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皆さん、こんにちは令和8年8月23日(日曜日)今日の午前2時頃、関東地方で大きな地震がありました。私は爆睡していましたが、さすがにびっくりしましたね。防ぎようのない地震が一番怖いです。皆さんのところはご無事だったでしょうか。最近撮ったお気に入りの写真は?▼本日限定!ブログスタンプ最近、ネタが枯渇しているため、使っていなかった写真を少しだけ貼付します。メタモンとピカチュウ。もっちゅりん。こちらはJR東京駅の八重洲中央口ですが。今も現役の700系新幹線。京浜東北線の蒲田駅では
フジカラー400がリリースされる約半年前、思い切り露光不足の写真もAIにどうにかしていただきました。ビフォーアフター122レEF5858[宇]+客車13[仙フク]1978.4.29上野あの頃宇都宮運転所のエースと呼ばれた58号機。全検施行直後だったようで、とてもクリアにしていただきました。AIはたまに形式を勝手に弄ることがありますが、この写真に関してはそれも無いので満足です。
枕崎の宿。旅三郎家族と母親と別れて一足先に帰ります宿は家族で取ってるので正確な額は分かりませんが、一人当たりにすると4,900円田舎の家におじゃましたような感覚になる懐かしい雰囲気でした灯台のモニュメントはかつての枕崎駅前広場の面影を残す数少ない遺構。本来ならモニュメントの前に駅前広場があり、そこに立派な木造の枕崎駅舎があった。YouTuberが積極的に日本の鉄道を紹介し出した時、既に最北の稚内も、最南端の枕崎も新駅になっており、視聴者も「これぞ!枕崎」と思ってしまうので残念。戦争
日本人の国民性か乗ろうと待つ列車が時刻表通りに来るコトを当たり前に思い1分でも遅延しようモノなら心情は穏やかではなくなる6両編成の特急が踏切を通過しても15秒も待たず遮断棒が上がる私鉄に慣れるとJRの踏切が解放されるまでの時間が何て長いコトかたった2両の列車が停車駅から未だ目視すらできない頃から駅手前の踏切が遮断され停車駅を発車し進行方向の踏切は2両の列車が遥かに離れないと解放されない国鉄時代ではあるまいに長い駅ホーム、ムダに長い駅構内がなせ必要か私が在住自治体では私鉄駅からJR駅へ繋
旧新橋停車場の鉄道歴史展示室で、企画展「昭和の駅風景」が開催中です。展示物は、かつて交通博物館で開催された鉄道写真コンクール(1951~1972)での入選作品から、駅の風景を写した画像を選りすぐったもの。いずれの作品も、駅構内での一般客や鉄道労働者の姿が活き活きと描かれていました。半世紀前、私も駅構内でカメラをぶら下げながら、乗客や国鉄職員の姿を撮っていました。ただ近年は、同様に人物を絡めて撮ることは、まず不可能だと感じています。(1977.12.29東北本線野辺地駅)先日、小湊
大阪駅を出発する「雷鳥」(写真は583系)1980年頃撮影関西から北陸方面への特急といえばL特急の「雷鳥」、おもに485系での運用が中心ですが一部581系での運用もありました。さすがに寝台部分を座席にしているだけなので広さには問題ないのですがリクライニングしないという弱点がありかなり不人気だったそうです。まさに「ハズレ特急」かな??この他にも「懐かしい鉄道風景」の写真などをyoutubeにて紹介しています。※みなさまが「懐かしいなぁー」と感じていただければ幸い
大阪から普通列車を乗り継ぎ、東京へ戻ると約9時間を費やす。それを実施したくなった理由は、肩ひも付きの木箱に駅弁を詰め込んでホームを売り歩く立ち売りさんに会いたいと思ったからだ。昔今でも覚えているのは父親と幼い私の二人で、父の実家の静岡へ向かう東海道線の道中だ。窓を開けて立ち売りさんを呼び込み、窓側から慌ただしく駅弁やミカンやお茶パック(ポリ茶瓶)を買い受け取るのだが、時には立ち売りさんを呼び込めず、仕方なく父がホームへ降りて買いに出る事もあった。そんな時に限ってけたたましく、列車の発車のベ
