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顕性寺墓地に、お婆さん落語の古今亭今輔の墓があります。古今亭今輔本名・鈴木五郎。明治三十一年六月十二日、群馬県境町に生まれる。大正三年、初代三遊亭圓右に入門して左京と名乗る。師匠の息子小圓右のわがままに反抗して、兄弟子三遊亭右女助(後の四代目古今亭今輔)の門に移り、大正六年桃助で二つ目。八年三代目柳家小さん門下に行って柳家小三山と改名した。十二年同名のまま真打ち昇進。落語改新派を結成したが失敗し、桂小文治の一門に入って昭和六年に三代目桂米丸を継いだ。このころから上州なまり克服のため新
日蓮宗戒行寺に12年ぶりに参拝しました。参道多宝塔長谷川平蔵供養塔本堂戒行寺1595年(文禄4年)、玉泉院日養によって開山された。元々は現在の千代田区麹町に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年(寛永11年)に現在地に移転している。一説では現在地に移転したのは明暦年間(1655年~1658年)とするものもある。かつての墓地には、一宮藩藩主家の加納家を始め、多くの旗本御家人諸家の墓があったが、典型的な武家寺であったため、明治以降は士族の没落もあって寺
12年ぶりに、西念寺に参拝しました。松平信康供養塔服部半蔵墓所本堂西念寺専称山安養院西念寺は、忍者として有名な「服部半蔵正成公」の開基によって、松平信康公(徳川家康公嫡男)の供養の為に開創されました。半蔵正成公は、忍者である父「初代半蔵保長」の子として、天文11年(1542)三河国(愛知県)に生まれました。父、保長は忍者の頭領でしたが、正成公自身は武士として徳川家康公に仕え、伊賀・甲賀の忍者を率いて、また槍の名手として「鬼半蔵」の異名をとり数々の武功を重ね、家康公より
東京生まれなんですが、初めて千鳥ヶ淵戦没者墓苑に初めてお参りしました。お参りしたのは、長崎原爆の日でした。昭和天皇御製の碑六角堂にて献花させていただきました陶棺千鳥ケ淵戦没者墓苑先の大戦に際し、海外の戦場で戦没された方々は、軍人・軍属で約210万人それに戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人約30万人で、合わせて約240万人と言われております。昭和27年頃から、我が国政府により、この御遺骨の収集が開始されましたが、御遺骨の収集に伴い、収集した御遺骨で氏名不
上杉謙信の姉上杉景虎母の仙洞院の墓参りです。仙洞院越後国の戦国大名の長尾為景の娘として誕生した。生母は上条上杉氏の娘(為景の正室)で、異母弟に上杉謙信がいる。天文20年(1551年)、上田長尾氏の長尾政景へ嫁ぎ、2男2女を生む。長男の義景は10歳で早世したが、次男の景勝は実子のなかった謙信の養子となってその跡を継いだ。また、江戸時代の軍記物の影響により、長女が畠山義春に、次女が上杉景虎にそれぞれ嫁いだとされていたが、現在では長女が上杉景虎室、次女が畠山義春室というのが定説である。また
武田信清の墓参り武田信清武田信玄の六男。母は信濃国小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人であるという。正室は甲府城下の長延寺住職である実了師慶の娘。色部清長は孫にあたる。永禄10年(1567年)、信玄の命により巨摩郡加賀美の法善寺に入り、玄竜と号した。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城主となる。天正10年(1582年)3月の織田信長の甲州征伐による武田氏の滅亡後、高野山無量光院に逃れる。同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・
林泉寺には、上杉家の墓が沢山ありますが全てをお伝えすると時間がかかるので割愛してUpします。今回は、直江兼続です。直江兼続永禄3年(1560)、坂戸城主長尾政景の家臣である樋口兼豊の長男として生まれた。幼名を与六といい、政景の妻仙桃院に見込まれ、景勝の近習になったという。天正9年(1581)9月の直江信綱死後、信綱の妻おせんを嫁として直江家を継ぎ、与板城主となった。山城守と称し、上杉家の執政として検地惣奉行・蔵入地奉行など強力な権限を与えられ、直属の家臣団である与板衆が兼続を支えた。
