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城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑤“水銀朱の入手先”前回のブログでは、城野遺跡の二つの石棺内に撒かれた水銀朱の量が、今まで日本でみつかっている墳墓の中でも群を抜いて大量であることを述べました。朱の採取と分析を行った九州国立博物館の志賀智史さんは、その後別の角度からさらに研究を進め、それらが中国産の水銀朱であることを突きとめました。「硫黄(いおう)同位体分析」とよばれるこの分析方法は、朱に含まれる元素のひとつである硫黄の4つの同位体
九州最北端にあり、古くから交通の要衝として、また大陸からの文物交流の門戸として栄えた北九州市では数多くの弥生遺跡が発見されています。2009年~2011年の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された城野遺跡は、弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の学術上重要な遺構や遺物が次々と発見され、当時、多くの専門家が現地を訪れ、マスコミでも大きく取り上げられ、現地見学会には600名近くの参加があり、全国的に注目された遺跡です。残念ながら、ほぼ全域が開発により消滅しましたが、九州最大級の方形
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑨“遺跡の保存・整備に疑問④”西日本最大級の弥生時代方形周溝墓と、内部で見つかった2基の箱式石棺、真っ赤な大量の水銀朱で塗り込められた石棺内部、被葬者(ひそうしゃ)が二人の幼子であることに加え、その頭部側の小口石に描かれた謎の絵画文様、そのどれをとっても日本でもほとんど類例のない貴重な発見であった。しかし、北九州市文化財課はその取扱いの方向性も見いだせないままいたずらにこの重要遺構を放置し続けた結果、見るも無残な光景を目の当たりにすることになった
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実④“あふれる鎮魂の赤”このブログの19回(連載19)では、城野遺跡の二つの石棺に塗り込められた赤色顔料について、それが酸化第二鉄からなる「ベンガラ」であるのか、硫化水銀を主成分とする鉱物の「辰砂」であるのかを明らかにせずに、私の直感で「水銀朱」「朱」と呼んだことだけを述べました(写真1)。今日はその真相について詳しくお話しすることにします。【写真1】城野遺跡の方形周溝墓で見つかった箱式石棺墓二つ
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実③“権力者の眠る場所”方形周溝墓に葬られた幼児二人の親の墓はいったいどこにあるのでしょうか?当然、城野遺跡の集落内かそれに近い場所でしょうが、これほど広い周溝内ですから、この中に築かれていてもおかしくありません。実は発掘調査にとりかかってまもなく、二つの箱式石棺を納めた墓坑の南側で意味ありげな四角い穴(3.1m×2.4m)が発見されました(写真1、写真2の→部分)。図1で見れば黄色部分にあたります
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑧“遺跡の保存・整備に疑問③”城野遺跡の方形周溝墓が見ごろになるのをみはからって、市民を対象に現地説明会を開催することになった。石棺の蓋を開ける際にも報道陣に公開し、新聞、テレビも取り上げたことから、地元をはじめ市民の関心は高く、開始時間前から大勢の見学者が訪れた。石棺の前には中の様子を一目見ようと長い行列ができ【写真1】、我々担当者は遺跡解説だけでなく、順路誘導や安全上の注意喚起に追われた。結局参加者は600人近くとなり、記憶する限り北九州市で
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実②“権力者の住まう場所”城野遺跡で亡くなった二人の幼子はこれだけ巨大な方形周溝墓に葬られていたことから、その身分の高さがうかがわれますが、同時に命のはかなさも思い知らされます。死因はわかりませんが、私は流行病(はやりやまい)にかかった可能性を考えています。丁度今、私たちは新型コロナウィルス感染症というはやりやまいと戦っています。この医学、病理学が進歩した現代でも、いつ収束するのかもわからない不安にさ
