ブログ記事39件
佐保川天満宮大和国添上郡奈良市西包永町44(P無し、近隣停め置き不可)■祭神菅原道真「佐保川」の北側縁、「多聞山」(旧「眉間寺山」)の南麓に鎮座する社。「多聞山」には聖武天皇陵・光明皇后陵が築かれ、中世には「多聞山城」が築かれました。◎創建由緒については、社頭案内が以下を示しています。━━奈良朝の昔、雷神即ち「天の神」を眉間寺山(多聞山)に祀り、山の守護神として「天神の宮」と呼び、広く信仰されたのが始まりであると伝えられています。その後、永禄3年(1560年)松永弾正久秀が多聞山
☆聖武天皇佐保山南陵大和国添上郡奈良市法蓮町(P無し、近隣停め置き不可)第45代聖武天皇の治定墓。東隣には光明皇后陵が築かれています。東大寺の北西に位置し、また光明皇后ゆかりの法華寺からはほぼ真東にあたります。北方には元明天皇陵(記事未作成)や元正天皇陵、またわずか一才で薨じたという聖武天皇の第一子、基王の那富山墓も。「東大寺要録」という書には、築造後に東大寺が山守司を置いて祭祀を行っていたが、陵の前に眉間寺という仏教施設が建てられ、奉祀したとのこと。永禄二年(1559年)に松
玉鐵稲荷神社大和国添上郡奈良市川上町(詳細住所不明、民家「川上町564-19」の東隣)■祭神宇迦之魂神「多聞山城跡」の南側麓に鎮座する社。◎現在の「若草中学校」が建つ、かつては「眉間寺山」と称された標高100m余りの低山に、松永久秀により築城されたのが「多聞山城」。永禄二年(1559年)のこと。四層の天守を有したという、当時としては先進的で、非常に美しい城であったと伝わります。◎城跡はかつて「眉間寺山」と称されていました。聖武天皇陵と光明皇后陵が並んで築かれており、その陵の前に眉
本日は大和侵攻。基本的に遊びは超朝型なので、なんと出立は7:10ころ(^^ゞ近鉄奈良站の観光案内所で地図でも貰おうかと思っていたら、OPENは9:00とな。まだ30分以上ある。ま、奈良市中心部は方角・距離感あり、地図無しでも歩けるからええけど。近鉄奈良站前の行基像。ところでこの行基像、ビミョーにズレた方向(東北東??)を向いているが、なにを見ているのか?答え:だいぶったん(奈良大仏)の方向を見て立っておられるのです。以上、今日のマメですた。
多聞山城A3サイズ#多聞山城#お城#ジオラマ
城コレ多聞山城・奈良県戦国の城・松永久秀#多聞山城#お城#ジオラマ#松永久秀
多聞山城の続き
多聞山城の縄張りが出来ました。#多聞山城#お城#ジオラマ
松永久秀の多聞山城A3サイズの縄張り製作中#多聞山城#お城#ジオラマ
5/20(月)、天気がいいこともあって、前々から再度登城しようと思っていた「信貴山城」(奈良県生駒郡平群町)へ行きました。というのも、6年前に登城したのですが、当時はまだそんなに山城に興味もなく、ケーブルカーで古代山城「高安城」を見てから、「松永屋敷跡」脇をチラリと見ただけで通り過ぎ、主郭である「空鉢護法堂」へ辿り着いただけでしたので、詳細まで観察できていませんでした。特に今回は、最近よく話題にあがる「松永久秀」のお城であり、その「松永屋敷跡」をシッカリと見たかったということでした。
東大寺二月堂修二会のお松明を観た翌朝は、奈良きたまちの宿から東大寺を巡るウォーキング人影も鹿影もまばらな早朝の東大寺境内荘厳な大仏殿の前で、昨年はミーシャが、2010年はサラ・ブライトマンがライブを行いました。鏡池に映る大仏殿も綺麗に撮れました✌️鐘楼手前の猫段から見る大仏殿も好きです。重さ26.3トンの梵鐘(国宝)は東大寺創建当初のもの、修ニ会の期間以外は毎夜8時に撞かれます。東大寺からの帰り道は勧学院の土塀に沿って東へ、写真家入江泰吉旧居や戒壇堂があります。戒壇堂の北側、東大
「奈良公園の鹿さん」シリーズ。「2023夏」編の1回目は初夏6月です。『興福寺南円堂』の近く。最初に子鹿を見つけた場所はここ。塀に囲まれて、人が入れない場所。こちらを見ている様な子鹿。細い脚でも力強く歩き回ってます。『飛火野園地』。大きな木の根元に隠れる様に座っている子鹿。『春日大社参道』。好奇心旺盛に見える子鹿。母鹿に甘える子鹿。別の日。『奈良国立博物館』の芝生広場。暑くなってきたので、水分補給は重要です。無防備な格好で寝ている鹿さん。『東大寺鐘楼』。鐘の方を見つ
【問題】多聞山城(奈良県奈良市)を築いたのは次のうち誰か?【選択肢】荒木村重明智光秀佐久間信盛松永久秀【正解】松永久秀【解説】多聞山城は永禄2年(1559)、松永久秀によって眉間寺山と呼ばれる山に築かれた。その壮麗さは、宣教師のルイス・デ・アルメイダの書簡にも書き残されている。
