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鎌倉駅から二つの神社を過ぎると国指定史跡の寿福寺があります。現在は御朱印対応や堂内拝観は対応が難しくなっており、鎌倉十三仏霊場も脱退しています。参道や参門外から境内を見学することや、実朝・政子の墓参りは可能です。その他、国指定重要文化財の仏像は鎌倉国宝館で常設展示されていることが多いです。現在は電話対応も厳しいという事なので、blogで紹介することも憚れますが、境内や実朝・政子の墓所を見学・お参りのみという事でご理解を賜れればと思います。(鎌倉市観光協会ホームページ内ではGW中に参門内が
江戸時代に有帆川の河口に建設された唐樋です。当時の土木技術が詰まっています。平成元年まで使われていたようですね。すごいわ。當嶋八幡宮があったところは工場になっています。いまは、小山に當嶋八幡宮が鎮座しています。近くにはこんな看板と記念石があります。1668年にはここより東に唐樋があったが台風と高潮で壊れたとあります。当時の干拓事業は大変だったでしょうね。汐止記念石(2024-04-17撮影)
4月なのに暑くて。難攻不落の平山城趾の明丸の動物園で泳ぐペンギン気持ち良さそうねぇこんな勇姿がありました。動物園、土俵、弓道場がある城趾は初めて。
県道72号線を通り白川町から中津川市へ入りました。途中の桜の景色を撮りながら、今回の主な目的の苗木(なえぎ)城跡へ向かいました。苗木城跡は巨岩の上に築かれた特異な山城ということでしたので、一度行ってみたいと思っていました。城の歴史はパンフから抜粋し末尾に記載しました。駐車場から見る景色。中央の山は恵那山。駐車場に掲示されていたマップ。山道を歩いて城へ向かうことにした。途中に城跡までの距離は1000mの標示があった。えっ!そんなにあるの・・道の脇ににこんな3基の
2泊3日石川県漫遊初日。茶屋街から浅野川を渡り、金沢城へ向かいます。ご存知、加賀藩前田氏の居城です。ここは戦国時代、加賀一向一揆の拠点となった城塞寺院、尾山御坊があった地でした。そして、佐久間氏が尾山御坊を攻め落とした後の天正11年(1583)、豊臣秀吉に命じられた前田利家が入城し、以降、前田氏の居城となりました。◆金沢城◆(国指定史跡・日本100名城)元は堀だったお堀通りに架かる石川橋を渡り、城門へ進みます。石川門(国指定重要文化財)天明8年
国指定史跡松ヶ岡開墾場。明治維新以降に旧庄内藩士たち3000人が刀を鍬に変えて開墾した場所。満開のさくら5番蚕室、松ヶ岡本陣では、手仕事展が開催。庄内藩主となった酒井家第三代忠勝公は、元和8年に入部し、直ちに仮殿を建ててこれに住み、居住の拡張整備をはじめた。明治5年松ヶ岡開墾事業の始まるにおよび現在地に移築、集会所兼事務所とし、本陣と称して今日に至る。こっちも綺麗。一番蚕室松ヶ岡開墾場記念館では、開墾、農業、蚕糸の資料をみたり、土人形をみたり、久しぶりに行っ
白河の関跡再訪です国指定史跡白河神社おまいりをしました。延喜式内社御朱印をいただきました。神社の周囲にはカタクリの花カタクリとキクザキイチゲ
※和意谷池田家墓所入口に建つ巨大な石鳥居と国指定史跡「和意谷池田家墓所」案内板・・・岡山藩主初代池田光政公により2年間の歳月をかけ和意谷敦土山に池田宗家本墓所を築きました平成10年(1998)菩提寺岡山曹源寺とともに国指定史跡となっています和意谷池田家墓所※和意谷池田家墓所配置図案内板・・・この案内板を写真に撮って、パンフレットと見比べてまわりましたが、ほぼ「登山」でフラフラになりました(一から六のお山までしか行けませんでした)しかし、
