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これまでの話⑧近江を平定した光秀は、最大の敵である柴田勝家の抑えとして秀満を安土城に置いた。一方、信長・信忠の遺体が見つからなかったため、秀吉は「信長は生きている。」との噂を流す。光秀が味方になると期待した細川藤孝、筒井順慶は参集せず、池田恒興ら摂津衆は秀吉側に付く。備中から引き返した秀吉は、山崎の戦で明智軍を破ったのである。勝竜寺城に逃げ込んだ光秀は自害を試みるも、庄兵衛にたしなめられ、南山城に落ち延びる。藤田伝五が勝竜寺城から丹波亀山城に向けて出立、続けて庄
左馬之助湖水渡りも今昔(いまむかし)風泣き渡る湖(うみ)に城なし😸以前のブログでも詠みました「明智左馬之助の湖水渡り」。本能寺の変の後、明智光秀が山崎に秀吉を迎え討つ際、娘婿である明智左馬之助は、安土城を占拠しておりました。しかし、光秀の悲報を聞くと、すぐさま明智居城を守るべく三百の手勢と共に坂本に向かいますが、途中、秀吉軍八千と遭遇。味方はことごとく討たれてしまう中、左馬之助は愛馬「大鹿毛(おおかげ)」を走らせ、大津市打
大津にある坂本城址碑です。織田信長の家臣・明智光秀によって築かれた坂本城は、一番東側の琵琶湖に面した場所に本丸、西側の内陸に向かって二の丸、三の丸がありました。ここはかつての坂本城二の丸付近。一帯は住宅地になっており、大正時代に建てられた碑のみが建っています。この碑は当初は近くの東南寺の前にありましたが、近年、この地に移されて赤傘と石畳が整備されました。坂本城址碑;滋賀県大津市下阪本3
大津にある坂本城です。元亀2年(1571年)、織田信長の家臣・明智光秀によって築かれた城。織田信長は、浅井・朝倉と組んで抵抗を続ける比叡山延暦寺の僧房が建ち並んでいた坂本を焼き払うと(比叡山焼き討ち)、戦功のあった家臣明智光秀に坂本の地を与え、光秀は坂本城を築いて居城とします。坂本城は琵琶湖に面した水城で、堀に琵琶湖の水を引き入れ、城内から船に乗って琵琶湖に出ることができました。織田政権では織田信長の安土城、織田信澄の大溝城、羽柴秀吉の長浜城がいずれも琵琶湖に面した水城であり、兵士や
今年もあと1ヶ月になりましたね〜子どもの頃は一日が長く感じたのに、最近は時間が足りないあっという間に一年が経ってしまいます。最愛の孫りんが生まれて11回目の誕生日を迎えたのですから、わたしも年をとるはずだ(笑)2024年に戦国キャンピングカー(マンボウ)で訪れたお城のうち、五城を選んでみました。満足度の高い順に、伊予甘崎城(7月)肥前名護屋城と真田昌幸の陣跡(3月)豊後岡城(3月)近江坂本城(3月)近江膳所城(3月)今年は、元旦から能登半島に地震発生と大変な
こんばんは、お財布ショルダー専門店のイシロヨウコです。石山寺の大河ドラマ館を見た後はびわ湖へ〜!『石山寺の大河ドラマ館へ!旅するお財布ショルダー』こんばんは、お財布ショルダー専門店のイシロヨウコです。お財布ショルダーでフットワーク軽くお出かけ。「光る君へ」の大津大河ドラマ館に行ってきました。…ameblo.jpお天気がいいから焼きたてパンでも買って湖畔で食べることに。母と姉に西川貴教くんのテーマソングを聞かせてあげようと、わざわざ平和堂でお買
南光坊天海㊴「堀秀政、美濃人也。姓藤原氏。鎮守府将軍利仁八世孫季高、族称堀。曾祖某、称掃部大夫属齋藤道三領美濃厚見郡西部父秀重称太郎左衛門初属道三後仕織田信長領江州坂田郡田五千石秀政小字菊千代改久太郎。(中略)永禄八年賜坂田郡二萬五千石天正五年二月従織田信忠伐雑賀寇于紀伊七年八月又従徇摂津九年九月、爲長濱城主。」(「野史」)「家伝」によると、やはり長浜城主になったようである。そもそも坂田郡の中に
