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トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ山梨県内には戦国大名武田氏が置いたという烽火台、狼煙台がたくさん残っている。中央道須玉ICから増富温泉の方へ登ってゆく塩川沿いにもいくつか並んでいて、信州の千曲川上流方面までも繋がっていたらしい。この前の山烽火台は途中の塩川ダムの左岸すぐ上の山上にある。この日は津金方面の城2つを首尾よく回った後にこの流域を狙ったのだが、最初の目標だった大渡の烽火台は入山禁止の看板が立ち、次の比志城は駐車場を見つけられずに敗退した😅諦めきれずに地図を眺めてい
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ古宮城は韮崎や須玉などからはかなり北のほう、須玉川が清里に向かって登ってゆく左岸側にある。少し離れているが須玉川の向こう側に旭山砦が、北の大門ダムそばには詰城とも言われる源太ヶ城がある。甲斐源氏の祖たる源義光の孫の源清光(黒源太清光)が築いたといわれる。また室町時代の文明年間にこの地にやってきた佐竹氏改め津金氏が居城としていたという。いまは主郭が諏訪神社の境内になり、周囲には明治六年(1873年)に津金学校が置かれた。1985年の閉校ののちは旧
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ西からのアプローチは、長かった🥵廃道になった自衛隊道を辿れるのはごくわずかで、急な斜面にへばりついたり険しい尾根上を進んだりと、なかなかアドベンチャーっぽいところを進んで、ようやっと城内へ。三角点のある西の曲輪それは、広さがあるソコソコ平坦な山頂の上に土を盛ったような感じに見えた。これが城の西側の曲輪。ここを主郭とする見方もあるようだ。城塁の前に広場が出来てる…😮これは虎口空間の萌芽の姿?古い時代の城と決まったわけではないらしいけ
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へこの城には登る道がなく、急斜面を含む直登があります。尾根筋では迷いやすいのでGPSアプリを使って慎重に行動する必要があるでしょう。また特に北面や自衛隊が拓いた道の法面すぐ上などでは滑落にも要注意です。源太ヶ城は甲斐信濃の北側の国境ちかく、著名なリゾート地である清里のすぐ南の大門ダム左岸に聳える山稜上にある。よほどの城好きでなければ訪問しようもない場所という感じだが、麓にキャンプ場があるので野外活動ついでに登るのも良いかもしれぬ。この山には自
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ山梨県内には戦国大名武田氏が置いたという烽火台、狼煙台がたくさん残っている。いまは山梨市に属する笛吹川沿いも例外でなく、この下釜口烽火台は国道140号を『笛吹の湯』あたりまで行ったすぐ裏山に構えている。またの名を『三富の城山』とも呼ぶようで、『城山城郭遺構』として山梨市の史跡になっている。笛吹川沿いでは、下流の成沢烽火台の次に訪問したんだが…かつては『笛吹の湯』隣のグラウンド隅に立てられた螺旋階段から登れたようだが、登ったすぐ上にコンクリ擁壁が
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ山梨県内には戦国大名武田氏が置いたという烽火台、狼煙台がたくさん残っている。いまは山梨市に属する笛吹川沿いも例外でなく、この成沢烽火台はそのひとつ。旧牧丘町と三富村の境目付近の国道140号沿いにある。朝イチに中央道釈迦堂PA近くの蜂城に登ったがスタートが遅れて下山が昼を過ぎてしまい、そこから夕方までに行動できる範囲ということで、此処と北の下釜口烽火台を訪問することにした。出だしはソーデンセンばっか…😅→現在位置(Googleマップで)スター
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ蜂城は釈迦堂PAあたりの中央道の南側に聳える標高738メートルの蜂城山にあった。このあたりはPA付近に釈迦堂遺跡があるなど、縄文時代から人々が住み着いていた場所らしい。いまは主郭に蜂城天神社が祀られているほか、奥の神領山までの登山コースが通っていて、時折ハイカーの訪れもあるようす。歴史はよく分からないようで、室町時代中期まで勢力のあった岩崎氏の詰城か、と考えられる程度らしい。主郭の蜂城天神社は元禄十四年(1701年)まで笹子峠に近い京戸山にあっ
トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ大庭城はJR東海道線の辻堂あたりの北、湘南ライフタウンという新興住宅地の東隣にある。ほぼ全域が大庭城址公園となっていて、訪れる人は多い。市の史跡になっているが指定されたのは2021年と最近。その歴史は平安時代末の大庭景宗(大庭景親の父)まで遡るといわれるが、今残っている遺構は扇谷上杉氏麾下の太田道灌が築いたのが最初で、のちに城を奪った後北条氏が改修したとのこと。この日は朝イチから病院行って検査やら何やらで昼までかかった。さらに夕方には三ノ輪の
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ松留館は上野原の市街地から鶴川を挟んで西、国道20号を四方津に向かって少し進んだあたりの段丘上にあった。歴史はまったく不明らしい。2009年夏に館跡からJR中央本線を挟んで反対の北側で発掘調査が行われ、縄文時代から古墳時代の遺物が多数出土したが、中世のものは出てこなかったとのこと。以前から訪問の機会を狙ってはいたが、一度は駐車場難で失敗し、電車で栃穴御前山砦などへ登った時には時間切れで訪問できなかった😅今回はJR上野原駅ちかくのコインパー
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ花咲城もしくは花咲鐘撞堂は中央道大月IC・JCTのすぐ北隣に盛り上がった小ピーク、花咲カントリークラブとの間の狭い空間にある。いまは諏訪神社があって麓から登る道があるが、一部が放置状態に見える。歴史は不明なようだが、このあたりを領していた小山田氏の烽火台と考えられているらしい。午前中に御坂山地のトバ口の大野城に登ったが、疲れが来たので笹子トンネルからトンボ返りし、途中で立ち寄ることにした😅大月から上野原までの桂川沿いにはこんな感じの烽火台
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ北の曲輪群から降りてきた鞍部に刻まれていた大きな堀切が、南北の主要な曲輪群の境界になるところらしい。さらに奥へ向かって尾根上を進む。堀切に下る直前に遠くに見えた小さな堀切が、早速現れる。倒木が倒れ込んだりしているが、これとて小さいながらしっかり刻まれた土木の跡✨ここから少し登ると、尾根の天端を削平したような平坦地。奥に、また堀切😮コイツもさっきと同じぐらいの小さいやつ。こんどは尾根線上に土橋があったようす。ここから、少しカーブし
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ麓から急な登りの連続する尾根を登り、曲輪らしいところもいくつか通過して、比高にして170メートルばかり登ったところで、ようやく主たる曲輪群の一つの直下へ到達🙌ここも急斜面で、登れるところを探して西に回り込んでみると…なんか、虎口っぽくない?左の高台を右から回り込んで登ってゆくイメージなんだが…😅この西側にも尾根が落ちているが、その途中にも小さな段郭が一つだけ見えたりして…そして登った上は、東西に長いテニスコートより少し狭いぐらいの平場
トップページ都道府県別索引へ山梨県の索引へ大野城への尾根には登山道が無いので地図やGPSアプリが必要です。尾根上での道迷いのほか、かなり急峻なので滑落にも注意が必要でしょう。単独での登城は避け、バリエーションルートに慣れたメンバーを含むパーティで登った方が良いと思います。大野城は甲府盆地の南東の端のほう、御坂山地から降りてきた尾根の末端ちかく、標高670メートルばかりのピークを中心として北西に降りてくる尾根上にも曲輪を連ねている。登山道のない尾根で、伝承はあったようだが城と確認され
トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ主郭北東の高みにいったん登ったあと、外へ出ると一気に下りになる。最初は幅広だった尾根がだんだん細くなり、岩盤チックにもなってくる😨そして鞍部まで来ると…木橋?🤔これは、この城ではよく知られているだろう、堀切を渡る橋。主郭から西へ伸びる尾根上には、こういうのが2本あって、主郭に近いこちらは小さい方。上手い具合に左右に道が分岐していて、橋の下の堀切を間近で見ることができる。南側から北側からこのようすは結構知られているらしい。幅4メ
トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ平塚の町から見ると西の方にこんもり盛り上がっているのが見える、高麗山(こまやま)。相模丘陵の南東の端にそびえていて西への尾根続きには桜で有名な湘南平(泡垂山)がありテレビ塔が立っている。その昔、朝鮮半島からの渡来人が上陸する時に格好の目印になっていたのだとか。高麗山城は、この高麗山の山頂一帯に曲輪や堀切などを並べている。永享の乱で上杉持房が陣を敷いた場所だったとか。時代下って永正六年(1509年)には北条早雲こと伊勢宗瑞が、権現山城に蜂起
トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ王城山城は大磯の町の北側に連なる相模丘陵の南端ピーク上にある。高麗山城から南西に降りてきた小尾根の末端で、尾根上まで住宅地が広がってきており、城域にも水道施設があるなど開発で姿を少なからず姿を変えているようす。歴史は不明なようで、立地や遺構のようす等から後北条氏により高麗山城の支城のような位置づけで築かれたと考えられているぐらいか。この日は朝イチで車を車検に出したために近場の城に目標を定め、5年ぐらい前に一度行ったきりになっていた高麗山城
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ城峰城は茂木の町から東南東に3km弱の県道51号沿いにある。高低差60メートルほどだが道端から急傾斜で立ち上がっていて、登る人も稀な低山。歴史はまったく不明なようで、南北朝時代の延文元年(1359年)に結城氏と戦って廃城となったという伝承があるぐらいとか。2月の三連休の遠征のラスト、茂木城に登った後にその足で訪問した。この日はかなり暖かく、日差しを浴びると暑いぐらいだった。ズルズル登って尾根先っぽへ→現在位置(Googleマップで)ふ
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ怖ろしき大手門跡本丸から出丸と来て周囲をあらかた見て回ったので、つぎは知基橋の下を通って奥の方に入ってみるか。ここも横堀状がクランク状に折れていて、地味に寄せ手の突進をを妨げている😨そして、奥へ進むとガッツリ掘られた堀切の中を通り抜ける。左に千人溜、右には出丸。その両方から必死の矢弾を食らいまくる😨これは怖い‼️この堀切を通り抜けると、駐車場、千人溜、そして北東に広がる馬場に囲まれた井戸の底みたいな空間に出る。ここに大手門があったとい
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ茂木城は町の中心地の裏山のような山上にあって、麓の町からもよく見える。平安時代末、宇都宮宗綱の次男八田知家が源頼朝蜂起に戦功を挙げて治承四年(1180年)にこの地の地頭になり、跡を継いだ三男の茂木知基により建久年間に築かれたとのことだが、異説もあるとか。建武の新政から南北朝の争乱が始まった頃には足利尊氏についたが、八田知家から続く宗家の小田氏が南朝方につき、一時城を奪われたこともあったとか。その後永享の乱から結城合戦、そして享徳の乱と戦い抜
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ九石(さざらし)の集落から西の山…というか丘の上に九石城があるが、その北東すぐ近くにもう一つの城郭遺構がある。谷一つ隔てた向こう側なので別の城のようだが、ネット上で調べた限りでは城の名前、埋蔵文化財包蔵地として認知されているかなど、情報サッパリだった…ここでは九石北城とした。九石城から降りてその足で向かったのだが、千本城、九石城とスイスイ行ってここが壮絶なひっつき虫の園だとは知る由もなく、完全にナメてかかっていた😂→現在位置(Google
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ九石城は茂木の町から北北西に5kmほど丘陵地帯を進んだところにある。城のある九石(さざらし)地区が国道や県道からは少し奥まったところにあり、城はさらにその奥座敷のように見える。麓には『九石古宿遺跡』という縄文時代の集落跡もあって、人々が古くから生活していた場所らしい。源平合戦で功のあった那須為高が建久四年(1193年)に築いたと伝わるとのこと。もっとも2年後には千本城を築いてそちらに移ったとのことで、その後は支城として機能していたと考えられている
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ二の丸まで入ってから本丸へは、まず虎口の前にドカンと座る馬出状へと登ってゆく。車道がここまで入っていて、どこをどう弄ったかは分からない…虎口のところにちょうど樹木が立っているが、空堀土橋虎口の教科書みたいなコンボ✨本丸との間の空堀。細いけど、けっこうちゃんとしたV字✨そして、土塁の切れ目の虎口には、羽黒神社の鳥居が立っている。新しいな⛩️この虎口前の馬出は、こんな感じ。けっこうちゃんと方形していて、周囲の二の丸から4〜5メートル嵩上