ジャンボフェリーで船旅🚢神戸港から🚗も乗せて小豆島の港へ。往復ネット予約で5%オフがきいて、大人4名小学生1名で32000円ほど✨ガソリン代、高速代運転の労力、旅情を込み込みにしたら大変満足❤️見どころは明石海峡大橋を下から見上げる!壮大でした!フェリーには自由席もあるんですが、あっという間に埋まるので、今回は船上でプレミア席を注文!タッチキーが発行された人だけ入れる部屋へー!靴も脱いで快適!個室は6名席でしたが、大人4名ちび3人いてもまだ楽々な広さ
ブログ訪問ありがとうございます熊本県玉名郡南関町豊前街道南関御茶屋跡国指定の史跡江戸時代の参勤交代で使われていた歴史ある建物修復されて見学できるようになっています!お抹茶を出していただきました!外の景色を眺めながら参勤交代で立ち寄った藩主はここからおなじようにそとを眺めて休憩していたのかな?3月末までは雛人形が飾ってあるそうです【ふるさと納税】猿渡製麺所極細・曲げセット歴史伝統製法手打ち手延べ手捏ね希少ギフトセット送料無料楽天市場${EV
2月中旬花と歴史の増山城跡訪問VOL.2場内散策🐽こんばんはさて大手口(?)から入り階段を登ります「増山城」当初は和田城と呼ばれていたお城です増山城は国指定史跡に指定されている山城です越中三大山城の一つであり保存状態も良好でほぼ当時のまま遺構が残されています規模も大きく戦国時代要となる城で幾度の戦乱に巻き込まれてきました築城年代は1363年貞治2年以前とされ定かではありません築城主も不明です歴代城主は桃井氏・斯波氏・神保長職・一向一揆勢・吉江宗信・佐々成政・中
2月中旬花と歴史の増山城跡訪問VOL.1和田川ダムから🐽こんばんはさて古城公園から車を走らせ砺波市増山地区にある国指定史跡増山城跡に行きましたここに来たのはある植物を見るためですまぁまだ2月中旬に差し掛かった頃ですからあまり期待はしてなかったのですが…とりあえず駐車場に到着準備を整え出発先ずは和田川ダムに向かいますこのダムを渡った先が増山城の入口です「駐車場から出発」増山城跡駐車場遠く牛岳が見えています変電所ダム入口ここを行きます県営和田川水力発電所
知覧城②・続日本100名城の続き知覧城はラストです国指定史跡11:41武家屋敷群から車で2分もかからず到着です駐車場の出入り口は広く、観光バスも余裕で入れますスタンプはここに無いことの案内板です。非常に親切ですねちなみにすでに攻略し似たようなシチュエーション(現地)で、実際に置いてあったお城は、久留米城、興国寺城、玄蕃尾城、志苔館、滝山城、唐沢山城、と、ずべて続日本100名城でした11:51ここが入り口です振り返り写真
いつもご覧いただきありがとうございます♪春日部市国指定史跡神明貝塚へ西宝珠花を北へ春日部市は約3万年前、旧石器時代から人が住み始めましたその後縄文時代に入り6千年前には海面が上昇し春日部市内には奥東京湾と呼ばれる海が広がっていたそうです春日部市内ほぼ海でしたこの神明と内牧と豊春の花積と新宿新田あたりが少しだけ台地だったようですしじみでしょうか?貝がいっぱいあります至る所に貝が散らばっていました。道路意外の場所は民有地との事ですので立ち入りは出来ないそ
前回からの続き、別口の登り口から段々が。これもちゃんと意味がある段々で、影って文字が見にくい四角柱、なんてことはない「国指定史跡・三成古墳」順番が逆で、下からなんですが「第3主体部」「第2主体部」あそこが一番高いところ、ということはもうお分かり、「第1主体部」この古墳のてっぺんに到達。解説板終わりです、m(__)m
