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3/16講演会『初代門司港駅の出現』開催、「集会宣言」を採択し、4/4に北九州市長らに要請!3月16日に門司生涯学習センターで開催された講演会『初代門司港駅の出現-九州鉄道の原点に迫る-』(初代門司港駅跡の保存を求める会主催)には、230人を超える参加者が熱心に3人の講師の講演に聞き入りました【写真1、資料1】。【写真1】講演を熱心に聞き入る会場の様子と”北九州市民憲章”参加者は230名を超え、別室のテレビモニターで視聴する参加者もいました。よく見ると、舞台右側の壁には「北九州市民
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑱“度重なる不信感”※くらしと福祉北九州」2022年4月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)さて、2018年9月20日、北九州市は城野遺跡の方形周溝墓部分(約350㎡)を含む計640.05㎡を大和ハウスから無償譲渡されたのであるが、譲渡一週間後の9月28日に大和ハウスは市内の建築会社に残りの開発予定地5,866.12㎡を転売している。当初落札した面積は、現在開業しているユメマート城野店敷地部分9,529.08㎡を含む計16,
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第6章立ち上がる市民と城野遺跡①“守ることと伝えること”2011年2月も後半になる頃、文化財行政を担う市職員からは、城野遺跡の保存交渉などについての情報が全くないまま時間は過ぎ、発掘終了時期が近づいてきました。このままではせっかく見つかった玉作り工房跡も壊れてしまう……、私の担当調査区でみつかった九州で2例目の貴重な遺構をこのまま埋め戻すわけにはいかない。私は、遺跡を守るということは内部の組織と戦うことだ、とその時思
1800年前(邪馬台国時代)の貴重な歴史を語る城野遺跡は、長年にわたる専門家や市民の願いは叶わず、ほぼ全域が破壊され、かろうじて現地が保存された九州最大規模の方形周溝墓も真っ平らで無機質で、弥生人が眺めていた足立山もほとんど見えない「城野遺跡公園」として整備されました。その後、私たちは、「城野遺跡の会」に名称を変え、「城野遺跡の現地保存をすすめる会」「城野遺跡公園を実現する会」での活動や経験をふまえ、地域の歴史や文化を大切にするまちづくりに寄与しようと引き続き活動を続けています。現在
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑰“人の褌で相撲を取る”※くらしと福祉北九州」2022年3月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)2013年7月、福岡財務支局が公共広報により城野遺跡の土地を公的団体向けに土地売却する公募を開始したが、参入者がなかったため2015年11月には一般競争入札の公示を行い、計16社の応札があったという。そして翌2016年1月19日に開札され、そのうちの1社が落札した。これが大手の住宅建設会社大和ハウス工業株式会社である。ところが北九
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり④“外部からの支援を求める”連載38(2023年7月5日付)では、2010年、城野遺跡の発掘作業中に作成した「城野遺跡の学術的価値と遺跡保存の必要性」をご紹介し、2009年より開始した一連の発掘調査で明らかになった事実に対し、調査担当者としての歴史的意義をまとめるとともに、遺跡の現地保存にむけて少しでも早く策を講じないと消えてしまう、という危機感を訴えたのですが、正式にこの資料を市文化企画課に提出した
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑯“職務怠慢のシナリオ”※くらしと福祉北九州」2022年2月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)北九州市教育委員会文化財課(現在の市民文化スポーツ局文化企画課)と財務省福岡財務支局との、城野遺跡現地保存をめぐる10回の協議は平行線のまま時が過ぎ、財務支局は2013年7月16日付で、城野遺跡が所在する国有地2筆について、公共用利用のために取得を希望する公的機関への情報提供文書を福岡県知事、北九州市長あてに送付し、3カ月後の10月15