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ千本城は茂木の町から6kmほど北西の国道294号沿いにある。このあたりは低山と谷戸が入り組んでいて平地が少なく、その中でも高くて広いピークを選んで築かれているようす。源平合戦で戦功を立てた那須為隆がこの地に入って千本氏を名乗り、建久六年(1195年)に築いたのが始まりという。室町時代以降は那須七騎に数えられていた。戦国時代も半ばを過ぎた天文二十年(1551年)には時の城主千本資俊が宇都宮氏の家臣芳賀高定と組んで宗家の当主那須高資を謀殺するという
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ山居台館は益子町の中心地から5kmばかり南、地形図上で標高165メートルとなっているピーク上にある。周囲は植林地だがピーク周辺はササの茂る雑木林で、登山コースのようなものが通っているが館跡はコースから外れていて、訪れる人は稀なようす。歴史はまったく不明らしい。この日は鬼怒テクノ通り沿いから少し東の舟戸城からスタートしたあと益子町に入り込んで街なかの古城に登ったが、その次と思って取り付いたここはかなりの難物だった💦麓からの比高6〜70メート
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ益子古城は益子の町のすぐ東、陶芸美術館などがある丘ほぼ全体が城だった。周囲の平地からボコッと盛り上がった丘のほぼ全体を城にしていたらしい。土佐守紀貫之の子孫と伝わる益子氏が平安時代に住み着いたところで、宇都宮氏の下で源平合戦、南北朝の戦いなどで活躍した。戦国時代になると周囲の勢力との衝突が絶えないようになり、最後は主家であった宇都宮氏の一門笠間氏と争ったことに激怒した宇都宮国綱に攻め立てられ領地を没収されたという。築城時期などは分かっていないよ
トップページ都道府県別索引へ栃木県の索引へ舟戸城は国道408号鬼怒テクノ通り清原工業団地南ランプから東に2kmほどの丘の上にある。城内は宇都宮霊園なる墓地になっていて、平坦なところはどう弄られているか分からない状態。なお北隣に芳賀天満宮があるが、そちらから入城は出来ない。歴史はよく分かっていないようで、応永年間に水沼主水勝侶が築いたという伝承があるが、戦国時代の天文年間の築城ともいわれるという。戦国時代には宇都宮氏の支配下にあって風見信濃守が城主だったらしい。2月の三連休を利用し
トップページ都道府県別索引へ千葉県の索引へまずは露岩をガッツリ穿っていることで知られる袋狭間から主郭たる本城山に登った。そして周囲の切岸はどうじゃと思って西側へ寄ってみると、下に帯曲輪状が伸びてきているのが見えた。ここからは北西へ尾根が伸びているのが分かったが、ここからは降りられまい…というわけで、袋狭間の上まで戻る。ここからは、本城山の背後を回って北西の尾根に向かう道が出ている。ここへ入って、少し行ったところから振り返る尾根が…すんげぇ迫力🤯帯曲輪だか何だかよく分からな
トップページ都道府県別索引へ千葉県の索引へ本納城はJR外房線本納駅の西に1km足らず、本納小学校や蓮福寺の裏の丘陵地帯の尾根上に曲輪や城塁を並べていた。城域は東西500メートル、南北300メートルは下らないだろう。近くの永田城や鞘戸城が支城だったとも。このあたりに多い、複雑に枝分かれする尾根に堀切や切岸などの加工を施し、小ピークを削平して城に仕立てたタイプの城。戦国時代の享禄二年(1529年)に築かれたといい、黒熊大膳亮景吉なる人物が城主だったとのこと。永禄十二年(1569年)に北
トップページ都道府県別索引へ千葉県の索引へ矢口神社の裏から城内に入り、中央を占める曲輪の南端まで来たんだが…そこには、かなりの大きさの堀切が穿たれていた🤯土塁のように盛り上がった奥に、ザックリ堀切が刻まれていた。俯瞰したようすでは、少し浅くなっていそう…だが底へ降りてみると、思ったよりしっかり掘られていた。底が少し平坦だが、ちゃんと薬研のV字✨この堀切、西側の帯曲輪の中を通って城外の方まで刻まれているらしい。こんな様子まさしく立鳥城で見たのと一緒…そして南側の側壁も、そ
トップページ都道府県別索引へ千葉県の索引へ永田城はJR外房線永田駅から南西600メートルばかり、線路と並行するように南北に走る丘の上にある。いまは城の周りなどに矢口神社や長栄寺などがあるが、城を訪れる人も時折居られるようす。歴史など詳しいことはよく分かっていないらしい。1日休みだったこの日は、電車に乗って永田駅まで来た。この城に登ったあとは南隣の本納城までそのまま歩いて繋いだ。今回は駅から近い矢口神社から城内に入って、南へ降りてゆく経路で攻めてみることにした。駅から県道の西へ出