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さてさて…………【近衛天皇陵】がある『鳥羽離宮跡』エリアのすぐ近くに、また別の天皇陵があるこちらも、ココロは2回目の訪問となる【鳥羽天皇安楽寿院陵】京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町形式:方形堂【鳥羽天皇(とばてんのう)】第74代天皇白河天皇の崩御後から30年近くにわたり院政を展開した天皇だ。堀河天皇(第73代天皇)が嘉承2年(1107年)に崩御すると、第一皇子の宗仁親王が即位して鳥羽天皇となった。しかし天皇はまだ5歳と幼く、また藤原摂関家もかつての権勢には及ばなかったため、
さてさて…………【豊国廟】を出発し、【喫茶ぐるんぱ】で美味しいランチを頂いたココロは、この日計画していた最後の目的地へと到着した…………その目的地は、事前にこのエリアの地図を眺めていると目に飛び込んできたのだ到着したのは…………【法住寺(ほうじゅうじ)】京都府京都市東山区三十三間堂廻り町655平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河天皇の御所『法住寺殿』が営まれた。法住寺殿が木曽義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河天皇も崩御すると、【法住寺
さてさて……………【社務所】の方は、この門で3分の2、登ったことになると言っていたなしたがって、残りの石段は3分の1だまだまたハアハア……………徳川家康に破却された【豊国社】以後一切の修理を禁じられ、放置された。こうして【豊国廟(ほうこくびょう)】は、明治13年(1880年)に修築が行われるまで、約300年もの間手付かずにされていたわけだ明治8年(1875年)に【豊国神社(とよくにじんじゃ)】が再興された。この時から【豊国廟】の整備も行われ始め、明治30年(1897年)には阿弥
さてさて……………【新日吉神宮】を出発し、なだらかな坂道を登り、ハアハア言いながら到着したのは………【豊国廟(ほうこくびょう)】京都府京都市東山区今熊野北日吉町豊臣秀吉の死後間もなく作られた【豊国廟】は、現在の東山区阿弥陀ヶ峰麓の太閤坦(たいこうだいら)といわれる広場のところにあったという。そして、この地には【豊国廟】の他にも秀吉を祀る壮麗な【豊国社】も建立されていたが、豊臣家滅亡後に徳川家康によって破却されることとなった『太閤坦』はこの辺りの事かな【社務所】こちらで、登拝料をお
人生斯くの如くか東西お墓巡り[永峯清成]楽天市場2,200円人生斯くの如くか;東西お墓巡りAmazon(アマゾン)857〜6,883円「墓マイラー」という人たちがいます。有名人のお墓を訪れて、故人に思いをはせるのです。この本もその紀行をまとめたのでありますが、その墓に眠っている人の人物紹介の中身が非常に整理されているのです。楠木正成と聞いて普通の人は何となく教科書で学んだ歴史上の人物かな、で終わってしまうところを、その生い立ちから死に至る
2022年5月7日少〜〜し前の話になりますね翌日の5月8日は、『母の日』って事で実家に立ち寄り………『穴山梅雪&平重衝最期の地!!!』本日は、墓マイラー。。(マニアック度★★★★)↓飯岡墓地_遠景JR東西線・学研都市線に乗り、三山木駅で下車。のどかな北東の方角へ歩いて行く。田んぼの先に見…ameblo.jpその後、ぷにゅたさんのブログで知った場所へと車を走らせた………到着したのは………【安福寺(あんぷくじ)】京都府木津川市宮ノ裏274なんと木津川沿いにあるこのお寺に、平重衡
三重県→奈良県→大阪府白鳥陵も最後になりました日本武尊は遠征の帰路に伊勢国能褒野で亡くなりますその後、白鳥になって大和国琴弾原を経由し、古市に飛来します埴生の丘の上を羽を曳くがごとく飛びさり、和泉の大鳥にとどまり、その後天高く飛び去ったと伝わっていますここが羽曳野の由来となりましたにほんブログ村ポチッとお願いします😊大鳥と云えば大鳥大社を指すようですね😊大鳥大社にも日本武尊がお祀りされているのでそちらにもお祀りさせていただきます😃古墳は大型の前方後円墳です古墳時代中