模型の方はすっかりご無沙汰で、ブログ更新の方も久々でございます。6月に購入したK社製2輌の機関車も入線整備せず、そのまま放置しておりました。今回は購入した2輌のうちの1輌、K社製EF66の入線整備をおこないました。ケースから出してみました。いつものようにカプラーを交換してナンバー等を取り付けます。カプラー交換はやりやすいよう、動力台車をはずします。ついでに動力部の状態もチェック👀ANDカプラーからマグネマティックナックルカプラーに交換しました。あっという間に完成です。ナンバーは特に
新快速が内側(電車線)を走っていた頃甲子園口‐立花(1980年撮影)岡山地区にも次々に新車が投入、既存の車両が淘汰されています。最古参の113.115系より先に117系が定期運用から退きましたね、やっぱりラッシュ時の2ドア車両はちょっとキツいようで。。。1編成は「銀河」として改造、不定期ながら夜行列車として西日本地区を走っていますね、あの、、「唸るモーター音」をいつまでも響かせてほしいですね。。写真は誕生直後の1枚、、完全オリジナルの姿です。やっぱり国鉄型はデザインと塗
高松駅で出発を待つキハ58「急行あしずり」とキハ20「普通列車」1982年撮影まだ瀬戸大橋がなかった頃の本四連絡は宇高連絡船で、四国の玄関口高松駅より各方面に列車が出ていました。この頃の特急はおもにキハ181系、急行はキハ58,28,65,55などが運用されていました。急行にはヘッドマークが掲出されており、行き先に因んだ愛称が付けられていました。この他にも「40年前の鉄道風景」をちょっとだけyoutubeにて紹介しています。※みなさまが「懐かしいなぁー」と
国鉄時代に撮影した特急ひたちこんな場所で撮っていたら今だったら絶対に列車が急停車するね4006Mひたち6号上野行485系9B1981-11
昭和50年代の秩父線です。デハ500ークハ600未だ中規模鉄道で自社発注出来た時の電車です。クハにはトイレが有りましたが、黄害問題で使用禁止になってました。小田急から来た800系電関は三岐に行ったカマでしょうか?ヲキってまだいるんですかね?国鉄時代は行楽列車2本?設定されていましたが、保安装置や無線の都合で無くなってしまいました。
先日もお話しましたが、身内に不幸があってこの夏はノホホンと旅行とは参りません。時刻表とあの頃の写真で時間旅行。走行距離が短く、撮影が難しかった寝台特急「北星」。手元にあるのはどうしようもない手ブレ写真。AIがまあまあ見られるようにしてくれました。ビフォーアフター特急客32レ北星EF651004[宇]+14系×12[北オク]同ところで「北星」が特急格上げ当初、上野-仙台間で新聞輸送用にワサフ8000を連結していたことも、知る人は少なくなったと思います。
鉄っちゃんの私は国鉄時代の房総L特急が大好きで、中でも183系0番台の「さざなみ」「わかしお」が今でも最高にお気に入り・・・残念ながら他の路線と同じようにどんどんと運行が縮小され、新型になった255系やE257系にはピクリとも来ませんでしたので、ずいぶんとご無沙汰(?)でしたが、今回の豪雨災害で「しおさい」を含め、懐かしい列車名前を耳にいたしまして、改めて「がんばれ千葉県」と拳を握りしめてしまいました・・・。今回の災害が落ち着いたら、久々に房総半島へ(お金を使いに)出かけてみよう
旭川から乗車した音威子府行の337Dは塩狩で名寄発の322レと交換する。7時前の塩狩はピリッとした寒さである。337Dが発車するところを322レと絡めて撮影すると、早速蘭留方へ歩き始めた。雪のない塩狩は初めてである。雪がないとかくも歩きやすいのかと感心しながら歩を進めた。しかし、天気はどんよりとした灰色の曇り空。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様である。駅から1キロほど峠を下って定番の撮影ポイント付近までやってきた。積雪シーズンは雪に埋もれていてわからなかった周囲の状況を知ることができた。冬
