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今日紹介する熟語は掃苔(そうたい)意味:お墓参りです「苔」は訓読みで「こけ」植物の”コケ”のことですねこの漢字は漢検準1級配当です「掃苔」とは読んで字の如く”コケをキレイに掃いて清める”ということでこれが転じて”お墓参り”という意味があります自分の先祖のお墓だけでなく歴史上の人物・著名な人物のお墓を巡ることも指しますこういった趣味として偉人のお墓参りをする人を「掃苔家」と呼びますが最近では「墓マイラー」とも呼ぶようですこういうセンスで言葉が生まれるのが日本
2026.5.5.可児才蔵のお墓(と銅像)がある才蔵寺へずっと行きたかったので、やっと行けました住宅地の一角に、ひっそりと在るので、かなりアクセスが難しい(🅿なし)この階段の上普段は鍵が掛かっているので、連絡して鍵を開けます(基本的には無人の様です)あった~可児才蔵の銅像です「笹の才蔵」の異名で有名な武人ですね~関ケ原の戦いで、多くの敵兵を討ち、首を持ち運べないので、口などに笹を指して自分の手柄の目印にしたという逸話から「笹の才蔵」と呼ばれた可児才蔵は、戦国時代の
三井の大番頭の三野村利左衛門の墓参りです。三野村利左衛門幕末・明治初期の三井家の大番頭。父関口松三郎は庄内藩士の三男であったが、浪人して諸国を流浪したので、利左衛門も辛酸をなめた。19歳のとき江戸に入り、深川の干鰯問屋丸屋へ住み込み奉公をした。丸屋のつてで幕府の勘定奉行小栗上野介忠順の雇仲間となり、25歳のとき美野川利八の婿養子となり、襲名する。32歳で零細な両替店を開いた。小判売買の才を三井の番頭斎藤専蔵に認められ、三井家に出入りするようになった。1866年(慶応2)三井御用所に雇われ
熊本城から歩きで30分加藤清正公のお墓がある本妙寺へなだらかな登り参道を行くと!巨大な隋神門がここで、下馬境内の参道(本妙寺)開創から約400年の歴史がある、加藤家代々の菩提寺の名刹です。天正13年(1585年)に、清正が父の菩提寺として大阪に建立したものを、肥後入国後、熊本城内に移し、清正の逝去後、さらに現在の中尾山中腹に移建されました。「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる急勾配の石段を上ると、清正公がまつられている浄池廟(じょうちびょう)に行き着きます
今回は、幕末四大人斬りの岡田以蔵の墓参りです。岡田以蔵幕末土佐藩の剣士、刺客。高知城下に近い土佐郡江ノ口村の郷士の子。城下の武市半平太道場、ついで江戸の桃井春蔵道場で剣術を修業し、1860年(万延1)半平太について九州諸藩を歴遊、剣で名声をあげた。土佐勤王党に加盟、62年(文久2)藩主山内豊範に従って上洛。薩摩の田中新兵衛とともに、佐幕派人物に対し次々と斬奸・天誅のテロを加え、「人斬り以蔵」として世人に恐怖され、ついには同志にも警戒された。のち出奔して京摂の間に潜伏したが、64年
瑞山神社内にあります、武市瑞山の墓参りをしました。武井瑞山幕末の土佐藩士。文久元(1861)年、藩論を勤王に統一する「一藩勤王」を掲げ、土佐勤王党を結成。坂本龍馬や中岡慎太郎など190人余りが参加し、土佐藩政に大きな影響を与えた。しかし文久3年、当時は公武合体派だった薩摩藩などが京都から攘夷じょうい派を一掃する「八月十八日の政変」を起こし、情勢が一変。同年9月、土佐で投獄され、約1年8カ月後に切腹を命じられた。武市瑞山墓妻冨の墓
戦国武将長宗我部元親の墓参りをしました。チャリで、5分移動!長宗我部元親天文8年(1539年)、岡豊城主・国親の子として誕生した。少年時代はおとなしい性格で、『姫若子』と呼ばれるほどだった。父・国親も戦場の用に立つとは思っていなかったが、永禄3年(1560年)5月の初陣で周囲も驚くような活躍をして勝利へと導いた。初陣の翌月に死亡した父のあとを継ぎ、15年で土佐を統一、その後10年をかけて天正13年(1585年)に四国の大部分を平定した。しかし、同年8月には豊臣秀吉の四国征伐の前に
熊本に行って来ました。下の娘が結婚することになりまして、お相手の実家がある熊本市を訪れ、両家お顔合わせをしてきたのです。滞りなく完了。めでたく婚約が整いましたそれだけではなくせっかく行くのならと、もちろん熊本観光も楽しんできました特に行きたかったのが田原坂です。田原坂西南戦争資料館に行きました。ここですね。坂を登って行ったところに立派な建物があります。顔を出して写真を撮る、観光地によくあるやつ・・・西郷隆盛はともかく、谷干城ってのがシブイ。まあ、熊本