9/30(土)に、大阪難波の歯医者へ行った後に、前々から行きたかった中世城館である「上窪田環濠集落」(奈良県生駒郡安堵町)へ出向きました。ここは、城郭考古学者の「千田嘉博」先生の著書「歴史を読み解く城歩き」の中で、”当時の姿を留めている中世唯一の館城(やかたしろ)がある”とのことで「上窪田環濠集落」とその中に建つ「中家」が紹介されていました。それを見学する為に、近鉄「大阪難波駅」から「近鉄奈良線」に乗車し、「大和西大寺駅」で「近鉄橿原線」に乗換えて「平端駅」で下車しました。当日
先日読んだ今村翔吾の『塞王の楯』が気楽に読めて面白かったので、息抜きにもう一冊、2020年に山田風太郎賞を受けた『じんかん』も読んでみることにした。主人公の松永弾正少弼久秀といえば、先の大河『麒麟がくる』で演じた吉田鋼太郎の顔がまぶたに浮かぶくらいで、詳しくは知らなかった。この小説にある、彼の幼少期などはおそらく創作なのであろうが、面白い。この人物の生い立ちからすべて、織田信長が小姓に問わず語りするという構成である。第1章:松籟の孤児:いきなり織田信長が出てくる。松永弾正が、1
核戦争回避が基本的立場第3次大戦ありうる、ロシア外相信濃毎日新聞第3次大戦が起きる可能性は「十分にあり、過小評価すべきではない」と述べた。その上で、ウクライナに武器を提供し続ける欧米側を暗に批判した。ダットン国防相「戦争が起きないふりをするな」|NICHIGOPRESSNICHIGOPRESS4月25日のアンザック・デーに保守連合政権のタカ派で知られるピーター・ダットン国防相が、またもや中国やロシアを第二次世界大戦のナチ・ドイツになぞらえ、「...すでに北大西洋条約
きのうは宇陀松山城(続100名城)を訪問しました。石垣が残りいい城でした。昨日の続きで奈良奉行所の最終回です。今回は奈良市立史料保存館後編です。初めは元興寺(がんごうじ)の礎石からです。敷地内に展示されている元興寺の鐘楼の礎石です。中新屋町から出土した石で、奈良時代の元興寺は飛鳥寺が奈良に移転したときの寺で、当時は興福寺よりも大きかったようです。しかし、江戸時代には幕府より100石の寺領をもらっていたのが、明治維新でなくなります。寺領があったので、庶民
今回は国宝の転害門です。多聞山城関連なので番外としました。下図⑳から一条通り(平城京の南一条大路)を東に歩き、東大寺西門である転害門まで行きます。グーグル地図です。地図右下に東大寺西門と書いたのが転害門です。⑳の左側(西側)の橋が法蓮橋です。上図の佐保川天満宮から東方向です。この道の行き止まりが転害門(東大寺西門)です。この通りが下図の一条通り(平城京の一条南大路)です。平城京地図です。突き当りに転害門が見えてきました。さらに進むと
昨日の続きです。今回が最終回で佐保川天満宮と多聞山城の廃城です。下図⑲から法蓮橋方向です。法蓮橋に戻った所です。この法蓮橋は昭和6年に尾田組により竣工しましたが、江戸時代もここに橋があり、千石橋と呼ばれていました、多聞町の与力・同心へ年間千石の米が運ばれたので、そう呼ばれたと言います。⑳の所に行くと⑳から西方向です。この東西の道は平城京の南一条大路にあたる道で、現在は一条通りと言われています。先の方に見える提灯の所に行くと佐保川天満宮です。下
昨日の続きです。今回は多聞山城が出来る以前から、眉間寺とともに、眉間山(多聞山)には佐保川天満宮がありました。眉間寺は西の丸になった聖武天皇陵の下に移されました。天満宮も多聞山城が出来るときに、佐保川沿いに移転させられました。江戸時代1800年頃の多聞城跡です。(1791年の大和名所図会眉間寺より)聖武天皇陵の下に移された眉間寺は、江戸時代に幕府より100石の寺領を拝領して存続しましたが、明治維新に寺領を失い廃寺となりました。図の右下は佐保川です。眉間寺は廃城に
昨日の続きです。今回は多聞山城の北側です。下図⑩から⑪方向です。この階段で堀切の下に降ります。右端は若草大橋です。上が南のグーグル地図です。赤い線に沿って歩きました。上図⑪から⑯方向です。もともと窪んでいたここに、さらに上図のように空堀を掘ったと考えられます。約450年前は今の車道よりさらに2mほど深かったと考えられます。この反対側はこれは北方向です。多聞山城想像図です。下図⑫の所に行くと上図⑫から⑪方向です。カメラ