↑↑↑どれかクリックしていただけると元気が出ますw!(^^)!2026年5月7日(木)の記録です。現在のJR志布志駅は日南線の末端駅となりましたが、国鉄時代はこのあたりの交通の要所として、広大なヤードを持つターミナル駅でした。その一角に志布志鉄道記念公園がございます。大隅線や志布志線の廃止に伴い、かつてのヤード跡地に記念公園が作られたようです。現在の志布志駅は駅舎こそそれなりの風格がありますが、駅構内はレール
城川原駅構内には、手狭な電車区(正式名称は富山機関区城川原派出所)が併設されていました。在籍車両は2両編成が5本、全てクモハ73とクハ79の全金属の車体で、晩年の南武線や鶴見線で同形式を見ても興味を感じない車両でした。ただ、最後の73系となると無性に名残り惜しくなり、全廃の2ヶ月前に「北陸周遊券」でノコノコやって来たのでした。
6月に身内に不幸があり、この夏は旅行という訳には参りません。そんな時は当時の時刻表と写真があれば、時間旅行に限ります。この2点はAIには余り難しい要求ではなかったようです。以下、ビフォー、アフターの順733M115×11[高シマ]+クモニ83[新ナカ]1981.12.31高崎同長岡AIが方向幕に余計なことしてますが…今思うと115系の夜行列車なんてとても信じられませんが、前身の客車列車だった頃は新幹線も高速道路も未発達で、特急は限られた人の乗り物でした。深夜の各駅停車で
昨日入線投稿した3輌特急キハ181おき編成『KATO10-2018キハ181系おき・くにびき・いそかぜ3両セット入線』3月にカトーさんから発車した、尺マーク付のキハ18110-2018キハ181系「おき・くにびき・いそかぜ」3両セット¥17,1602026年3月キハ1…ameblo.jpカトーさんからは、こちらも同時発車していましたね。10-2017キハ181系「はくと」5両セット¥21,7802026年3月18日●各地の陰陽連絡に活躍したJR西日本のキハ181
北見のホテルで目覚めてカーテンを開けるとどんよりと曇っていた。今日はレンタカーを借りて常紋峠に入っていくつもりなのだが、最初からこれではテンションが下がろうというものである。レンタカーに乗り込んでまずは留辺蘂に向かう。ニコンFEを肩にかけて留辺蘂の駅構内に立ち入ると、雪が舞い始めた。キハ22の朱色のボディをバックに雪が降るのはフォトジェニックでよろしいが、車の運転となると別である。当時僕は雪道運転は経験がなく自信は全くない。困ったなぁ、常紋峠は積雪になっているんじゃないかなぁとビビっていると、
2488)アルバイト/公務員◇公務員で風俗嬢のアルバイトしててバレた女性は、処分を受けた。退職した。理由は色々あるのだろう。公務員の副業は、国家公務員法(第103条・第104条)および地方公務員法(第38条)により、原則として任命権者の許可がない限り禁止されている。ーーー50年の昔、JRは民営化前で国有鉄道だった。キャバレーのバンドマンでアルバイトしてる人が複数いた。昼夜働けば疲れるだろう。ーーー国鉄時代(1987年以前)の職員身分は、公共企業体の職員であり、国家公務員に準じ
今日、みどりの窓口の前を通ったら、家族連れの方が並んでいました。「楽しそうだな、家族旅行かな」とその姿を見ていたら、小4の時、家族皆で初めて父の実家(鹿児島)に里帰りしたときのことが思い出されてきました。飛行機など一般庶民には超贅沢な時代、当然国鉄を利用しました。利用したのは数少なかった(当時の国鉄は急行全盛時代)“特別急行”の中でも最高峰の(個人の見解です)西鹿児島行き寝台特急【はやぶさ】。出発し、通勤客で混雑する国電の駅を通過するとき、みんながこちらを羨望の目でみて
