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8月23日。今日は「白虎隊の日」なんですって。アメブロの『今日は何の日』はウクレレでしたけど・・・(なんでだ)白虎士中二番隊が、飯盛山で自刃した日です。同時に、鶴ヶ城の籠城戦が開始された日でもあります。旧暦ですけどね。慶応四年は閏月もあったので、新暦と比べると季節がブレブレです。こういうのは旧暦と新暦、どちらを記念日としたらいいんでしょうねえ?最近読んだコラムで、旧暦の良さは、日付が分かればその時にどんな月が出ていたかすぐわかるところだと知りました。月の満ち欠けが基
『維新の墓標』〜昔々北越戊辰戦争で〜というサブタイトルが涙を誘う。本当に、昔々の話。この本は、目線が越後の民なので、戊辰戦争の大義名分とかは関係なく一体ここで何が行われていたのかという取材のもとに書かれています。まあ冷静になってみれば、越後人にとってハタ迷惑な話であります。なんだか知らんけどいきなり余所者がワラワラとやって来て、略奪はするわ鉄砲ぶっ放すわ、最後は焼け野原にして去っていった感じなので・・・しかし、筆者は絶対河井継之助の大ファンだろ?
殺人的な暑さですね・・・本当はこの休みは山城登りに行こうと思っていたのですが、天気予報通知が「やめとけ」と警告していたのでやめました。今度こそ倒れるかもしれない。もう毎日毎日長時間労働でやってられないので、リフレッシュしなければ。比較的近場へお出かけし、今日は新発田藩をめぐることにしました。今年三月に移築された大倉喜八郎の館・蔵春閣へ行ってまいりました。場所は新発田駅の近く。いかにも暑い空の色してますね大倉喜八郎は新発田出身の実業家で、17歳で江戸に
さてさて………………【革堂行願寺】を出発し、京都のまちを南下する…………さすが京都その途中にも、ココロの足を止める史跡が点在するのだ今回は、そんな場所をいくつかご紹介ひとつ目は………………【囲碁「本因坊」発祥の地】京都府京都市中京区寺町通夷川上ルこの寺町通の名は、天正17年(1589年)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。【寂光寺】もそのひとつで、別名を『久遠寺』ともいい、通りをはさんだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。【寂光寺】の塔
くろごませんべいですこんにちはまずは楽天市場経由購入くださいましてありがとうございますお礼が遅くなっていて申し訳ございません墓用線香立て横置き線香皿サイズ:中お墓線香立て寝かせる横向き横香炉皿線香置きステンレス水洗い洗える丈夫家名シール付き網付き横薄型サイズW16xD8.5xH3.5cm送料無料楽天市場1,520円こちらをお買い求めのお客様ありがとうございます今回は直前無計画で行き詰まった通院のタクシー問題ですぷっぷーワタクシは睡
個人的には、お墓っているかなぁ~とか思っていたのですが、文豪とか、著名人のお墓も管理する人がいなくなって墓じまいになっているという記事を読みました。それもちょっと寂しいですね。昔、墓マイラーさんについてテレビで見たことがあって、世界中の有名人のお墓まいりをして回っているのです。実際に墓石に触れることで、自分が感動した作品を生んだ人が、本当にここに眠っているんだと感じることができ、素敵な作品で感動させてくれてありがとうと感謝の気持ちを伝えたくなると言っていま
くろごませんべいですこんにちは骨折疑惑の続きですレントゲン室に入り「一度立ち上がって台へ乗ってください」ズリズリィとお尻を台へ乗せたら「仰向けになってでは撮ります」「横向きに足を~」とか三回撮りまして、また車椅子で診察室へ連れられ「台へ足を乗せてください両方の足を比べるので両方です」踏み台みたいなものが再登場続いてレントゲンの写真が三枚並べられ医師も再登場です椅子に座る医師に「あっもうわかったここにヒビそんだけ」「良く直ぐに解りましたねふうんこれはね左へ倒れた時には
2023.6.6.織田信秀公のお墓参りへ万松寺の一角にお墓があります。永正8年(1511年)、尾張国の勝幡城主織田信定の嫡男として生を受けました。幼い頃から英知に優れていた信秀公は、弱冠17歳で家督を継ぎ、織田一族の壮絶な内紛を制して尾張一円を領した後、革新的な政策で尾張地区の商業を大きく発展させました。また周辺諸国からは「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、東は駿河の今川氏親、西は美濃の斎藤道三との合戦を重ねながら領土を拡大させるなど、息子信長が後に天下布武を推し進める礎を築き上げました