当理事長のあ小村氏が、来年100周年を迎える多磨霊園に向けて動画チャンネルを開設しましたのでお知らせします。すでに100投稿されているので、気になる人物の動画を見てみましょう!「歴史が眠る多磨霊園チャンネル開設」!多磨霊園著名人研究家の小村大樹によるお墓参りツアー一覧はコチラhttp://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/GROUP/list_movie.html第0回(特別編)多磨霊園の行き方道案内&多磨霊園の歴史と建物https://y
日本武尊を巡る旅「能褒野(のぼの)」で亡くなられた日本武尊のお墓はこちらにも伝承がありました😃その地は「能褒野王塚古墳」からほど近くにあります本殿北の白鳥塚は県下最大の円墳で日本武尊の陵墓とされ、本居宣長、平田篤胤らにより延喜の諸陵式のこちらの能褒野墓が有力であると考えました日本武尊が死の間際まで持っておられた「笠」と「杖」を御神体として終焉の地である能褒野墓(白鳥塚)の前に創始されましたこれが神社の始まりだそうですにほんブログ村ポチッとお願いします😊鳥居参道階
今回は三重県で日本武尊を追いかけていきます😊日本武尊は「古事記」、「日本書紀」に出てくる人物ですね三重県の由来とも深く結びついている人物でもありますにほんブログ村ポチッとお願いします😊竣工は1895年と最近の神社です参道日は出ていましたが寒いくらい涼しい😃鳥居境内手水舎蛇口になっていました😃効率的な感じです境内背の高い木が多く何とも荘厳な雰囲気でした境内はとても広々としていて散歩に来られている方もいらっしゃいました😃連理の榊二つの枝葉が
「東京三大豆大福」で有名な「松島屋」までお買い物です他の2店との違いは、草大福やきび大福まである点です😍自分は、きび大福が好きだから、ついつい「松島屋」へー😋東京三大豆大福とは!松島屋・瑞穂・群林堂の特徴をご紹介|気になる話題アラカルトはじめに東京三大豆大福とはこの記事では、東京三大豆大福と言われているお店と、それぞれの特徴を簡単にご紹介していきますusefultopic.comさらに「松島屋」は老舗なのに1個¥190のお値打ち価格😻これくらいの行列は我慢しないといけ
2022.3.8.万年山の蜂須賀正勝の、お墓参りの次は、もう一つ市内の興源寺に在る『徳島藩主蜂須賀家墓所』へこちらにも蜂須賀小六正勝のお墓があります(仁王門)赤と青に塗られた阿形吽形の像徳島藩祖の家政が、亡くなった父正勝の冥福を祈るため、天正14(1586)年、徳島城内に正勝の法号(福聚寺(ふくじゅじ))に因み福聚寺を建立したことが始まりとなります慶長6(1601)年には、2代藩主忠英により現在の地(徳島市下助任町)に移転されました。
2022.3.8.今回、お墓参りに訪れた武将は、蜂須賀小六ですずっと、来たかったので、やっと来る事が出来ました蜂須賀小六と言えば初期の頃から秀吉を助けた側近中の側近です合戦に交渉にと活躍した武将です小六が、居なかったら!秀吉の出世は無かったでしょう(小六の詳細については、長くなるので割愛)天正14年。大坂の屋敷で亡くなった小六の亡骸は最初大坂城の近くの安住寺に埋葬されました。その後の、大坂の陣の戦火で寺は炎上その為、国王寺へ改葬されます。その後、廃寺となり、昭和46年に、眉
災害被災跡地、戦争跡地など、人類の死や悲しみを対象とした観光のこと、とウィキペディアにある。研究などもあり、最近テレビで取り上げられていたのを観た。これまで行った旅は、わりとダークツーリズムに包含されると気づいた思い出してみると沖縄や足尾銅山ハンセン病療養所戊辰戦争関連画像はないが、広島長崎大久野島水俣イタイイタイ病網走監獄大和ミュージアム鳩の街蟻の街ドイツのダッハウ強制収容所ロンドン塔パールハーバーなどに行ったそれは観光の一部でもあったが、そこに行
さてさて…………【能褒野神社(のぼのじんじゃ)】より徒歩で次の目的地へと向かう………三重県北部、御幣川、安楽川(いずれも鈴鹿川支流)合流地点から東方北岸の台地西端部に位置するこの場所には、10数基の古墳が分布し、これらは【能褒野古墳群】と総称される。【能褒野墓飛地に号】こんな感じで陪塚が。【能褒野墓飛地ほ号】こちらにも陪塚やはり飛地も宮内庁の管轄下なんだいよいよ、この日最後の目的地に近づいてきたぞーーーっ『お墓』………………ってもう少し、誰の墓だとか書いてくれたら気
