ブログ記事73件
【2025年11月23日】美濃国一之宮である南宮大社を参拝するために岐阜県を訪れたところ、駅で配布されていたチラシを見て、初めて知ったことがありました。江戸時代、美濃国(現在の岐阜県)には、五街道の一つである中山道の宿場町が17カ所ありました。現在、その宿場町だった場所を巡り、記念の「御宿場印」を集める【美濃中山道十七宿御宿場印めぐり】という企画が開催されています。中山道の御宿場印というと、私も現在の東京・埼玉・群馬にあった宿場町を巡って収集しているところですが、そ
【2025年11月23日】三連休の中日から1泊2日、岐阜県への旅に行って参りました。東京→→→(東海道新幹線)→→→名古屋名古屋→→→(JR東海道本線)→→→岐阜岐阜→→→(JR東海道本線)→→→垂井5年前の2020年、朝倉山真禅院の三重塔を観に来た時以来の垂井駅。『岐阜・朝倉山真禅院の三重塔【重要文化財】』岐阜の旅、二日目。その日は、朝から全国的に大雨。宿泊していたホテルの窓から外を眺めた途端、「駄目だ、こりゃ」あちらこちらを歩き回るのは無理だ
中山道は、江戸時代に参勤交代で何千人もの大名や公家、お付きの人々、馬などが中山道を通りました。中山道は、江戸の日本橋から京都の三条まで544kmもの長い道でした。その中には69次の宿場町があり、垂井宿は赤坂宿と関ヶ原宿の間にあり江戸から数えて五十七番目の宿です。垂井を流れている相川。美濃路との分岐点です。垂井宿の地図ここが東の中山道の始点になります。中山道との分岐点にはわかりやすいように地図が設置してあります。玄関先には、江戸時代当時に中山道にあった屋号の木の表札の
(その2からの続き)-垂井(10:15着・10:30発)-垂井駅を目指して、旧中山道を南西に進んでいます。垂井町に入ってからも、旧中山道を道なりに進みました。市街地が近づいたところで、いったん旧中山道を外れて駅の方向へ。相川を渡りました。左手には東海道本線の線路が見えています。川を渡ると、スーパーや商店が増えました。長い道のりだったけど、垂井駅はもう目と鼻の先。垂井駅に着きました。残念ながら駅舎は改修工事中…
令和4年3月27日歩いた距離20km前回終了した養老鉄道「東赤坂駅」横の中山道から柏原宿まで歩きます。美乃坂本駅を5:39に出発しました。東赤坂駅に7:56到着です。駅横の中山道から出発します。時刻8:00「菅野1」の信号交差点を過ぎるとY字に分かれます。左が中山道です。左に新しいきれいな白山神社があります。白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていました。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」と
中山道を大谷川を渡って、青墓宿から赤坂宿の京(口)兜塚を目指してきた道は昼飯大塚古墳にいきました。この中山道のすぐ南には昼飯大塚古墳があります。古墳は4世紀後半に築造された全長約150mの、県内最大の前方後円墳(国史跡)になります。後円墳の頂上に竪穴式石室、粘土槨木造直葬という三つの埋葬形態が存在しています。この古墳は保存整備し、現在の墳丘を修復し、後円部の一部を復元ゾーンを設けて埴輪、円豪を復元しています。又この古墳は整備されてた公園で後円墳の頂上から、周囲を見ると四方八方の展望は素晴らし
中山道の駒引の交差点手前に平尾御坊道標がありここから約600m先の平尾御坊願證寺にいきました。この願證寺は蓮如上人の六男連淳が永正年間(1504~1520)に伊勢長島に創建、開基した、美濃、伊勢、尾張の一向衆の中心役割をもっていた。天正2年(1574)の織田信長との戦いに破れすべて失った。その後長島から赤坂、そしてこの平尾に移り真徳寺として再建した。寛保3年(1743)に願證寺と改号しそのころから平尾御坊として人々に親しまれてきた。尚この願證寺と隣接する威徳寺に美濃国分尼寺跡があったと
