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南條元忠の墓南條氏が拠点とした羽衣石城(模擬天守閣)安土桃山時代に伯耆国を拠点とした武将・南条元忠は、天正19年(1591)に、父・南条元続の死去に伴い家督を継ぎます。しかし、当初は13歳と若年であったため叔父の小鴨元清が後見人を務めています。朝鮮出兵へも元清が参加しています。慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では西軍につき、伏見城・大津城を攻めますが、西軍が敗れたため、羽衣石城を追われ浪人の身となります。慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」では、旧臣とともに
大坂冬の陣の大坂方をクリアするべく、大将豊臣秀頼公をゲットするべく摂津に武将を派遣。淀殿を派遣しました。2日かけた結果・・・せめて豊臣秀頼さん引っ掛けようぜ七里って本願寺の方では・・・!?期待を思いっきり裏切ってしまった淀殿をフォローすべくこの人がやってくれました。荒木村重って秀吉と光秀の説得を蹴って信長を裏切ったやつじゃ・・・ともあれファインプレーでした。そして次々とそろっていきます。麒麟がくるでは風前の灯な感じになってしまったこの方も来ました。大坂の陣には
【問題】池田輝政の子・池田忠継は、大坂冬の陣では幕府方と豊臣方、どちらに属して戦ったか?【選択肢】幕府方豊臣方【正解】幕府方【解説】池田忠継は輝政の子として、慶長4年(1599)に生まれた。十代の時に訪れた大坂冬の陣に幕府方として参戦したが帰国後に発病し、翌年死去した。享年17。
※和意谷池田家墓所「二のお山」池田利隆公、正室鶴子の墓所・・・向かって左(奥)が利隆、右(手前)が鶴子の墓です池田利隆公、鶴子の墓戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573
1614年大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、その後、北条氏重・小出吉英と続き1619年には松平康重が城主となります1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと1619年に大坂は幕府の直轄地となり1620年将軍徳川秀忠の命により大坂城の再建が始まり、その大坂を挟むように守る役割が尼崎城と岸和田城でした。この時期に外様大名の小出秀政が但馬の出石に転封となり譜代大名の松平康重が城主となります1623年に伏見城が破却されると矢倉などが移築され松平康重は山崎城へ転出し1931年には高槻