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夏の北海道から秋の北東北を旅してきた142日間の記録ですもう1年以上も前のことになってて驚きです78/142日目(その3)大阪を出発して78日め原付を積んだ軽バンで離島を含め北海道全域を走り74日目から北東北、青森を徘徊中です。日本中央の碑保存館日本の中央が青森県にある。室内に保存展示されている、坂上田村麻呂によって日本中央と書かれたとされる日本中央の碑。なんで中央が青森なんだよ。書かれた字も落書きレベルじゃないの
「箟岳(ののだけ)」という難読地名は、古代の信仰とおくのほそ道の歴史に深く関わりがあります。地名の語源から、地域の歴史や伝説を考察。宮城県涌谷町の箟岳を訪ねて、地域の精神文化のルーツを知る記事。【宮城県涌谷町】難読地名「箟岳」の読み方・由来語源をたどる旅in無夷山箟峯寺・おくのほそ道展望台|地域伝統文化ラボ宮城県涌谷町の箟岳(ののだけ)は、坂上田村麻呂の征夷伝承と砂金産出の歴史が交差する地名。矢竹に枝葉が生えたという祈念譚や「無夷山」の山号が語るように、蝦夷との境界に位置する信仰の峯
今日の午前中は多賀城に行ってきました~ここは小学5年生の時に小学校の行事で来ているのですが、多賀城の何たるかなど全く興味のない時代でもあり、友達とバスの中でおしゃべりしたり、おやつを食べたり、そして遊んだり、それ以外に全く記憶がない。ぢつは最近のこと。アネキとの週末ディナーの時にこの近くを通ったのですが、新しい建造物が出来ていることに驚いて、いつかは来ようと思いつつも長いこと放置していた次第です。パーキングに車を入れて、さっそく案内板。この周辺を歩き回ると一日がかりでしょう
とにかく度肝を抜くその名と看板をこの目で見たかった。山奥と思いきや大きな道路沿いにある。いっちょまえの観光スポットのようで駐車案内が。そしておおおおおおお国鉄バス鬼死骸停留所待合室の跡地で、現在は観光用休憩室。延暦20年、坂上田村麻呂が「大武丸」を退治しその死骸をこの地に埋めたことから「鬼死骸」と呼ばれるようになったという。スタンプが
京都の清水寺の本尊は十一面千手観世音菩薩。脇侍は地蔵菩薩と毘沙門天。伝説によると・・・蝦夷討伐を命じられた坂上田村麻呂は、清水観音に祈り続けながら戦っていました。すると、僧侶と老翁が現れ、僧侶が敵の矢を防ぎ、老翁が敵に次々と矢を射かけてくれたおかげで蝦夷を打ち破ることができたのだといいます。僧侶と老翁は、田村麻呂が蝦夷征討に赴く際、開山の延鎮が必勝祈願のために彫った地蔵菩薩と毘沙門天だったのだとか。延鎮は、地蔵菩薩と毘沙門天を彫った残りの木切れで100頭の木馬も作ったらしい。福島県
城をめぐります。有名無名関係なく、興味があるところならどこへでも!今回のルート:水沢駅-奥州市埋蔵文化財調査センター胆沢城跡歴史公園-水沢公園-駒形神社今回は胆沢城をめぐります。スタートは水沢駅です。ここから徒歩70分ほどで到着します。市街地や住宅街を抜けていくので、気候が良ければ快適です。駅前からバスも出ていますが、便数が少ないため、時間を合わせなくてはなりません。ようやく案内板が見えてきました。奥州市埋蔵文化財調査センターに到着しました。入口
青森2日目の最後は、十和田神社へ。十和田湖には何度も訪れていたのに、実はお参りするのは今回が初めて。静かな湖の奥に佇む社へ足を踏み入れると、空気がすっと澄んで、時間がゆっくり流れはじめますテキストを入力テキストを入力テキストを入力テキストを入力テキストを入力平安初期の武人、征夷大将軍・坂上田村麻呂が807年に建てたと伝わる古社。祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。勇気と開運の神様を祀るこの場所は、霊峰・十和田のパワーが凝縮されているような荘厳さに包まれています
「鬼首(おにこうべ)」という難読地名は、蝦夷の歴史と伝説に深く関わりがあります。地名の語源から、地域の歴史や鬼首伝説を考察。地域の精神文化のルーツを知る記事。【宮城県大崎市】難読地名「鬼首」の読み方・由来語源をたどる旅in鬼首伝説・鳴子温泉|地域伝統文化ラボ宮城県大崎市鳴子温泉郷の奥に位置する鬼首(おにこうべ)は、坂上田村麻呂の蝦夷征討伝承やアイヌ語由来説が重なる地名。地獄谷や間欠泉など火山地形が広がり、畏れと祈りが交差する風景が残る。鬼切部城跡や釜神信仰など、戦と信仰の記憶が地名に刻