城野遺跡/帰ってきた弥生人特報2“吉野ヶ里遺跡石棺墓調査への疑問と期待”6月に日本中を騒がせた吉野ヶ里遺跡の箱式石棺墓調査に関し、私自身多数の疑問点や今後の調査で期待する点があるため、特報2としてブログにアップすることにしました。まず、この墓をめぐってどうしても邪馬台国や卑弥呼との関係を求めたい報道関係者のステレオタイプの質問にはうんざり気味で、調査関係者もよく切れずに丁寧な応対をしているなあ、と感心しました。加えて山口祥義佐賀県知事の再三の記者会見にも違和感を覚えざるを得
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑮“通らぬ論理”※「くらしと福祉北九州」2022年1月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)三たび、城野遺跡の保存問題をとりあげ、納得のいかない市文化財所管課(現在の文化企画課)の行政対応の実態に迫りたい。城野遺跡の重要性については調査途中にも、発掘担当者から再三訴え続けたが、文化企画課が遺跡の土地所有者である財務省福岡財務支局との保存交渉に臨んだのは、すべての発掘調査が終了して半年以上がすぎた2011年9月12日であった。そ
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり③“遺跡保存の必要性を訴える”2010年12月初めに北九州市長へ、城野遺跡の窮状を訴える手紙(市長への手紙)を送りました。受け取ったとの回答はその日のうちに自動返信されましたが、その後手紙に対する返事はもらえず、2010年も年が暮れようとしていました。※「市長への手紙」は本年5/6付「帰ってきた弥生人第5章②“すがった一縷の望み”をご参照ください。私はその間、城野遺跡の発掘調査開始から方
6月5日、吉野ケ里遺跡で発見された石棺の蓋が開けられ、「“謎のエリア”の墓から赤い顔料、有力者であれば邪馬台国につながる発見の可能性」(2023/6/5RKB毎日放送)と大きく報じられ、全国ニュースでも繰り返し取り上げられました。6月14日、発掘調査の結果、人骨や副葬品は見つからなかったようですが、6月24日、25日の一般公開には歴史的発掘を一目見ようと全国から2600名もの参加者があったようです。佐賀県は「人の骨は有機物のため分解され副葬品はもともとなかったとの見解を示した一方、墓
城野遺跡/帰ってきた弥生人特報1“吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見にあたって”先日6月5日に、佐賀県吉野ヶ里遺跡でみつかった弥生時代の石棺の蓋石が開けられて大々的な全国ニュースになりました【写真1】。考古学ファンや邪馬台国ファンならだれもが知っているこの情報に、私も非常に関心を寄せています。このブログは本来、第5章「遺跡保存への道のり」の3回目にあたるのですが、急きょ変更して、この問題を取り上げて私なりの位置づけと皆さんのお考えをお聞きできればと思います。もっとも、最近はブログアップも滞
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑭“歴史の重みが台無しに…”※くらしと福祉北九州」2021年12月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)小倉城内の発掘調査を通して、「ここがまさに小倉城だ!」と感じさせてくれる遺物に家紋瓦がある。江戸時代の小倉城主細川氏、次の城主小笠原氏の家紋はそれぞれ「九曜紋(くようもん)」、「三階菱紋(さんがいびしもん)」であるが、それらはたとえ小さく割れた破片でも、見つかれば特徴的な紋様なのですぐにそれとわかる【図1】。【図1】小倉城主
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり②“すがった一縷の望み”城野遺跡の歴史的価値と保存の必要性を、いくら市の所管課に訴えても動いてくれないことに業を煮やし、2010年12月4日、私はパソコンを通じて「北九州市長への手紙」を送ることにしました。北九州市長ならその前年の晩秋、城野遺跡で北部九州最大級の方形周溝墓が見つかったことを市民に知らせる現地説明会に訪れ、調査担当者の説明を熱心に聴かれていた姿を思い出したからです。なにより市長は邪
「城野遺跡の会」のブログをご覧いただきありがとうございます。更新が滞り大変申し訳ありませんが、まだまだ続けますので今後ともよろしくお願いします<(__)>さて、本ブログは2016年9月に開設しましたが、トップページはタイトルの名称以外はほとんど修正しないまま、今日に至っていました。この度、タイトル下の説明文、メッセージボード、プロフィールの3カ所を遅ればせながら修正しました!特にプロフィール欄には、会のオリジナル動画「朱塗り石棺の謎」「城野遺跡実録80分弥生墓制の真の姿」とともに
