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あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。「塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノ
本日、「尼崎歴史博物館」へ行く用事があり、車で出かけました。いつもは、バス、電車に乗り継ぎ、阪急「武庫之荘駅」で元会社の同僚に車で拾ってもらっていましたが、マップで経路と時間を確認すると、池田市からは約25分で着くことが分かりました。以前その「博物館」で「富松(とまつ)城」のパンフをゲットしていたので、途中立寄ってみることにしました。「富松(とまつ)城」のパンフ↓「富松(とまつ)城」のパンフ↓「首下がり病」発症以来、1年1ケ月ぶりのお城巡りです。お城巡りといっても、
足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)です。堀も雰囲気がありますね。鑁阿寺の鐘楼です。黄葉に埋もれる鐘楼です。
2日目は静岡市の繁華街を初めて闊歩しました県庁駿府城の堀市役所県名の由来奉行所趾御用水静岡県HPより徳川家康が駿府に居を構えるにあたり『御用水』と『駿府用水』を整備した。御用水安倍川の伏流水を水源とし、鯨ヶ池を起点に南下して、駿府城の堀に注ぐ専用の水で、水源から堀に至るまで町奉行水道方掛同心により厳重に管理された。駿府用水安倍川から取水し、はじめに上流の武士や寺社地域を流れ、末端は田畑の農業用水として使われた。城下の隅々まで流れる用水は、町の浄化や防
築城年代は定かではないが波多野氏によって築かれたと伝わる。文明9年(1477)波多野時正(全慶)は一色刑部少輔を討ち一色城主となったが、明応2年(1493)に牧野氏に敗れ、大沢城は牧野氏の所領となった。大沢城は秋葉神社・西豊沢公民館の南側の一帯に築かれていた。現在は果樹園となっているようだが、東の道路に面した部分に南北に土塁が残っている。かつては50mほどの堀もあったという。おそらくコレが土塁この辺りから続いているのでかなり大きい人の土地なので中には入れませんこんな城跡もあり
小林綺羽さん平成16年4月16日生まれサイズT/159.0國學院大學栃木高等学校-國學院大學文學部外國語文化學科趣味・特技・資格・スポーツ料理食べること歌うことダンスカラオケ小林綺羽|國學院Contest2024-栞-supportedbyTGCCAMPUS|MISCOLLE全国の大学コンテスト情報を掲載する日本最大のポータルサイト小林綺羽(@kokudai24__05)/X小林綺羽/AyaneKobay
一昨日、発掘調査の現地説明会に行ってきました~愛知県春日井市JR春日井駅から南に5~6分歩いた所にある上条城跡読みは、冗談みたいですが「じょうじょうじょう」と読むそうです!山みたいに盛り上がっているのが城を囲む“土塁”です。鎌倉時代頃に造られたといういわゆる“中世城館”でこの地域の有力者(武家)の城のような防御施設を持った屋敷地です。すごく高い立派な土塁やその外を周る堀の跡が現在まで残っていました。写真の人の居るとこ
築城年代は定かではない。南北朝時代に高田播磨守の次男高田又次郎政季が居を構えたのが始まりで、その子孫は竹本氏を称した。この竹本氏は桶狭間合戦で今川義元が討死した後に帰農したと伝えられる。天正年間(1573〜1592)に長沢松平氏の家臣山田長門守晴政が居城とした。竹本城は東へ伸びた微高地に築かれていたと伝えられる。東端部に秋葉神社が祀られており、ココに案内板が設置されています。堀と土塁の跡が残っています。