お江戸に出張してきました。久しぶりで楽しかったのですが、しばらく田舎でのんべんだらりと暮らしていたもので、人混みに疲労気味でも、せっかくの機会だからと翌日を利用して最近頭の中を駆け巡っている南北朝ワールドへ、いざ!前回(2021年だった)鎌倉へ来た時は、北条をテーマに廻ったのだけど、今回のテーマは足利兄弟です。調べたところ、こちらのお寺が期間限定で参拝できるようだったので来てみました。長寿寺です。「足利尊氏公ゆかりの寺」って書いてありますね。鎌倉の足利尊氏
くろごませんべいですこんばんはまた、日頃隠してる墓マイラーの欲望が出て来て関城というマイナーな城跡を探検して畑仕事してる地元民を取っ捕まえて聞き出し考察した話を載せます人の仕事を中断させる図々しい変人5月頭頃の事です先ずは情報をネットで下調べネット情報って歴史もいい加減だったりするんですよ6割イエスかなぁ位で良いかと思う関城とはネット情報によると南北朝時代の城で築城年不明マイナー過ぎて記録がないのかも私は関という人物は知らない
さてさて…………念願の【大避神社】の参拝を終えた我々は、秦河勝の墓があると伝わる【生島】へ出来るだけ近づいてみることとした正面に見える小島が【生島】だ梅原猛さんの石碑もあった【生島】国の天然記念物に指定されている。これが【生島】だちょっと距離はあるけど、『墓マイラー』この島に秦河勝の墓があり、かつ神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じているという【秦河勝(はたのかわかつ)】秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる。『日本書紀』の記述では、
さてさて……………【知恩院(ちおんいん)】京都府京都市東山区下町400後編です御朱印も頂きましたもちろん初となる【知恩院】は、浄土宗の宗祖法然房源空(法然)が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降であるという徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、現在も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいさん」と呼ばれている。尚、他流で門跡に当たる当主・住職を【知恩院】では浄土門主(もんす)と呼ぶという知らない事
ゲームブック風アドベンチャーゲーム『脱出ゲーム香川県からの脱出』はこちらから。3月12日、『香川県からの脱出』第2期公開分のゲームデータを追加アップロードしました。調整中だった北浜倉庫のゲーム機『坊主巡り』と『ウォンバット』のメンテナンスが終了。これによって、善通寺、琴平などに行けるようになりました。第2期では綾川町の天満宮に向かい、ある人物の願いを聞きましょう。(第1期分は、2023年2月13日に公開しています)ゲイムマン(府元晶・竹谷新)Geimman@geimm
さてさて……………【上御霊神社】を出発したココロは、てくてく歩いて次の目的地に到着した……………その場所は……………なんと【織田信長公本廟】があるという…………【阿弥陀寺(あみだじ)】京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴屋町14天文24年(1555年)に浄土宗の玉誉清玉が、近江国坂本に創建したのが【阿弥陀寺】の始まりとされる。その後、清玉は自身と縁のある織田信長からの帰依を得ると、上京の今出川大宮に寺基を移した。天正10年(1582年)6月2日に信長が『本能寺の変』で自害すると
谷中霊園鶯谷から上野へ入る際、なぜか谷中霊園を通り抜け上野櫻木へそして・・・お詣りすることとなりましたこういうの「墓マイラー」というらしい(*゜Д゜)久しぶりの谷中霊園は雲一つ無い晴天でとても気持ちの良いものでした大河ドラマでお馴染みの徳川家のお墓、歴史上の人物なのでまあいいかと^^そういえば子供の頃、自転車をかっ飛ばして「雑司が谷霊園」へよく遊びに行っており(越境入学ゆえ、近所に友達がいなかった、また一人でブラブラするのが好きな風変わりな子供