こんにちはアンサー倶楽部倉地宏和です。今回は小倉南区城野(じょうの)、富士見エリアの紹介です。JR日豊本線城野駅南口側のエリアです。「富士見」の地名ですが、関東地方に多くあり、富士山が見える場所という意味です。さて、なぜ小倉に「富士見」の地名が?平尾台に近い貫山は別名「企救富士(きくふじ)」と呼ばれます。この辺りから昔は見えたのかな?と思っていました。だだ色々調べてもなかなか情報が見つかりません。そこで、城野市民センターの館長様に伺いました。
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑦“遺跡の保存・整備に疑問②”小倉南区城野遺跡の巨大な方形周溝墓がみつかってからの現場は非常にあわただしくなった。2基の箱式石棺は厳重に密閉されており、この蓋石を開けるのは実に1800年ぶりということになることに加え、もし中から貴重な副葬品が見つかったら…、人骨が腐らずに残っていたら…、と調査担当者は次々に生起するであろう新事実や課題に対応する備えをしていることが察せられた。私は、引き続き記録ビデオを回し続けたが、自分の業務があるため、撮影できる
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実①“墓づくりの真相”これまで、城野遺跡の発掘調査開始の様子から、見つかった遺構や遺物について色々とご紹介してきました。弥生時代終わり頃、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼が生きた時代の城野ムラが、この地域でどのようにして発展してきたのか、ムラびとたちの暮らしぶりや死者に対する思いにも想像を交えて述べてきましたが、ここでは再度、注目すべき発掘成果とそれに対する私の考え方をまとめておきたいと思います。城野遺跡
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑥“遺跡の保存・整備に疑問①”小倉南区にあるJR日豊本線、日田彦山線城野駅の南側一帯に広がる城野遺跡は、1800年前の九州最大規模の方形周溝墓や箱式石棺内に描かれた絵画文様が見つかったことなどで全国的にも有名になった遺跡であるが(写真1)、その保存と整備には数々の疑問と疑念、汚点が残されており、北九州市の埋蔵文化財行政を物語る上で格好の材料を提供してくれている。過去形になっていない表現からは、この問題が現在も進行中であるということに加え、そうした問題が
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑳“方形周溝墓はこうして築かれた!”では、二人の幼子(おさなご)を埋葬した方形周溝墓はどのようにして作られたのでしょうか。先日ファイルを整理していたら、発掘調査時に描いたスケッチ図が出てきました(図1、2)。この図は、二つの石棺が同時に築かれたと仮定して描いているので、実際は書き改めないといけないわけですが、当時私が頭の中で整理した築造過程を順番に記しています。今回のブログで、説明不足分を活字で追加
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑤“埋蔵文化財センター移転問題”今、喫緊の問題を今回は取り上げてみたい。埋蔵文化財の発掘調査と研究、収蔵と保存、史跡整備や保護・活用、教育普及など、その業務全般を担う施設を通常「埋蔵文化財センター」と呼んでおり、北九州市にも小倉北区金田一丁目1~3に所在する。今年で築38年目を迎え、かなり老朽化が進んでいるが、その間北九州市内遺跡の発掘調査と報告書発刊、発掘成果の情報発信、企画展示や歴史講座の開催、展示解説や施設開放、普及活動も行っており、北九
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑲“あふれるほどの水銀朱は何を意味するのか”方相氏の話題は一旦おき、城野遺跡の方形周溝墓がどれほどすごいのかここで整理しておきたいと思います。二つの石棺、蓋を開ける前にはこれほどとは予測できませんでしたが(写真1a)、蓋を開けてみつかった水銀朱の量は尋常ではありません(写真1b)。私の試算では、水銀朱の厚さ(写真2)からその体積を求め比重をかけ合わせると、南棺にはおよそ31kg、北棺にはおよそ39k
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑱“石棺木口石の表面に何かが…”二つ並んだ石棺のうち、南棺頭位側の木口石(こぐちいし)付近の土を除去する作業を行っていたとき、なにやら細い線が何本か、左から右に走っているのに気づきました(写真1)。もちろん調査担当者も、他の調査員もすでに認識していたようです。【写真1】木口石に現れた線画赤い水銀朱で引かれたような線が数本確認できる。発掘時に付いたのなら、赤い線にはならないはず。私は、その