この前は排水管を埋設したんだけど、確認したら・・・-5cmしか下がっていなかった。前の図パイプの100-75の変換の部分が高さを上げてしまっていた。ので100-75は撤去スキマはあるがアミを直に100エルボーへ押し込む。これで25cmくらいになった。少々スキマがあるので100のパイプにノコでスリットを作り常時水を通すようにした。最終段階ではパイプを外しアミだけにするが。さて次は堀をつくる。雨のパラつく中-20cmの堀ができた。当然、排水継続中青いのもゲート開で。
雷と大雨で大荒れの深夜眠れないその後に夢の中へ我が家の周りも大雨の大荒れ通りを挟んで谷側の家が崩れていく土砂崩れが発生しました我が家も地盤沈下に巻き込まれた様です通りから1階分沈んだ通りも崩れてしまっているここは元お城だった場所今回の土砂崩れで石垣が出て来ました”石垣を壊したからたたりじゃ~”って声が堀を埋めた場所が地盤沈下したのかも家を建てるときは埋めた場所は避けましょう削った場所の方が良いようです夢の中
西陣伝統文化祭千両ケ辻のイベントのひとつとして、講演会が開催された。「平地の城-『旧二条城』を囲む水堀-」と題して、京都市文化財保護課の赤松佳奈さんよりお話を聴いた。旧二条城とは、足利義昭の御所として織田信長が1568年に普請した城で、当時は「武家御城」「公方様ノ御城」「武家御所」と呼ばれていたものを、学術用語として呼んでいる。武家御城の痕跡は、地上には現存していない。地下鉄烏丸線開設にともなう発掘調査の写真をもとに、お話をされた。特徴として、1.市街地にある
「天守のないお城もあるよ」と言うと、結構な確率でびっくりされます。そして、「天守ないのに何するの」と、結構な確率で聞かれます。みなさんは、お城の何が好きですか私は、天守よりも、石垣にテンション上がるんですが、いろんな要素がごちゃ混ぜになってできたその「好き」は、うまく説明できません。。。この本は、石垣や堀を理解すると何が見えてくるのか、当時の人が、なぜその構造を必要としたか、時代や場所も違えば、お城も違う。それはなぜなのか。読みやすい
考古資料館に行ってきました。堀の今・昔どハマり具合が最高の企画展示でした入場無料です下記⇩⇩⇩関連投稿です!!『磐城平城発掘調査』なにかやってます奥側が平城址手前が現場ここは。。。確か、堀跡ですねロマンが地下に眠ってますワクワクしますameblo.jp赤丸の部品です⇩⇩⇩⇩
宗堂城山城(岡山市東区瀬戸町宗堂)吉井川西方の丘陵頂部に立地。標高約20m。3面の平坦面が認められ、北側の円弧状の水田が堀跡と推定できるが、地形改変が顕著。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)帯曲輪状の東三郭帯曲輪状の東二郭主郭南二郭?南三郭?南二郭の石垣?堀跡宗堂城山城遠望宗堂山妙泉寺跡妙泉寺跡宗堂桜説明看板軌跡ログ旧赤磐郡瀬戸町の城
三木氏館(出雲市小山町)水田となっている堀跡堀跡水路となっている堀跡堀跡と土塁土塁三木氏館跡出雲市の城
浄音寺境内館(出雲市塩冶町)塩冶の地は斐伊川と神戸川の下流地帯に位置し、穀倉地帯であると同時に奥出雲からの良質な鉄の集積地であった。浄音寺境内館は、塩冶を代々配下においた塩冶氏の館と伝えられているが、定かではない。(※尼子氏の城郭と合戦より)浄音寺境内館跡土塁(外側)土塁(内側)堀跡の水路出城?の阿利神社阿利神社にも土塁のような土盛が…出雲市の城
近所の小さな堀がコチラ通常はド・フラットですが・・・今朝奥の橋の方から30cm位の津波が何波にも渡り遡上してイク瞬間を見ました津波注意報が解除されるまで海、川には近寄らないようにしましょうチャンチャン