日輪寺から所々狭い道を下っていき、集落の中の狭い道を上っていくと近津神社に11時半前に着きました。八溝山に住んだ鬼の岩岳丸を坂上田村麻呂が討伐したときに集散したとのことで、境内に稲荷神社、天満宮が並んでいて、裏山に中世の山城の上野宮館跡がありますが、かなり上った所のようです。https://ibarakikuji.com/daigo/26_chikatsu.html近津神社ibarakikuji.comhttps://adeac.jp/otawara-city/text-list/d1
夏のある日、大阪中之島美術館で開催された「日本美術の鉱脈展」に行ってきました。https://koumyakuten2025.jp/日本美術の鉱脈展未来の国宝を探せ!2025年6月21日(土)―8月31日(日)/大阪中之島美術館koumyakuten2025.jp【開催趣旨(公式サイトより引用)】日本美術には、まだ世に知られていない作者、作品が埋もれています。例えば、伊藤若冲(1716?1800)の場合、2000年に京都国立博物館で開催された展覧会をきっかけに、空前の若冲ブームが巻き起
こんにちは。アレテーを求めて~今日もトコトコ(・ω・)弁護士の岡本卓大です。『進め家康くん(・ω・)』×『神武征討記(・ω・)』のまとめ記事です(・ω・)「九州一の女傑」『【コラボ連載】『進め家康くん(・ω・)』×『神武征討記(・ω・)』「九州一の女傑」』こんにちは。アレテーを求めて~今日もトコトコ(・ω・)弁護士の岡本卓大です。【コウペンちゃんⒸるるてあ】今日は、投稿ネタ#学生時代の夏の思い出におじゃ…ameblo.jp「神武の妻アイラ」『【コラ
「人生」順風(797)★you-tubeの98%は事実とは違う。特に大谷君関係、MLBのトレード記事、メッツのソト選手への悪意のある記事全てがガセネタ。日本で中国の悪口を書けば再生回数を稼げる。それに似ている。ウクライナ戦争の記事も眉唾物が多い。全て金稼ぎ記事だ。噂話の域を出ない記事を過大に膨らませて。◆「日本後紀」ー太上天皇への忠臣評○唯一の散逸第三の国史「日本後紀」桓武の治世後半と平城・嵯峨・淳和:延暦十一年(792年)正月丙辰朔(1日)より天長十年(833)二月乙酉(きのととり)
○火怨(上・下)高橋克彦講談社1999年(上巻)奈良時代、東北には蝦夷と呼ばれる人々が平和に暮らしていた。724年に多賀城が置かれ大和朝廷との境界が定まったが、749年に小田郡に金が産出されたことで、大仏造立に着手した大和朝廷は金を欲して境界を越えるようになる。780年、蝦夷を狼になぞらえて卑しい者と断じた天皇の詔を発端に、朝廷に協力的だった蝦夷が離反、ついに蝦夷の伊治公鮮麻呂が朝廷の陸奥按察使紀広純を殺害する。ここから蝦夷と朝廷との長い闘いが始まった。胆沢の阿弖流為(アテルイ)
笠森寺を出たのがすでに14:50早い東国の夕暮れすら始まりつつあったのでした。この清水寺!への道が一般国道であり、片道が20㎞ほどもある。そしてそのあと館山の那古寺へ行くにはこの行った分だけ戻らねばならなかったのです。往復40㎞。この行き来だけで1時間はかかるよ。16:00が近づくわけだ。そして80kmはある館山に1700前に着く・・・無理やん。しかし清水寺を打たずに進んでも意味もない、ので清水寺に向かいましたこれもむずかしい所在地だった
守山市十王寺から同じく守山市の東門院に移動しますここは中山道の守山宿中山道って言ったら、板橋や妻籠馬籠しか思い浮かばない🤣🤣宿場町の面影有りますね〜中山道守山宿の案内板十王寺から徒歩20分弱で天台宗の東門院に到着しました仁王門仁王様の全然お顔が分からない〜😭おっきな蛙さん𓆏何方かしら!?手水舎うわぁ~😱ちょっと強面の龍神様🐉本堂天台宗寺院の東門院は、比叡山東門院守山寺と号します東門院は、延暦年間(782〜805年)比叡山三千坊と言われる比叡山の僧坊の一つとして