1980年代前半、山形の親の実家へ行くのに、上野-長岡間の夜行733Mを時々利用しました。高崎38分停車の間に、後から上野を出発した20系「天の川」が先行します。『天の川』高崎停車の8分間を、私は密かに「高崎のショータイム」と呼んでいました。手ブレでどうしようもない写真、AIという文明の利器でどうにか見られるようになりました。それぞれ「ビフォー」「アフター」の順です。急客803レ天の川EF58134[高ニ]+20系[北オク]+スユ16[新ニイ]1981.12.31高崎時々下
7月の猛暑の中、普通乗車券で乗れる「普通客レ」が走りました。新金谷駅に着くと、発車の1時間前から改札しており車内を探索、編成はオハ35とスハフ43の2両をELがプッシュフル。(2026.7.21大井川鉄道新金谷駅構内)懐かしい木の床、ただし防腐剤の染み込んだ油の匂いはせず、磨き込まれたフローリング状です。車内の温度計は40℃を表示、温度計には16℃〜18℃に赤ラインと(ネ)の表記があり、正真正銘の国鉄時代のもの。トンネル内で、窓から入り込む冷気が実に心地よし。非冷房の時代、トンネ
鉄道博物館の懐かしのポスター8月編。リクエストテーマ第2段として、国鉄時代やJRグループの「日本の旅は列車です。~列車がいっぱい!特集~」を展開している。2000年頃のJRグループのポスター。21世紀へ向けても走り続けることを訴えている。885系は、20世紀で最後に登場したJRグループのJR九州が保有する特急型列車で、「白いかもめ」の愛称を与えられた。(※2026年現在は車両運用の弾力化のため、カラーリング変更の上で「ソニック」と「みどり」の一部列車にも充当中。)これも2000年頃掲出
最近連絡をとってきた人なんじゃけど、松本市の人なんよね。いつも使う青春18きっぷでのシミュレーションで調べてみると、片道8時間かかるんよね。姫路から距離の割には新快速があるんで、短時間なんよ。しかし、それにしても通り抜けに難のある区間があるんよね。それが、中津川から塩尻の区間なんよ。ここが2時間に1本しかないんで、それに阻まれて時間食うんよね。まあまあそんでも、その人は新幹線とは関係ないね。どうしようもなくなったのは、北陸方面なんよ。金沢や富山などから新しい人が出て来た時に、会い
社会人も2年目に入った1985年5月の大型連休に北海道に渡った。社会人ともなると学生時代に比べ金回りが良くなったこともあって流石に鉄道利用ではなく、入りも出も千歳空港であった。でも、空港からは札幌に出て網走行の夜行列車を利用するという、学生時代からのパターンを踏襲したようだ。「ようだ」と推測混じりで記したのは、当時のメモには撮影した日時・場所と列車番号、シャッター速度と絞り値しか書かれてなくて、どういうルートで回ったのか、どこに泊まったのかなどということは書かれていないからだ。札幌からの夜行列
1984年2月、知り合いから「近々豊田電車区の旧型国電の廃車回送がある」と聞き、「ならば廃回前の姿を撮っておこう」と豊田電車区へ来ました。幸い、クモハ40061が公道から撮れる位置にいましたが、もう1両のクモエ21002は見当たらず・・何気なく撮った201系、40系、101系の並びでしたが、あたかも「中央線国電史」のような画像になりました。
国鉄時代に3000両以上作られた103系って電車が居たんだけど、「JRマーク無しも欲しいな」と書いたら、tri********って奴が「JRマークは削り落とせばええがな」だとさ。ボディーに傷つくやろ?此奴アホやな!てか面識のない知らん奴にこう書き方するか?いや~ネットは何かいても身バレしない・・・そう思ってるのがいるの、オジサンは呆れてしまう。
かつて烏山駅は、列車の発着に合わせて国鉄バス、東野バス、茨城交通が運行されていた。駅前がやたら広いのは、国鉄バスの車庫があったからだ。行先は、茂木、馬頭、市貝、宇都宮、塩原、茨城県大子、茨城県高部など。路線バスの廃止に伴い、コミュニティバスに移行された。バスの写真は今まで殆ど撮っていなかった。山あげ祭りの日、烏山駅に初めて見るデザインのバスが停まっていた。バスの向こう側は、国鉄時代はバス利用者の待合室があった。茂木の曼殊沙華、烏山の龍門の滝、市貝の芝桜のデザインだ。写真を撮っ