浄土寺にあります、松平忠直の墓参りです。松平忠直は、徳川家康の孫になります。松平忠直江戸幕府2代将軍秀忠の兄である結城秀康の長男として文禄4年(1595)に大坂で誕生しました。母は中河一茂の娘です。慶長12年(1607)、忠直が13歳の時に父の秀康が病没したため、領地67万石を相続しました。しかし、幼年の忠直の相続には反対するものもあり、就任当初から重臣の間ではいろいろと対立があったようです。慶長19年から翌元和元年(1615)の大坂冬の陣・夏の陣では、総数1万5000余りの兵を率い
Blogにお越し頂き、ありがとうございます✨かめ子です徹夜便▶️パート明け💦かめ子の休日✨✨✨パートもフライトも無い“完全オフ”🥳昨日は、パート5時間▶️7.5時間に延長‼️レジ打ちの後は、キッチンの仕込みのお手伝いしました(助っ人なので、人薄のエリアを担当する感じ)🧑🍳今日パート皿洗い助っ人の打診も頂きましたが、日曜日で時給が1.5⤴️の昨日頑張って、本日お休みを選ばせて頂きました🙏(両方もOKですが、かめ子はアラカン+生身の人間なので、無理しません😅)パワースポットバ
顕性寺墓地に、お婆さん落語の古今亭今輔の墓があります。古今亭今輔本名・鈴木五郎。明治三十一年六月十二日、群馬県境町に生まれる。大正三年、初代三遊亭圓右に入門して左京と名乗る。師匠の息子小圓右のわがままに反抗して、兄弟子三遊亭右女助(後の四代目古今亭今輔)の門に移り、大正六年桃助で二つ目。八年三代目柳家小さん門下に行って柳家小三山と改名した。十二年同名のまま真打ち昇進。落語改新派を結成したが失敗し、桂小文治の一門に入って昭和六年に三代目桂米丸を継いだ。このころから上州なまり克服のため新
日蓮宗戒行寺に12年ぶりに参拝しました。参道多宝塔長谷川平蔵供養塔本堂戒行寺1595年(文禄4年)、玉泉院日養によって開山された。元々は現在の千代田区麹町に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年(寛永11年)に現在地に移転している。一説では現在地に移転したのは明暦年間(1655年~1658年)とするものもある。かつての墓地には、一宮藩藩主家の加納家を始め、多くの旗本御家人諸家の墓があったが、典型的な武家寺であったため、明治以降は士族の没落もあって寺
12年ぶりに、西念寺に参拝しました。松平信康供養塔服部半蔵墓所本堂西念寺専称山安養院西念寺は、忍者として有名な「服部半蔵正成公」の開基によって、松平信康公(徳川家康公嫡男)の供養の為に開創されました。半蔵正成公は、忍者である父「初代半蔵保長」の子として、天文11年(1542)三河国(愛知県)に生まれました。父、保長は忍者の頭領でしたが、正成公自身は武士として徳川家康公に仕え、伊賀・甲賀の忍者を率いて、また槍の名手として「鬼半蔵」の異名をとり数々の武功を重ね、家康公より
東京生まれなんですが、初めて千鳥ヶ淵戦没者墓苑に初めてお参りしました。お参りしたのは、長崎原爆の日でした。昭和天皇御製の碑六角堂にて献花させていただきました陶棺千鳥ケ淵戦没者墓苑先の大戦に際し、海外の戦場で戦没された方々は、軍人・軍属で約210万人それに戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人約30万人で、合わせて約240万人と言われております。昭和27年頃から、我が国政府により、この御遺骨の収集が開始されましたが、御遺骨の収集に伴い、収集した御遺骨で氏名不
上杉謙信の姉上杉景虎母の仙洞院の墓参りです。仙洞院越後国の戦国大名の長尾為景の娘として誕生した。生母は上条上杉氏の娘(為景の正室)で、異母弟に上杉謙信がいる。天文20年(1551年)、上田長尾氏の長尾政景へ嫁ぎ、2男2女を生む。長男の義景は10歳で早世したが、次男の景勝は実子のなかった謙信の養子となってその跡を継いだ。また、江戸時代の軍記物の影響により、長女が畠山義春に、次女が上杉景虎にそれぞれ嫁いだとされていたが、現在では長女が上杉景虎室、次女が畠山義春室というのが定説である。また