さてさて……………【金札宮】のすぐ向かいにあるのが、この日最後となる目的地。到着したのは………………【大黒寺(だいこくじ)】京都府京都市伏見区鷹匠町4真言宗東寺派の寺院で、通称は『薩摩寺』。開創は空海とも真如とも伝えられる真言宗の寺で、もとは【長福寺】と称した。元和元年(1615年)、薩摩藩主島津義弘が、薩摩藩邸からも近いこの寺を藩の祈祷所とすべく、伏見奉行山口駿河守に懇願したことで、寺名は薩摩の守り本尊「出世大黒天」にちなみ【大黒寺】とされ、本尊は大黒天となったただ、当時より一
さてさて……………割りと、しっかりした登山道を進むと山頂近くの目的地へと到着した……………登山道はきちんと整備されているこれかーーーーーっ到着したのは……………【十七烈士之墓】『禁門の変(蛤御門の変/1864年)』の際、戦いに破れ【天王山】山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名が眠る墓だ…………。久坂玄瑞や来島又兵衛などは知っていたが、恥ずかしながら真木和泉守については知識がない【真木保臣(まきやすおみ)】1813年〜1864年江戸時代後期の久留米水天満宮祠官、久留米藩士、尊
くろごませんべいですこんばんは恋活では参加申し込みにポチりましてそのご当選するのか待ってますが、世間的に停滞ムードなので恐らくは当選となると予想しております若い子女が参加するムードの世では私は恐らくは高年齢なので落選と予想しております①寒波②コロナ③強盗多発④色情問題事件⑤電車立ち往生等のニュースで女性達が動きたくない時であれば私は割り込み可能と踏んでおるのですこの節分系のイベントは男性側に収入制限かけてるので裏を読めば制限かけられる位にして
さてさて…………【彼方神社】を出発したココロは、次の目的地を目指した…………その目的地は、【彼方神社】へ向かう途中に道標石碑が立っていたその目的地とは…………【菟道稚郎子尊宇治墓】だだんだん見えてきたぞーーーっ菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、その名前の「菟道」が山城国の「宇治(現在の京都府宇治市)」の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物であるという。到着ーーーーーーっ【菟道稚郎子尊宇治墓】京都府宇治市菟道丸山宮内庁により治定されている。宮内庁上の形式は、前
2023.1.3.本年最初の投稿です今年の正月も、暇つぶしに県内で、うろうろ久しぶりに「武蔵の里」近くまで行ったので!寄り道しました『武蔵神社』数年ぶりに訪れました頂いた御朱印通常は社務所は閉まってるので、以前は御朱印を頂けませんでしたが!今回は、正月って事もあり開いていましたラッキー寄ってよかった参拝した後、もちろん!宮本武蔵のお墓参りも左が、息子(養子)の伊織が、分骨した武蔵のお墓右が、無二斎夫婦のお墓。
どうも、岡山•奈良京都での遠征は無事帰還しました!前回の、続きです。水谷八重子さんの墓よりすぐの所に、笠置シヅ子さんの墓所があります。笠置シヅ子さんと言えば、この曲でしょう。笠置シヅ子とは生後まもなく大阪市福島区の米・薪炭商・亀井音吉の養女となる。昭和2年小学校を出ると同時に大阪松竹楽劇部(OSKSKDの前身)に入り、三笠静子の芸名で活躍。10年笠置シズ子に改名。13年東京に移って松竹楽劇団の旗揚げに参加、ジャズ歌手として売り出す。パンチのある唱法で注目される。14年松竹映画
ようこそおこしやす初詣、今年はどこへ?先生(夫)の講座で、たびたび登場している吉田神社へ!お正月は意外と空いているんですよ(節分が賑わいます)大元宮を目指します吉田山なので、気が付いたらこんな山の上にいる!愛宕山、右下に左大文字。到着!正月三が日、大元宮が間近に拝めます。八角形なので、撮り応えがあります。365度ぐるぐる回って、撮影&参拝。北側は出っ張っている。上から見ると亀みたい屋