蓮巡り2個所目は安城の本證寺です。本證寺は鎌倉時代に創建された真宗寺院で戦国期には三河一向一揆の拠点になり、内堀、外堀など郭寺院の面影を残していてその堀には大きな白蓮が咲き、風情ある寺の光景が見られます。なお、寺の裏の蓮池、今年も何もありませんでした。伊賀八幡宮と違い、カメラマンは僅かでした。7月1日本證寺
愛知県安城市の本證寺(ほんしょうじ)は、三河一向一揆のとき、一向宗側の拠点・三河三ヶ寺のひとつです。>>本證寺の地図三河一向一揆の後、本證寺は破却されましたが、徳川家康から再興を許可され、江戸時代には寺院として整備されました。その本證寺の内堀は蓮の名所でもあるのです。江戸時代にすでに名所に!これは本證寺にある三河三ヶ寺野寺本證寺全図。江戸時代に再興を許可された本證寺ですが、すでに堀には蓮がたくさんあります。しかし昭和の頃からこれら蓮も少なくなり、堀からほとんど消え
続・和歌山城。小一時間ほど小休止し、再出撃。こちらは西外堀。おそらく唯一残るの外堀の遺構。堀の先の石垣が吹上門櫓台現在は埋め立てられていますが左に見える鳥居のあたりも元々は外掘。石垣から先が吹上口跡、石垣の手前が外堀跡。右側手前の石垣が吹上門櫓台で丁度この位置に吹上橋が架けらていたのではないでしょうか。吹上口は物資の搬入口だったそうです。護国神社一の鳥居。鳥居の奥にある石垣が勘定門跡で、吹上門を潜ると丁度桝形の位置になります。勘定門跡を抜けると西の丸跡だ
6月4日の買い足し1306円本日の買い出し5910円内菓子類534円今日はこれに焼酎1lも買ったので重かった今朝の起床が遅めだったのは朝も書きましたが買い出しに行く前に洗濯しちゃおう♪と、思ったのにそのまま出かけてしまい帰ってから片付けやら仕込みやらしてあ~洗濯と思いだすもお腹が空いてお昼の準備そのまま食べてドラマの録画を見て再度、思い出しやっとこ洗濯機を回したはいいがまた、野菜茹でたり動画見てたりで干し終わったのが3時近かった…買い物つ
昨日は、自分の住んでる地域は結構な雨が降りました。マンションの窓から見える場所で我が家には到底金銭的に無理だった大手ハウスメーカーの注文住宅を建設中なのですがちょうど、我が家よりも少しだけ進んでいるので(スタートはうちのほうがかなり早かったんですけどね)なかなか良い具合に参考になるな~なんて思ってました。前日に足場を作ってたのでもしかしたらとは思ってたけど昨日が上棟で、しかも朝からめっちゃ雨降ってるのに決行してました。うわ~まじで今日やるんかと少し見てたのです
東海道、桑名宿。春日神社を過ぎると、旧東海道は堀沿いを進む。↑↑↑やがて、この案内板が。↓↓↓堀の向こう側の石垣に注目。↓↓↓削り方が荒っぽい石垣は、桑名城の中でも古い時代の石垣がそのまま残っている部分だと。↓↓↓生活の中に、この様な古い石垣が残されている。↓↓↓この窪みは、桑名城内の船着場跡??↓↓↓↑↑↑※古地図と照らし合わせると、橋の跡ではないか?と、X内の叡智を持つ御方から教えて頂きました!桑名宿の説明も。本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠(はたご)は120軒
土居武家屋敷(岡山市北区下足守)冠町町内会長林泰雅氏より提供いただいた「天正十壬午備中國冠兵山城第合戦之図」とされた絵図に、冠山城の東側に長方形区画が描かれていた。その内部には「土居武家屋敷」と記述がある。周辺の状況を畑和良氏に尋ねたところ、航空写真で方形状に水田が巡る宅地があると教示を受け、現地で確認した。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)南堀跡西堀跡土居武家屋敷跡岡山市北区の城
堀の上に上がってやわらかい春の草を美味しそうに食べていた