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う④“遺跡を守るのは誰?”ほとんどの都道府県市町村の自治体には、埋蔵文化財を取り扱う部署が存在する。北九州市の場合は北九州市市民文化スポーツ局文化企画課である。かつては市教育委員会の管轄で、文化課、保護管理課、文化財課と名称を変え現在に至っているが、現在埋蔵文化財を取り扱うのは文化企画課のなかの一つの係である「埋蔵文化財担当」の部署なのである(図1)。【図1】文化財の文字が表れるのが2ランク下になっている北九州市他の部署には「係」の名が
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑰“死者を送るということ”二つ並んで見つかった石棺はよく見ると、その方向が微妙にずれています(写真1)。通常二つの石棺を同時に築くときは方位を合わせるのが自然です。たとえが不適切かもしれませんが、私たちが家具を置いたり、ふとんを敷いたりするときに方向を合わせますよね。壁に沿わせるとか畳の目にあわせるとか……。しかし二つの石棺は平行ではなく、やや斜めになっているのです。【写真1】二つの石棺並んではいるが、軸が
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う③“邪魔者扱いの遺物たち”埋蔵文化財の発掘調査では通常、土器、石器、瓦などたくさんの遺物が出土する。これらは文化財保護法にのっとり、国民共有の財産として都道府県市町村各自治体で収蔵・保管することが義務付けられているが、それらがあまりに多く出土することによって、その収蔵スペースに事欠く事態が全国で起こってきて久しい。とくに高度経済成長期や日本列島改造論の旗印が掲げられた時期以降、発掘調査件数の急増に伴って増え続ける発掘遺物の収蔵・保管が喫緊の課題と
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑯“飛び込んできた赤い世界”かれこれ2時間ほど経ったあと調査現場に戻ると、石棺の蓋石は両方とも開けられ、中に流入した土を丁寧に掘っている最中でした。バッテリーの充電もしてくれていたので、私は準備をするとあわてて外に出ていき、石棺のそばで取材を受けている調査担当者の話を聞いたり、他の取材記者たちの動き、そして発掘調査の様子を観察していました。石棺の蓋石は調査区の端の方にクレーンで吊り下ろされ、渡した2本の丸太の
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う②“望まれる組織体制の充実”北九州市の埋蔵文化財行政が他都市のそれと決定的に違うのは、開発に伴う発掘調査を行う主体が財団組織であることである。公益財団法人北九州市芸術文化振興財団は、市の外郭団体として位置づけられており、その中の一部署に埋蔵文化財の発掘調査を担当する埋蔵文化財調査室が置かれているが、市役所のように業務に伴う行政的判断を実行する権限をもっていない。するとどういうことが起きるか………そこで発掘調査に従事する財団直庸の専門職員はさまざま
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑮“方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)の発見”2009年6月に城野遺跡の発掘調査が開始されて約5カ月が過ぎた頃、私の隣りの調査区は色めき立ち始めました。大きな長方形の土坑(墓坑(ぼこう))を掘り下げていくと、二つの箱式石棺(はこしきせっかん)らしき遺構が並んで見つかったからです。しかも、それぞれが蓋石(ふたいし)でふさがれており、粘土で目張りまでされています。さらには、この箱式石棺を守るかのようにコの字
~連載にあたって~北九州市は、「九州最北端に位置している北九州市は、古くから交通の要衝として、また、大陸からの文物の門戸として栄えた地域です。………北九州市内には、旧石器時代から江戸時代までの遺跡が現在900ヵ所余り確認されています。これらの遺跡のうち約700地点の発掘調査が実施され、多くの出土品が保管されています。市内の遺跡や出土した埋蔵文化財は、地域の歴史を物語る大切な財産です」と、市内の埋蔵文化財の多さとその重要性を明記しています。※2019年9月に市が決定した「埋蔵文化財センター基本
