思うのは当然のことだろう。この戦国の世に翻弄されて生きてきた、危ない橋を何度も渡って来た政宗であればこそ、幸村の気持ちがわかるような気がした。「城へは、その・
家康の側室になった元武田の家臣の娘阿茶、大坂冬の陣で淀殿、淀殿の妹初との和議役で大阪城の内濠を埋め、夏の陣で豊臣方を滅ぼした功労者である。阿茶は戦場へ家康と行く事が多く、影の参謀的存在となり、また家康との間の子がない事で良き世継ぎを育てる乳母役となる。阿茶は女として、子を持たない側室として家康の精神的な面も理解し、家康が亡くなるまで多くの親族の支援を惜しまなかった存在である。阿茶の父飯田直政の言葉「まず今できる手を打つ、打たねばならぬ手を討つ。目の前にある、己が果たさなければならぬことをする。
大阪1泊3日の旅2日目。朝7:00、宿を出て。新世界内の朝からやってるお店できつねうどんをいただき。雨の中をテクテク歩いて天王寺公園方面へ。天王寺公園に入る前に。一心寺さんに朝のご挨拶そして天王寺公園へ。水辺(河底池)からの眺め上の写真の赤い橋(和気橋わけばし)からの眺め大都市なのに空が広い(遠くに見えるは通天閣)橋を渡って少し歩くと登り階段。登って行くとすぐに頂上。茶臼山(標高26m)大阪五低山のひとつ大阪夏の陣(真田幸村の陣)、大坂冬の陣(徳川家康
#中学歴史・人物編#徳川家康④#大坂冬の陣豊臣家にはまだ豊富な金と大阪城があったhttps://www.youtube.com/watch?v=QyZrFwqmuOs
三光神社の歴史…ちょっと長いっす🙇🏻反正天皇の時代の創建と伝えられる創建以来武内宿禰(長寿・忠誠の神伝説の忠臣)の末裔の武川氏が神職として奉職し現在は86代目と伝わる🧐社伝によれば寛文元年(1661年)に一時円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったというかつては「姫山神社」と称し一帯は「姫の松原」と呼ばれていた中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現・宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現・青麻神社)を勧請しそちらの方
三光神社創建は5世紀のはじめと言われる古社全国で唯一「中風除け」の神を祀る神社です御祭神は、天照大神・月読命・素盞嗚命また、末社の一つには武内宿禰社があり、大阪七福神の寿老神として祀られています境内には、大坂冬の陣で指揮をとる姿の真田幸村公の銅像大阪城から2kmほど離れた、真田幸村が真田丸を築いたとされる宰相山公園内にあり、全面的に真田幸村推しです(笑)御朱印帳も格好いい(お借りした画像)敷地内には、大坂冬の陣の
今回は、現在の大阪府大阪市天王寺区にあったとされている真田丸出城です。大坂城の曲輪の1つではあるものの、某お城巡りアプリなどで城として数えるケースもありますので、当ブログでも城として扱います。真田丸出城跡は、現在の大阪明星学園明星(めいせい)中学・高等学校や心眼寺、三光神社周辺にあったとされており、石碑や顕彰碑までは玉造駅から徒歩10~15分程度で行くことができます。玉造駅。JR西日本の大阪環状線と大阪メトロの長堀鶴見緑地線が乗り入れています。JRと地下鉄の接続駅にはなっていますが、
2025年5月9日金曜日曇りのち雨今朝の比叡山です。まだ降ってません。朝食を済ませ、ゆっくり。気圧のせいか、治りかけの花粉症の鼻炎のせいかイマイチ気分があがりません。午前中はネットで調べものです。お昼を済ませちょっと昼寝です。午後の比叡山です。降ってきました。午後もダラダラする。おやつです。阿闍梨餅です。ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。今日は、方広寺の続きです。方広寺:その3は有名な鐘楼です。本堂の南側、豊国神社の槇本稲荷神社の北側にあります。方広寺:鐘
はい、毎月恒例の誰も興味がないであろう私の健康に関する記事ですよ。とはいえ、毎度のことながら特筆すべきことはないんです。なら、こんな記事も書く必要がないのでは?と思ったものの、「特筆すべきことがない」という記録も残したほうがいいのかもと考えた次第。CPAPの装着率は6割くらいですかね。疲れて寝落ちしてしまうと着け忘れてしまいますな。こればかりは入眠のルーティンを確立する必要があるでしょうかな?ベッドに横になってスマホをいじってたらいつの間にか寝落ち…じゃいけないんですよね。心配して
皆さんおはようございますディズニープラスで配信中の日本を舞台にした本格歴史ドラマSHOGUN-将軍。エミー賞史上最多の18冠に輝くなど、世界的に話題となったこの作品。既に続編の制作開始が発表されており、追加情報が気になるところです。『やはり続編があるらしい!ディズニープラス独占配信の歴史ドラマ'SHOGUN'!!』今日も遊びに来てくださってありがとうございますディズニープラスで独占配信していた歴史ドラマSHOGUNについて、先月最終2話の劇場での上映会に招
南光坊天海(141)「十一日、岡山御営に蜂須賀阿波守至鎮をめして、去年穢多が崎幷仙波表の軍功を褒せられ、御感状に順慶左文字の御刀そへてたまはり。」(「台徳院殿御實紀」)家康が帰国の途についても、秀忠は岡山の陣を離れなかった。大坂城の埋め立てを進めながら逐一、家康にその進捗状況を報告していたのである。秀忠は、至鎮を岡山に召すと、その働きを称え、感状と順慶左文字の名刀を授けた。家人の稲田修理亮示植には、感状と長光の名刀、その子・植次にも感状と延壽の名刀を授け
南光坊天海(140)「大御所には明後三日御出京あるべしと令せらる。」(「台徳院殿御實紀」)正月3日には、京を発つというから、近習は準備に大忙しである。どうやら名古屋で鷹狩をすると決めたようだ。「鷹狩はよい。心が俗事から離れ、清々しい気分になる。飯はうまくなり、夜もよく眠れる。」というのだ。正純から、「岡山の御陣が手薄である。」との注進が来た。家康は本多忠政、松平忠明に陣替えを命じて、秀忠の警護を固くした。また、松平康安、水野分長、松平勝隆には大和郡山城の
南光坊天海(138)「家康、近江彦根城主井伊直継(直勝)ノ弟直孝ヲシテ、彦根ニ帰リ、其仕置ヲナサシム。」(「資料総覧」)井伊直孝は、家康から井伊家の大将を命じられ、大坂の陣に臨んだ。結果は井伊家と同じ赤備えの真田隊に惨敗したのであった。しかし、家康はその陣立てに「直政」を見たのである。直政はその外連味のない戦いぶりに「井伊の赤鬼」と呼ばれた。どこか直政に似る直孝は、やがて「井伊の赤牛」と呼ばれることになる。家康は正式に直孝に井伊家の家督を継がせた