昨日は、半年振りにお墓参りができ、ホッとしました。片道door-to-doorで、1時間半、往復3時間。プラスお墓の掃除に時間が掛かる。雑司ヶ谷墓地は大きな木が沢山あるので、落ち葉が凄い。その落ち葉が玉砂利の間に落ちて居て、いつも落ちている状態。それを一枚づつ拾い集めるのは大変。墓石を拭き上げて40〜45分程かかります。大きな桜の木も沢山あるのですが、未だ三分咲きくらいでした。雑司ヶ谷墓地には、有名人のお墓が沢山あり、"ハカマイラー"と呼ばれる方々が多いらしく、管理事務所には有名人の
さてさて………【椿大神社(つばきおおかみやしろ)】三重県鈴鹿市山本町御旅1871高山入道ヶ岳の麓に鎮座する【椿大神社】あるべき場所にある奈良の歴史深い神社仏閣のように、その神々しい雰囲気はまさに神域だ【狛犬】社伝によれば、猿田彦大神の末裔の行満大明神は修験道の開祖であり、役行者を導いたとのことで、中世には修験神道の中心地となった。【狛犬】なお、現在の【椿大神社】の宮司は行満大明神の末裔であるというこの日は、駐車場にも参拝者や登山者が多いなあと思っていたら…………『扇感謝祭(
パーソナリティ駒田健吾アシスタント近藤夏子伊集院光休み駒田:伊集院光さんがコロナ陽性という事で今週の[らじおと]は伊集院さんがお休みなんです近藤:はい駒田:この番組は大団円に向かってるわけじゃないですか。近藤:はい駒田:そんな貴重な1日をこんな馬の骨アナウンサーが近藤:なんてこと言うんですか伊集院:僕がラジオを聴き始めたのが中学1年生。1986年かな。その時にラジオ大阪OBCという放送局があって僕兵庫出身なんで[ブンブンリ
2回目の診察で品川まで自転車で出てきたので、そのまま都内を自転車で回ることにした。1回目のブログにも書いたが、趣味がなくて困るようなことはなく、むしろ趣味が多くて休日が忙しいタイプだったと思う。心身共に健康で、ちゃんと仕事ができていればなかなか充実のライフ・ワークバランスだったと言えた。気分転換の”趣味”のことを書いてみたいと思う。”広く・浅く”色々手を出しているので、知識が乏しい部分もあるが、ご容赦願いたい。今回はわたしの好きな小説「坂の上の雲」の登場人物のお墓参りをしよ
さてさて…………【高倉神社(たかくらじんじゃ)】京都府木津川市山城町【高倉神社】に隣接するように、その目的地はあった。【以仁王(もちひとおう)御墓】【以仁王(もちひとおう)】平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから『三条宮』『高倉宮』と称された。後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では同母兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている『治承三年の政変』治承3年(1179
建国記念日建国と言えば饒速日命そうだ、饒速日命の墓参りに行きましょう前回の記事はこちら『パワスポ旅〜饒速日命墳墓〜』磐船神社から移動していきます『パワスポ旅〜磐船神社〜』東から移動して饒速日命(にぎはやひのみこと)ニギハヤヒノミコト(饒速日命)の姿と伝承|ご利益・神社紹介饒…ameblo.jp饒速日命ニギハヤヒ(饒速日命)とは|その正体や瀬織津姫が妻説など解説|神仏.ネットニギハヤヒ(饒速日命)という神様は正体について謎が多く「スサノオの出雲王朝の王だ・アマテラスオオミカミの子孫
磐船神社から移動していきます『パワスポ旅〜磐船神社〜』東から移動して饒速日命(にぎはやひのみこと)ニギハヤヒノミコト(饒速日命)の姿と伝承|ご利益・神社紹介饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が描かれる姿と伝承を紹介。…ameblo.jp饒速日命の事を調べていたらそこまで遠くない場所にお墓がある事がわかりましたのでそちらに行ってみますネット情報ですとハイキング的アップダウンはなくてほとんど平坦なるほど行けそうですよね😃生駒の白庭台の運動公園の駐車場に車を停めて…墳墓の入口を探して
