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さてさて………………足利尊氏の墓がある【等持院】を後にし、ココロは次の目的地に到着した……………………到着したのは……………………【蓮華寺】京都府京都市右京区御室大内20ここに辿り着くまで、少し迷子になりましたが【蓮華寺】は、真言宗御室派の別格本山。阿弥陀如来などの五体の石像(五智如来石像)が【本堂】の前に安置されている平安時代後期の天喜5年(1057年)、後冷泉天皇の勅願によって広沢の池のほとりで創建されたと伝えられる。『応仁の乱』の兵火にあい、鳴滝・音戸山の山上に移転。そ
さてさて………………【等持院(とうじいん)】京都府京都市北区等持院北町63【清漣亭(せいれんてい)】足利義政好みの茶室江戸時代初期に再建されたが、元は康正3年(1457年)に足利義政が建てたもの。【方丈と庭園】芙蓉池を中心とする庭園は、夢窓国師作とも伝えられている。この池は蓮の花を模っており、周囲には花木をあしらい草木を配して、石組も変化に富んでいる。【足利尊氏之墓所】【方丈】北の中央に足利尊氏の墓である宝筺印塔がある【足利尊氏】鎌倉幕府末期から室町時代(南北朝時代)前期
さてさて………………【龍安寺】を出発したココロは、次なる目的地へと到着した…………………はいその目的地も、前回は入口までは来たけれど時間切れで参拝は出来なかった場所だ。その時は、京都検定の過去問にも何度か出題されていた牧野省三の銅像を覚えるという目的は達成した。『京勉会金閣寺に行こう⑩〜マキノ省三先生像〜』さてさて……………【きぬかけの路】を歩き、【龍安寺】エリアからココロが目指した次の目的地は………………【等持院(とうじいん)】京都府京都市北区等持院町63臨済…ameblo.jp
さてさて…………………【後朱雀天皇圓乗寺陵】【後冷泉天皇圓乗寺陵】【後三条天皇圓乗寺陵】の参拝を済ませたココロ。再び【後朱雀天皇皇后禎子(ていし)内親王圓乗寺東陵】に戻ると、その奥に次なる目的地である「天皇陵」への入口があるきちんと整備された石段の参道があるあれっ以外と参道が長いなあ『宮』宮内庁の意味かなあれっまだまだ登ります………………ハアハアちなみに誰一人として、人は居ない。薄く見える目的地の石標やっと見えてきたぞーーーーーーっもう少しださすがに
2024.3.5.ずっと!行きそびれていた細川藤孝のお墓参りへやっと、行ってきました南禅寺の塔頭の天授庵。細川藤孝が再興し、菩提寺としました(細川家の墓)細川藤孝の墓(廟)へ廟の中に五輪塔があり、妻と一緒の夫婦墓となっている様です。有名な武将なので、説明書きは割愛します隣には、細川忠利の遺髪墓も(忠興の息子で、藤孝の孫になります。)
2024.3.5.先日、やっと徳川四天王の一人、酒井忠次のお墓参りに行ってきました忠次のお墓へは、一切案内が無いのでしばらく墓地を彷徨いどうにか辿り着くことが出来ました徳川家康の父親「松平広忠」の時代から徳川家の家臣として仕えていた人物で、のちの「徳川家康」となる幼い頃の「竹千代」が、今川家の人質になる際にも同行しました。酒井家初代。三州井田の城主酒井忠善の嫡男。三河国で生まれ10歳で家督を継ぐ。16歳のときに松平広忠(徳川家康の父)に仕えてその妹碓井姫を妻とする。天文18年(154
2024.2.6.引田城跡の後は~初登城。十河氏の居城だった「十河城跡」へ『南北朝時代からの約230年、十河氏の居城。城は東西を谷に挟まれた舌状の台地上に所在し、南に大手を設け、他の三方は湿田に囲まれ、五重の土塁と深く切立った堀があり、攻め入る隙がなかったと言われている。(現在、西側にある池は後のもの)称念寺のある約60メートル四方が主郭で、西と北側に腰郭の平坦地が付属している。北側に空堀(堀切)を造り、土橋で北の郭とつないでいる。十河氏は神櫛玉の末裔で、植田氏の一族と伝えら