最上義光の居城だった山形城その後徳川家の有力大名保科氏の居城に国内5番目の規模ということもありかなり広さです二ノ丸東大手門からstart度重なる藩主交代に伴い石高が削減され維持が困難になり荒廃しほとんどが失われましたが二ノ丸跡が霞城公園として残されています本丸へ向かいます
伊達政宗が築いた仙台城青葉山からは街が一望できます標識がわかりやすく目的地へ行きやすかったです見どころは大広間跡高さ17メートルの石垣62万石のお城・・・スケールが違います建物は破却/焼失で残っていないのが残念
尾山神社からかちより〜金沢城公園の玉泉院丸庭園へ加賀藩三代藩主「前田利常」によって作庭されたのが始まり。兼六園に比べて、藩主の内庭としての性格が強いそう地震の影響で立ち入り禁止のエリアもあり・・いつかのんびり回遊路を歩いてみたいです再現された滝もあるようで、パンフレットのその写真を見て、高知のモネの庭の中のボルディゲラをふと思い浮かべました。雰囲気も性質も全然違うのになんでかな。好きだからかな雪吊り、はもちろん雪のためなんだけど、
令和6年、最初のキック・ザ・ツアー。大仏切通しを進むと、やがて、ちょっとしたヤグラ群が。↓このヤグラ群は、概ね浅い。おそらく、遺体や遺骨を葬る目的ではなく、神仏を祀る為に掘られたのではないかと。バス通りがすぐ近くに平行して走っているにもかかわらず、開発による破壊がされていない貴重な遺跡である。大仏切通しはこれで終わり。ここを通り抜け、バス通りに出て長谷駅方向へと戻る。戻る途中、道沿いの建物跡の背後の壁面に、小さな窪みが。↓これも、ヤグラかと。深さは1m程か。入口脇
江戸時代に大銀山として栄えた延沢銀山三大銀山no1つ銀山で働いていた坑内員によって発見された銀山温泉銀山閉山後湯治場として栄えた現街並みは大正時代に建てられた木造洋風建築その中でも温泉街noシンボル能登屋旅館な〜んと木造5階建て夜景はこ〜んな感じ
令和6年、最初のキック・ザ・ツアー。鎌倉大仏の高徳院を出て、北西に400m程。大仏ハイキングコース入口に繋がるこの階段を昇り…↓ハイキングコースには入らず、そのまま進むと、『国指定史跡・大仏切通』の標柱が。↓源頼朝の発案で、鎌倉の内外を繋ぐ為に拓かれた狭い山道。俗に、“鎌倉七口”と呼ばれる、7箇所の切通しの1つ。もし、敵が鎌倉に攻め寄せた場合、大軍が一気に入って来られない様に、敢えて狭く造られている。ここは、下って昇る途中の、一番低い所。更に、クランク状になっている。
大神神社の拝殿を参拝して向かうのは狭井神社大神神社は三輪山を御神体としています⛰️三輪山登拝について|大神神社(おおみわじんじゃ)大神神社のご神体「三輪山」は、太古の昔より神さまの鎮まる神聖なお山で、禁足の山として入山が厳しく制限されてきました。近代になり、熱心な信者の方々の要望もあり、特別に入山を許可することとなり現在に至っていますが、正月三が日や大祭日、荒天時・その他の事情などにより入山が禁止されている日があります。oomiwa.or.jpかつては入山を厳しく制限していたそうです
西日本大遠征6日目、11日からスタートして丹波八木城⇒園部城⇒埴生城、12日は窪之庄城⇒椿尾上城⇒布施城、13日は環濠集落巡り⇒西方院山城⇒茗荷城、14日は小原山王山城⇒淡相城⇒周匝茶臼山城⇒大仙山城、15日は福山城⇒山手銀山城⇒三原城⇒新高山城⇒安芸高山城と普通の人ならこんなハードな工程を真夏にこなそうなんて思わないでしょうけど、11日以外(カフェイン中毒になった、詳細は埴生城の所に記載しています)は足の調子が良かったんですよね。てなわけで、今回は天気が微妙な中、早朝に傘を持たずに広島城を散