田澤旅館の暖かい部屋で一泊して、その翌日の朝のこと……朝食を出された食堂に行ったら、田澤旅館のおかみさんから、いきなり「ラーメンはお好きですか」と聞かれました。「ラーメンは大好物で、毎日のようにラーメンを食べてます」と答えると……なんと、朝食にラーメンがついてきました。美味しい朝食と一人前のラーメンを両方食べたら、お腹がいっぱいになりました(^^)田澤旅館のおかみさんにお別れのあいさつをして、友人のHさんの車に乗って、この後の目的地である岩木山神社
津軽大北斗七星・礼番二「浪岡八幡宮」さんです。大星神社さんから南西へ約20km。青森市浪岡。浪岡城跡の直ぐ近く。浪岡城の築城は1460年頃とされていますが、浪岡八幡宮の創建は793年ということで、浪岡城より歴史のある神社です。小さな可愛らしい太鼓橋。小川には小魚も泳いでました。初巡礼、上がらせて頂きます。”第一鳥居”を潜りますと、左右に大きな池が。両脇を池に挟まれ、参道を進みます。立派な鯉が泳いでいます。
花巻東高校校舎隣接の同校野球場へ。日曜日ということで、練習試合が行われていた。さすが天下に名をなす野球部、人工芝にて実にきれいなグラウンド、応援席もかなりの人、人。ここで大谷も菊池も育ったのか。二人のモニュメントが燦然と。「右手ネットの向こうに見える黒屋根の建物が、菊池選手が寄贈してくれた巨大な室内練習場なんですよ」と応援席にいた方が教えてくれた。高校正門に行くと、二宮金次郎の像が。そのうち大谷さんになるんだろうか(笑)。おおお、東大にも入るんだ、すげぇ高校だ!驚きと深くため
津軽大北斗七星・礼番一「蝦夷鎮護大星神社」さんです。青森市の南5km程、問屋町は国道103号線沿いにある大きな第一鳥居を潜り、少し足を進めますと、見えて来たのが、朱塗りの”第二鳥居”です。近くには住宅街もあるのですが、一気に空気が締まります。更に奥へと進みますと、”第三鳥居”が見えて来ました。津軽らしく稲わら細工で飾られています。注連縄も立派です。静寂の中、更に足を進めます。最初の狛
天気が素晴らしく、おもいきり好印象な思い出となった松島島巡りの後は、重要文化財で松島のシンボルと言われる『五大堂』へ。松島海岸のすぐ沖に浮かぶ小島に立つお堂で、朱色の橋を渡っていくのですが、その姿は海に浮かぶお寺。「透かし橋」と呼ばれる木造の赤い橋を渡って行くのですが、足元スケスケで下の海が見えて、ちょっと怖い。景色に見惚れてズボッと落ちるK子。そんなシーンが容易に想像できたのでドキドキする。「心が清らかでないと渡れない」なんて言い伝えもあるとかますます
愛宕神社は、城山の中にあります。愛に満ちた神社になりますが、現在は熊出没注意立ち入り禁止になります。東根山三角点愛宕神社(あたごじんじゃ)祭神火之迦具土命(ほのかぐつちのみこと)祭日例祭9月14日由緒坂上田村麻呂が延暦22年(803)、志波城を築き、本村に一族の士を居住させ、鎮守の神として当愛宕山に祭られています。建武年中(1334~1338)、斯波御所の臣彦部(ひこべ)新左衛門尉(しんさえもんのじょう)秀光(ひでみつ)が当地区の領主で愛宕神社の社殿を造営し、見
⬛️🟥田村麿と妙見宮の鬼面🟥⬛️平安閣本館2階に竹浪比呂央先生製作のねぶた祭りに運行したお面があります。征夷大将軍坂上田村麻呂は、陸奥へと攻め入った。この「蝦夷征伐」に対し徹底抗戦したのが津軽蝦夷であり、その反撃は大いに田村麿を悩ませた。そこで田村麿は北天に輝く北斗七星に先勝を祈ると、夢枕に妙見菩薩が現れ、「仮面をかぶって征圧せよ」と七個の鬼面を授かった。この鬼面をもっての攻撃で勝利した田村麿は、蝦夷平定後これを納めて妙見宮として崇め祀ったという。これが現在の大星神社である。妙見宮は北斗
國府神社(高取町下土佐)大和国高市郡奈良県高市郡高取町下土佐ナマコ山402(一の鳥居横にP有り、ただし近隣住民が停めるため事実上使用不可)(「土佐街道」沿い観光Pより徒歩15分ほど)■旧社格村社■祭神応神天皇[配祀]天児屋根命事代主命「高取城」の城下町として、または「薬の町」として興隆した高取町「下土佐」集落の南西に鎮座する社。広く優雅に横たわる「ナマコ山」を神域として頂に社殿が建ちます。◎創建年代、由緒等は資料が残存せず不詳。伝承では白鳳時代(645年~平城京遷都まで