さてさて……………【革堂行願寺】を出発した我々は、次の目的地へと向かう……………【本因坊発祥の地】『京勉会祇園祭’23編④〜囲碁「本因坊」発祥の地〜』さてさて………………【革堂行願寺】を出発し、京都のまちを南下する…………さすが京都その途中にも、ココロの足を止める史跡が点在するのだ今回は、そんな場所をいくつ…ameblo.jpこの初代本因坊は、『本能寺の変』で織田信長の首を持ち出して、葬ったという説もありましたねってな流れで、織田信長の御廟のひとつがある【本能寺】にも立ち寄ること
さてさて………………JR稲荷駅の【ランプ小屋】を出発したココロは、ランチをとり損ねたがこの日最期となる目的地へと向かった……………おおーーーーーーーっ見えてきたぞーーーっ到着したのは………………【石峰寺(せきほうじ)】京都府京都市伏見区深草石峰寺山町26【羅漢参道唐門】【石峰寺】は、宝永年間(1704年〜1711年)黄檗宗第六世賜紫千呆性侒(せんがいしょうあん)が創始した。平安時代中期に摂津国多田郷に建てられた【沙羅連山石峰寺】に発するという。兵火に遭い、寺は焼失したが、本
さてさて……………ココロはマップを片手にてくてく歩く………少し迷子になりながらも、無事に到着したのは……………【藤原俊成墓所】京都府京都市伏見区深草願成町おおーーーーーーーっ【藤原俊成(ふじわらのとしなり)】1114年ー1204年平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原北家御子左流、権中納言藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』
さてさて…………………【仲恭天皇九條陵】を出発したココロは次なる目的地に到着した…………到着したのは……………【南明禅院(なんみょうぜんいん)】京都府京都市東山区本町15丁目811はいこちらには『徳川家康正室旭姫墓』があるというのです「墓マイラー」ココロの登場です境内には、人気がなく閑散としていた『入っていいのかなあ』なんて心細く思いながら、境内を進む………………【南明禅院】は、【東福寺】の塔頭。室町時代、1414年に室町幕府4代将軍足利義持が創建。旭(朝日)姫は、豊臣
さてさて………………【新熊野神社(いまくまのじんじゃ)】を出発したココロは次なる目的地を目指した…………到着したのは…………………【戒光寺(かいこうじ)】京都府京都市東山区泉涌寺山内町29鎌倉時代中期に後堀河天皇の勅願所として建立された。幾度かの移転の後、江戸時代に御水尾天皇が即位争いに巻き込まれて暗殺されかかった時に、本尊のお釈迦様が身代わりに立たれた事から、御寺【泉涌寺】の塔頭となった。実は、【戒光寺】に訪れた理由は伊東甲子太郎の墓所だったのだが、残念ながら見つからず昨年
2023.12.5.毛利元就の四男『毛利元清の墓』(穂井田元清)へ先日(周防大島の時)も時間の都合で寄れなかったし!長年行きそびれてる「元清」のお墓参りへ廿日市市に在る「洞雲寺」へ。「元清は、毛利元就の側室の子になりますが、毛利軍を率いて活躍した勇将です兄の元春や隆景の影に隠れがちなのが惜しい」本堂の裏手に元清のお墓がある元清の詳細は、長くなるので割愛します猿掛城や茶臼山城に在城した矢掛には、元清の供養塔や息子のお墓もあり、また
2023.12.5.鎮海山城跡の向かいに在る『長生寺』へ何やら、他にも有名な方のお墓もあるみたいとりあえず、河野通直公のお墓へ(河野通直公の墓)先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか
群馬県邑楽郡邑楽町にある霊松山大信寺の近くには篠塚伊賀守御廟がある。大信寺に参拝した折に御廟へ向かった。墓マイラーになってしまっている。通り沿いには看板が立っている。中に入ると石造不動明王立像があった。浄土宗の寺なのに不動明王とは珍しい。部将である篠塚伊賀守ならば不動明王はわかる。力強い感じがする。こちらが御廟。篠塚伊賀守御廟の由緒は以下の通りです(案内板による)。「篠塚伊賀守重廣公御廟この御廟にある宝篋印塔には下図のように刻まれている。暦応三辰