森巌寺は東京都世田谷区代沢にあります。小田急線の下北沢駅南西口から三軒茶屋方面へ徒歩8分ほどの距離です。森巌寺の開基は徳川家康の次男・結城秀康です。秀康は母の身分が低かったことから長男・信康が亡くなった後も家康の嫡男としては扱われませんでした。人質として豊臣秀吉の養子となった後、関東の名門の結城氏の養子(秀康の子から松平姓を使用)となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦には参戦していませんが、宇都宮で上杉氏の進軍を防いだ功績で越前北庄68万石に加増されています。しかし、慶長1
と言いつつ墓マイラーはこれから始める、見習いですコロナで外出しない期間があった時、たまたま観たYoutube動画から歴史に興味を持ち出しました。勉強していくうちに、お墓にも興味を持った次第です。このブログにアウトプットする内容は単純です。お参りする寺社仏閣の紹介関連人物の学んだ内容の紹介学んだ内容には出典が無いものや、私見が入る事があるかもしれませんが、悪しからず。私の記載に補足や間違えてる事があればコメント頂けると喜びます。今後のプランとしては都内を含む関東近郊の仏閣を訪れ、大
2021年12月28日まだ昨年の話こちらが2021年最後の記事となりますこの日は、またもやココロは、あの楠木一家ゆかりの寺社仏閣の冊子に掲載されていたお寺を訪ねることとした。到着したのは………【光雲寺(こううんじ)】奈良県高市郡高取町越智24こちらは、ココロ初めての参拝となります『四條畷の合戦』で楠木正行亡き後も、楠木氏を継いだ正儀を支援した越智氏の菩提寺であるという。楠木氏と越智氏とは、一体どのような繋がりがあったのだろうか【山門】鎌倉時代後半、得宗家と呼ばれた北条氏本家
さてさて…………【伏見稲荷大社】を出発した我々は、次なる目的地を目指して歩いていた………すると道中に…………お寺だんっ親鸞聖人御旧蹟玉日姫君御廟所九条関白兼実公遺蹟そのお寺は…………【西岸寺(さいがんじ)】京都府京都市伏見区深草直違橋2丁目御廟所と聞いて「墓マイラーココロ」が発動。Nさん、Fさん少し寄っていきましょうか【親鸞聖人御像】平安時代末期に、関白の藤原忠通が【法性寺】の小さな堂宇を建てたことが発祥とされる。後白河法皇も行幸を重ねたことから、後に法皇の和歌にち
2021年12月7日この日は、ココロ家の奥様が京都『錦市場』に買い物に行きたいとの事で、京都へと向かった……奥様が買い物している間に、少しココロタイムをと、ココロが到着したのは………【大徳寺(だいとくじ)】京都府京都市北区紫野大徳寺町53【大徳寺】は、大燈国師宗峰妙超が洛北の紫野に造立した小院にはじまる。正中2年(1325年)宮中の清涼殿で行われた「正中の宗論」において、妙超は天台宗の玄慧法印をはじめとする諸宗との論戦に勝ち、花園上皇や後醍醐天皇の帰依を受けることとなる。嘉暦元年(
2021年11月16日この日は………『田原本古代ツアー⑤〜小社神社〜』さてさて…………【多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)】の前の道路を挟んで南側に神社があるきっかけは、この石碑からだ太安萬侶の記念碑がある確…ameblo.jp先月10月30日に、Sさんたちとの『田原本古代ツアー』で、初参拝した【小社神社(こもりじんじゃ)】際に知った、『太安萬侶の墓』を調査する事とした………はい「墓マイラ―」ココロの参上ですこちらは、太安萬侶を祀る【小社神社】その南には、立派
前回の続きです。葛飾北斎の墓参りです。葛飾北斎とは江戸時代末期の浮世絵師。幼名時太郎,10歳のとき鉄蔵と改名。14,15歳頃,木版彫刻師の徒弟となり,安永7(1778)年勝川春章に師事。翌8年勝川春朗と称する。ひそかに狩野派を学んで春章門を追われ,堤派の堤等琳,土佐派の住吉内記に師事。また司馬江漢の銅版画に感化を受け,和漢洋のあらゆる画法を体得した。画域も役者絵,美人画,風景画,花鳥画,社会風俗画,挿絵,版本など広い分野にわたり,画狂人の自称どおり生涯に3万枚以上の作品を描い