武田信清の墓参り武田信清武田信玄の六男。母は信濃国小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人であるという。正室は甲府城下の長延寺住職である実了師慶の娘。色部清長は孫にあたる。永禄10年(1567年)、信玄の命により巨摩郡加賀美の法善寺に入り、玄竜と号した。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城主となる。天正10年(1582年)3月の織田信長の甲州征伐による武田氏の滅亡後、高野山無量光院に逃れる。同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・
林泉寺には、上杉家の墓が沢山ありますが全てをお伝えすると時間がかかるので割愛してUpします。今回は、直江兼続です。直江兼続永禄3年(1560)、坂戸城主長尾政景の家臣である樋口兼豊の長男として生まれた。幼名を与六といい、政景の妻仙桃院に見込まれ、景勝の近習になったという。天正9年(1581)9月の直江信綱死後、信綱の妻おせんを嫁として直江家を継ぎ、与板城主となった。山城守と称し、上杉家の執政として検地惣奉行・蔵入地奉行など強力な権限を与えられ、直属の家臣団である与板衆が兼続を支えた。
米沢藩主上杉治憲の墓参りです。隠居名鷹山アメリカ大統領ジョン・F・ケネディも上杉鷹山を尊敬していたそうです。上杉治憲鷹山は隠居後の号。江戸時代中期の大名。出羽米沢藩の第9代藩主で、名君として知られる。日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれたが、第8代米沢藩主の養子となり、1767年に藩主に。倹約を奨励し、農業開発や殖産興業政策などにより藩財政を改革した。名言「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬなりけり」や、跡継ぎの治広にあたえた家訓「伝国の辞」は有名。
豊臣政権五大老の一人上杉景勝の墓参りです。上杉景勝安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎との御館の乱に勝ち、武田勝頼の妹菊姫と結婚。82年信濃北4郡を領し、86年上洛して豊臣秀吉に従い左近衛権少将となる。87年越後を統一、89年佐渡、90年出羽庄内3郡を領し、北信をあわせ90万石
今回は、上杉家廟所にお参りに来ております。廟には、十一代までの墓があります。すべてを紹介すると、何ヶ月かかるのか?となるのでピックアップします。初回は、上杉謙信です。上越市林泉寺の謙信墓所は💁上杉謙信戦国時代の越後の武将、戦国大名の雄。近世上杉家米沢藩の祖。本姓は平姓長尾氏、父は越後国の守護上杉氏の守護代で頸城春日山城の城主長尾為景、母はその一族で古志栖吉城の城主長尾顕吉の娘である。享禄3年正月21日生まれ。初名を生まれた寅年にちなんで虎千代、ついで平三景虎といい、のち政
堂森善光寺に、前田慶次の供養塔があります。前田慶次生没年不詳。安土桃山時代の武将。通称は宗兵衛、慶次、慶次郎。啓二郎と書いたものもある。諱は利太、利卓、利治、利益、利貞が知られる。滝川一益の甥、儀大夫益氏の子とされるが異説もある。尾張荒子城の城主であった前田利久の養女を娶り、その婿養子となった。はじめ、織田信長、のちに養父利久とともに利家に仕え、能登国松尾村に居住したと伝える。1585年(天正13)には越中阿尾城に入れ置かれた。1590年(天正18)の小田原征伐後に出奔したとされるが、こ
今回は、錦糸町から曳舟方面を散策します。渡鬼のお母さん役を演じた山岡久乃さんの墓参りからです。山岡久乃東洋音楽学校を中退後の昭和16年宝塚歌劇団に入団。のち戦争激化による活動休止のため退団。24年俳優座に入座。29年森塚敏らと青年座を結成、中心俳優として活躍。代表作は「肥前風土記」「坂本竜馬についての一夜」。46年退団。以後フリーとなり、テレビに活動の中心を移した。35年TBS「ただいま十一人」で石井ふく子プロデューサーと出会い、以後「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」「渡る世間は鬼
大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜の滝沢瑣吉こと曲亭馬琴の墓参りです。べらぼうでは、津田健次郎さんが演じました。曲亭馬琴江戸後期の戯作者。江戸の人。名は解。通称は瑣(左)吉。別号曲亭・著作堂主人・蓑笠漁隠など。山東京伝に師事し、はじめ黄表紙などを書くが、寛政八年(一七九六)の「高尾船字文」を始めとして読本を続々と著し、それを近世後期の小説の正統に位置させ、ひいては明治期にまで影響を及ぼすものとした。その作風は、中国白話小説に学んで、勧善懲悪を標榜しつつ、雄大な構想と豊かな伝奇性を備え
鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した杉山和一の墓参りです。杉山和一江戸前期の鍼医。慶長年間(1596~1615)に伊勢国(三重県)に生まれる。幼児のころ失明し、江戸に出て検校山瀬琢一について鍼術を学び、さらに京都で入江豊明に師事、2家の長所をあわせ、管鍼を考案してこれを実施し名声は大いにあがった。5代将軍徳川綱吉の病気を鍼術で治療し、1692年(元禄5)本所に宅地を与えられ、関東総検校に任ぜられた。幕命で江戸に鍼治講習所を開き、多
回向院には、戯作者山東京伝浮世絵師としては北尾政演戯作者山東京山兄弟の墓があります。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、古川雄大さんが演じました山東京伝江戸後期の戯作者。本名岩瀬醒、通称伝蔵。山東京山の兄。北尾重政に浮世絵を学び北尾政演としても活躍。また、黄表紙、洒落本に筆をとり、その第一人者となるが、寛政の改革時の洒落本筆禍後は、読本と考証随筆に傾注。黄表紙「江戸生艷気樺焼」、洒落本「通言総籬」、読本「桜姫全伝曙草紙」などはその代表作。山東京山江戸後期の戯作者。本名
今回は、蔵前から散策を始めます。通称松平西福寺を参拝しました。勢至丸像本堂不在の為、御朱印の有無不明。西福寺には、勝川春章の墓があります。べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、前野朋哉さんが演じました。勝川春章江戸中期の浮世絵師。勝川派の祖。江戸の人。俗称、祐助。宮川春水の門に入り、初め勝宮川と称し、のち勝川と改める。武者絵・相撲絵・美人絵など作品は多いが、特に写実的な表情の役者似顔絵を創始、新生面を開いた。
東本願寺裏にあります、徳本寺にあります佐野政言の墓参りです。べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、矢本悠馬さんが演じました。寺務所内には、歌舞伎有職鎌倉山の絵が飾られてあります。佐野政言江戸後期の中級幕臣。通称善左衛門。1773年(安永2)家を継ぎ、77年大番、78年新番の番士となる。84年(天明4)3月24日、昇進のために贈った賄賂などに絡む私憤から、江戸城中で若年寄田沼意知に刃傷したと世上いわれるが、史料的な裏づけがない。幕府の吟味書によると、乱心して衝動的に刃傷に及んだのが真相らし
今回は、浅草です。浅草の雷門を東本願寺方面に行くと善龍寺に参拝です。法事中でしたので、御朱印の有無不明です。北尾重政の墓は、少し離れた善龍寺墓所にあります。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、橋本淳さんが演じました。北尾重政江戸後期の浮世絵師。北畠氏。名は兼儔、字は非羸、通称久五郎、花藍、紅翠斎などと号した。江戸小伝馬町一丁目の書肆須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。独学自習のうちに画才を伸ばし家業を弟に譲って浮世絵師となる。宝暦の末ごろから作画して紅摺絵の役者絵を残
成覚寺には、恋川春町のお墓があります。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、岡山天音さんが演じました。恋川春町江戸後期の戯作者、浮世絵師。本名倉橋格、通称寿平。狂名を酒上不埒、別に寿山人と号した。駿河小島藩士で、江戸・小石川春日町の藩邸に住み、留守居役、重役加判などの要職を歴任、そのかたわら浮世絵師を志して鳥山石燕に学び、勝川春章に私淑した。1773年(安永2)洒落本『当世風俗通』の挿絵を描いて文壇に登場、1775年には洒落本を草双紙化した『金々先生栄花夢』を自画作で発表
大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、宿屋飯盛をピース又吉さんが演じました。石川雅望江戸後期の狂歌師、国学者。狂名、宿屋飯盛。浮世絵師石川豊信の子。家は代々宿屋。狂歌を頭光、四方赤良に学んで一家をなし、狂歌四天王の一人と呼ばれた。主著「雅言集覧」「源註余滴」「都の手ぶり」「しみのすみか物語」など。