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑭“泥まみれのたからもの”城野遺跡の玉作りはどうようにして行われていたのでしょうか。まずは精密さを要求される作業なので、それに携わる人々(技術者)はムラの中でも手先が器用、根気強い、丁寧でまじめな性格、目が良いなどの条件をクリアした人が選ばれたに違いありません。彼らは城野ブランドの使命を負って日々玉作りに精を出したと思われます。彼らが作った玉は水晶製算盤玉(すいしょうせいそろばんだま)と切子(きりこ)玉、碧
先日紹介した城野駅南地区の重留遺跡のすぐ近くには城野遺跡、重住遺跡があります。城野遺跡からはおよそ10m四方の方形周溝墓が発掘されました。方形周溝墓は方形墓の周りを溝で囲んだ墳墓です。墓内には小児用の朱塗りの石棺が二つ安置されていました。方形墓はこの地域の首長クラスの墳墓に準ずるもので被葬者は子供の兄弟と言われています。一方重住遺跡は企救の県の中心地であったろうこのムラの玉や水晶などの装飾品の製造工房などが発掘されています。両遺跡ともに現在は埋め戻されマンションや
数年前に訪問した戸畑区東田のいのちのたび博物館で見た小倉南区重留で発見された広形銅鉾が発掘された重留遺跡に行ってきました。この重留を含むJR城野駅南一帯は大規模な古代遺跡が発見されております。時代は弥生時代中期から後期にかけてで、古代史ファンに関心の高い卑弥呼や神功皇后の時代でトヨのクニ企救の県の中心地だった可能性があります。東の足立山麓から続くなだらかな傾斜地で低い尾根と谷地が交互に続く地形です。付近一帯は住宅地として開発が進み、どの遺跡も発掘が終わった後はすぐに
2009年~2011年の城野医療刑務所跡地(国有地)の発掘調査で発見された城野遺跡は弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の貴重な遺跡です。足立山を望む広大な丘陵地にあり、数億円もの費用(国負担)と2年に及ぶ発掘調査で、九州最大級の方形周溝墓、高価な水銀朱(中国産)がたっぷりと塗られた幼児の箱式石棺、九州2例目の玉作り工房を含む竪穴住居群等がみつかり、著名な考古学の専門家も視察に訪れています。日本最大の考古学研究者団体である日本考古学協会も発掘調査時の2011年2月に「現地を保存
現在、北九州市がすすめようとしている埋蔵文化財センター(以下「埋文センター」)を八幡市民会館に移転し、解体後に跡地を売却する「埋文センター移転事業」。北九州市が2月17日に発表した2021年度予算案にこの事業の「実施設計」の予算は入っていないとのことです。市は昨年12月11日から1月11日まで市民意見(パブリックコメント)募集しましたが、反対や見直しを求める市民意見が多かったからでしょうか?私たちは、八幡市民会館を埋文センターと収蔵庫に用途変更する「埋文センター移転事業」は、市民の大
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑬“出そろった玉作り工房の道具たち”玉作り工房の報告がまだまだ続きますが、大発見と思っているのでもう少しお付き合いください。H16は2本の棟持ち柱で支える構造の竪穴住居で、周囲に幅10㎝の周溝がめぐり、中央に二つの炉、北側の隅に小さな四角いベッドをもっていました(写真1、図1)。炉は直径50㎝の円形のものと、88×72㎝の楕円形のものが接するように設けられています(写真2)。■写真1H16の床面清掃状
2020年3月、城野遺跡の唯一現地保存が叶った九州最大級の方形周溝墓が「城野遺跡から見つかった九州2例目の玉作り工房の存在も含めて、邪馬台国と同年代の『クニ』の実態を知る上で重要と評価」され県史跡に指定され、2020年8月から、方形周溝墓付近を「(仮称)城野遺跡史跡広場」にする整備工事が始まりました。市の文化企画課は、整備計画については、地元住民や私たち「実現する会」の意見も聞きながら進めると、何度も話していましたが、説明があったのは、工事直前の2020年7月でした。この一方的な進め
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑫“もうひとつの玉作り工房”調査はだんだん佳境に入ってきました。現地説明会が終わって10日ほど経った秋晴れの日、玉作り工房H10から北東方向に20mはなれた場所にH16は見つかっていましたが、それを掘り進めているとまたもや水晶の小さなチップが移植ゴテの先やネジリ鎌の刃に当たってカチカチと音をたて始めました。私は即座にこの住居も玉作り工房であると判断しました。しかも今度の住居はきれいな方形を呈しており、別の住居