カエル姫です。今日はソーイングレッスンの日いつものように自転車で先生のマンションに向かう途中雑草だらけだった荒れ地が???え?整地されてる?発掘現場でした見えている建物は下阪本小学校この近くでは最近坂本城の石垣跡が発掘されたばかり。ここも石垣発見?うーん、ちょっと違うような、井戸かしら?なんにしても、発掘調査ってワクワクする
今回から三日目。さらば福井城、さらば福井県。次に来ることがあれば坤櫓が復元されてからか。当時のリアルタイム旅記。『実刻旅記・近江国』リアルタイム旅行記三日目。本日は滋賀県。長浜城秀吉最初の城、天守は史実に基づいて復元されていなかったり。坂本城址公園光秀の本拠だが、実はここは城郭でもなん…ameblo.jp一路、滋賀県まで長浜城跡。閉館後に到着したので外観して見ていない前回。『東海道から東山道の旅路其の参-長浜城-』愛知県から岐阜県を跨いで滋賀県へ。ここは近江国
下記は私が書いた小説です。電子書籍では試し読みも可能です。空と海のキャンバスAmazon(アマゾン)楽天ブックスでも販売中です。【POD】空と海のキャンバス[秋月友希]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}動画も作成しまた。明智光秀が築城した坂本城跡地へやって来ました。唐崎の山王鳥居が見えます。遠くに見えるのは三上山。通称、近江富士。石垣があるのは奥に見える桟橋付近です。喝采の時しか見ることはできません。坂本城は水の城だったので、坂本
南光坊天海⑱三宅重利は、本能寺の変の前年、天正9年(1581年)の生まれである。父親は明智秀満(三宅弥平治)、母親は倫子(光秀長女、一説には三宅長閑斎の娘で光秀養女)であるという。山崎の戦いの時、重利は2歳であるから、まだ幼児である。ところが通説では、重利は勝龍寺城の留守居役であったとされるのだ。無論、2歳の幼児に留守居が務まるはずがないし、戦略的にも無意味である。しかもこの城は戦場に近く、敗走した光秀らが一時入城しているのだ。重利は秀吉軍の包囲の中、勝竜寺城か
左馬之助雲竜羽織り男義を湖面に映し坂本に散る※明智光秀の死が知らされると、明智左馬之助は雲竜の羽織りを着て、名馬に乗り安土城から坂本城に向ったが、時既に遅く、途中秀吉軍(堀秀政)に遭遇。左馬之助は馬で湖水を渡り、光秀の妻子達がいる坂本城に入り、見事最期を遂げる。数々の歴史の悲劇水に消えただ湖(みずうみ)は今静かなり※琵琶湖周辺には小谷城、坂本城、安土城、佐和山城を始めとして、数々の悲劇が繰り返さ
坂本城ミニサイズの完成#坂本城#お城#ジオラマ
城コレ坂本城・滋賀県戦国の城・明智光秀#坂本城#お城#ジオラマ
2024年2月に開催された坂本城三の丸石垣の発掘調査説明会。普段は必ずしも説明会に赴くわけでもない筆者が「これは行かねば!」と思うくらいに、坂本城の石垣検出のニュースは衝撃的なものでした。湖底に沈んだ石垣の他には地表面に遺構を残さない、幻の城。明智光秀が心血を注いで築いた名城の片鱗が地上に現れて、しかもそれが開発に伴う発掘であるが故に「風前の灯」かもしれないという危うさが、「これは行かねば!」の思いに直結し、いざいざ近江まで足を運ぶこととなりました。壺笠山城で時間をつぶすつもりが想定以上に