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり①“残したいという心”城野遺跡の発掘調査が終了して早12年が過ぎようとしています。私自身弥生時代後期の玉作りが行われた住居跡を発掘したのは初めての経験でしたが、その時のことは今でも鮮明に覚えています。朝日に反射してキラキラと透明に光る水晶玉の破片と時々顔を出す鮮やかな緑色の碧玉のかけら、大地から聞こえてくるカチカチという音の響きと手に伝わる硬い感触、そして地を這うようにして発掘作業を行う人たちの
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人④“ふるさとの消滅”これまで、弥生時代の終わりごろに中心をおく城野遺跡での人々の暮らしや、方形周溝墓という巨大な墳墓を築き得た権力者の姿を発掘調査の成果からたどってきたわけですが、そもそもこうした貴重な遺跡がこの地に眠っていようとはだれも想定していませんでした(写真1)。城野医療刑務所敷地は一般には立ち入りできない場所で、いわば民間開発の波にさらされなかったため遺跡が守られてきた、ともいえるのです。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人③“政治的枠組みのなかの城野遺跡”集落を廃絶する理由が必ずしも内部発生的、自発的に起こるとも限りません。たとえば他の集団(外的圧力)に攻められてムラが全滅し、ムラびとのほとんどが虐殺されたり、捕虜としてどこかに連れていかれた場合………。なんだかロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしているので、古代にもそのようなことが起こったのではないか、と考えるのは行き過ぎでしょうか。「歴史は繰り返す」、そんな言葉
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑪“さらに続く低次元の文化財行政”ここまで数回、城野遺跡の発掘調査に関わる文化財行政の問題点を指摘してきた。そして今回また城野遺跡に関して考えられない疑念と不信感を所管課が引き起こしてきた事実を述べざるを得ない。まず、この貴重な遺跡をなんとか保存できないか、現場サイドでは発掘調査期限も迫る中、九州2例目の玉づくり工房や竪穴住居など貴重な遺構群を保全した上で埋め戻すための方策を文化財課の係長に投げかけた。具体的には遺構の壁面や床面を保護するとと
みなさま、こんにちは今年5月に「城野遺跡公園を実現する会」から「城野遺跡の会」に変わりましたが、引き続きブログでの情報発信はボチボチながら続けています。今後ともよろしくお願いします<(__)>さて、連載「北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う」は、2020年10月から「くらしと福祉北九州」に毎月寄稿されている記事を2021年3月から転載しています。北九州市の数ある遺跡の発掘調査に40年以上携わった佐藤浩司氏(埋蔵文化財調査室前室長)が北九州市の埋蔵文化財行政の問題点を具体的な事例
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人②“栄枯盛衰は世の常か”前回のブログでは、弥生時代後期前半期に約200年間、城野遺跡の集落が途絶えた事実をご紹介しました。その後また集落が築かれ、城野遺跡が最も栄えた弥生時代終末期は、まさに邪馬台国の女王卑弥呼がこの国の王として君臨していた時代です。当時、中国は魏・呉、蜀(しょく)が覇権を争う三国時代(220~280年)でしたが、239年、卑弥呼は魏の国に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印を手にし
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人①“そして誰もいなくなった”人間がそれまで住んでいた場所を立ち退く理由はいくつか考えられると思います。さしずめ現代人なら、①家族が増えて住まいが手狭になった、②転勤を命ぜられた、③住んでいる環境を変えたくなった、④経済的に今の住まいが維持できなくなった、⑤人的トラブルで他所に移らざるを得なくなった、⑥生まれた故郷に帰ることになった、などでしょうか。では古代人はどうしていたのでしょうか。おそらく