前回は中山道の青墓宿を東からJAにしみの青墓支店までいきました。ここから東にいくと左側に園興寺寺標がある、この寺院は源氏一族の菩提所になる。寺標の北には猿田彦命をまつる白髭神社がある。隣接する東が延長寺で山門は青野城表門を移築したものである。この青野城は天和元年(1681)春日局の子稲葉正次の子正休は、一万二千石の大名になり青野城主になった。戻って東にいくと主に民家が点在する静かな町並みで、左側の民家を左折して狭い道を進むと粉糠山古墳があります。墳丘長さが約100mの前方後円墳で、後円墳は
中山道の垂井宿を後にして青野町までいきました。今回はここから中山道は、県道216号線を横断して大谷川を渡って鎌倉時代の東山道の宿駅があり、又遊女の里といわれていた青墓宿にいきました。東に進んでいくと圓願寺跡があります。源義経が平泉に逃げる時立ち寄って休息し、その時に杖がわりにしていた芦を、突き刺したところ竹になったという伝説が残っています。又照手姫の墓といわれている五輪塔他があります。ここから南には照手姫が水を汲んで井戸があります。覗いて見ると満々と水がありました。照手姫水汲井戸から
中山道を東に関ケ原野上から来た道は、国道21号線日守西の交差点から旧道を進んで所に南宮大社近道道標があります。さらに進むと南側が現存の垂井一里塚があります。中山道でこの一里塚と志村一里塚(東京都板橋区)の二箇所が国の史跡になっています。多くの一里塚は明治代になる以前に補修されず次々と姿を消したが、そういう意味からは貴重な一里塚になる。又この一里塚は関ケ原の戦いの際に、浅野幸長がこの一里塚辺りに布陣したところでもあります。一里塚の東側に茶屋があって、垂井の岩手の美濃獅子門化坊が、中山道関ケ
安土城と関ケ原へ行きました。安土城とその付近で1日、関ケ原で1日の予定だったのですが、要領よく回れたので、1日で。先ずは安土城へ。昨年、滋賀県へ来た時にも登りたかったのですが、いろいろあって断念していたので嬉しくて頑張って登山です。登り始めから結構きつかったです。天守閣跡山中で出会った人は少なかったのですが、近くの博物館には中国人がいました。滋賀県立安土城考古博物館は2025年3月18日リニューアルということでした。全体を見て回ると、結構満足しました。のん
不破郡垂井町にある大滝の不破の滝にいきました。ここには垂井町を東西に通る県道53号線の、新井の交差点を北に約4㎞ほど上がっていくと公園があり、ここに駐車場が出発点になります。この滝は落差が15m、滝幅3mで日本で滝百選に選ばれた養老の滝より、幅や水量が多いことから不破の滝を男滝といい、落差や形が勝る養老の滝を女滝といっている。今回は滝への道の手前にある駐車場から、谷川沿いにある林道を周囲の風景を見ながら、約3kmほど上がって不破の滝にいきました。入口付
関ケ原宿を野上松並木から東の野上にいきました。ここはかって東山道時代の宿駅で「遊女の里」といわれ、後に間の宿となった。まず野上松並木の六地蔵から松並木の中を東にいきます。県内の中山道で唯一松並木が残るだけあって、松の大木が空にそそり立つている中をいくと左手に関ヶ原合戦のときの山内一豊の陣地跡があります。このあたりから道は右手に数軒の民家あり、やがて坂道となって上がっていきます。ここが野上で間の宿といわれたところで、国道21号線沿いにある真念寺の境内には伝説が伝わる「班女の観音堂があり
垂井駅前ようこそ垂井宿へ4月16日は○1882年大隈重信らが立憲改進党を結成。「立憲」の名前が入った政党は、その後「立憲国民党」「立憲民政党」が結成され、現在は「立憲民主党」が活動しています。椎名林檎/丸の内サディスティック(1999)ちなみに、椎名林檎さんの「丸の内サディスティック」に「リッケン620」が登場する、ギターメーカーの「リッケンバッカー」とは無関係です。○歌手のBONNIEPINKさんの誕生日。BONNIEPINK/Heaven'sKitchen(1997)