さてさて………………【宝蔵寺】を出発したココロが、次に到着したのは……………【誠心院(せいしんいん)】京都府京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487和泉式部ゆかりの寺院で、通称「和泉式部寺」とも呼ばれている。【和泉式部(いずみしきぶ)】978年頃ー没年不詳。平安時代中期の歌人。越前守大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙のひとり。「誓願寺縁起」によると、万寿2年(1025年)に和泉式部は娘である小式部内侍を失ったそして、和泉式部は菩提を弔いつつ自らの往生も考えるように
少し前に読み終わった本で、気持ちの整理をつけるため感想はちょっと置いておいた本です。でもなんとしても今年中には感想をしたためなければ・・・!と思っていたのだ。古い小説で、すでに絶版ですけどね、とても良い本でした。満州事変で有名な、石原莞爾のことを書いた本です。「小説」とありながら小説っぽくはなく、史実の解説文が多かったかな。けれど本の中の石原将軍は生き生きと喋っていたので、やっぱり小説なのかな。別にそんなに昔でもない昭和史とはいえ、知らないことがたくさんある。そして昭和史
さてさて……………【蛸薬師堂】を出発したココロが、急ぎ到着したのは………………【宝蔵寺(ほうぞうじ)】京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師上る裏寺町587【宝蔵寺】は、弘法大師空海の創立と伝えられる。その後、文永6年(1269年)如輪上人により、元西壬生郷に開基された。『伊藤若冲祖先の墓』とある。伊藤若冲ゆかりの寺であるという。御朱印は16時までギリギリ間にあったそもそもは、弘法大師空海の創立であるが衰退した文永6年(1269年)浄土宗の長西の弟子で、【千本釈迦堂】2世である如
2023.11.7毛利輝元のお墓参りへ。やっと写真を撮り直しての投稿です萩藩を創設した毛利輝元の墓所。もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。竹林に囲まれた静かな場所に五輪塔形の墓が残っています。毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す
2023年11月22日この日は、休日であった。予定では「京都検定」受験にむけて、図書館で一日勉強するつもりでいたが…………………過去の問題を何度見ても、かなり難易度が高い勉強範囲も広く深いため、勉強の方法にも正直悩むこうなりゃ、図書館で勉強するより……………『そうだ金閣寺に行こう』と思い立ち、急遽予定を変更してココロはひとり電車に飛び乗った…………下車したのは、京都市営地下鉄「北大路駅」だもちろん、すぐに【金閣寺】に行くわけではありません堀川北大路をてくてく歩いて下り、まず最
さてさて………………我々は、約4時間30分でスケジュールした『京都一周トレイル』東山コースの一部を踏破した…………【京都一周トレイル標識】で言うと、「東山7」から「東山29」までを踏破したことになるわけだ。他のコースもいつか歩きたいなあそして、京都検定の問題に、この中から一問でも出題されたらココロはそれだけで嬉しいな【古川町商店街】無事に歩き終えた我々は、ようやくのランチタイムをとることとした。到着したのは、【古川町商店街】……………寒い中、たくさんたくさん歩いたおじさん四人たち
2023.10.3.会津に来たら是非とも行ってみたかった松平容保公のお墓参りへ今回の会津旅行では最初、所要時間が分からず目的地から外していたけど、日没まで1時間ほど余裕が出来たので向かうことにしました案内板では、なかなかの墓域です容保公の墓は、一番左上(中之御庭)ひたすら石段を上る歴代藩主のお墓が並ぶ場所へここには、三代。五代。六代。七代。の藩主が眠っていますそして、あと少し(九代藩主松平容保公のお墓)