米沢藩主上杉治憲の墓参りです。隠居名鷹山アメリカ大統領ジョン・F・ケネディも上杉鷹山を尊敬していたそうです。上杉治憲鷹山は隠居後の号。江戸時代中期の大名。出羽米沢藩の第9代藩主で、名君として知られる。日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれたが、第8代米沢藩主の養子となり、1767年に藩主に。倹約を奨励し、農業開発や殖産興業政策などにより藩財政を改革した。名言「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬなりけり」や、跡継ぎの治広にあたえた家訓「伝国の辞」は有名。
豊臣政権五大老の一人上杉景勝の墓参りです。上杉景勝安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎との御館の乱に勝ち、武田勝頼の妹菊姫と結婚。82年信濃北4郡を領し、86年上洛して豊臣秀吉に従い左近衛権少将となる。87年越後を統一、89年佐渡、90年出羽庄内3郡を領し、北信をあわせ90万石
今回は、上杉家廟所にお参りに来ております。廟には、十一代までの墓があります。すべてを紹介すると、何ヶ月かかるのか?となるのでピックアップします。初回は、上杉謙信です。上越市林泉寺の謙信墓所は💁上杉謙信戦国時代の越後の武将、戦国大名の雄。近世上杉家米沢藩の祖。本姓は平姓長尾氏、父は越後国の守護上杉氏の守護代で頸城春日山城の城主長尾為景、母はその一族で古志栖吉城の城主長尾顕吉の娘である。享禄3年正月21日生まれ。初名を生まれた寅年にちなんで虎千代、ついで平三景虎といい、のち政
堂森善光寺に、前田慶次の供養塔があります。前田慶次生没年不詳。安土桃山時代の武将。通称は宗兵衛、慶次、慶次郎。啓二郎と書いたものもある。諱は利太、利卓、利治、利益、利貞が知られる。滝川一益の甥、儀大夫益氏の子とされるが異説もある。尾張荒子城の城主であった前田利久の養女を娶り、その婿養子となった。はじめ、織田信長、のちに養父利久とともに利家に仕え、能登国松尾村に居住したと伝える。1585年(天正13)には越中阿尾城に入れ置かれた。1590年(天正18)の小田原征伐後に出奔したとされるが、こ
今回は、錦糸町から曳舟方面を散策します。渡鬼のお母さん役を演じた山岡久乃さんの墓参りからです。山岡久乃東洋音楽学校を中退後の昭和16年宝塚歌劇団に入団。のち戦争激化による活動休止のため退団。24年俳優座に入座。29年森塚敏らと青年座を結成、中心俳優として活躍。代表作は「肥前風土記」「坂本竜馬についての一夜」。46年退団。以後フリーとなり、テレビに活動の中心を移した。35年TBS「ただいま十一人」で石井ふく子プロデューサーと出会い、以後「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」「渡る世間は鬼
大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜の滝沢瑣吉こと曲亭馬琴の墓参りです。べらぼうでは、津田健次郎さんが演じました。曲亭馬琴江戸後期の戯作者。江戸の人。名は解。通称は瑣(左)吉。別号曲亭・著作堂主人・蓑笠漁隠など。山東京伝に師事し、はじめ黄表紙などを書くが、寛政八年(一七九六)の「高尾船字文」を始めとして読本を続々と著し、それを近世後期の小説の正統に位置させ、ひいては明治期にまで影響を及ぼすものとした。その作風は、中国白話小説に学んで、勧善懲悪を標榜しつつ、雄大な構想と豊かな伝奇性を備え
鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した杉山和一の墓参りです。杉山和一江戸前期の鍼医。慶長年間(1596~1615)に伊勢国(三重県)に生まれる。幼児のころ失明し、江戸に出て検校山瀬琢一について鍼術を学び、さらに京都で入江豊明に師事、2家の長所をあわせ、管鍼を考案してこれを実施し名声は大いにあがった。5代将軍徳川綱吉の病気を鍼術で治療し、1692年(元禄5)本所に宅地を与えられ、関東総検校に任ぜられた。幕命で江戸に鍼治講習所を開き、多
回向院には、戯作者山東京伝浮世絵師としては北尾政演戯作者山東京山兄弟の墓があります。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、古川雄大さんが演じました山東京伝江戸後期の戯作者。本名岩瀬醒、通称伝蔵。山東京山の兄。北尾重政に浮世絵を学び北尾政演としても活躍。また、黄表紙、洒落本に筆をとり、その第一人者となるが、寛政の改革時の洒落本筆禍後は、読本と考証随筆に傾注。黄表紙「江戸生艷気樺焼」、洒落本「通言総籬」、読本「桜姫全伝曙草紙」などはその代表作。山東京山江戸後期の戯作者。本名