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑦“九州の玉作りフロンティア2”※前回の連載29(2022.2.8)から4ヶ月半ぶりと大変遅くなったことをお詫び申し上げます。佐藤氏の原稿は届いていたのですが、ブログ担当者の多忙により投稿が遅くなりました。引き続き連載は続きますので今後ともよろしくお願いいたします。また、6/22に公開した新しい動画「城野遺跡実録80分」を添付していますので、ぜひご覧ください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2009年~2011年に北九州市小倉南区の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。九州最大級の方形周溝墓と水銀朱(中国産)がたっぷりと塗られた幼児の箱式石棺2基、石棺に描かれた「方相氏」ともいわれる絵画文様、九州2例目の玉作り工房などが見つかり、日本考古学協会が発見当時から国県市に3回も「現状を保存し、史跡として整備・活用を求める」要望書を提出するなど、学術上極めて重要な遺跡です。そして、2020年3月、方形周溝墓は「地域の有力者
「城野遺跡公園を実現する会」(以下「実現する会」)は、2014年9月に活動開始した「城野遺跡の現地保存をすすめる会」(以下「すすめる会」)を引き継ぎ、2018年2月12日に発足しました。「すすめる会」「実現する会」の7年8ヵ月にわたる城野遺跡の保存運動を通して、城野遺跡の全滅を阻み、九州最大級の方形周溝墓の現地が保存され、福岡県史跡に指定後、遺跡公園として整備されたことは大きな成果ですが、4/26にオープンした「城野遺跡公園」は広さもその内容も発掘調査の担当者、考古学の専門家、私たち市民の
2009年~2011年の広大な城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。かろうじて現地が保存された方形周溝墓が「福岡県指定史跡/城野遺跡公園」としてオープンしました!発見当時、全国的に注目され、現地見学会には約600名が参加し、北橋健治市長も視察し、日本本考古学協会や九州考古学会も国県市に「現状保存し、史跡として整備・活用」を求める要望書を出すほど、学術上極めて重要な遺跡でした。北九州市は国(財務省)と2年にわたり保存交渉をしました
※2/8記事の再投稿です。最も重要な「図3」を添付し忘れていました。ご覧いただいた方も、再度ご覧いただけると幸いです。城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑥“九州の玉作りフロンティア1”この連載の第2章では数回にわたって、城野遺跡でみつかった玉作り工房について、その希少性と重要性を述べてきましたが、もうひとつ大切な事実をお話しするのを忘れていました。それは、城野遺跡の玉作りの開始が糸島市でみつかった潤地頭給(うるうじとうきゅ
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑥“九州の玉作りフロンティア1”この連載の第2章では数回にわたって、城野遺跡でみつかった玉作り工房について、その希少性と重要性を述べてきましたが、もうひとつ大切な事実をお話しするのを忘れていました。それは、城野遺跡の玉作りの開始が糸島市でみつかった潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡のそれよりも若干古いのではないかということ、そして、九州での玉作りの始まりは、ここ北九州市からはじまったのではないかとい
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑩“驚くほどに文化の砂漠”城野遺跡の調査中に生起した様々な問題点は、それを共有する場がないために、その解決策が示されないまま、また次の問題が起こった際の教訓にできないことが、北九州市の文化財行政が進化しない根本原因であると感じる。城野遺跡の重要性は巨大な方形周溝墓の発見にとどまらず、当時貴重品であった真っ赤な水銀朱を惜しげもなく大量に二人の幼子のため塗り込めていること、謎の絵画文様が墓を悪霊から守る「方相氏」の姿と考えられること、さらには九州で2
今日は“節分”ですね。実は、城野遺跡は日本における節分の始まりを400年早めるとも言われています。それは、城野遺跡の九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺に描かれた絵画文様が「方相氏」の可能性があるからです。手に盾と矛をもつ四ツ目の「方相氏」は古代中国の「周礼」に登場する悪霊払いをする役人で、日本では節分の鬼やらい(追儺)となり、京都の吉田神社の節分祭の鬼は「方相氏」の姿を今に残しています。※最後に掲載している発見当時の朝日新聞一面の記事をご参照ください。さて、1月23日、九州