垂井駅北口バス乗り場GirlintheMirror/BebeRexha(2019)西野カナ/トリセツ(2015)ビービー・レクサさんはアメリカ・ニューヨークのシンガーソングライターで「ガール・イン・ザ・ミラー」は、アニメ映画「アグリードール」のサントラ盤に収録、「トリセツ」は西野カナさんの2015年のシングルで、6枚目のアルバム「JustLove」に収録されています。最近は、邦楽に似ている洋楽が増えてきたように思いますが、気のせいでしょうか?4月3日は○1961年NHK
中山道の垂井宿の美濃路追分から、来た道は青野の教覚寺にいきました。この教覚寺は江戸城内で大老堀田正俊を刺殺した稲葉正休(居合わせた老中大久保正朝に刺殺された)と深い関係があり、位牌、手紙、写経などが安置されている。ここ教覚寺を後にして中山道は、青野町の集落から青墓宿を目指しました。道は左右に民家、農家も建ち並ぶ住宅地になります。農家の中には古い家があり時代を感じられます。ただ一歩道を離れると田畑が広がる田園地帯になりなす。やがて中山道は県道216号線を、横断して青野町を離れて青墓町の
垂井宿の美濃路追分から東にきた道は駒引の交差点にいきました。中山道もこの辺りに来ると古い民家が点在している、少し進むとここから大垣市青野町になります。やがて青野の一里塚跡があり、大正5年(1916)建立の大神宮常夜灯前に標石がある。江戸日本橋より115里目になります。一里塚跡から少し先に教覚寺(浄土真宗)があり今から1260年ほど前の741年に建立された。建立時は真言宗のであったが、親鸞聖人が当寺にお立ち寄りになり、その以降は浄土真宗の教えを伝えるため、永年にわたって続いている念仏道場に
中山道の垂井宿の美濃路の追分から赤坂宿の青墓宿を目指しました。垂井宿から相川と梅谷川をわたっていくと美濃路との追分の道標があります。この美濃路は垂井宿と中山道と東海道の熱田宿を結ぶ、大垣街道、美濃路と呼ばれ、松並木や一里塚、そして宿場が置かれた街道で幕府が管轄する約57㎞の短い距離だが、中山道と東海道を結ぶ重要なバイバスの性格を持っていた。垂井宿から二つの川を渡ってきた中山道は追分で真っ直ぐいく美濃路と別れ梅谷川を横に見てカーブした道を西に進んで行きます。道がカーブするところに地蔵堂と喜
今年は少し遅い初詣でを南宮大社にいきました。南宮大社は美濃国一宮として、また金属の神の総本宮として今も深い崇敬されています。初詣ではどこの神社もこの時期は正月中は混むのが、予想されたので正月を過ぎていきました。しかし今年は正月休みが長く最後の休みにあたり、国道を過ぎると渋滞が始まり、長い時間をかけてやっと南宮大社に着きました。この南宮大社は御祭神金山彦命(かなやまひこみこと)です。今回は中山道の垂井宿の南宮大社の石鳥居を横に見て、国道21号線を渡ると、前方に高さ21mの朱塗り大鳥
中山道の垂井宿から、北に相川に架かる御幸橋を渡って、府中にある美濃国府跡にいきました。ここは当時の東山道(中山道)の北に沿いの肥沃な濃尾平野につながる西端にあたる小扇状地の一角になります。位置的には美濃国全体から見ていちじるにく西になりますが、その理由としては不破の関の存在が大きく関わると考えられる。又現在は南宮御旅神社の境内になります。国府政庁の中心になった建物、正殿があったところが、平成3年(1991)から発掘調査された。その結果、東脇殿跡他が確認された。この国府跡の北に隣接して南
垂井宿の本龍寺から西へいき右折して約300mのところに八重垣神社があります。この神社の祭神は須佐之男命(すさのうのみこと)で、神社は5月2日∼4日のかけておこなわれる例祭(垂井祭)には、西町、中町、東町の3基の曳山(県民俗)がでて、曳山の舞台では子供歌舞が演じられます。この曳山の内、はんりん閣(西町))のものは文化5年(1808)当国不破郡山中村大工藤井太兵衛の墨書きが残されています。又この神社は牛頭天主社と呼ばれていたが、明治元年、神仏分離令により神社名を八重垣神社として垂井の総氏神