今回は、蔵前から散策を始めます。通称松平西福寺を参拝しました。勢至丸像本堂不在の為、御朱印の有無不明。西福寺には、勝川春章の墓があります。べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、前野朋哉さんが演じました。勝川春章江戸中期の浮世絵師。勝川派の祖。江戸の人。俗称、祐助。宮川春水の門に入り、初め勝宮川と称し、のち勝川と改める。武者絵・相撲絵・美人絵など作品は多いが、特に写実的な表情の役者似顔絵を創始、新生面を開いた。
東本願寺裏にあります、徳本寺にあります佐野政言の墓参りです。べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、矢本悠馬さんが演じました。寺務所内には、歌舞伎有職鎌倉山の絵が飾られてあります。佐野政言江戸後期の中級幕臣。通称善左衛門。1773年(安永2)家を継ぎ、77年大番、78年新番の番士となる。84年(天明4)3月24日、昇進のために贈った賄賂などに絡む私憤から、江戸城中で若年寄田沼意知に刃傷したと世上いわれるが、史料的な裏づけがない。幕府の吟味書によると、乱心して衝動的に刃傷に及んだのが真相らし
今回は、浅草です。浅草の雷門を東本願寺方面に行くと善龍寺に参拝です。法事中でしたので、御朱印の有無不明です。北尾重政の墓は、少し離れた善龍寺墓所にあります。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、橋本淳さんが演じました。北尾重政江戸後期の浮世絵師。北畠氏。名は兼儔、字は非羸、通称久五郎、花藍、紅翠斎などと号した。江戸小伝馬町一丁目の書肆須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。独学自習のうちに画才を伸ばし家業を弟に譲って浮世絵師となる。宝暦の末ごろから作画して紅摺絵の役者絵を残
成覚寺には、恋川春町のお墓があります。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、岡山天音さんが演じました。恋川春町江戸後期の戯作者、浮世絵師。本名倉橋格、通称寿平。狂名を酒上不埒、別に寿山人と号した。駿河小島藩士で、江戸・小石川春日町の藩邸に住み、留守居役、重役加判などの要職を歴任、そのかたわら浮世絵師を志して鳥山石燕に学び、勝川春章に私淑した。1773年(安永2)洒落本『当世風俗通』の挿絵を描いて文壇に登場、1775年には洒落本を草双紙化した『金々先生栄花夢』を自画作で発表
大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、宿屋飯盛をピース又吉さんが演じました。石川雅望江戸後期の狂歌師、国学者。狂名、宿屋飯盛。浮世絵師石川豊信の子。家は代々宿屋。狂歌を頭光、四方赤良に学んで一家をなし、狂歌四天王の一人と呼ばれた。主著「雅言集覧」「源註余滴」「都の手ぶり」「しみのすみか物語」など。
本念寺の大田南畝の墓参り。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では、桐谷健太さんが演じました。大田南畝江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。本名、覃。別号、蜀山人、四方赤良、寝惚先生など。江戸幕府に仕える下級武士。唐衣橘州、朱楽菅江とともに狂歌三大家といわれ、天明調の基礎を作った。ほかに狂詩、洒落本、黄表紙、咄本なども著わす。著に「万載狂歌集」「徳和歌後万載集」「鯛の味噌津」「虚言八百万八伝」「一話一言」など。
落語家の三遊亭圓歌の墓参りです。三遊亭圓歌平成29年4月に亡くなった3代目三遊亭圓歌。歯切れよい語り口と、自らの経験をネタにした新作落語で人気を集めた。「土台を作ってその上に家を建てるのが我々の仕事」。三遊亭歌奴を名乗っていた時代には、昭和の爆笑王と呼ばれた林家三平との軽妙なやり取りで人気を集め、落語の黄金時代を築いた。しかし、昭和60年に突然出家、落語家と僧侶の二足の草鞋を履くこととなる。「誰かが上にいないと人間はどんどん高慢になる」。高齢化社会を風刺した「中澤家の人々」は圓歌落語の集