出ました!明智光秀の坂本城石垣!見に行きたい!余談我が屋のブルーベリー、豊作です。毎日収穫しています。
京都は終日雨の予報でしたが、実際は小雨が降ったり止んだり。昨日ほど蒸し暑くなく、梅雨時の散歩にはまずまず。今日は大津の坂本を歩きました。前回の大津旅行で気に入り、今日が2回目。穴太衆が積んだ石垣が随所に残っています。最近、穴太衆が主人公の今村翔吾『塞王の楯』を読んだので、また来てみたくなった次第。京阪の坂本比叡山口駅下車。先ず、古い町並みが残る作り道、滋賀院門跡に続く御殿馬場、石垣が美しい滋賀院門跡、権現馬場の坂道、重文の慈眼堂(慈眼大師の廟所)、日吉東
びわ湖大津館のイングリッシュガーデンを楽しんだ後向かったのは...明智光秀ゆかりのお寺西教寺京阪坂本比叡山口駅からすぐそばにある坂本観光協会へまちあるきのパンフレットをいただきに行くと、「西教寺のかざぐるま参道ももう少しで終わりますよ」と言われそれなら又行ってみようかな~と歩きました。西教寺は山麓にある大きな寺院なので、のぼり坂になるんですよね~2年前にも行って来ました。(*´▽`*)
滋賀出張最終日。昨日は16時半頃ホテルに戻りましたので走りに出ました。明智光秀公が好きなんですが、そういや坂本城址に行ったことないなと思い、行ってみることに。片道7~8kmと遠くはありませんが、今の状態だと往復ランはちょっとしんどいかも、ということで行きは電車で(^^ゞJR大津駅から一駅の京都・山科駅で乗り換え、比叡山坂本駅で降りました。20分ほどでした。まず明智塚そして坂本城址琵琶湖のほとりの坂本城址公園へ
カエル姫です。日曜日の近場のお散歩気温が上がり鳥が浮かれるシーズン到来鳥の声に誘われて空をキョロキョロ飛ぶスピードが速すぎて、シャッターチャンスを逃すこと逃すことやっと捉えたこの子マックス拡大したものの、あなたは誰?確認できません鳥の名前に詳しくないたい。蛙庵に戻る前にもう1ヵ所坂本城の石垣が発見された発掘現場今は柵で覆われて立ち入ることが出来ません。まだ発掘調査中なのね。県だったか市だったかが買い取ることになったよう
にほんブログ村もう4月ですやーっと北海道も暖かくなってきて氷割り汗だくそんな間に息子は娘のところに泊まりながら甲子園とお城を堪能しに行きましたまずは甲子園今回は少年野球の先輩やら中学野球の先輩やら、北海道代表に限らずたくさん野球留学している先輩達がアルプス席から堪能大阪桐蔭の応援の凄さも甲子園カレーの美味さも堪能次はお城戦国時代好きな息子は、まず明智光秀の坂本城へ〜歩道にも琵琶湖のほとりにあった坂本城は琵琶湖の水位が下がって今まで見えていなかった石垣が見えてきたってことで
「幻の名城」がついに姿を現した-。戦国武将・織田信長の安土城に次ぐ豪壮華麗な城と文献でも絶賛されながら、地上に城の痕跡を残していなかった坂本城(大津市)跡で、全長約30メートルに及ぶ石垣が出土したと7日発表され、城郭や戦国史の研究者たちを驚嘆させた。石垣を前に研究者たちは、信長の巨大船が入港した波止場や、城主の明智光秀が客人を舟に乗せて城内を巡る往時の光景を想起した。(産経新聞)これを探しに行ってきましたので、報告したいと思います。お供は10番組組長・原田左之助隊士ことGSXーR750
最近の歴史的大発見と言えば、明智光秀の坂本城石垣新発見。3年前、『大河麒麟がくる』に触発されて、光秀巡りをして(本能寺とか愛宕山とか亀山城)、その時に琵琶湖畔の坂本城址公園にも行ったことがある。ここから200mくらい離れた水際に、湖の水位が下がった時だけ現れる石垣があって、昨年末、渇水で琵琶湖の水位が数十センチ低下してるというニュースがよく流れてたから、これは石垣を見に行くチャンス!と思っていた。残念ながら、あれこれやることがあって行きそびれたが、今年に入って『新たな石垣発見!』のニュ