垂井宿を東から松尾芭蕉が訪れて本龍寺にいきました。この本龍寺に訪れた松尾芭蕉は、元禄4年(1691)に当時冬ごもりした、時雨庵には芭蕉翁木像が安置されています。又時雨庵の北側には作り木塚があって、芭蕉を始め美濃派ゆかりの俳人らの句碑が立ちなんでいます。本龍寺から緩やかな坂を上がっていくと西の見付けがあります。垂井宿の西の入口で、大名などの行列を迎えたり、非常事態の時にはここを閉鎖したりする重要なところです。又ここが安藤広重の版画は、ここから西方を見た風景が描かれています。西の見付けか
垂井宿を東から垂井の地名といわれとなった垂井の泉にいきました。ここは東山道の宿駅である不破駅があったといわれた、その理由としては国府に近いといったことの他、諸条件から推察されている。又この垂井の泉と隣接する高台に垂井城があった、城主は平塚為広であった。関ケ原の戦いには西軍として参戦し、僚友の大谷吉継に代わって、前戦を指揮したが残念ながら討死した。垂井の泉から宿に戻り、南宮大社の石鳥居を左折して垂井宿を西にいきました。まず近くの左側には脇本陣跡があります。現在はおやすみどころゆめ屋になって
垂井宿を東見付け跡から宿内を西に垂井の桝形までいきました。ここから西の左側に古い酒屋があります。この酒屋の2,3軒先が旧問屋場で代々庄屋を兼ね、相川の人足渡しの手配をしていた。斜め前には旧丹波屋があります。現在の建物は料理屋として大正元年(1912)に建てられたもので、平成19年に改修されて外観は宿場の風情を残しています。さらに問屋場跡から西の少し先に同じ並びには本陣跡があります。垂井宿の本陣は栗田本陣といわれ建坪が178坪で、門構え、玄関がありました。明治になって学習義校(小学校)になり、
中山道の美濃路の西から3番目の宿場になる垂井宿を歩きました。この宿は東海道宮宿に通じる脇往還美濃路との追分控え、西美濃の交通の要衝として栄えた宿場になります。天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると垂井宿の総家数315軒で、本陣、脇本陣が各1軒、問屋場3軒、旅籠27軒宿内人口1179人で幕府領(大垣藩預り)になったいた。宿長は7町(約763m)西町、中町、東町の3町で構成されていた。又この宿はすぐ北を流れる相川の氾濫に備えて、二重堤防を造り、宿の安全を計っている他の宿では見られないと
「垂井宿」を往きます。「垂井宿」は「南宮大社」の門前町で、「中山道」の宿駅であると同時に、「美濃路」の起点でもあり、交通の要所でした。「中山道」の「板橋」から数えて57番目の宿場町です。1843年、総家数は315軒で、商工業者が多く軒を並べていたと記録されています。沿道沿いでは今でも当時の「垂井宿」をしのぶことができます。長屋氏屋敷跡「今須城主長江氏」の一族で、「垂井」を領していた「長屋氏」の屋敷跡。長江氏初代「長江義景」の
「真禅院」を拝観し、市街地の「垂井宿」の方へ向かいます。高台から下る。このあたり「運動公園」があります。朝倉運動公園いい公園ですが、人はいませんでした。田畑の中を往く。墓地。路傍の祠。集落の中にある、北野神社
先日とまったく同じ内容の仕事で、再び愛知県一宮市に行った帰りの寄り道観光。前編は、旧林家住宅美術展「時とアートの交差展‐環(めぐ)る‐」をご紹介しました。『愛知県一宮市(旧尾西市)美濃路×木曽川ミュージアム【見学記】(前編)』先日とまったく同じ内容の仕事で、再び愛知県一宮市に行って来ました。この前は帰路で「メタウォーター下水道科学館あいち」に立ち寄りました。『愛知県稲沢市メタ…ameblo.jp美濃路×木曽川ミュージアム別称:一宮市尾西歴史民俗資料
先日とまったく同じ内容の仕事で、再び愛知県一宮市に行って来ました。この前は帰路で「メタウォーター下水道科学館あいち」に立ち寄りました。『愛知県稲沢市メタウォーター下水道科学館あいち【見学記】』仕事で愛知県一宮市に行った帰り、愛知県最西部に位置する稲沢市を走行中にナビで見かけた興味深い施設「メタウォーター下水道科学館あいち」に行って来た【見学記】とな…ameblo.jp美濃路×木曽川ミュージアム別称:一宮市尾西歴史民俗資料館(リンク先公式HP↑)一宮市