高皇産霊神社(高取町観覚寺)大和国高市郡奈良県高市郡高取町観覚寺字宮後754(P無し、「キリン堂」や「吉野ストア」複合商業施設の西側道路向かい)■祭神高皇産霊神高取町「勧覚寺」集落の南西、「高取城跡」から城下町へのメイン通り「土佐街道」の北端から始まる参道。かつて坂上田村麻呂の屋敷があったという「坂ノ山」の中腹に鎮座する社。◎「奈良県史」によると、川合家所蔵の「由緒書」に同家の先祖堤見氏が創祀した社であったが、後集落の鎮守になったとあり、また同家の別の記録に貞元の頃(976~97
2025年11月10日。西村慎太郎です。今日も引き続き大字小野田字清水の古刹清水寺の縁起を『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本四一四一・二六―二〇。原本は相馬市指定文化財)から見てみたいと思います。----------------------------------------延暦中於標葉郷小野田邑宮(ママ。営)建仲善寺〈至大同二丁亥年移今之寺沢、本尊十一面観音、慈覚作〉、又営建一寺于會津石梯山號大寺、又称清水寺、或又田村丸与沙門延鎮一心創洛陽東山清水寺、徳一住石梯山清水寺、後附
2025年11月9日。西村慎太郎です。今日は大字小野田字清水の古刹清水寺の縁起を『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本四一四一・二六―二〇。原本は相馬市指定文化財)から見てみたいと思います。----------------------------------------縁起夫原當山開基濫觴、人皇五十代桓武帝延暦中鎮東将軍坂上田村麻呂奉奥賊高丸退治之勅命、東征之時住于高野郡矢田河村星筒城、又徒標葉郡云、将軍祈千手観音、以大悲加護夷逆賊、故奏所々造建蘭若安置観自在菩薩于朝廷、而
「薬莱山」という難読地名の由来は、薬草と坂上田村麻呂の伝説に深く関わりがあります。薬草文化が育まれた薬莱山の歴史的背景と、地名の語源から、加美町の地域の宝に迫る記事。【宮城県加美町】難読地名「薬莱山」の読み方・語源由来を訪ねるin旧小野田町・坂上田村麻呂・加美富士|地域伝統文化ラボ宮城県加美町の薬莱山(やくらいさん)は、薬師如来信仰と薬草文化が息づく円錐形の独立峰。読み方や語源由来を解説。地名の由来には疫病退散の祈りや蓬莱山への憧れが重なり、紫根などの薬用植物の栽培も進む。薬莱温泉や薬
2025年11月7日。西村慎太郎です。昨日まで大字小野田の小字名を検証してみました。大字小野田字清水には古刹清水寺があり、『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本四一四一・二六―二〇。原本は相馬市指定文化財)には詳細な縁起などが掲載されています。個人的にも2回参拝しており、レスキュー作業をした小丸観音堂が移設されています。本日から『奥相志』における熊野山安楽坊蓮花院清水寺の記述を見てみたいと思います。----------------------------------------熊野
「石巻」という地名は、古代の水運と伝説に深く関わっています。石旋の伝説、伊寺水門などから、石巻がどのようにして東北の玄関口となったのか、その地名の語源をたどることで地域の歴史を再発見。【宮城県石巻市】地名「石巻」の読み方・由来語源をたどる旅in石旋の伝説・和渕神社・大島神社・伊寺水門|地域伝統文化ラボ石巻市の地名の由来を探る文化探訪。石旋の巨石伝説、伊寺水門の港の記憶、和渕神社の坂上田村麻呂伝説、水神信仰、そして牡鹿港から石巻港への変遷まで、風景と祈りに刻まれた「石巻」という名の奥深さ
栗原市に伝わる延年は、日本最古の部類に入る長寿の芸能。国指定芸能「小迫の延年」の由来や、白山神社で行われる神事の文化的価値を深掘りします。伝統継承の難しさと、地域で守り抜く人々の想いに迫る記事。【宮城県栗原市】希少!国指定芸能「小迫の延年」を楽しむin白山神社・金成春まつり・坂上田村麻呂|地域伝統文化ラボ私は地域文化ライターとして、土地に根ざした芸能や信仰のかたちを探り、現地の空気を吸いながら言葉にして伝える仕事をしている。制度や建築では見えてこない、暮らしの中に息づく文化の輪郭──そ