昨日の続きです。今回は本丸です。本丸の一部分を見学させてもらいました。多聞山城の想像図です。本丸周囲は土塁上に白壁漆喰で、瓦葺の多聞櫓(長屋)に囲まれていました。なので防火力のある造りでした。それまでの城には無い構造です。1577年の解体時に「高矢倉」と呼ばれた四階櫓があり、これが四重天守相当の建物でした。本丸御殿は二階建てで、室内には狩野派絵師の絵画がありました。信長のものになっていた、1575年に訪問した、島津家久の日記によると、常御殿は2階建てで、
奈良県庁を奈良市役所と書いたので訂正し再UPしました。昨日の続きです。今回は本丸までです。中学の門ですが、ここには下にあるような遺構の門があったとと考えられます。この門の両側には土塁があります。門の前には空堀があったようです。(下図より)後世の江戸時代に描かれた多聞山城です。(上が北)(広島藩作成の浅野文庫より)解説板です。左側を拡大すると1576年に廃城にされました。建物の一部は旧二条城や安土城に移築されました。石材は破却した筒井氏の筒井城
1枚の写真を追加したので、再UPしています。昨日の続きです。今回は松永家臣屋敷跡の多聞町です。下図⑧から⑨方向です。右の川は多聞城堀代わりの佐保川です。グーグル地図です。グーグル多聞城全体図です。多聞町は松永家臣屋敷跡です。江戸時代になり奈良奉行所が現在の奈良女子大の所に出来て、そのために多聞町には奈良奉行所の与力や同心屋敷が建てられました。今も橋本家など3軒がその子孫にあたります。(多聞城のあとは奈良奉行所の紹介をします)進むと下図
昨日の続きです。今回は西の丸にされた聖武天皇陵です。下図①から②方向です。グーグル地図です。佐保川の法蓮橋です。橋の上から見ると下図②付近の法蓮橋と佐保川です。佐保川は多聞山城の堀代わりでした。多聞山城全体図です。聖武天皇陵です。戦国時代は天皇陵を城として使うことが多かったようです。聖武天皇陵も多聞山城西の丸として利用されました。聖武天皇陵です。この山が多聞山城西の丸でした。聖武天皇陵です。聖武天皇陵の
今回からは多聞山城の紹介です。今日はその歴史です。2022年1月25日に訪問しました。多聞山城の築城者の松永久秀は大阪府高槻市にある東五百住のの出身と言われます。松永屋敷絵図です。高槻市立しろあと歴史館より引用摂津嶋上郡の民間より出て、始めは貧しい者でした。神峯山寺の毘沙門天を信仰したようです。中風の持病があったそうです。松永久秀肖像画です。高槻市立しろあと歴史館より引用茶人でもある久秀は、顔から武闘派ではない印象がうかがえます。弟の長瀬は武
こんばんは歩き方で年齢が分かっちゃう!ウォーキングスタイリストの櫻田です。歩き方で年齢判断できるシステムが東北最大の大きさのショッピングモール利府のイオンにあるとエゴスキューのクライアントさんからお聞きしたので七ヶ浜の帰りに寄りました〜♪いやぁ〜本当に大きくてラスベガスのホテル級とかアメリカのショッピングセンタークラスの広さでした〜イオンモールはヘルス&ウエルネスの推進に取り組んでいるそうで以下のご案内がありました。
暑い…と、日に何度言うのか数えたくもない折から、皆さんいかがお過ごしでしょうか。私など仕事から帰って手を洗ったら、涼を求めてまず冷蔵庫から冷たいお茶を一杯。その後シャワーを浴び、エアコンをつけ、用もないのについまた冷蔵庫を開け閉めしてしまい、せっかくの冷気を逃がしてしまう。まったくエコに反するケシカラン話でして、ここはもっと、文明の利器に頼らない方法でも涼を得るべきでございます。そういえば日本には、夏に涼を得るエコで伝統的な方法がありましたよね。そう。【怪談】です。
「多聞櫓」という櫓の名称の基になった多聞山城は、間違いなく日本の城郭史上、エポックメイキングとなったお城です・・・が、残念なことにその城域はほぼ学校施設に占領されており、学校建設時に多くの遺構が削られたか、あるいは地下に埋められたか、いずれにしてもほぼ地表面にはその姿を留めていないようです。ほぼ唯一残る遺構としてよく紹介される堀切を眺める以外には、このお城の立地そのものを見上げるくらいしか、このお城を偲ぶ術はなさそうに思えます。多聞山城は松永久秀の居城です。乱世の梟雄とか、戦国三大悪人とか
〇わが地元の奈良に残る城郭史上の名城…の今わが地元の奈良県では城として有名なのは大和郡山城に高取城などが有名ですが、いずれもわが地元奈良市とは別です。この前、友人にご紹介していただくまでは西方院山城くらいしか遺構のある城ですが、それ以外には城跡というとどうにもこうにも少ないのが現状です。その中でもっと本気で史跡として残っていたらと残念に思うのが、松永弾正久秀が築いた多門山城です。この城跡が史跡として残っていたら、奈良も安土などと遜色のない城郭ウォッチャーたちの注目の的となっていたのですが、現状