長谷川一夫の墓参りです。谷中霊園にも長谷川一夫の墓があります。谷中霊園長谷川一夫京都府宇治市出身・芸名林長丸・林長二郎・長谷川一夫と名前を変えて戦前から戦後にかけて時代劇スターとして、映画・歌舞伎・テレビドラマで活躍しました。熱心な日連宗信者である映画製作会社大映永田雅一社長製作の日蓮と北条幕府を中心に描いた「日蓮と蒙古大襲来」に主演。自らも身延山へ幾度となく参詣されている熱心な日連宗の信者です。現墓所は長谷川稀世が建立しました。
江戸時代の将棋指し、伊藤宗印の墓参りです。将棋家元三家の一家である伊藤家二代当主、五世名人。前名は鶴田幻庵。伊藤家初代当主初代伊藤宗看の養子。伊藤印達(五段)、七世名人三代伊藤宗看、八代大橋宗桂(伊藤宗寿)(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(贈名人)の父。伊藤得寿(三代宗看の子、早世)、九代大橋宗桂、伊藤寿三(二代伊藤看寿)の祖父。七代伊藤宗寿の曽祖父。
狩野派の基礎を築いた狩野元信の墓参りです。白衣観音図狩野元信室町後期の画家。狩野家二代目。正信の子。法名永仙。足利家の御用絵師となり、法眼に叙せられる。正信の画風をさらに発展させる。土佐派の技法などをとり入れ、日本画の伝統的な装飾性を画面に生かし新様式を大成。作品「山水花鳥図襖絵四十九幅」「神馬図扁額」など。
幸龍寺に、順性院(お夏の方)のお墓があります。順性院夏は元々徳川家光の正室・鷹司孝子付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職だったが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、その際家光の手がつき懐妊する。だが、夏が懐妊した年はちょうど家光の厄年で、家光は産まれてくる子に災厄がかからないようにと姉の天樹院(千姫)と相談し、天樹院を夏の子の養母とすることを決めた。やがて夏は天樹院の住居である竹橋御殿へと移り、正保元年5月24日竹橋御殿にて男児を出産した。幼名は長松と名
永隆寺には、昭和落語名人の一人三遊亭圓生の墓があります。六代目三遊亭圓生幼い頃に父と別れ、義母に連れられて上京。4代目橘家円蔵一門となり、5歳の時に子供義太夫・豊竹豆仮名太夫の名で寄席に出演。9歳で噺家に転向して橘家円童と名乗る。この前後に義母がのちの5代目三遊亭円生と再婚。小円蔵を経て、大正9年円好で真打ちに昇進。11年円窓、15年6代目円蔵となり、義父の死後の昭和16年、6代目三遊亭円生を襲名。20年5代目古今亭志ん生と満州に慰問興業に赴いて同地で敗戦を迎え、22年帰国。34年以降
専光寺にあります、喜多川歌麿の墓参り。大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では染谷将太さんが演じました。喜多川歌麿江戸中期の浮世絵師。姓は北川。名は信美。初号、豊章。狂歌名、筆の綾丸。鳥山石燕の門に学び、細判の役者絵や絵本を制作する。のち大首絵を創案し、優麗繊細な描線でさまざまな姿態、表情の女性美を追求。版元蔦屋重三郎の援助を得て抜群の才を発揮し、美人画の第一人者とされる。代表作に「画本虫撰」「当時全盛美人揃」「婦女人相十品」など。
大雄山の大楠の横に、幕末三舟の一人高橋泥舟の墓参りです。高橋泥舟幕末期の幕臣。天保6年2月17日生まれ。名は政晃、泥舟は号。山岡氏より高橋家の養子となる。山岡鉄舟は義弟。1855年(安政2)槍術家の兄山岡静山の没後、その門人を教授し、槍術の名人と称された。翌年22歳で講武所の教授となり、59年従五位下伊勢守に叙任。63年(文久3)新徴組の統率、浪士取扱を命ぜられたが、尊攘派志士と接触があるとの理由で免職となる。長州征伐のときには征長不可の旨を上書、慶応幕政改革にあたり、66年(慶応2)
宗慶寺の本堂前に、茶阿局の墓があります。茶阿局『御九族記』に72歳で死去とあり、これに従い逆算すれば天文19年(1550年)頃に生まれた。初めは遠江国金谷村の鋳物師の後妻となり、娘を生む。しかし、お久が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。お久は3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴して代官は処罰されることになった。夫の仇は長谷川八郎右衛門という者がとった。その後、家康はお久を浜松城に召し