さてさて………………【GRILLTAKARA】で美味しいオムライスを頂いて大満足のココロが、次に到着したのは…………【岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)】京都府京都市左京区岩倉上蔵町100この場所は、京都・洛北の【実相院】近くにある。岩倉具視が洛中から追放された際、5年間幽棲されたという邸宅だ。【岩倉具視(いわくらともみ)】朝廷内で発言力を増し、公武合体を唱えていた岩倉具視であったが、尊皇攘夷の高まりにより、幕府寄りの人間とみなされ天皇(孝明天皇)からも遠ざかる
新高山城に行った後、対岸の高山城に来ました。林道を登りきると墓地があり、向かいの所に写真のような所があるので、ここに停めさせていただきました。登城口にはこのような説明板があります。道は二本ありますが、今回は搦手側(写真正面の道)から登りました。道は若干判りづらいですが、尾根伝いにピンクリボンが付けられているので、それなりに登って行けばOKです。途中、両脇が竪堀っぽくなっている所があります。この上が北ノ丸なので、堀切ではないかと思います。虎口っぽい所を登りきると、かな
三原城の次に訪れたのは、以前からどうしても来たかった新高山城。学校の授業で「ニイタカヤマノボレ」という言葉を聞いたことある方も多いでしょう。その新高山とは小早川隆景が築いた新高山城の事です。三原城から車で20分程の所にあり、沼田川を挟んだ反対側には新高山城を築く前にあった高山城があります。下の写真は駐車場から見た新高山城です。見ての通り、真夏の昼間に比高差200mの山城登るのは私くらいで誰もいません(笑)駐車場にはこのような説明板があります。こちらは高山城です。次に行
鯖江にこんな素敵な凄い場所があったなんて、今まで知らなかったぁ😳また良い氣が流れている感じがするこの場所、またお天気良かったら行ってみよう😊✨✨先日、お天気で暖かい日にちょっとお散歩に出かけたらこんな素敵な場所が😳良い氣を感じました😊✨なんか気持ち良ーい☺️穏やかなひと時☺️こんな凄い史跡だったんだぁ😳この狛犬も文化財だったんだぁ😳お空が綺麗☺️✨不思議な雲☁️😊
山手銀山城から車を走らせること40分、今度は三原城に来ました。山陽新幹線の三原駅の高架下に有料駐車場があるので、ここに停めます。駐車場から外に出ると、目の前に巨大な天守台が。大きいとは聞いてたのですが、ここまで大きいとは!天守台についての説明板です。三原市長の字で彫られたであろう隆景広場の石碑が。公園に関する説明板です。天守台の石垣から高架下の方へ石垣が伸びています。案内表示に従って行ってみます。これは中々良い感じの石垣ですね。苔とかなくてきれいな
南部氏が完成まで40年no歳月をかけ築城した盛岡城明治維新まで南部氏が居城していたお城石垣は盛岡産no花崗岩使用石垣・・・どれも高かった本丸目指しますところどころ標識/説明図があり判りやすかった
こんにちは本日も小牧の観光名所をご紹介いたします今日紹介するところは「大山廃寺跡」です大山廃寺跡は国指定史跡で小牧東北部、山の中腹の標高200メートルほどに位置する古代・中世の山岳寺院跡です文献資料が少なく、「謎の大山寺」と呼ばれてきましたが昭和50年から53年にかけて、寺の範囲や遺跡の性格を解明するため発掘調査がおこなわれました。その結果、大山寺の創建は、7世紀末で室町時代まで盛衰を繰り返し存続したことがわかりました。発掘調査で判明した大山寺は年表のとおり、少なくとも4期に