2022.12.6.小倉城を見終わった次は、小倉藩小笠原家の菩提寺「福聚寺」へ山門を潜り境内に入ると、とても静かで素敵な雰囲気です中国風の本堂黄檗宗の名刹である福聚寺は、寛文5年(1665)小倉小笠原の初代藩主小笠原忠真が創建したもので、開山は中国僧の即非如一禅師(隠元の高弟)である。延宝7年(1679)2代藩主忠雄により現在地に改められ、七堂伽藍や塔頭25坊を有する一大法窟が完成した。慶応2年(1866)、長州との戦いで兵火にかかり、その多く
2022.11.8.宇和島藩伊達家の菩提所の『等覚寺』へ初代・秀宗(ひでむね)、二代・宗利(むねとし)、三代・宗贇(むねよし)、四代・村年(むらとし)、六代・村寿(むらなが)、八代・宗城(むねなり)、十代・宗陳(むねのぶ)らの他、婦人や近臣の墓があります。伊達家家紋竪三引両絞は伊達家の家紋の中でもっとも古い由緒を持つ。伊達氏の始祖朝宗(ともむね)が奥州征伐(1189年頃)の際源頼朝から拝領した。宇和島藩初代藩主伊達秀宗が母の菩提を弔うために江戸時代初期の
さてさて……………【平安神宮】より徒歩約10分で、ココロが次に到着したのは………おお〜〜〜〜っ住宅街の中に、現れたのは………【後醍醐天皇皇子尊良親王墓】京都府京都市左京区南禅寺下河原町【尊良親王(たかよししんのう)】鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。後醍醐天皇の第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝である後醍醐天皇の推薦によって、次の皇
さてさて…………我々は、【大阪天満宮】から再び【天神橋筋商店街】に戻った…………【天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)】大阪府大阪市北区にあるアーケード商店街である。天神橋一丁目から天神橋六丁目まで南北2.6km、600の店舗が軒を連ね『日本一長いアーケード商店街』と称されるあっ【大阪天満宮】の手前には…………【天満天神繁昌亭】がありました。この日は、桂文福さんや桂小文枝さんら馴染みの落語家も出演されている。気になるのは、キングダムけんただっ誰やろまた調べてみよ
さてさて…………【清荒神清澄寺】を出発して、我々が次に到着したのは……………【満願寺(まんがんじ)】兵庫県川西市満願寺町7−1こちらは、あの『新TV見仏記/宝塚ラララ編』で、あのおふたりが来られていたので参詣する事としたのだ【山門】かつて境内にあった【多田院】が、神仏分離によって【多田神社】になった際に、ここに移された『多田院南大門』の仁王像だという。立派で、かつ雰囲気のある【山門】だ寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により勝道上人が日本全国に【満願寺】を創建することとなった。こ
くろごませんべいです弘経寺の続きですもうここは彼岸花は見ごろを過ぎておりました彼岸花が咲いていたら緑と朱色の対比が美しそうですこの後、きなことくるみをこの道で歩かせました誰かが亀の背中などに花を入れたらしい・・・私じゃないですよくろごませんべいはダーティーで人々の夢を打ち砕きます正面から見たら立派な手水舎でも裏はホースとバケツが生活の香りを漂わせてます紫のお花を撮るために二匹にカートに入ってもらいましたくるみ良
願成就院の山門を潜ると、鎌倉幕府初代執権の北条時政の墓があります。鎌倉殿の13人では、坂東彌十郎さんが演じています。最初は、田舎の親父さんって感じだったのにだんだん悪い親父になってきました。弱小豪族が、権力を握ると人が変わるのですね・・・北条時政とは鎌倉幕府初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国府の役人として北条に住し、北条四郎と称した。法名明盛。流人源頼朝を監視する役目であった時政は、ひそかに頼朝と通じ、政子を彼に配し、1180年(治承4)伊豆目代山木兼隆を急襲して、頼
コロナ自粛辺りから、弱っちくなりまして…最近じゃ、いざ散策に出ようにも遠出するには日帰りはもったいない、とか山に入るのはマダニが怖い、とか訪問したことのあるところに行くのも嫌だな、とか…そこで旅のヒントは大河ドラマ何度もスルーしてきた修善寺へGO7時前のスタートっすまっ先に目指したのはま、ここではなかったのだけれど、通り道だったから…師匠に似ている俳優さんが演じていた源範頼のお墓今回は墓マイラーっす↑迫田さんにして欲しかった運悪く、お掃除道具を持ったおばあちゃんが到