文武両道の武将蒲生氏郷のお墓参りへ会津の基礎を作ったのが蒲生氏郷。しかし!40歳の若さで亡くなってしまいました。本墓は、京都の大徳寺黄梅院にありますが、そちらは非公開の為、普段お墓参りできるのはコチラだけです
先日の酒田旅の続きです。酒田に来たら、もう一箇所寄りたいと思っていました。それは、石原莞爾のお墓です。地図で見ると、もしかしてちょっと山とかある・・・?熊が出たら嫌だなぁと思いまして、めっちゃ入念に下調べしました。↓こういうのがあります。山形県の熊出没マップ、その名もクマっぷ🐻(なんか可愛いんだけど)やまがたクマっぷR5クマ目撃マップ-GoogleマイマップR5クマ目撃マップwww.google.comいやー今年はね、ほんとに怖いですよ。。
さてさて……………【サムハラ神社】を出発したココロは、八尾市にある体育館に家族を迎えに再び戻ってきた…………二人は買い物もするようで、少〜し時間が出来たのでココロが立ち寄ったのは……………【物部守屋墓】大阪府八尾市南太子堂【大聖勝軍寺】付近前回は、コロナ禍の2020年5月28日。約3年ぶりの2回目の訪問となる国道沿いにあるこの場所。青空とのコントラストが美しい【物部守屋墓】【物部守屋(もののべもりや)】古墳時代の大連(有力豪族)。『『墓マイラー』八尾編①〜物部守屋墓
2023.10.3.斎藤一のお墓参りへ会津東軍墓地へ。こちらは、会津藩など幕府軍の戦死者の墓地です。そして、ここへ新選組三番隊組長、斎藤一のお墓があります。東京にて72歳の生涯を終える。会津藩と共に戦い抜いた斎藤、遺言通り仲間たちの眠る会津の地へ埋葬され眠っています袖章と一緒に
2023.10.3.ずっと行ってみたかった近藤勇のお墓参りへ天寧寺の裏山(墓地)にお墓はあります。想像したより意外と奥にありました持参した新選組のハンカチとこの墓は、近藤亡き後、土方が松平容保公にお願いし建立されたお墓で、遺髪や遺品が収められているらしいまた、誰かが晒されていた近藤の首を持ち去り埋葬したとも伝えられています。墓石は当時の物かは分かりませんが、当時はまだ戦中なので名前は入ってなかったかも隣には、土方の慰霊碑があ
さてさて………………【釘抜地蔵石像寺】を出発したココロは、次なる目的地を目指した………………が……………………ちょっと待てっココロ手持ちのガイドブックには【釘抜地蔵(石像寺)】境内に『藤原定家墓』と記載されてるではないか200m程歩いていたが、再び舞い戻ったのは…………【釘抜地蔵尊石像寺(しゃくぞうじ)】京都府京都市上京区千本上立売上ル花車町503先程も境内はぐるっと一回りしたが、それらしいモノは見つからなかったぞっもしや、この奥にしかし、勝手に入って良いのかも分からない
S・A・G・Aサガ〜と、はなわさんが歌っていたのも遠い昔だな。歳がばれる。ついにやって来た佐賀!!休みをとってさ!!お目当ては江藤新平ちなみに佐賀への行き方なんですが結構不便で、いったん東京に出て羽田から佐賀空港へ。ふつう福岡から行くでしょ、と言われたのですが、そうなの?!福岡空港の方が便がいっぱいあったな。いいんだ…佐賀空港に降り立ってみたかったんだ…佐賀空港だ!なんかローカル感満載でノンビリしてるな〜シャトルバスの運転手さんのウェルカムアナウンスにツボりました。「佐賀には
さてさて………………【藤白神社】を出発した我々は、阪和自動車道の高架をくぐり抜け、約100m……徒歩5分程でその目的地に到着した……………その場所は、熊野参詣道紀伊路の【藤白坂】にある。その【藤白坂】は、『悲劇の皇子』として知られる有間皇子(ありまのみこ)が、処刑されたと伝わる場所おお〜〜〜〜っここか〜〜〜っ【有間皇子墓】和歌山県海南市なんか地元の方々に大切にされていることが、自然と伝わる。有間皇子は、孝徳天皇の皇子で中大兄皇子のライバル的な存在であった。『急遽和歌山ツアー