"京都&琵琶湖・乗り鉄プチ旅紀行"も連載19回目となります。vol.11の記事から今回のプチ旅の2日目に入っています。京阪山科駅から京津線に乗って、琵琶湖方面に向かって前面展望を楽みながら、京津線名物の併用軌道区間を通って、びわ湖浜大津駅に到着した後、びわ湖の湖上交通のターミナル=大津港から、観光船ビアンカを会場ちとして開催された<びわ湖木育サミット>に出席参加しました。その後は、木文化関係の出版社の会長様・社長様に合流して、このプチ旅の二日目の宿は琵琶湖畔にとることに
先日、ドライブがてら滋賀県に行きました。坂本城の三の丸の石垣の一部が見つかった、とニュースでやっていたので途中で坂本城址公園に立ち寄りました。その石垣を見に行くことはしませんでしたが、坂本城址には明智光秀の石像や歌碑が建っていて、歴史解説ボランティアみたいな方も居られ、色々解説してくださいました。琵琶湖沿いに建っていた水城とのことで、本丸の石垣の一部はまだ琵琶湖の中に埋もれているそうです。ハードな立地に驚きました。∞とうもろこし∞
◎このブログの目次はこちら連休中日の土曜の朝、私はPCに向かって苦悶していた。「確定申告が進まない...」窓の外を見れば、昨日までの雨が上がり、青空も覗いている。「ちょっとだけ走ってこよう」そして10時前、私はロードバイクにエアを補充し、京都の自宅を出発した。前日にチェーン洗浄と注油をしたせいか、走りは快調だ。逢坂山の入口逢坂山の峠も易々と越え、1時間足らずで琵琶湖に到着。浜大津付近「そうだ。守山のなぎさ公園で菜の花が見られるはず」というわけで膳
滋賀県大津市は2月7日、明智光秀が築いた坂本城の遺構が44年振りに新たに出土したと発表した。宅地開発に先立つ発掘調査だったが、開発は中止され遺跡として保存されることになった。城址公園から300mほど南西で出土したのは長さ約30m、高さ約1mの石垣や外堀跡(深さ約1m、幅およそ8m)、井戸や櫂のような木製品など。本丸礎石が1979年に出土した時以来の発見となった。位置から三の丸の石垣と推定されており、対岸部は見つかっていないが、舟入遺構が確認された外堀からは琵琶湖へ直結できる水城の姿を推察で
こんにちは😊Kelly0121です。今回は明智光秀について投稿させて頂こうと思います。以下、明智光秀との会話です。↓「貴方の出身地は何処ですか?」明智「美濃だ。」「秀吉と戦い、その後坂本城に帰城できましたか?」明智「しなかった。」「(坂本城を出た後)途中で誰かに殺されましたか?」明智「殺されていない。」「自害されましたか?」明智「そうだ。」「自害される前に何かおっしゃいましたか?」明智「(自分自身に対して)悔しい!!」(言ったというより大絶叫)明智「ただ悲しい。(
先週行った近江・坂本今回出土の石垣が明智十兵衛光秀の坂本城三ノ丸のものであるかについて考えている。上記当日記事に「明智期の(坂本である)確率が高い」と書いたが、考えが変わっている。城の石垣としては高さが圧倒的に足りないのだ。1mちょい。現地説明会でも「往時も高さは石ひとつくらいは高くなるかも」という。背後が地山で遺構面であることからそう高くはならないであろう。また、石垣面より2mほど内側に幅2mの薬研堀状の溝がある。これが城遺構であり得るであろうか?そしてこの石垣に対応する堀の